山下良道法話:「最後の希望 エゴの虚構を超えて」(1 of 3)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※日時・場所:2008年6月15日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=423
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

(途中まで略)

 ちょうど先週に私らがここで集まっている時に――そのちょっと前くらいですかね――秋葉原であのようなこと[=2008年6月の秋葉原での無差別殺傷事件を指す]が起こってしまって。それを皆さんもこの1週間にニュースとか何とかで嫌というほど報道を追ってきたと思いますけども、ちょとあまりにも深刻な問題が出ましたので、これを機会に色んなことをまとめていきたいと思います。

(中略)

 今回のことは当然色々な角度から分析しなきゃいけないし、これを機会に色々なことを考えなきゃいけなくて。だけどそれは決して「加藤容疑者がああしたから、こういうことが明らかになった」というふうにすべきことではもちろんないんだけれども、ああいうことが起こってしまったということがやはり、いま日本社会が抱えているありとあらゆる問題が噴出しちゃったと私は思っているし、皆さんに紹介した東浩紀さんが「やっぱりあれはテロだ」と書いていましたように、私もあれは本当にテロだと思っているんですよ。政治的なテロというのは普通はテロの相手――攻撃する相手――があってね、それへ自爆テロなり何なりをしてダメージを与えるということだったんだけれども、今回の場合は「テロ」の相手というのが一般日本社会なんですよね。これがやっぱり、皆がショックを受けた理由であって、評論家の人が、今の秋葉原というのが今の日本の現代文化というものを象徴している場所だと分析していましたけれども、それだから、現代の日本社会というものの象徴である秋葉原での「テロ」ですね。「ある意味での、他人を巻き込んでの自殺」という言い方をしている人もいましたけども。

 だから、今日ここでやるのは何も加藤容疑者の心理分析とか、あるいは社会分析でもなくてね。もちろん社会分析ということでは、こないだのやしきたかじんさんの番組――それは秋葉原の事件が起こる前の番組ですけども――で、「今の若い人がものすごい貧乏な状態になっている。その問題で一番問題なのは、作家の高橋源一郎さんが言ったようですけども、やっぱり上の世代がそれ[=若者の貧困]に対してやっぱりピンとこないという点だ」と述べられていましたけど、それは私もそうなんですよ。私は高度経済成長の時代に子供時代を過ごした人間ですから、もちろん東京オリンピックも万博も子供時代にぜんぶ経験してみんな知っているんですけども、日本がどんどん豊かになっていく――日本社会が[豊かになっていく]ということは、山下家なら山下家が豊かになっていく――ということを本当に実感できた時代でね……だから私のなかで、日本というのはやっぱり世界で2番目に豊かな国だというイメージは未だにあるんですよ、正直言っちゃってね。そうなんだけども、私が日本に対して持っていた、世界で2番目に豊かな国だというイメージとあまりにもかけ離れた現実がどうもあるらしいということを私自身も遅まきながら気づき始めた。

