藤田一照・山下良道『アップデートする仏教』(幻冬舎)刊行のお知らせと関連リンク

藤田一照師と、一法庵庵主の山下良道師が共著を上梓されました。

アップデートする仏教 (幻冬舎新書)

アップデートする仏教 (幻冬舎新書)

電子書籍版も発売されています。

本書の目次


はじめに
第一章 僕たちはなぜ安泰寺で出会ったか?
変わり種の二人?
日本の仏教では修行すると怒られる!
「心の調子」が悪いのを治すのが仏教
なぜ仏教者になったのか
仏教は本当に幸せになれる教義と実践方法を完備している

第二章 「アメリカ仏教」からの衝撃
日本で出会えなかった仏教修行の仲間にアメリカで出会えた
修行を支えるサポート体制
アメリカではものすごい勢いで仏教の優れた本が出版されている!
アメリカで坐禅を教えることから逆に学ぶ
ヒッピーとカウンターカルチャーと禅の関係

第三章 マインドフルネスという切り口
ティク・ナット・ハン師の衝撃
マインドフルネスとサティと念
マインドフルネスを日本仏教に再導入する!
道元禅師からお釈迦さまと繋がる
日本仏教はブッダと直接繋がっているのか?

第四章 「瞑想メソッド」を超える
テーラワーダの瞑想とは何か
非想非非想処に実際に入る
体の中で体を見る
ニルヴァーナの状態に入る
青空を認識できるのは青空
お猿さんは瞑想などできない
「思いを手放す」ことがどうしてもできない
自然な息と普通の息
エゴの反対としての慈悲
慈悲の瞑想との出会い
慈悲の瞑想は必要なのか
「わたしが幸せでありますように」の衝撃
潜在意識に働きかける
「わたしの嫌いな人々が幸せでありますように」

第五章 アップデートする仏教
「仏教1.0」
「仏教2.0」
「仏教2.0」で病人を治せるか
「仏教2.0」の限界
光(ニミッタ)が見えてくる禅定
日本ではニミッタは教えられない
強為から云為へ
瞑想のリトマス試験紙
「気づき」で「怒り」は本当に消しさることができるのか
赤信号に気づく、呼吸に気づく
シンキング・マインドとサティ
体の感覚が見えるということは、微細なエネルギーが見えるということ
主体と客体がなくなったところでしかマインドフルネスは成立しない
禅の六祖が鏡を砕く
ぐるっと回って道元禅師に戻ってくる
「プルシャ」と「プラクリティ」
見聞覚知が落ちたときに初めて微細なエネルギーに入っていける
ワンダルマと只管打坐
見聞覚知の主体を手放すだけでいい
思いの手放しは骨組みと筋肉でやる

第六章 「仏教3.0」ヘ向けて
「仏教1.0」は心の悩みに答えてくれない
オウムで焼け野原になった日本にテーラワーダ仏教が支持された
誰が瞑想しているのか
本来の仏教こそが「仏教3.0」だ


あとがき
付録
参考文献

関連リンク

山下師の著書はAmazonの著者ページにまとめられています。

山下師の毎週の法話は一法庵のウェブサイトで音声ファイルとして公開されており、iTunesポッドキャストとして聴くこともできます。

約70編の法話が文字起こしされています。Web上で読むことができます。

一法庵の近日中の予定は、このページから確認できます。

2014年2月から、新宿の朝日カルチャーセンターで山下師による講座が始まっています。

恐山の禅僧が説く 「死ぬこと」と「生きること」

※出典:BSフジLIVE プライムニュース 2012年5月18日放送分
※話者:南直哉(みなみじきさい/禅僧・恐山菩提寺院代)・島田彩夏(キャスター)・反町理(キャスター)・小林泰一郎(フジテレビ解説委員)

※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

島田:こんばんは。5月18日金曜日のプライムニュースです。さて、今日のテーマはですね、「死ぬこと」と「生きること」ということなんですけれども、反町さん、たとえば「あの世」とかそういうものって、反町さんは信じていたりとかします? 何となく。

反町:うん、肉親の死とかを経験したときに、そういうものをちょっと考えたりすることはありますけれど、日常的には……すいません、何か信心が足りないんでしょうか、あまり真面目に考えたことはないですね。

島田:そうなんですよね。あまり真面目に考えたことがないんですけれども、今日はちょっとヒントがあるかもしれないんですけど。
 小林さん、今日のテーマは?

小林:今日はですね、日本というのはここのところずっと少子高齢化が進んで、人口がどんどん減っているんですよね。ところがですね、ちょっとこれを見てほしいんですけど、
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死者数というのは、2003年に100万人を超えて、これからもずっと当分、100万人を遥かに超える人たちがどんどん死んでいくようになるんじゃないか、と[予想されている]。こういう大量死の時代になってですね、これまでの「死」というものを我々はどういうふうに受け止めてきたのかということを、もう一回考え直さなければいけないんじゃないかと思いまして、今日は、恐山の院代をされている南直哉(みなみじきさい)さんに「死とは」あるいは「生きるとは何なのか」ということを伺おうかなと思っています。

島田:南さんは、福井県永平寺で20年間修行をしていらして、その後、恐山に行って、今は9年?

:いや、8年目に入るところです。

島田:8年目。今、院代を務めていらっしゃるということですね。

:そうです。

島田:恐山って、まあ、イタコというイメージが強いんですけれども、実際は恐山というのはどういう場所なんでしょうか?

