山下良道法話:「最後の希望 エゴの虚構を超えて」(2 of 3)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※日時・場所:2008年6月15日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=423
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

1 of 3からの続き)

 それで、エックハルト・トールさんが言う「エゴ」って、いったい何を指すのか。そこをみていきましょう。そうしないで、エゴというもののうちの非常に限られた側面である「エゴイストだ」とか“selfish”だとか「傲慢だ」とかいう側面だけをとらえたら、エゴというものをやっぱり見失ってしまうから。“selfish”(利己的な)とか“arrogant”(傲慢な)とかいう側面を持つけれども、――それは側面にすぎなくて――それだけではないエゴの本質というものをみていきましょうね。

 それで、エックハルト・トールさんがどういうことを言っているかというね――まあこれは私が普段言っていることと全く一緒なんですけども――、いつも私が「思い」という言葉を使ってますけども、エックハルト・トールさんの場合はもうちょっと具体的で、“voice”って仰ってるんですよ……“voice in your head”ってね。「あなたの頭の中の声」ですね。これはどういうことを言っているかというと……今この部屋に居る人は黙っているし、今このポッドキャストを聴いている人も黙っていると思うんですけども、それは口を動かしていないというだけであってね、頭の中では皆、喋っているんです。(中略)ただ、それを口と舌と喉を使って発音してはいないというだけであって、皆しゃべっているわけですよ。そういうお喋りを我々はずっとしていて。瞑想をやったことのある人なら分かるように、瞑想の間ですら――つまり、呼吸に集中しなきゃいけないそういう時ですら――ずっと喋っていたでしょう? そうなんですよ。そういうお喋り――“voice”(声)――を「自分だ」とアイデンティファイ(identify)してしまう。それが、我々が普段やっていることですね。

 つまりね、私は普段の法話では「思いに突き動かされる」とかいう言い方をしていますけども、「突き動かされる」という表現だと「私が居て、〈思い〉が後ろに居て、〈思い〉が後ろからプッシュしてくる(押してくる)」というイメージかもしれない。[それだと、自分と〈思い〉とが]分かれちゃうじゃないですか。でも、[実感は]そうではないじゃないですか。「2つのものがあって、その一方が押している」というよりも、(中略)怒りが湧いてきたら、もう〈怒り=自分〉になってしまうんですよ。それ[=怒りなど]をアイデンティファイ(identify/自己同一化)する。つまり、「それを自分だとする」ということですね。「それが私(me)」なわけね……“mind made me”(心によってつくられた私)ですね。

 これは細かく言い始めたらきりがないから今日はそんなに細かくは言えないので非常にまあラフな話になっちゃうけども、結局、我々が「僕」とか「私」とか「俺」とか“me”とか言っているものは、頭の中で喋っている「これ」ではないですか……身も蓋もない[言い方]だけど。皆さん、ポッドキャストを聴いている人もちょっと振り返って……「あなたって、いったい誰ですか?」といった場合[=問われた場合]に、結局は、いま喋っているその“voice”(声)を「自分だ」としている。そこを観てほしいんですよ……これは非常に微妙な作業をしなきゃいけないんですけども、そこいらへんを観てほしい。
 それで、そうなったとき[=“voice”(声)を「自分だ」としたとき]に、それはいつも不完全で、いつも非常に危なくなるから、恐怖というものと「何かを欲しい」というものとが私らのいつも変わらない感情である。つまりこれはどういうことかというと、我々がこの〈思い〉を「自分だ」としたとたんに、それはいつも2つのことしかしないんですよ……「何かを欲しがる」か、「何かを恐れる」か。これは皆さん、自分が何をやっているかをちょっとチェックしてみて下さい。(中略)これは身も蓋もないけど、その通りですよ。
 「欲しがっているか、怖がっている」というのが我々の基本的な感情(emotion, feeling)になる。それだけじゃなくて、我々が何かをするときの動機にもなってしまうんですよ。これは、その通りです。まあ私が「その通りです」なんて言ったって信用しない[かもしれない]けども、皆さんが自分を深く観れば、実は「何かを欲しい」というのと「怖い」というのが基本的な・非常に原初的な感情であって、そしてそれは単に「そう感じます」というだけでは済まなくて、その2つの感情によって突き動かされて我々は生きている[と分かる]。だから要するに、「何かを欲しい、欲しい、欲しい」と求めるか、「怖い、怖い」として自分を守るか、「怖すぎるから攻撃をかける」とか行動はまあ色々出てくると思うんですけども、そういう動機になっている。