 それは私だけじゃなくて、高橋源一郎さんのような作家の人が非常に正直に言っていましたけれども、日本にそんなに貧乏な人が居るということが実感として分からないというのは、私より上の世代の人――50代以上の人――たちの正直な実感だと思うんですけども、それがどうも、とんでもない幻想だったということになって。
 まあ、その分析はこの場所でやることでもないし、私も専門家ではないし。だからそういう、今の若い世代の人たちが非常に経済的にも辛い立場に置かれているということをやっぱりきちんと認識したうえでそれをどうにかしなきゃいけないということはそうなんですけども。それは本当に私もその通りだと思います。そうなんだけれども、今日やりたいことはそれとはちょっと[違います]。というのは、ここはそういう社会分析とかをやる場所じゃないし、そういうことはできないですから。
 今日やりたいことはですね……(中略)私は月曜と火曜に実家に居たのでテレビの報道を大量に見たんですけども、(中略)[その報道の中で、ある人が]、非常に悪い冗談というか本気の発言ではなかったですけど、加藤容疑者のやったことを「究極の自分探しだ」みたいな表現――これは滅茶苦茶にひどい[表現]なんですけども――を出したんですよ。それで、今日は自分探しということについてお話したいと思うんですよ。
 今ね、自分探しっていうと必ずもう括弧付きになっちゃって、何というのかな……何かまあまともに受け取られなくて、何かあれしてると[=自分探し的なことをしていると]、「ああ、あの人は自分探しをしてるみたい」というふうにちょっと何か、からかいの対象というかそういうニュアンスを[自分探しという言葉が]含んでいるみたい……なのかどうか……私も今の世間のスタンダードがどうなっているのかはちょっと分からないんだけれども、私が読み聞きした範囲ではちょっとそうなってましたけども。それで今日お話したいのは……自分探しの本当の意味についてお話していきたいと思います。
 それでね、この「自分探し」ということに関してありとあらゆる混乱があって、今は「自分探し」という言葉を使うと何かちょっと「からかい」の意味合いが含まれてしまうというのが現状だと思うんですけども、(中略)結局なぜ「からかい」の対象になってしまうのかというと、その理由は簡単なんですよ。「自分探しをしている人たちは、結局は『自分』が見つかっていない」というね、結局そこが理由だと思いますね。そういうこと[=自分探し]をした果てに結局、「自分」が見つかっていなくて、その結果、自分探しというものが何か非常にわがままな行為に聞こえてしまって、だから[自分探しということのイメージは]ポジティブな方向には全然向かっていかないということだと思うんですよ。
 それで、今日は1つの本を題材にしてお話ししていきたいと思うんですけども、その本は――まあいつもこのポッドキャストの中で紹介していますけども――エックハルト・トールさんの“Stillenss Speakes”で、それの翻訳が『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』ですね。(中略)この本は、エックハルト・トールさんの他の本と比べると、非常に短い文章を集めている。エックハルトさん自身が古いお経(sutra)みたいなものをイメージした――長々と散文で説明していくんじゃなくて、お経の言葉というのは非常に短くてコンパクトだけどポイントだけは突いた言葉じゃないですか。それと同じようなことを狙っていく――内容なんですよ。(中略)こういう本は頭から終わりまで丁寧に読む必要もべつになくて、自分がピンときた場所を読んで――ただしそのときは暗記するくらい読んで――それを自分の血や肉にしていくという、そういう読み方が非常に良いと思うんですけども。

 この本の原題が“Stillenss Speakes”ですね。この題がもうすべてを物語っていますけども、“stillness”は英語で「静寂」ですね。静寂というのは、言葉――おしゃべりの言葉――とかいうものと反対じゃないですか。だけど、「stilness(静寂)がspeakes(喋る)」というのはどういうことかというと、「この本で書かれている言葉は、我々の“thinking mind”――いわゆる、頭の中でいつも喋っているもの――から来ているんじゃなくて、もっと深いところから来ている」という自負を込めて、この書名が付けられています。

 まあもちろんね、すべてのスピリチュアルな教え――仏教だろうがヒンドゥー教だろうがキリスト教だろうが――においては、それが本当の教えだったら、その教えの言葉は、(中略)「言葉は言葉だ」という意味では普通の我々の日常生活のなかでのお喋りと同じなわけですよ。全ての言葉がまあ辞書に載るわけでね。そうじゃなかったら人間同士で通じないんだから。そういうような言葉を使いながらも、本当のスピリチュアルな言葉というのはそういう単なるthinking mindじゃなくてもっと深いところから来ているものであって。すべての仏教のお経にしろ何にしろ、そういう「古典」といわれているものはね。だけども、エックハルトさんがこの本でしようとしていることは単に古典の翻訳じゃなくて、自分が今クリエイトしていくことね。だから、そうするためには自分のなかの深い“stillness”(静寂)のなかから言葉を汲み上げてくる……というよりか、“stillness”(静寂)のなかから言葉がただ生まれてくるのを待っている。そしてそれを書きとめていくというありかたですね。そういう思いを込めて“Stillenss Speakes”ということを仰っているわけですよ。