:どういうところかと言われれば、一番大きいのは……我々は日常で「決定的に大事でも、見てはいけない」と思っていることがあるんですよ。決定的に大事でも、見たり話してはいけないこと。つまり、今の世の中は、基本的に競争とか取引で人間関係を規定する世界なんです。そうでしょう? つまりその、市場経済とか言われて、そこで労働することによって自分の存在を示すというのが、この社会のルールですからね。我々は会えば、必ず「ご職業は?」って言うじゃないですか。おそらく、昔だったら「ご身分は?」という話になると思うんですよ。今[たずねられること]は職業なんです。となると、この社会は、取引と競争でやるとなれば、「全てが透明でないとだめ」なんですよ。ルールとか。競争のルールとか。あるいは、「何を取引しているのか[という点が透明でないとだめ]」。だから、情報も透明性が必要だ、と皆が言うでしょう? 明るくて透明で、はっきりしたルールの下で競争と取引ができるということが前提で人間関係を作るんですよ。これは当たり前でしょう? 当たり前ですが、それとは全然違う側面で、「真っ暗で曖昧で、何も見えないけれども決定的に重要なもの」。それが死なんです。

島田:決定的に重要なもの。

:重要なもの。それが死なんです。それが死じゃないですか。これは、この世界に持ち出せないんです。だって、持ち出されてどうします? 競争と取引のときに。ですが、持ち出せないけれども、我々が生きているということに意味を感じさせる重力を与えているものが死だとするならば、これは処理できない感情としてあるわけですよ。
 今の近代社会と違って昔は、日常的に家の中で人が死んで、死んだ人はこんどは御先祖様として奉る、みたいなルールがちゃんとありましたから、それなりに日常生活の中に埋め込むことができたかもしれないが、今の我々の社会は、これを処理できないんですよ。非常に強い抑圧がかかる。

反町:それは、その生きている間の透明性とか競争とか取引という「生きている部分」と、死というものの落差が大きすぎるということでしょうか?

:そうです。切り分けなきゃならないんです。

反町:切り分ける。

:ですから、その圧力は今の時代のほうがずっと高いんです。

島田:昔は、処理できていた部分もある。

:そうです。もっと曖昧で、日常と死というのは曖昧だったか地続きだったと思います。

島田:重なり合っている部分があって。

:そうです。しかし、[今は]それがものすごく厳しく切り分けられているんですよ。そうすると、この感情というのは、意味は決定的ですから、どこかで出さなきゃならないんですよ。処理しなきゃならない。霊場とかっていわれる所は、たぶん、そういう感情とか思いというものを、ある意味で自分の思いのとおりに出せる場所だろうと思います。

:死者というのはですね、ある独特のあり方で在る人なんですよ。存在する人なの。しかし、その存在は、存在させないといけないわけですよ。
 別れるというのはですね、生きている人も死んだ人も基本的には同じなんですが、別れるというときに必ず挨拶するでしょう? なぜその、挨拶することが必要なのか。挨拶しないで別れちゃっていると、何となくこう、行方不明みたいになっちゃうじゃないですか。別れるといった人は挨拶するんです。挨拶するという行為は、「あなたが不在になったものとして、もう一回、縁を結ぼう」という意味なんです。「出会い直そう」という。それが「別れる」ということです。だから、それがうまくいかないと、「不在のままで出会う」というやり方に失敗してしまうんです。しかし、不在になったその大切な人の意味は変わらないんです。親が死んだって、親は親でしょう? 子は子じゃないですか。その人間関係の枠組みは残るし、そのありようも残る。となれば、うまく、不在というあり方で出会い直さなきゃいけないんですよ。そういうことが、例えば弔いなんですよ。あるいは、別れの挨拶なんです。ここで、うまく感情を整理するというのがとても大事なんです。

島田:去年、東日本大震災があって、多くの方が亡くなったり行方不明になったりして、それ以降たくさんの方がそちら[=恐山]に訪れるというふうに聞いたんですけれども、そういった方々というのは、何と言うんでしょう、今のお話の、「別れ」というのを、なかなか受け入れられないという、そういうことなんでしょうか?

:あのね、致命的な問題があるんですよ、やっぱり。つまり、私が会っていて思ったのはですね、「死者がいない」んですよ。遺族なのに。死者がいないの。死者になってないんです。

反町:それは、遺体が見つかっていないとかそういう話じゃなくてですか?

:それもある。それもあるけど、突然絶ち切られてしまうでしょう? そうすると、うまく出会い直せないんですよ、不在の人として。出会い直せない。

島田:挨拶をしていないから……。

:そうです。ですから、「涙が出ない」という人がいっぱいいるんです。「悲しくない」という人が。いっぱいいるんですよ。

反町:そういう人は、恐山に来て何を……恐山に何を求めて・探しに来るんですか?

:それは人それぞれでしょうし、だいたいね、そんなこといきなり訊けませんよ。訊けません。ですが、何かの折りに話してくれる人がいるわけです。そうするとやっぱり、一番印象的だったのは、悲しそうでない人と、はっきり口に出して「涙が出ない」と言う人なんですよ。いっぱいいるんですよ。その人は例えば、自分が失った人の意味とか価値みたいなものをまだ納得……自分に起こった出来事が納得できないんですよ。

 たとえば、失った人の大切さとか意味というものを実感するには、その人と分け合った時間や経験を思い出せないとだめなんですよ。だけど、思い出す余裕がないんですよ。

(中略)

:[大切な人を亡くしたことを]悲しくないわけはないが、「悲しめない」んですよ。たぶんね、自分としてはまず「これは仕方ないことだったんだ」と[自分に]言い聞かせているんじゃないかと思ったですね。それともうひとつは、ひょっとすると周りから「あなたが悲しむと、[亡くなった人は]もっと悲しむよ」みたないことを悪気なく言われているかもしれない。あるいは、もっと言えば、若い人ですから「早く立ち直れ」とか「復興に向かってがんばれ」みたいなことを言われるでしょう? そうすると、自分に起こったことをしみじみ自分の中に落としこむ時間と余裕がないだろう、と思ったんですね。「この人は、弔いができたんだろうか」・「この人は、そもそも[亡くした人の]遺体が見つかったんだろうか」と思ったですね。[もし]それがなくて、「今、死んでしまって別れた」といわれたって、それがどういうことか自分の中で納得できないでしょう? ひょっとすると[そういう人は]、恐山というのが、不在になった[大切な人]と出会い直す最初のきっかけではないかと思うんですね。

島田:私も報道に関わっているので、去年の震災[も含めて]色んな方が悲しんだり泣いたりしていて、時々考えるんですけれども、スレスレで助かった人・スレスレで助からなかった人[がいる]。色んなニュースをやっていても、何の罪もない方が日々、不幸な目に遭って亡くなっていくという、この、死ぬことと生きることの境目とか、どうしてこんな不条理なことが起きてしまうのか時々分からなくなってしまうんですが、その点はどういうふうに捉えていらっしゃいますか?