 そして、我々は我々の心の中の声を「それが私だ」というふりをしている。そうなると、それがストップがきかなくなっちゃう。そういうのが我々のリアリティではないですか。そう見抜いたときに、実は我々はもう、そこから一歩出はじめているんですよ。つまりこれは幽霊と同じでね、「幽霊」の正体を見破ったら、もう相手は幽霊ではないじゃないですか。結局、我々がなぜ人生で失敗をしてしまうかというと、何かの問題の本質を見抜けないからでしょう? 

 我々は日常生活のなかで「私、私」、「僕、僕」、「俺、俺」、英語だと“I, I”って言い続けるわけですよ。“I am ○○.”とか“I do ○○.”とか言い続ける。「だけど、その〈私〉というのはそもそも何を指しているの?」と問われた場合に、[普通の人は]この心の中の“voice”(声)を指していて、「それが私だ」という理解になった場合に……そしてそれが止まらなくて一日中おしゃべりをしているという、そういうリアリティが観えたら、そのリアリティが観えたということ自体が、そこからの解放の第一歩になるわけですよ。
 エゴについてのエックハルト・トールさんの分析というのはものすごく鋭くて……なぜ鋭いかというと、彼は[エゴの外へ]出ているんですよ。出ている場所から分析しているわけね。他のほとんどの人によるエゴの分析というのが、何がなんだか分からないものになっちゃうのは[なぜかというと、彼らはエゴの外へ]出ていないから、何がなんだか分からなくなる。だけども、そこから一歩出て、エゴが実際に何をやっているのかが観えたらば、ふだん我々が何をやっているのかが非常にクリアーに観えてくる。だから、私がエックハルト・トールさんの分析にやっぱり納得がいくのは、エックハルトさんが立っていらっしゃる場所が……もうエゴの外に立っている。あるいは、エゴを外から観ている。そういう立場から観ているからなんですよ。

 それで、それはどういうことかというと、「自分が『私、私、私』と思っていたのは、この心の中の声のことなんだな。それを『自分だ』と思っていたんだな」と見抜いたら、それはもう見抜きじゃないですか。“realization”でしょう? そう見抜いちゃったら、もう相手の正体を見破っちゃったんだから、だからもうその人は、その心の声を「自分だ」とすることをもう止められるんですよ。

 それで、その人にとって本当の自分とは何かといったらば、そういうことを完全に観ている――“aware”している――方に[本当の自分というものが]移動するわけね。この分析は非常に複雑になるので、またそれは詳しくやらなきゃいけないから、今日はちょっとそこまでは扱えないんだけども、今日のテーマは「エゴ」ですよ。この“voice in our head”(頭の中の声)ですね。普段はそれを「自分だ」としている。そのときに、このエゴというものがどういうふうなはたらきをするのかを今日はみていきたいんですよ。

 つまりね、この正体を見破ってしまえば、そこから自由になることができるわけね。まあ、「敵の正体」と言うのもおかしいけども――「敵」というのは自分なんだからね(笑)――、どんな相手であっても、相手の正体が分かれば、それをどう処理すべきかが分かるじゃないですか。どんなスポーツの試合でも、あるいは何か試験でもね。試験問題が分かれば、あるいはスポーツの試合だったら相手を分かれば――相手がどういう人なのか分かれば――対策が打てるわけですよ。それと同じように、我々が「これが自分だ」と思い込んでいるものと、それを「自分だ」と思い込んだときにどういうふうに我々が生きてしまうのかというパターンを見破ることによって、すべてのパターンをだんだんと打ち破っていくということができるわけですよ。

