山下良道法話:「からだという大地に根を下ろす ― Inner Body Awareness」(1 of 2)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2008年9月28日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=453
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

(途中まで略)

 先週の法話の内容が「自分の中の宇宙」ということで、“Inner Space”ということについてお話ししたんですけども、それは実際には、“A New Earth”という本*1の第8章の“The Discovery of Inner Space”というところを解説したんですけども。
 今までは、1日で1章というかんじで進んできたんですけども、今日は進まないで、同じ章をやります。“The Discovery of Inner Space”ね。というのは、この章のなかに非常に重要なことがもう1つあるのでね、それについてお話ししたいと思います。それが、“Inner Body Awareness”ということなんですよ。

 今日の題は「からだという大地に根を下ろす ― Inner Body Awareness 」。いつもね、ティク・ナット・ハンさんとエックハルト・トールさんを並行して解説しているんですけども、(中略)本当にね、これ、パラレルなんですよ……驚くほど。今日は私は“Inner Body Awareness”について話したいと計画してたんだけど、それでこの『ティク・ナット・ハンの抱擁』をみていくと、本当にドンピシャリの章があってね。べつに、エックハルト・トールさんとティク・ナット・ハンさんがお互いに相談し合っているわけもないんだけども、まったく同じ問題意識で。

 それでまあ、もちろんね、ティク・ナット・ハンさんはもちろん本当に仏教のお坊さんですから、まさに仏教の文脈のなかで、しかも実践の面でも――仏教の実践の伝統のど真ん中で――これを仰るから、非常に良いですし。しかもまあ、現代の人に分かりやすいかたちで仰いますので。本当に、エックハルト・トールさんとティク・ナット・ハンさんがお互いに補い合うようなかたちで進んでいくのが非常にまあ、有効なんじゃないかと思っているんですけどね。

 それで今日のテーマは、そういう“Inner Body Awareness”(内なる体を意識すること)。(中略)自分の体を内側から感じること。

 この「体」というものをね、現代の人は非常に偏った考え方をしていて、今は「体」というのはどこでも話題の中心にあるじゃないですか。要するにまあ、一番単純に言えば「健康」という意味でね……「病気が怖い」、「病気をなんとかしたい」、「体を健康にしておきたい」ということで、「じゃあ、どういう食べ物を食べたらいいんだ」とか「どういうエクササイズをしたらいいんだ」とか「どういうサプリメントを摂ったらいいんだ」とか……「体、体、体、体、体」と言うんだけども、じゃあ本当にその「体」ということを分かっているのか? 「体」とはいったい何なのか? というぐらいのところから話を始めなきゃいけなくて。

 そしてそれをね……まさに“Inner Body”ということは“outer”の反対だから、「内なる体」ということは[普通の意味での、肉体としての体ではない]。要するに、私らが普通に思っている「体」というのは、こうやって自分の体を触れるし、他人の体も、触ったら筋肉なり骨を感じるじゃないですか、お互いにね。それでだから、「体って、これだよ、これだよ」ということで、世間での話は一応それで済んじゃうわけですよ。それ以上に詳しいことは言わないわけね……普通のテレビの健康番組を作るというレベルではね。そしてその健康番組を観るというレベルでは、「どういう食べ物を食べたらいいんですか」、「バナナを食べたらダイエットになるんですか」……それでバナナが売れすぎて消えちゃうとかね。それから、「どんな薬を飲んだらいいんですか」とか、「どんなエクササイズをしたらいいんですか」とか、「どうしたら病気を予防できますか」とか、まあそういうレベルで体のこと――体に関する情報――は溢れかえっているんだけども、「じゃあ、体っていったい、何なの?」となると、とたんに[明確な答えは]分からなくなってしまう。というか、少なくとも、「体って何なの?[という問いの答えが]分からなくなってしまう」ということが分かるところから我々の話は出発しているんだけども。