:分からなくて当然だと思うんですよ。ただ、この問題はですね、例えば要は、「なぜ、あの人は死んだのに私は生きているんだ?」ということでしょう?

島田:そうです。

:これは、今回大量に吹き出したに違いないんです。僕だってそうですもん。あの時は福井に居て、揺れもしないところで畳の上で見ていたんだから。それで、車が津波に呑まれていくところをずっと見ていたんですよ。なんであの人たちはあそこで津波に呑まれていて、僕はここで見ているんだろうな、と思いましたよ。

島田:そうなんですよ。

:それは思って当然で、大事なのはですね、性急に結論を出さないことなんですよ。というのは、この問いの根底には[=この問いの根底は]、「自分がなぜ生きているのか分からない」というのと連動しているんですわ。つまり、「向こうは生きて[ない]のに、こっちは生きている」ということに根拠が無いということはですね、ダイレクトにですね、「自分がなぜ生まれてきたか分からない」ということと繋がっているんです。同じ。だからあれほど、そのことにこだわるんですよ。不安に思うんですよ。
 あの[震災の]後ですぐ、「天罰だ」と言った人がいたでしょう?

島田:いましたね。まあ、訂正されましたけどね。

:私、[その発言を聞いた]瞬間にですね、「ああ、この人、気が弱いな」と思ったです。不安なんだと思う。すごい不安を抱えながら生きている人じゃないか、と思ったんです。それでね、あのとき思ったのは、例えば「因果応報だ」と説教したお坊さんがおそらくどこかに必ずいると思う。あるいは、牧師さんあたりで、ひょっとしたら「神の思し召しだ」みたいなことを言った人がどこかにいるんじゃないかな、と思ったです。それは[なぜかといえば]、耐えられないんですよ、その違いに。[死んだ人と、生きている自分との違いの]理由が知りたいわけ。

島田:何かの理由がある、と[彼らは思っている]。

:「本当の自分」とかって、よく言うでしょう? それと同じことなんですよ。「絶対に確かな根拠」みたいなものを知りたいんですよ。だから、その不安を直撃しているんです。
 それで、私が今回思ったのは、「今、こうあることに根拠がない」ということは実は「諸行無常」ということの最大の意味なんですよ。核心的な意味なんですよ。桜を見て「散って儚い」なんていうのは、それは違うんです。そうじゃなくて、「こうあることに根拠がない」という感覚なんですよ。

反町:「こうあることに根拠がない」。

:そう。あなたがあなたであることには、実は大した根拠がない。ということに対する戦慄が、「無常」ということなんですよ。それが[無常の]核心的な意味なんですよ。
 だから、今回僕が思ったのは、あれだけの大震災ですからね、濃淡の差はあれど、いわゆる仏教でいう無常みたいな感覚が、言葉は違っても、ひょっとしたら日本人全体に共有された部分があると思うんですよ。濃淡は違っても、強烈に。遠く離れていても、感じた人がいると私は思う。その後、色んな天災が起こる、事故が起こる。原発事故が起こる。そうすると、今まで自分が疑わなかった自分の存在の基盤に亀裂が入ったことは皆が知っているはずです。だから私は、無常という仏教の言葉は、多くの人が共感するバックグラウンドになってしまったと思いますね。

反町:それは、いいことなんですか? いいこと・悪いことというふうに判断するものじゃないかもしれませんが……。

:私は、大事なことだと思います。「いい」とは言いませんよ。「悪い」とも言いませんが、大事なことだろうと思います。というのは、その感覚がないと、我々は自分の存在というものをはっきり見ることができないと思いますね。

島田:こちらのグラフをご覧いただきたいんですけれども、
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島田:こちらは年間の自殺者の数の推移を表したものです。ご覧いただいて分かるようにですね、みずから命を断つ人が、1998年以降ずっと、14年連続で3万人を超えているという、この日本なんですね。
 [視聴者からの]メールも、自殺について[触れています]。

反町:青森のかたからメールが来ています。30代の男性の方なんですけれども、「最近の若い人は、すぐに自殺したがりますが、何も挑戦しないで死を選ぶことが正しいのでしょうか」というメールなんですけれども。
 若者の自殺について、どのようにお感じになりますか?

:こういうのも、やっぱり一般論でやるべきではないんですが、ひとつは、「死にたい」ということと「生きているのが嫌だ」というのは別なんですよ。この違いが分からないと、話が通じないんですよ。「死にたいんだ」という人の本音が実は「生きているのが嫌なんだ」ということなんですよ、実際は。つまり、「今いる、このような生き方は嫌なんだ」と言っているだけなんですわ。「そのまま死んでしまいたい」ということとは、どこか違うんですよ。つまり、そこで言われている、今の本人の生き方に対するすごい切なさみたいなものが汲み留められないと、「次の話」にならないんですよ。
 そのときに例えば、「自殺は悪だ」とか「正しくない」とかってバーンと言うでしょう? [私が問題だと思うのは]、自殺を否定する議論とか思想とか理屈っていうのはですね、基本的に、意味がないと思いますね。というのはね、自殺する人は、全部分かって死ぬんですよ、そんな理屈は。「お父さんとお母さんが悲しむぞ。命は大切だぞ。死んだら何もならないぞ」……そんなことは全部分かって死ぬんですよ、死ぬ人っていうのは。その人に「自殺はね、正しくないんだよ」とかね、「キリスト教はこうだよ」、「仏教はこうだよ」なんて言ったって、絶対に効かないです。大事なのは、その人が「自殺しない」って決めることなんです。あるいは我々だったら、「自殺してほしくない」ということ。それだけ。つまり、死ぬか生きるかを選べるときに、生きているほうに賭ける、というふうに本人に思ってもらうしかないんです。