 それで、本当を言うと、法話、“Dharma Talk”というのはすべてそうあるべきであって、こういうところ[=一法庵など]でやっている“Dharma Talk”というのは、単なるthinking mindが色々と分析した果てに色々なことについてペチャクチャ喋るようなのとは違って、やっぱり“stillness(静寂)”のところから言葉が沸いてくる、あるいは静寂から発せられた言葉でなければいけないはずなんですよ……本当の“Dharma Talk”というのはね。まあもちろん、私の今やっているのがそういうレベルに達していないのは分かっていますけども、まあそれを目指しているんですけども。
 そういう背景をもった“Stillenss Speakes”という本があって、その第3章が“THE EGOIC SELF”という題になっていて、今日はそこから幾つか引用して読みたいと思います。
 今日の法話の題は「最後の希望」で、副題を「エゴの虚構を超えて」としたんですけども、結局いま問われているのはエゴの問題なんですよ。もちろんね、さっきも言いましたけども、今回のこと[=秋葉原での無差別殺傷事件]にしても、社会的背景というのは当然あるわけで、いまの若い人が非常に劣悪な労働条件のなかで働いていて(中略)、そういうふうに、社会的な条件があるというのはその通りでしょう。それを無視して全てを自分の心の問題としてとらえるということの危うさはもちろんあるわけですよ。というのは、そうすると社会的条件を無視しちゃってね、若い人が置かれた今のそういう労働条件を変えていくというようなことが無視されるというのはまた非常に危険なことですから。だから当然、今の社会的な悪い条件を変えていかなきゃいけないということはその通りなんだけども、だけども同時に、やっぱりこれは心の問題でもあるわけでね。特にこの一法庵なんかではこの「心の問題」を主に採り上げてますので、今から心の問題に限って採り上げますけども、ここで誤解しないでほしいのは、私はべつに社会的問題を無視しているわけではなくてね、社会的問題はもちろんあるでしょう。それは認めます。それはそれできちんと政治、あるいは社会が対処していかなきゃいけない。それはその通りでしょう。それはやっていくべきです。だけどもここではね、主に心の問題についてのみ今からお話させて頂きます。だからそれを前提条件にして下さいね。決して、私が社会的条件を無視しているということではないですから。
 それで、やっぱりね、加藤容疑者の言葉はグサッとくるんですよ。グサッとくるわけね。これは皆が言っていたわけで、加藤容疑者が書き込んだ言葉が、今は新聞あるいはテレビでもかなり載せられていますけど。私が何にグサッとくるかというと、べつに「共感する」ということではないんですよ。そうじゃなくて、ある意味で非常に古典的なんですよね。これは勝谷さんが言っていたかな……勝谷さんが加藤容疑者の書き込みを見て「非常に頭がいい奴だな」と言っていましたけどね。「分析力がある」・「文章力もある」って言っていましたけど、彼の言うことにはやっぱりある意味でリアリティがあるわけですね。だからって私が彼を擁護するつもりはもちろん無いし、あれが本当の意味でのリアリティだとは思わないしね。だけども、「我々が或る泥沼に入った時に、当然ああなってしまだろうな」ということは非常によく分かるんですよ。それで、加藤容疑者の言葉で「死ねないから生きているだけの毎日ですよ」とね……まあ、人間というのはそこまで追い込まれるものかと思うんですけども。まあそれで実際に追い込まれたからああいうことになったんだと思うんですけどね。だからそういう意味でね――私が加藤容疑者を擁護してるなんて思う人は決して居ないでしょうけど――、あそこには非常に普遍的な問題が現れたと私は思っているんですよ。それはどういう普遍的な問題かというと、一言で言うとやっぱり、エゴの問題なんですね……エゴの問題です。
 「エゴ」といった場合、私は今までの法話の中でも「エゴ」という言葉を使ってきたけども、[これまでは、「エゴ」という言葉の]意味をあまりはっきりとさせないで使ってきたんで――まあ私としては、はっきりさせた意味で使ってたんだけど、「エゴ」という言葉の意味をいちいち説明することはしてこなかったんで――、皆さんが思っている「エゴ」と、私がいま使っている「エゴ」という言葉[の意味]が多分ずれていると思うので、今日はその「エゴ」ということについて、ちょっと詳しくみていきたいと思います。
 それでこれは、エックハルト・トールさんとオプラ・ウィンフリーさんとの対談の中にも出てきたんだけども――エックハルトさんとオプラさんとの間には非常に理解が成り立っていたんですけどもね――、「エゴ」というとオプラさんがすぐに“selfish”(利己的な)と“arrogant”(傲慢な)という言葉を挙げたんですけど、それはオプラさんが「エゴ」をそう理解したということじゃなくて、「世間だったら、ふつうは[エゴという言葉の意味を“selfish”や“arrogant”だと]取るだろう。しかしそれは、エゴと呼ばれるもののうちの或る非常に限られた側面にすぎない」ということをオプラさんもエックハルトさんももちろん分かっているわけですよ。それが2人の間の共通理解なわけね。

