ニュースの深層evolution:「恐山の禅僧」に日本社会の現代を問う(2 of 5)

※放送日:2006年12月5日
※話者:南直哉(みなみじきさい/禅僧)、宮崎哲弥堤未果

※〈1 of 5〉からの続きです。音声の全体を通して聴きたいときはこちらをご参照ください。
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

:お坊さんみたいなことをやってると、色んな悩みとか問題を抱えている人から相談を受けたりするんですよ。あるいは私が本を書くと、そういう人も読んでくださるわけですわ。
 書いたり喋ったりする以上は何か答えがあるはずだと思ってみんな私に訊いてくるし、本は読むんですよ。ところが私は、「これが正解です」とかっていうのは、いまひとつ信用できないところがあるんですよ。つまり「これが分かればすべて分かる」とか、「人が生きてる意味」とか、「人の生き方みたいなものはこれで決まりだ」みたいなことは昔からどうしても言いにくいんですね。
宮崎:でも宗教家っていうとね、例えばテレビを見てると、占いをやって「そんな生き方していたら地獄に堕ちるよ」とかいうようなことを仰る方がいますね。あるいは、「あなたのオーラはどうもおかしい」みたいなことを言う人いますよね。ああいうもんじゃないんですか? 宗教家っていうのは。
:私はですね、度胸がないせいかもしれないですけれども、ああいうことをズバッと言うこと自体にひとつは不安というかつまり「それほど簡単に物事は済まんだろう」っていうのがすぐ頭にあるんですよ。というのは、人間が生きるっていうのは実はもうそれ自体が極めて不安で、あるいは苦役に近いことだろうと思うんですよ……存在するっていうことがですよ。自己であるっていうことが。それで、それはたまたまそうなのではなくて、生きているということ自体にすでに内在している問題で、完全に解消することはまず難しいだろうと思うんですよ。
宮崎:でもそれは仏教の考え方としては根本的な……つまり「生は苦である」と。「生きることは苦しみである」ということはブッダが――ゴータマ・シッダールタが――いちばん最初に発見したことですよね?
:そうです。しかもそれは、例えば「ここが痛い」とか「あそこが苦しい」とかいう問題ではないと思うんですよ。ブッダが言いたかったのは。それは生きることであり存在すること自体なんですわ。
 人生、楽しいこといっぱいあるじゃないですか。面白いこともある。愉快なこともある。しかしブッダが言いたかったことは、それを全部ひっくるめた、生きるということ自体の問題だろうと思うんです。
 私が思うのは、生きてる意味とか存在している根拠みたいなものそれ自体を人間が出して見せるということはほとんど不可能に近いんじゃないかと思うんです。というよりむしろ、自己であるっていうことは最初から根拠が欠けてるんじゃないかと思うんですよ。それをむりやり根拠があるかのごとく言い切るというのは、ものを返って見えなくするんじゃないかとずっと思ってたんですよ。
宮崎:ただね、1980年代ぐらいから世の中が豊かになって……昔は生存条件が極めて厳しいので、戦後の日本人は一所懸命に食べることだけに汲々として、「食べること、生活環境がもっと豊かになること」っていうのに邁進してきたわけ。ところが1980年代ぐらいになって、全ての物が物質的にはだいたい満たされた。まあ今でも失業とか借金を抱えて苦しんでいる方はいらっしゃるけれども、まあだいたい平均的な水準だと達成されたわけですよね。そうすると今度はどういう問題が出てくるかというと、「私とは誰なのか」。つまりこれは私探しの問題ですよね。未だにこの問題はずっと引きずられて、世代間から世代間に手渡されていっている問題……解消しないままにね。それでそれにはもう、「断念する」と。「私は何か」、「自己とは何か」とか、自己の存在の根拠を問うっていうことは、答えが出ないんだというふうに考えてしまう?
:一発で済ませる答えっていうのは無いと思った方がいいですね。しかしながら課題は残っているんですよ。つまり「私」は居るんだから。だから「どうやって生きていかなければいけないか」。課題は残っている。むしろ課題というか問いが残っていることの方が重要なんです。この大きな問いに向かって、あまり簡単な答えを出すことの方が間違いだと思うんです。