島田:それを、納得してもらうしかない。

:そうです。なぜかといえば、色んな宗教には戒律といわれるものがあるでしょう? それね、理屈で言いますか? 神様が一方的に[内容を決める]でしょう? あるいは、釈尊だったら一方的に決めるわけですよ。[なぜ内容がそうなっているのか、という説明は]書いてないです。なぜか? これは理屈の問題ではないんです。生きている意味は我々に概念句としては捉えられないように、死んじゃいけない理由なんか捉えられっこないですよ。
 だって私ね、出家するときに一番迷ったのはですね、「これでもう、自殺するカードがなくなる」と思ったですもん。「一発必殺のカード」ですよ。だけど、仏教で不殺生戒というのがあるから、これで僕は自殺するカードは捨てないといけないんだな、と思ったのが最大の逡巡ですもん。
 となればね、要するに人間というのは、幸か不幸か、「死を選択できる存在」なんですよ。それははっきりしているわけです。しかもその選択の根拠というのは、何を理屈付けたって、それは理屈である以上は反対意見があるわけです。どっち[の選択]にも「根拠」がある。となれば、生と死の問題は、我々にとっては、「自殺しない」と決めてもらう。まず本人に。あるいは、周りの人間はその人に「[自殺を]してほしくない」と説得するしかないと思いますね。

島田:このグラフは、自殺を考えた経験がある人の割合。
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島田:実際に自殺を[した人の割合を示しているのではない]のですが、20代が28.4%というのが結構衝撃だったんですけれども、その他にも、働き盛りだったりとかする方々が皆さん25%以上と、本当に何かこう、自殺を考えたことがある方の割合が多いんだなと思うんですが、今の南さんのお話を聞いていると、「死にたい」と思うことというのは、「苦しい」・「今、この状態で生きていることが苦しい」と言っているというふうに[見てよいのか?]

:というふうに見える人がいっぱいいますよ。「自分の今のありようが切ない」と訴えているんだろうな、という人がいっぱいいますよ。
 それともうひとつね、それ[=自殺を考えた経験がある人の割合が小さくないこと]を驚いちゃだめですよ。当たり前。当たり前ですよ。人間ね、一回ぐらい自殺したくならなかったらね、人間としてだめですよ。だめ。
 だからその、私は、自殺してほしくないと思うし、生きるほうに賭けるべきだと思うし、生きる決断をすべきだと思うし、その決断だけが、人間に存在の根拠とか意味とか価値を与えるとは思いますが、その、死にたくならないような人生を送ってたら、だめですよ。「自分は、ああ、もう死んじまおうかな」と一回も考えない人生はね、人生と呼んじゃだめですよ。当たり前ですよ。

反町:それは、あれですか、やっぱりこう、「つらい思い」といっても命がけのつらい思いみたいなものをするような場面というのもやっぱり、人として生きていくうえで必要だという、そういうふうに仰られるんですか?

:「必要だ」っていうと余裕があるんですがね、そんなことないんですよ。要は、生きていると何か起こるんですよ。そのときに、つくづくこう、「ああ」と思うのは当たり前でしょう。だから、転んでもいいんですよ。だから、転ばない人生はない。転んでもいいが、起きられるかどうかなんですよ。で、もっと大事なのは、転んだときに「大丈夫だよ」って手を出してくれる人がいるかどうかなんですよ。人の生に力を与えるのは結局ですね、別の人なんですよ。当たり前でしょう? あなたの存在は、人から来たんだから。名前だって自分で付けたわけじゃないし、言葉だって自分で覚えたわけじゃないし、立てるようになったのも親のおかげじゃないですか。他者との関係性の中で自己が在るというのは当たり前で、この他者との関係性をどう充実させていくかということが重力を与えるんですわ。そうすると、何度転んでもいいが、転んでどうしようもなかった時に「まあ大丈夫だよ」って言ってくれる人がいるかいないかですよね。

島田:だけれども、実際に自殺者は増えていますよね? ということは、今の[お話をふまえると、転んだときに「大丈夫だよ」と]いうふうに言ってくれる人が少なくなってきた、というふうな社会なんですか?

:そう。私はそう思う。じゃなかったら、「世界に一つだけの花」なんていう歌が流行るわけがないでしょう。

島田:どういう意味ですか?

:だって、ああいうことを言ってほしいわけですよ。要するに「ナンバーワンじゃなくていい」・「オンリーワンだ」と。「あなただけが尊い」と。あれは一番言われたい台詞ですよ。誰も言ってくれないから歌手が言ってくれるんですよ。

島田:だから流行る。

:そう。私、あれ聴いたときに「ああ、なんて悲しい歌だろう」と思ったんですよ。
 それ以前には、ナンバーワン[を目指すことに価値を置く]時代があったでしょう? 「ナンバーワンになろう」と。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」。あれ、ラクですよ。なぜかといったら、序列だから、自分が56位だろうと何だろうと、「ここ」って決まっているんだから、存在価値は。ところが「オンリーワンはありがたい」って誰が決めるんですか? 「たった一人である」ということは価値ではないですよ、それ自体は。石ころだってオンリーワンなんだから。

反町:なるほど。

:或るものが「尊い」ということは、別の誰かが「そうだ」と言ってくれないかぎりは[成り立たない]ですよ。

島田:その価値づけというか意味づけをしてくれるという関係性が、今……。

:必要なんです。

島田:お母さんとかお父さんとかね。

:それなんです。それが、普通だったら、[或る人の]存在自体を肯定する存在というのが親の役割なんです。私が増えていると思うのは、この時点で傷つく人がいるんですよ。うまくいかない人が。

反町:子供のときに?