 それで、これから言うことは我々にはお馴染みのこと。なぜかといえば、我々はこういうことを何十年もやってきているんだからね。何十年もやってきたことを、いま振り返っているわけですよ。なぜかというと、いま我々は単に自己の分析をしているわけじゃなくて、我々は瞑想もしているわけですよ。今日だって、あと1時間もしたら始めますけども。それで、瞑想というのは、普段やっていることの反対ですよね、当然。普段やっていることの反対をしようとしているわけですよ。だから、普段[、瞑想以外の時間に]どういうことをやっているか……その正体を見破ることによって、それとまったく反対のことが分かるわけでしょう? だから、その「まったく反対のこと」ができるわけですよ。
 だけど、これ[=そういう構造]が分かっていないと、普段やっていることとまったく同じことを瞑想のなかでもやってしまうということになる。そうすると、せっかく皆さんが一法庵みたいなお寺に来たり、あるいはどこかのリトリート・センターに行ったりしてこういう瞑想の格好をして、何かいかにも「瞑想してます」というふうに見えても、実は全然そうじゃなくて[=瞑想になっていなくて]、皆さんが会社で働いていたときや家庭でやってきたこととまったく同じことを、瞑想センターやお寺や自分のこういう瞑想のなかでやってしまう。そうすると、瞑想をやる意味というのがもう無くなっちゃうわけですよ。だからそうすると、瞑想が進むということも当然ありえないし。

 だから、こういう話[=この法話の内容]は瞑想をやっている人に分かってもらい易いですね。つまり、少なくとも瞑想をやっている人間だったら――そんなに瞑想がうまくいかなくても――、瞑想で自分がやろうとしていることと普段の自分がやっていることとの違いというのはやっぱり認識しているはずなんですよ。だけどもやっぱり、普段やっていることのモーメンタム(momentum/勢い、惰性)が強いからね……普段やっていることのモーメンタムに圧倒されて、瞑想のなかでもそれに突き動かされるということもあるかもしれないけども。それだからこそね、我々のエゴが普段どういうふうにはたらいているのかを見破って……それでその相手[=エゴ]さえ見破ってしまえば、そうではないあり方というのが観えてきて、「そうではないあり方」をその瞑想のなかで[やっていき]、そしてゆくゆくは日常生活のなかでやっていくということなんですよ。だから、そこを観てください。

 エックハルト・トールさんは仏教用語とかを――使わないことはないんだけども――ほぼ使わないで、普通の英語の言葉だけで表現していますから、我々が普段やっていることの本質が、よけいに観えてきます。
 じゃあ、我々のエゴが普段どうやっているのかというと、さっきも言ったように、我々のエゴは「何かを欲しがる」か、「何かを恐れる」。こればかりやっているわけですよ、普段。それはなぜかといったら……何かを欲しがるのはどうしてかといったら、やっぱり「何か足りない」という思いがあるわけね。「不完全だ」という思い。そして「何かを怖がる」ということは、自分を非常に危ない(vulnerable=非難や攻撃を受けやすい、弱い、傷つきやすい)ものだというふうにとらえているわけですよ。だから、何か不完全だから・何か満ち足りないから何かを欲しがるわけだし、「今、非常に弱くて危ない」。そういう状況だから怖がるわけでしょう? それが我々の非常に身も蓋もない状況で、それが一見するとそんなふうに見えなくても、実際に行われていることはそういうことではないかということですね。

 それで、我々のエゴというのは普段どうしているかというと、いつも何かを求めている(seeking)している。だから、我々は「不完全だ」と思うか「何か足りない」といつも感じているから、もっともっともっと何かを欲しくて、その何かを得ることで「この不完全な自分」を埋めようとしている。