 何て言うのかな、今ここでやっていることの難しさというのは……普通みんなが一応考えて、「一応それで終わり」になっていることを、もう一回考えようというスタンスでやっているから。だから、「体」といった場合に、世間一般は「体」ということで既に共通の理解があるわけよ……「体って、このことだよ」ってね。それで、健康だけども時々は病気になって、[世間の関心は]「病気にならないようにするにはどうしたらいいのか」ということなんだけども、「単なるこれ[=普通の意味での、肉体]が体なのか?」というところぐらいから今日の話を始めて、それでいきなり“inner”(内なる)っていう言葉が付くわけね。「内なる」ということは「自分のなかの体」ということなんですよ。ということはどういうことかというと、「自分のなかの」ということは「自分の内側から感じる体」。

 そういうことを言うと、それを聞いた人は「私だって、いつも内側から感じてますよ……お腹が痛かったら『お腹が痛い』とか、疲れたら『ああ、疲れた』とか、そういうふうにして自分の体を感じるということはしている」と思うかもしれないんですけども、ところがね、この“Inner Body”という問題提起をなぜしなきゃいけないかというと、普段は我々のほとんど――そしてほとんどの時間――は、自分の体なんか、感じてないんですよ。自分の体なんかまったく感じてないときに、ときどき「お腹が痛い」となって、そこで初めて「ああ、自分は胃腸というものを持っていたんだ」とか、あるいは何か筋肉が疲れちゃったりとか、あるいは何か怪我をして「痛い痛い」とか、何となく熱が出てきたとかいうふうに、体が不調になったとき――痛みとか気怠さとか不快感とか、あるいは痒いとかいうような非常に強い感覚が現れたとき――に初めてそれを意識しているだけであって、べつに痛くもない胃腸のことを感じる――(中略)極端な状況・極端な状態ではない、普通の状態の普通の体を感じる――[ということは普段はしていない]。「あなたの右手を感じてますか?」……感じてないんですよ、普段は。右手のことなんて忘れてるんですよ。もちろん右手に何か怪我をしたら「ああ痛い痛い」って感じるし、何か右手を使いすぎて疲れたら感じるけども、普段の何もしてないときの右手を感じるということは、我々はやっていないんですよ。痛くも痒くもない、怪我しているわけでもない、そういう右手、そういう右の腕、右の肩、右の足、右のつま先、右のかかと、右の膝、右の太股……というものを内側から感じてください。こんなことは、ヨーガをやっている人以外はまずやらないわけね。
 ヨーガだったらもちろんね、アーサナをキープしながら体を感じるということを、まあ訓練としてはやりますけども。まあそれだからね、今のヨーガブームというのは、そういうことによって初めて自分の体を内側から感じたときに、今まで感じたことのないような、自分がまったく知らない世界が現れる。だから、自分のまったく知らない世界をヨーガを通して発見したから、今あれだけ多くの人が「ヨーガ、ヨーガ」と言っているんだと思うんですよ。

 今のヨーガブームは何か「美容と健康のために」とか、ちょっとアレしたとらえ方をする人も居ますけど……そういう面も無きにしもあらずだけど。日本だけじゃなくて全世界でヨーガなり気功なりを本当に多くの人がされているというのは、まあ1つにはもちろん健康のためとか、あるいは美容のためとか「体を良くするため」とかという……それで実際に効果があって、それでやっているんだと思うんですけども。だけどね、――その人たち自身も感じてないのかもしれないけど――本当を言うと、ヨーガを通して・気功を通して、自分が今までまったく知りもしなかった世界が開かれる。その世界というのは、自分の体を内側から感じることによって初めて開かれる世界なんですよ。

 じゃあ、なぜそういう世界を今まで知らなかったのかといったらば、それは非常に簡単なことで、自分の体を内側から感じるなんていうことは……そんなことは小学校で教わらなかったじゃないですか(笑)。中学校でも教わってないですよ。医学部でも、こんなこと教えてないですよ。病院行ったらこんなこと教えてもらえないし、病院の先生だって、そんなこと訊かないです……「お腹が痛いですか。どんな具合に痛いですか」ということは訊くかもしれないけどね。だけど、「あなたは右手を内側から感じますか」とかね、そんなことはお医者さんは絶対訊かないし……病気ではないんだから。だから、自分の体を内側から感じるという概念そのものを、普通は持ってないんですよ。だから、概念そのものを持ってないから、そんな話を聞いたって、「体を内側から感じる? 何ですかそれ?」って[いう反応になる。つまり、話の意味が]分からないんですよ。分からなくて当たり前で……だってそんなことは、世間でも話されていないし、話題にもなっていないし、みのもんたさんも取り上げないし。