:そうなんです。非常に小さい時に、親子関係でこじれてしまう人がいる。それは大きなダメージを受けるんですよ。つまり最初の存在の、力の基盤の部分にひびが入ってしまう人がいるんですよ。あのね、やっぱり多いんですよね……その、可哀想だなと思うのは、親は「良かれ」と思うわけですよ。つまりその、「私はあなたのために」とか「あなたのことを思って」と[親は]言うわけですよ。ところが子供のほうは、それは分かっているんだが、その「支配」が切ないわけです。

反町:あの、昔のほうが子供が多くて、親と子の関係って、1対1の[関係性より]希薄だったように思いますけど……。

:そうです。だけど、そういう[昔の]人に話を聞いてみれば、例えば「自分のところは大勢の兄弟だから、自分が病気になったときには他の兄弟は放っぱらかしてお母さんに一日中看病された」みたいな経験が、どこかにあるんですよ。つまり、何もできない・何の能力もない[状態でも]、ただそこにいるということだけを確かに喜んでくれる人というのが人には必要なんですよ。絶対に必要なの。

島田:「あなたがここにいるだけで私は幸せよ」という。

:「幸せだ」というか、それを喜んでくれる人が要るんですよ。

島田:それでは南さんに、これからの時代、私たちは死とどう向き合うべきなのか、提言を頂きたいと思います。南さん、お願いします。

:じゃ、こういうことで。
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島田:「やりすごす」。

:あまりね、積極的な言葉ではないですね。
 だからね、さっきも言ったように、何でも分かって対処法があると思ってはだめなんですよ。もっと言えば、待てないと[いけない]。相手がどういうものかということが次第に見えてくるときもある。まず、しかけるのではなくて待てないとだめ。で、待っていてもどうにもならないことが世の中、いっぱいあるんですよ。どうにもならないことに[対して]はね、「こうだ」ってすぐ決めちゃだめなんですよ。それは、何とかそのままやっていける方法を考えたほうがいいんですよ。
 よく人はね、「人生、夢と希望は持つべきだ」って言うでしょう? 私は思うんですが、そういう言い方はですね、人を結局ね、前のめりにして駆り立てると思うんですよ。じゃあ、夢や希望のないものはだめなのか、ということです。私は、夢や希望なんか持たなくたって全然かまわないと思いますね。

反町:高度成長期って不幸な時代ですか? 高度成長期って皆、夢や希望を持って……。

:いやいや、不幸な状態ではない。しかし、幸福な時代だとは断言できないですね。

島田:夢や希望を、持ってもいいわけですよね?

:もちろん。だけど、私が言いたいのは、夢と希望は持たなくても生きられるし、そんなものを持たないで堂々と生きていた人がいっぱいいた時代が、近代以前にはあったはずですよ。

反町:なるほど。

島田:みんな、夢と希望を持っていなくても普通に。

:堂々と生きていたと思いますね。
 だって、夢と希望ってなぜ必要なのかって、走るためですよ。何が走らせるのか? お金ですよ。お金は、走っていないと死んでしまうでしょう?
 だから、私は思うんですが、近代以降の人のあり方、人間の有り様(ありよう)を規定しているあり方と、あの「夢と希望」という言い方はね、似ていると思う。個性とか人材とかっていう言葉。つまり、「何か意味のあるものと交換して、より大きなものを手に入れるために突っ走れ」というのを陰で支えていると思いますよ。
 だから、「夢と希望」という言い方はいいですよ、しかし、あれほど言わなくたっていいし、もっと、夢と希望を持たなくたって人は堂々と生きられるに違いないと思います。

島田:持ってもいいし、持たなくてもいい。

:持たなくてもいい。

島田:そういう生き方でいいじゃないか、と。

:いいと思うんです。だから、「やりすごす」というのはそこ[に関係していて]、「夢と希望のない人間はだめだ」という言い方はだめだと思います。

島田和歌山県の男性[からのお便り]です。「死について考えると、怖くて眠れなくなるときがあります。これを受け止めなければならないと分かってはいても、いつか迎える死を考えると、吐き気がするくらい胸が気持ち悪くなります。家族からは、『メンタルが弱い』と一蹴されますが、どう気持ちをコントロールすればいいでしょうか。何かアドバイスがあればお願いします」と、まあ、こういう質問はけっこう来て、「死が怖い」ということなんですけれども。

:あのね、ちゃんと怖がりゃいいと思いますよ。怖がって当然ですわね。ですから、妙に「何とかしよう」とか[したり]、「メンタルが弱い」とかって言われてるみたいですけども、それで当たり前だと思いますね。問題は、それに巻き込まれないことですね。つまり、それによって例えば日常生活がガタガタになってしまうとかいったら、これは話は別です。

島田:この方は、仕事をハードにすることで忘れようとしたいというふうに……。

:怖がりながら仕事すればいいと思いますね。ごまかさないで、怖いまま仕事をすればいいと思います。大事なことですよ。だから問題は、付き合えるかどうかです。その怖さと。付き合えればいいんですよ。否定しちゃだめだと思いますね。メンタルなんか弱くたって、生きていければ充分ですよ。

島田:さっきの「やりすごす」というのとまた同じで……。

:そうです。だから、そんなに性急に、人から言われて「だめなんだ」なんて思っちゃだめですよ。大事なことですよ。その恐怖のなかで日々の生活を築いていくとしたら、強靭な精神ですよ。

島田:それはやはり、生きるということと繋がっていく。

:もちろん。だってその人、生きているもの。

島田:こういう場合は、家族は、こういう方がいらしたらどういうふうに接してあげればいいんでしょう?