 そのときに、「何かを求める」というのはどこで求めるかというと、必ず未来で求めるんですよ。そこいらへんから先週のテーマと繋がるんですけども、我々は常にどういうふうに生きているかというと、「いつも未来に何かを期待する」。そういう生き方をしているじゃないですか。それは日常のレベルでもそうだし、特に問題なのは、瞑想のレベルでもそうだという話だったでしょう?……先週の話はね。瞑想のレベルで――瞑想をしていながらも――未来に何かを求めてしまうということが根本的に矛盾しているという話だったでしょう?……先週の話はね。だって、瞑想のなかで本来的に・本質的に求めているのは――もうはっきり言っちゃって――ニッバーナそのものなんだからね。ニッバーナというのは当然、時間には属さないんだから・時間を超えているんだから、時間軸のなかでニッバーナを求めるということは根本的に間違いだという、そういう話だったでしょう?……先週はね。
 だけども、我々はもうずっと長いこと――何十年も――日常生活のなかでいつも未来に何かを期待して、未来に何かを求めるということをやってきちゃったんですよ。しょうがないんですよ、もう……そういうふうに生きてきちゃったんだから。これはべつに、[この法話を聴いている]皆さんだけじゃないですよ。全員がそうなんだから。それは日本人だからじゃないんですよ。アメリカ人だって皆そうですよ。それでそれはなぜかというと、エゴだからなんです。今は「エゴ」という言葉を一番本質的[な意味]に使っていますけどね。だから、「エゴイストがどうの」とか「傲慢がどうの」とかいう話ではないですよ。我々の頭の中で常に喋っている声を「自分だ」とすることが、私がいま使っている「エゴ」の定義ですよ。[その定義をふまえてみると、]我々はいつも「何か足りない」と[思っている]。
 私の禅の先生である内山興正老師という方――この方も自分の言葉で表現しようとされた方なんですよ――の非常に有名な言葉にね、「もの足りようの思い」というのがあるんですよ。「もの足りたい」……要するに、満たされないから「もの足りたい」。要するにまあ「欲しい、欲しい」ですね。それは伝統的な仏教用語を使えば「執着」とか「ローバ」(lobha)とかの用語になっちゃいますけども、いま「ローバがどうの」とか「執着がどうの」とか言ったって、「何かいきなり仏教用語で、ピンとこない」という恐れもあるから、内山老師という方はそれを現代の日本語に翻訳し直して「もの足りようの思い」……「もの足りたい」・「満足されたい」という思いというふうに翻訳されたんだけども、[エゴのふるまいは]そのとおりでしょう?
 それで、ここで考えてほしいのは、「いつ、もの足りたいのか」。それは、必ず未来なんですよ。皆さん、これを自分の心のなかで観てください……皆さんの日常のなかで、そして瞑想のなかで。

 そういうふうに、いつも「未来に何かが待っていて、そしてその未来に待っている何かが自分を満足させてくれる。満ち足りさせてくれる」という[姿勢で生きること]が、我々のエゴのパターンにずぶずぶにとらわれているということなんですよ。これを観てください。こういうのはね、話として右から左へ聞いてもあまり意味がないことであって。そうではなくて本当に自分の生活のなかでそうなっていないかどうか。これを観てください。

 そして、「ほぼそういうパターンになっている」ということを見抜いたらば、もうそれはほぼね、自由に繋がるわけですよ。だから仏教の場合には必ず智慧というものと自由というものがいつも同じところにいるじゃないですか。つまり、智慧でもってそれ[=見抜くべきもの]を見抜いたらば、もう或る意味でそこから自由になっているわけでしょう?

 だからそういう、未来とかあるいは次の瞬間とかを待っている――あるいは、待っていなくたって、本当はここで[瞑想として]今、「息を吸っている、吐いている」を観なきゃいけない瞬間なのに心はどこかへ飛んじゃっている・未来へ飛んじゃっている――のがほとんどじゃないですか。そういうリアリティを観たうえでね……そのリアリティを観たならば、それはもう、そういうパターンから抜けているわけでしょう? 抜けたから観えているわけじゃないですか。「ああ、自分の心はいつも未来へ行ってるな」と思ったら、それは今ここで「観ている」わけですよ。それはもう、未来へ行っている心から或る意味で自由になっているわけね。それが自由の第一歩ですね。