 だけども、そういう人たちが今……ヨーガとか気功とかをやって、ヨーガとか気功だったらアーサナとか色んな動きはやるんだけども、そのときにヨーガの先生・気功の先生が強調するのはね、やっぱり自分のなかのそういうエネルギー――「プラーナ」とか「気エネルギー」――を感じるということであって、ということは要するに「体を内側から感じる」ということを教えると思いますけども。そうすることによって初めて――生まれて初めて――、自分の体をそういうふうに感じた人がヨーガをやっている人たち・気功をやっている人たちの中に多く居て、そしてその人たちが初めて、まったく知らない世界[=従来は知らなかった世界]に入って、そしてその世界のなかでは非常に安らぎに満ちて・非常に喜びに満ちているということを感じているから、だから今、ヨーガと気功が全世界的に人気があるんだと思うんですけども。

 ただね、そのときに、いちばん大事なことは……そのヨーガのアーサナをやる、あるいは気功の呼吸法とか――あるいは太極拳でも何でもいいんですけども――、そういうことをすれば[自分の体を内側から]感じられるんだけどね、そういうことをしないと自分の体を感じられないのか? というと、もちろんそんなことはないわけですよ。ヨーガをしなくたって、気功をしなくたって、いま普通に、普通の生活のなかで……普通に電車のなかで・普通にスーパーマーケットで買い物をしているときに・普通に会社のオフィスで事務を執っているときにでも感じられる。というか、もう一歩進めて言えば、そういうなかで感じる必要がある。あるいは、そういう状況で感じるプラクティス(実践)をしていかなきゃいけない。なぜそれをしていかなきゃいけないかは、ゆっくり話していきますけどね。そういうことなんですよ。だから、ヨーガとか気功というのはあくまでも、そういう世界へ入る1つの入口であって、そういう入口を通っていくと、今まで全く知らなかった或る世界がそこに待っていて、その「全く知らなかった世界」へは、もっとダイレクトに24時間入れる。そして、24時間入れるということは、その世界と24時間コンタクトをとっていたほうが、人生をはるかに楽に生きることができる。そういう話なんですよ。

 もうちょっと前振りしますけど……。ふだんの普通の人たちが、「自分の体を内側から感じる」という概念すらも無くて……だから、そういうことをしようとも思ったことがなくて、そんなことが健康法としてもあるいはエクササイズとしても頭にも上らない[のはなぜなのか]といったならば、我々はあまりにも、頭が作り上げた世界のなかにズブズブになっていってしまっている[からである]。我々は頭がこしらえた世界のなかに入って、そのなかで生きていて、そのときに「自分の体を感じる」ということは、まあ無い。もう、それをすっかり忘れてしまっている。すっかり忘れてしまっているから、その体のことを思い出すのは、その体に非常に強い異変が起こった時のみなんですよ。その非常に強い異変というのは痛みであったり、病気であったり、怪我であったり。そういう……ボーっとしている人には思い切って頬っぺたを叩かないと目が覚めないように、体のことをすっかり忘れてしまった我々に体のことを思い起こさせるには、ものすごく強い警告音――アラーム――が必要でね、そのアラームが、痛みであったり病気であったりするわけですね。