:家族の問題というのは個々別々だから、すぐには言えないですが、要するにね、「あ、そういうことを考えてるんだな」ってだけでいいと思います。だって、人の心とか死に対する気持ちなんか、決して分からないですよ。他人のことが分かると思っちゃだめです。他人と自然と死は分からないんです。分からないけど付き合うんですよ。

反町:南さんご自身は、死は怖いですか?

:怖いと思ったことはないですね。ずっと考えてきたんで、慣れちゃったです。

反町:ほう。でも例えば、ご家族とかとの、ある意味で一つの節目というか別れになるわけですよね?

:僕、極端でしてね、他人の死というのは感じないんですよ。死というのは自分の死だけしか意味がないと思っているんです。

反町:自分が死ぬということは要するに家族とお別れするということには……そういう整理の仕方はされていないんですか?

:いや、私ね、ちょっと特殊でしてね、小さい頃に非常に病弱だったものですから、生まれついた頃から、「死ぬとはどういうことか」みたいなことをずっと考えるわけですよ。それで、結論出ないでしょう? 大人に訊くと、「次の話」になるんですよ。「死んだらどうなるか」という話になる。そんなこと聞きたくない、私。「どこに行くか……花畑とか天国」とかは関係ない。「死とは何か」を知りたいのに誰も答えないんですよ。だから分かったんです、「あ、[誰も]分かんねえんだな」って。

反町:じゃあ、[死が]お別れかどうかも、分からない、と?

:誰に訊いても分からないんだから自分で分かるしかないけど、これは多分わからないことなんだな、というのが小学校4年の頃に分かったんです。だから、私には[死は]考える対象なんです。怖がる対象じゃなくて。ずっとそうなんです。だから、怖がる余裕がないの。

反町:ほう。
 北海道の看護師のかたからメールが来ています。「職業柄、死に関わることが多いです。何度関わっても、いつも『こうすればよかった』・『これでよかったのか』と反省の日々で答えが出ません。どうしたらよいでしょうか」。

:同じことを、ある麻酔医の人に言われましたけどね、答えが出ないことに耐えるですね。

反町:耐える。

:耐える。そこに意味がある。「なぜだろう」って考え続けることですよ。絶対に放しちゃだめです、その問いは。誰に何を言われても、「ああ、そうか」と思ってもいいですよ。しかし、それでもその人には残るはずです……終生残るはずです。しかしそれは「財産」なんです。その人のとても大事な意味なんです、看護師さんをやっている。だから、どんな意見に触れてもいいです。どれに納得してもいいです。しかし、心から納得することはないんだと思ってやったほうがいいですよ。

島田:それをずっと考え続けることに意味がある。

:抱え続ける。だから、そういうことが多分、看護師さんとしての生き方を充実させるに違いないと思いますね。

(終わり)

山下良道法話:「『喪に服す』ことで開かれる地平」(1 of 2)

この記事は山下良道氏によって加筆され、一法庵のウェブサイトに掲載されました。下記のリンクからご覧ください。

(PDF形式) 「『喪に服す』ことで開かれる地平」

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2011年4月10日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=674
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

(途中まで略)

 今回、福島第一原発にとんでもないことが起こって……それは、もともと準備していなかったところに予想以上の津波がやってきたことで、とんでもないことになってしまったということじゃないですか。だけどその、津波に襲われたのは、単に三陸海岸とか或いは福島第一原発とか女川原発とかだけではなくて、もう「日本全体」だったわけですよ。それで、その襲われることで福島第一原発の非常に脆弱な部分があからさまに現れちゃって、それでとんでもないことになっていますけども。

 だけどその脆弱な部分というのは、それは単に福島第一原発だけじゃなくて、日本の我々[=日本人]自身の脆弱さでもあった。そのために――脆弱だったので――、その後のいろんなことがうまくいっていない。だけどそれは単に「被災者支援がうまくいっていない」とか「政治の指導がちょっとおかしい」とか「情報を隠蔽している」とかそういうレベルの話ではなくて、(中略)そういうことのもうひとつ前にね、「どうも私らにとっていちばん致命的な弱点があって、[震災に]その致命的な弱点を見事に突かれた。その結果、その弱点が見事に出てしまっている」というのが現状だと思います。そしてその弱点というのは、政治的な指導力が弱いとか福島第一原発のバックアップの電源装置が弱かったとかいう、そういうレベルの話じゃなくて、(中略)我々にとって非常に弱い部分があったということ。

 それはどういうことかといったら、――これはメールにも書いたですけども――我々の文明の、何とも言えない表面的な浅さというのかな……それがもう出ちゃって。その結果、どうも我々は非常に大事なことを忘れてしまっている・やっていない[ということが明らかになった]。あるいは、それをやるという文脈が無い。その「やらなければいけないこと」というのは何かといったら、それが「喪に服する」ことなんだけども。

 「喪に服す」をウィキペディアで調べたんだけども、[そこに書いてある内容の薄さは]悲惨なものですよ。「喪に服す」でGoogle検索してみてください……出てくるのは、せいぜい「誰かが亡くなったあと、何日ぐらい喪に服さなければいけないですか?」とか「喪に服すときの服装はどうしたらいいんですか?」とか「年賀状を出さないで、喪中の葉書を出す」とか……要するに、マナー[についての情報]なんですよ。(中略)そういうことぐらいの説明なら、まあ有るんですよ。だけど、それ以上は無いし。

 それで、「喪に服す」という日本語自体が、旧い……というよりか、ふだん使われない。使われないということは、その人の発想のなかに「喪に服す」ということが入ってないということですね。だから、その代わりに出てきた言葉が何だったかというと、要するに「自粛」ということなんですよ。