(中略)

 本当に私らが理解しなきゃいけないのは、[エゴの“selfish”や“arrogant”という側面だけではなくて]「エゴというものそのもの」なんですよ。その「エゴというものそのもの」が誰にも非常によく見えるかたちで醜く出たときに、あるいは人を傷つけるかたちで出たときに、[周囲の人は]「あの人はエゴイストだ」とか「あの人は非常に傲慢だ」とか「あの人はエゴが大きい」とか言うわけで。それは、この社会の中で皆が当然感じていることなんですよ。その一方、あまりエゴのない人たちに対してはやっぱりホッとするということだと思うんですよ。

(中略)

 だけれどもそういう、〈エゴが大きい/小さい〉とか〈selfishだ/selfishでない〉とかいうのはあくまでも、エゴというもののうちの或る側面であって、エゴの全体ではないんですよ。だから、(中略)それ[=エゴ]が非常に人を傷つけるかたちではたらいたり、あるいは醜いかたちではたらいた場合に、この世界のありとあらゆるトラブルが生じてきてしまうわけであって。だから、ただ単に「エゴを捨てなさい」とか「もうちょっとエゴをあれしなさい」というのは、そんな簡単なものであるはずがない。だからそのためにはまず、我々はエゴというものの本質を観ていかなきゃいけないわけですよ。

 そのことと「自分探し」というものとがもちろんリンクしてきて。さっきも言ったように今は「自分探し」というものが、ほぼまともには受け取られなくなっているというのは、自分探しということをした果てに「自分」を見つけたという人にほとんどお目にかからないからだという残酷な現実があるからでもあるんですけど、[理由はそれだけではなくて]――池田晶子さんも言っていましたけど――自分探しをしようと思う人が、前提条件として或る「見つけたい自分」というもの[=見つけたい自分像]を持っているわけですよ。その「見つけたい自分」という前提条件を持っていて、そのうえでその「見つけたい自分」を一生懸命さがすから、[「見つけたい自分」は]見つからないという現実があって。[それに対しては、]「あなたが見つけたいと思っている自分。それが何なんですか?」あるいは「それが本当の自分なんですか?」という、そういう問いを持っていかなきゃいけないし。

 ただね、「本当の自分を探したい」・「自分探しをしたい」という人がいま置かれた状況は……「今やっているのは本当の自分ではない」という非常に強い苛立ちというか危機感というかそういうものがあるからこそ当然「自分探し」という発想になると思うんですけど――だからそれは分かるんですよ。半分わかるんですよ――、だけども、その人たちが考えている「本当の自分」というものが、何か非常にリアリティに基づいていないから結局は「無いものを探す」ということになるから結局は「見つからない」ということになってしまう。ということだと思います。
 だから今日の話は、いま「自分探し」をしている人に私の話がもし届くんだったら、その人たちにも届けたいと思っています。「自分探しとは、いったい何なのか?」という、そのところから。そのためにまず我々がやらなきゃいけないのは、「エゴ」というものを理解すること。なぜかといったら、[多くの人は]「エゴが自分だ」と思っていて、どうやらそれが間違いの発端だということがあるわけですね。

2 of 3へ続く)