 そのぐらい我々は、体のことをすっかり忘れてしまっている。その「体のことをすっかり忘れてしまっている」というところに我々の惨めさなり悲劇なりがもちろんあるんですけどもね。だから、この「体を内側から感じる」ことというのは、何か特殊な訓練でもなくてね――(中略)要するに「一部の人だけがやっていればいい」ような訓練じゃなくて――、「体を内側から感じる」ということをすべての人が・すべての人間がやらなければならない。なぜかといえば、それをしないかぎり、人生は惨めです。何て言うのかな……これはね、もうそろそろ我々は認めるべきであってね……こないだも話しましたけどこの『鬱の力』なんていう本が今、売れているみたいですけども、まあこの五木さん(著者の五木寛之氏)の言うことも分かるわけですよ。「一億総鬱時代」っていうね……「これから五十年、日本人の行く道を照らす、まったく新しい鬱の思想」っていうね。まあ、私がこれに全部賛成か、とかいうそういう話ではなくてね。

 だけど、何て言うかな――もうはっきり言いいますけども――、我々の人生というのは惨めにならざるを得ないんですよ。もう、惨めになるふうに設計されてるのね。それが人生なんですよ。だから、「人生というのは惨めなもんなんだ」。[そのことが成り立つには]もちろん条件が付きますよ……「真理を知らなかったら」という[条件が付く]。だから、「真理を知らなかったらば、人生というのはどこをどう足掻いたって、惨め」。「お金が無かったら惨め」じゃないですか。だけども、「お金があっても惨め」なんですよ。「仕事がうまくいかなかったら惨め」だし、だけど「仕事がうまくいっても惨め」なんですよ。「女性や男性にもてなかったら惨め」だけど、「もてたらもてたで惨め」なんですよ。ね? そんなことはもう分かってるじゃないですか……人生何十年も生きてきたらね。そういうことを、大人は子供たちに教えなきゃいけないんですよ。じゃないと、――何て言うのかな――いつまでたっても我々は幻想を抱いてしまう。だから、いま私が言ってるのはもちろん、「真理を知らなかったら」という条件が付くわけですよ。「真理を知らなかったらば、この人生というのはどうしようもなく惨めだ」。どこをどうアレしてもね。それを大人が子供にはっきりと教えないから、それで子供たちは「もしかしたら、お金があれば惨めじゃないんじゃないか」、「もしかしたら、女性にもてたら・男性にもてたら惨めじゃなくなるんじゃないか」、「もしかしたら、美味しいものを食べたら」、「もしかしたら……」ってね。だけど、大人はもう分かってるじゃないですか……そんなことが惨めさを全然解決しないということをね。だからそれをね、大人は子供たちに教えなきゃいけない。もちろんね、それは絶望を教えるんじゃないですよ。そうじゃなくて、「そういうところに解決策は無いんだ」ということをはっきりと教えたうえで、はっきりと観たうえで、そのうえで、本当の解決――みじめな人生を、本当に解決する方法・その真理――を教えていかなきゃいけない。それをやらなきゃいけないんですよ、我々は。

 だから……今の日本というのは子供もみじめだし、若い人もみじめだし、働き盛りもみじめで、老人もみじめで、皆みじめなんですよ。五木寛之さんは「一億総鬱時代」と書いていますが、これをもっと言えば「一億総みじめ時代」じゃないですか。だから、「一億人が皆みじめ」。なぜかといったらもちろん、真理から離れてしまったからなんですよ。たったそれだけのことなんですよ。じゃあ、どういう真理から離れてしまったのか。どういう真理が、我々のみじめさを本当に解決してくれるのか。そこを、本当にもう我々はやっていかなきゃいけない。もう、ごまかしは効かないですよ。

 それで、(中略)「一億総みじめ時代」をどう乗り越えていくか。それはもちろん、その惨めを解決するのは真理以外のなにものでもないんだけども、「その真理というのはどこにあるのか?」ということは、逆に言うと、「真理から離れていた我々は、どう離れていたのか?」。そこにすべて、「体」ということが関係してきます。というか、「体のことを忘れていた」ということが「我々は真理を忘れていた」ということとほぼ同じ意味になって。だから、自分の体を思い出すということが「また真理を思い出す」、「真理に帰る」ということに直接つながります。いいですか?
 じゃあ、なぜそんなに「体」というものが大事なのか。体のことを忘れていたということ、そして体のことを思い出すということがなぜそんなに大事なのか。今日はそこをみていきたいと思います。

(中略)

2 of 2へ続く)