(中略)

 「自粛」ということと「自粛しちゃだめだ」ということには、それぞれの理屈があって、それはそれなりに筋は通っている。私も両方の言い分をかなり丁寧に見たんだけども……だけどね、(中略)普通に社会人として生きている人の考えの幅・思考の幅・物事の処理の中に、「喪に服す」ということは入ってこないのね。

 そして、3.11(東日本大震災)で起こった出来事というのは、普通に社会生活をしている人の今までの情報処理のパターンの中には入りようがない。だから、もう「自粛」と「反・自粛」ということを言ってお互いに論争し合うという非常に不毛なことになって。それで、その人たち[の論争]に何が無いのかといったら、結局、「喪に服す」ということが全然入らないんですよ。というのは当たり前で、喪に服すということの本当の意味[が理解されていないから]。さっきも言ったように、今、「喪に服す」でGoogle検索すれば、まあ恐ろしく表面的な情報しか出てこないんですよ。(中略)マナーぐらいのレベルでしか[言及が]なくて。現代の日本人の、普段の精神活動と、それに基づいた言論活動のなかには、「喪に服す」ということが入り込む余地は無いんです。これは無いです。この1ヶ月間、私もかなり集中的に色んなものを読んでますけど――新聞・雑誌から、色んなものをチェックしてますけども――、そのなかには見事に無いですね。それはなぜかといったらば、それはもうその人たちが普段やってきた社会生活、あるいは精神生活では処理できないことが3.11で起こっちゃったわけですよ。だから、今までの処理能力ではこの3.11で起こったことを処理しきれなくて……だからこれが処理しきれないままに放ったらかしになっちゃっている。

 そして、ここ1ヶ月間で我々がやってきたことは……結局みんな、「今までの延長上」をやってきたじゃないですか。皆、今までの延長上で、自分なりの3.11を処理してきたというのが本当のところだと思います。だけど、今までの我々[=日本人一般]の処理能力――それしか持ってないからね――でこの1ヶ月をやってきたんだけども、我々の処理能力を遥かに超えちゃった何かとんでもないものがあって、これを我々はほとんど手つかずのままにしている。これは手付かずだから、新聞やメディアが扱うということは無いんですよ、実を言うと。いま私が言っているのは……福島第一原発のことを言っているんじゃないですよ。(中略)原発のとてつもないエネルギーを制御できるだけの技術もマインドセットも無かったというのはそのとおりだけども、そこがこの話のポイントでもない。(中略)この話のポイントは……ブログを書いている人にしてもメディアにしても、その人たちが扱ってこなかったものがあってね……それは何かといったら、数万人の亡くなった人です。

(中略)

 [福島第一原発の動向や、避難所の状況、復興への取り組みなどについてはメディア等でも扱われるが、その一方で、]もう還ってこないものがあるわけね。もう取り返しがつかないものがあるわけで。そして、取り返しがつかないもののことを……それを本当に……それに寄り添うという報道というのは、私が知る限り、ほとんど無いんですよ。日本語の報道なり何なり[を見るかぎりでは、ほとんど無い]。

(中略)

 [その一方、アルジャジーラは、東日本大震災についても]非常に良い番組をたくさん作っています。これはみんな、アルジャジーラの英語のサイトにあって、ぜんぶ観れるようになっています。(中略)アルジャジーラに“People and Power”というシリーズがあって、それの1つの番組として宮古市を取り上げています。(中略)それは宮古市の今の現状を伝えていて、そのなかの何人かにフォーカスを当てて番組をやっていました。メインのフォーカスは或るおじいさんに当てていて、そのおじいさんの一家は津波から逃げることができたんだけども、残念なことにおばあさんだけが未だに行方不明で……(下記の動画を参照)。

(中略)

 あの番組を観て、皆さん分かったと思いますけども……アルジャジーラというのはもちろん日本だけじゃなくてあらゆるところを取材してきているんだけども、彼らの基本的なスタンスというのは非常に簡単で、苦しんでいる人の側に立つというのが彼らのスタンスなんですよ。だからといってそれは、いきなりの「アンチ政府」でもないし。とにかく、あそこ[=番組内容]で分かったと思うけども、番組は、別に誰かを批判しているわけではないんですよ……「菅直人が悪い」なんていう、そんなことは言ってないんですよ。あそこではただ、自分の60年連れ添った奥さんを亡くした或る日本の老人に寄り添うという、それだけのことしかやってないんですよ。

 私があれを観て非常に新鮮だったのは……そういうことをやっている番組は他にないんですよね、考えてみたら。日本だと、たいていは政府批判――「政府が情報を隠蔽している」とか――か、あるいは何か奇跡で助かった話とか……それはたくさんあるんだけども、「いちばん大切なものをなくしてしまった人に、ただそこに寄り添う」ということをやっていなくて。(中略)いま生き残った人たちも、「自分があれをしなかったから」或いは「あれをしたから」[誰々を救えなかった]、という自責の念で堪らない思いをしている人はとてつもなく多いわけですよ。だからそういうふうに自責の念で苦しんでいる人も居るし、あるいは、なくしてしまったことを「もう取り返しがつかない」という[思い]に圧倒されちゃっている人が居て。その人たちに寄り添うということをやってないじゃないですか、我々は。それをやったのが、アルジャジーラという、中東のカタールを中心としているアラブの報道番組だったということで。[要点は]そこいらへんなんですよ。

(中略)

 [さいきんTwitterでフォローし始めた藤原敏史さんに、アルジャジーラの番組を紹介したら]すぐに返事が来て……下記のように返事が来ましたね。

なぜアラブ人の方が日本人のTVよりもずっと丁寧な番組を作れるのでしょうね。
http://twitter.com/toshi_fujiwara/status/56233456090357760