 さっき仰ったように、例えば極端な貧困とか生活の苦っていうのは今もあります。それはもちろんそうですが、さっきの対比で言えば、「生存することの危機」と「存在することの不安」は別で、これを比べてどっちがより深刻かっていうのは意味がない話なんです。だから、仰ったような若者の非常に深い不安と、あるいは非常な生活苦とどっちがその人にとって苦しいかなんて比べたって意味がない。存在の不安で苦しんでいる人っていうのは現に居るわけで、その人の不安をよく見ないで、あるいはそれを共有しないうちにその人に、どこかからのご託宣みたいに上から「あんたはこうなんだ」と言うのは、ちょっとやりすぎというか私は共感ができない。それよりも、その存在の不安こそに意味があると思うんですよ。あるいはその人の苦しみのなかに……そのものに意味があると私は思うんですよ。それをはっきり見ないうちから処方箋をパパッと書くみたいなことをやるのは仏教の立場でもブッダの立場でもないと思うんですよ。
 それでさっき仰ったこのような本[=『老師と少年』]をあえて書こうと思ったのは、仏教書みたいなものを書いてしまうと、最初から答えを要求されるような気がするんですよ。これは僕の一方的な思いかもしれませんが。しかし僕は一貫して、答えることよりも問いをしっかり見ることの方が大事だと思ってたんですよ。ですからそれが分かる本を書くには、むしろ仏教の言語から少しずれたほうがいいのかなと思って書いたんです。
宮崎:これを読むとね、まあある意味で、少年の問いかけっていうものを老師は或る時には先取りしながら、ある時にはあえて分からないふりをしながら、あるいは包み込むようにしながら……ある意味では常にはぐらかしているように、脱臼させているように見えるんだけど、これはある意味では禅問答に似ているというふうに見る人もいるかもしれないけど、やっぱり禅宗でいらっしゃるので、そういう思考様式が反映しているんですか?
:問題にどう立ち向かっていくかっていうことは、老師が教えちゃ意味がないんです。それはここにも書いているように、方法は少年が自分で見つけるしかないんですよ。この問答で老師がやろうとしているのは問題を明らかにすることであって、簡単に答えを出すなということを言いたいんだろうと思うんです。そして「あなたの苦しみには意味がある」と。「そっちに意味があるんだ」ということを言いたいんだろうと思うんですよ。
 つまり今のいじめの問題もそうなんですけれども、自己であるっていうことは「負わされる」わけですから我々は。肉体もそうでしょう? 命名という行為によって社会的な自己も「負わされる」んですわ。負わされるということで立ち上がるんです我々は。誰か受け取る主体があって、「その名前でいいですよ」、「この体でいいですよ」というわけではないじゃないですか。つまり、負わされるということで立ち上がるわけですから、最初から「人」は負荷がかかっているわけですよ。しかも自分の責任ではない。そうするとたぶん人間は最初から、自己の存在根拠とか存在理由をめぐる闘争のなかに入ってしまうんです。自己の根拠なり居場所をめぐる闘争のなかに入ってしまう。
 最初にその闘争を助けるというか、そうやって生まれてきた人間の最初の力を与えるのは、生まれてきたってことを全面的に喜んでくれる誰かしかないと思うんです。それが例えば本当だったら、――あるいは今でも大抵はそうでしょうけれども――両親、はっきり言えば母親なんですわ。ところがこれが最初でこじれると、闘争の基礎資本を欠いてしまうから、あとが非常にきついんだろうと思うんですよ。
宮崎:立ち上がることができない。
:そうすると、ここを埋めるのに、根拠をめぐる闘争となると何かで埋めなきゃならないですから色んな工夫をする。そのときに、ある人たちは他者に暴力的な行為を加えたり他者を排除することでむしろ自己の力を備給するという力学が人間関係のなかではたらくんじゃないのかなと思うんですよ。
 というのはね、いじめの現場を見てるわけじゃないですけど、私の経験から言って、いじめる人間は必ず自己正当化をするんですよ。「相手が悪い」んですわ。しかも必ず[、いじめる相手は]一人なんですよ。それでこっちは共同なんですよ。それで相互承認するわけですよ。「そうだそうだ」って。つまりあの形は、自己承認をめぐる闘争のなかにある非常に切ない形態の一つだと思います。
 だから僕はいじめの問題で一番強い関心があるのは、いじめる人間がどのような存在の仕方をしているかなんです。いじめられる側は絶対悪くないんです。この人は救ってあげなければいけない。いじめとか差別の問題は、自己が存在するという根元に食い込んだ問題ですから、個々の差別の問題や個々のいじめの問題は当然解決しなきゃいけないし解決できるでしょうけれども、人間の行為としてのいじめと差別を根絶するということは実は大変難しいか、ほとんど不可能に近いだろうと思います。

3 of 5へ続く)