 だから、それにはどうしたらいいかというと、その「未来に何かを期待する。次の瞬間に何かを期待する」のではなくて、「今、ここ」という場所に戻ってきて、「今、ここ」で起こっていることに“full attention”――すべての注意をそこに傾けていくこと――ね。だから、呼吸を観るんだったら「吸って、吐いて、吸って」……吸っていることに気がついて、吐いていることに気がついてそれでもう終わり[=正しく完了]なんですよ。

 だから、ここで絶対にやってほしくないのは……「さあ、吸っていることに気がついて・吐いていることに気がつくことによって、何かが起こることに期待する」ということをやってしまったら、もう瞑想は終わり[=失敗]なんですよ。「一生懸命にアーナ(吸う息)とアーパーナ(吐く息)に注意して、そうすることによって、よーし未来に何かが起こるぞ」というふうに期待してしまったら、それは「呼吸に注意する」ということを単なる手段としてしまって、結局この今までのエゴのパターンから抜けられていないわけです。

 だって、これまでは「未来に期待する」・「次の瞬間に何か期待する」というふうにずっと生きてきて、そして、そのパターンを打ち破るために呼吸瞑想をしたはずなのに、その呼吸瞑想のなかにもそういうことを入れてしまうということは、やっぱり根本的に矛盾してしまうんですよ。それだからこそ、「今」というのが重要になってくるわけですね。
 だから、我々がエゴとして生きた場合は、「今」と「未来」[に関しては]、必ず「今」というものを「未来」に到達するための単なる手段として扱ってしまうんですよ。これは、本当にそうですよ。それで、いつも「未来に何かが待っている」わけじゃないですか。「今日は6月15日ですか。明日16日には何か素晴らしいことがある」って期待して。だけども、いざ16日になったらそれはもうぜんぜん期待はずれになってしまう。なぜかって、「6月16日は[その当日になれば]もう『今日』だから」。

 だから、そのパターンから抜けていくためにはね、まず、そういうパターンになっているんだということに気づいたうえで、未来の結果を求めるのではなくて、いま自分がやっていることに、より多くの注意を払っていく。そういうことが、我々のこのエゴの条件付けを打ち破っていく一番の鍵です。そのために今、呼吸に集中する……吸う息を観る・吐く息を観る、右足を観る・左足を観る、体の感覚を観るわけですよ。それは、ただ観ればいいんですよ。観て、それでもう終わりなんですよ。そこで絶対にやってほしくないのは、「そういうことを観ることによって・それを感じることによって何かを得よう」ということ。それだったら、前とまったく同じパターンなんだから。そのパターンを崩す・壊すというのがポイントです。

 今の話をまとめると……エゴ[というものの本質]というのはただ単に「selfishがどうの」とか「arrogantがどうの」とかじゃなくて、もっと本質的なことは……我々の頭の中で常にお喋りをしてるこの「声」――〈思い〉やthinking mindなど、色々な呼び方があると思います――を「自分だ」と思い込む(identifyする=自己同一化する)こと。それが、エゴというものの本質です。それで、もし「エゴが自分だ」としたら、それは非常に不完全であり非常に弱いものだから、エゴは当然、2つのことしかしなくて……その1つは、要するに何かを「欲しがる、欲しがる、欲しがる」。もう1つは、何かを「恐れる、恐れる、恐れる」ということに、どうしてもなってしまう。そこからの当然の結果として、生き方としては常に「次の瞬間か、あるいは未来に何かを期待する」というふうな生き方になってしまう。つまり、この「今」というのが、未来へ到達するための手段になってしまう。それだからこそ、このパターンを突き崩すために、我々は完全に「今、ここ」という場所に注意のすべてを傾ける。だけども、[注意を]傾けたとしても……息を吸うこと・吐くことに完全に気づいているんだけれども・気づくことに全力を尽くすんだけれども、それは「吸うことに気がつく・吐くことに気がつくことによって、何かを得よう」ということではない。「何かを得よう」というんだったら、今までのパターンと同じ。そういう話です。

3 of 3へ続く)