……まあ彼は映画作家だから、日本のテレビの実状からアルジャジーラの実状から全部分かったうえで[こう仰っている]。プロの意見ですねこれは。そして、[アラブ人の方が日本人のTVよりもずっと丁寧な番組を作るということの]理由として、

生と死と喪失という概念を、日本の都市が見失っているということなのかもしれません。
http://twitter.com/toshi_fujiwara/status/56233456090357760

……という、いきなり本質的なことを投げかけてきたのでね……。これは私もずっと気になっていたことで……。

 さっきも言ったように、3.11にはとてつもないことが起こったわけ。3.11以前にも我々は生きてきて、そこには色んな情報の処理の仕方とかがあったわけ。だけど、3.11以前の我々の情報処理のしかた・情報処理の能力では、あの3.11に起こったことを、とても処理できない。我々の能力を遥かに超えちゃったことが起こったわけじゃないですか。だから、メディアも処理できなかった。インテリたちも処理できなかった。だから、この3.11で起こった途轍もないことの大部分が、ぜんぜん処理されないまま残っている。その処理されないまま残っていることとは何なのかといったら、それはもちろん「生と死と喪失」のことですね。これを、我々はぜんぜん処理できてないです。3.11以降、日本のメディアも我々も。藤原敏史さんみたいに海外の事情もよく分かっていて日本のメディアもよく分かっている人がアルジャジーラのあの番組を観ればね、まさにそうなんだということが分かるわけですよ。

 だから、この3.11でとてつもないことが起こって、それを我々はぜんぜん処理できなくて、あるいは受け止めることもできなくて、そのままになっちゃっている。なぜ我々がそれを受け止めることができなかったのかといったらば、それは生と死にまつわる問題だからなんですよ。そして、生と死の問題というのは、3.11以前のあの薄っぺらな日本社会のなかでは「存在してなかった」問題なんですよ。そうじゃないですか。だから、3.11以前の薄っぺらな日本社会のなかでは、生と死の問題について考える文脈というのが無かったから……そして3.11にとてつもない量の「生と死の問題」が生じてきちゃった場合にね、これはもう「処理できない」んですよ……3.11以前の世界を表面的に生きてきた我々には。

 だけどアルジャジーラというのは、世界中のいちばん苦しいところを取材している連中だから、彼らは本当に……少なくとも人間の苦しみというのは分かっているわけね。だから、もちろん通訳とかをいろいろ通してでしょうけども、60年連れ添った奥さんを亡くしたあの老人の痛み・苦しみを彼らは分かるわけよ。だから何も主張しないで、あの人にただ思いを喋らせている。もう「それだけでいい」わけね。いきなり「菅直人がけしからん」なんていう番組内容にはならないんですよ。そうではなくて――この場面においては、菅直人首相なんか関係ないんですよ――、[思いを語る人に]寄り添う。それはなぜかといったら、彼らはこの「生と死の問題が世界のあらゆるところで起こってきて、それを受け止める」ということを少なくともやってきたから。その人たちが宮古市に行けば、そこではまったく同じ問題が起こっているということは当然分かるし。そしてそれを、[現地の被災者に]フォーカスを当てて語らせている……というか、感じ取っている。これを我々は3.11以後にやってきていないということを私もメールにも書いたけども、「なんかおかしいよね。なんか、我々はやるべきことをやってないよね」と思っていたんだけど、その[やるべきことが何なのか]がずっと分からなくて。それで結局、我々がやってきてなかったのは……「放射能のことばかり気になっちゃって」とか或いは「被災者に援助を送らなければいけない」とかももちろん大事なことなんだけども、そういうことのもっと前に、我々がやっておかなければいけないことがあったはずなんですよ。そしてそれはもちろん、3.11でとてつもないものをなくしてしまった人のことを、とにかく感じとること。そして結局、それが「喪に服す」ということです。

 日本の歴史のなかでも、あるいは世界のどこだって、自分の親しい人間が亡くなったときは喪に服すというのをやっていたわけですよ。しかし、さっきも言ったように、いま「喪に服す」という言葉を日本語でGoogle検索しても、ろくな情報が出てこない。せいぜい、「年賀状を出さない」とかそんなレベルの[、あくまでもマナーについての]情報しか出てこない。ということは、なぜかというと、喪に服すということが、現代のなかではもう無いからなんですよ……喪に服すということの意味が[理解されていないから]。喪に服すということが意味をもたないから、喪に服すということを当然だれも考えないし、それがせいぜいマナーのレベルにとどまっちゃっている。

 だから、私と藤原敏史さんとがここで共通に理解したことはね――彼も映画作家だから、そこは痛烈に感じているんでしょうけれども――、なんか「我々は結局、[やるべきことを]やってこなかった」。そしてもちろん、3.11以後にも我々はとてつもなくたくさんのことをやったわけですよ。とてつもなくたくさんの言論が生まれたし。とてつもない量のツイートが飛び交って、Facebookの書き込みが飛び交っていたわけ。それらの書き込みを主に分けると、「がんばれ日本」と「放射能が怖い」というこの2つなんですよ。この2つに関しては、とてつもない量の情報が飛び交ったわけだけども、この2つが飛び交うことによって、その前にやらなきゃいけなかったことが見事に隠蔽されてしまったというか、見えなくなってしまった。それはたぶん、意図的[な隠蔽]もあるし、あるいは無意識のうちに「このとてつもない難しい問題を取り扱えないから、『がんばれ日本』と『放射能が怖い』のほうにだけ意識を集中させた」とも言えるし。あるいは、この問題があるということすらも見えなくなっちゃっている。あるいは、見たくないから見ないという。

 それを我々はやってこなかったんだけども、それをやらなかったために――あるいは、[「がんばれ日本」と「放射能が怖い」の2つだけをやったきたために]――もう本当におかしなことになっちゃっている。

 それで、ここからようやく、私らの瞑想と仏教とに[話を]繋げていきますね。

2 of 2へ続く)