ニュースの深層evolution:「恐山の禅僧」に日本社会の現代を問う(4 of 5)

※放送日:2006年12月5日
※話者:南直哉(みなみじきさい/禅僧)、宮崎哲弥堤未果※〈3 of 5〉からの続きです。先頭はこちら。音声の全体を通して聴きたいときはこちらをご参照ください。
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

宮崎:うん。ただね、それはやっぱり、色んな国――まあアメリカ・ヨーロッパならアメリカ・ヨーロッパでいいんだけど――それっていうのは、生き方の作法みたいなものを規定する……いちばん底の部分で決めているものに、宗教は欠かすことができない。どう考えてもアメリカもヨーロッパもキリスト教社会であるということは間違いない。もちろん、近代社会っていうのは古層のキリスト教を否定して出てくるんだけど、積み上げられてるというふうな見方もできるわけだよね。日本ってそういう部分って無いんじゃない? 例えば仏教はどういうふうに、そういう事業に関わっていくのか?
:僕の考えでは、日本というものは昔から血縁とか地縁というものを土台に共同体を作って、近代国家までその土台で作ってしまった稀有な国家だろうと思うんですよ。そうすると共同体の一機関ですね、「人」というのは。「私」というのは。それでそれが不自由だろうが居心地が良かったんだろうと思うんです。だから保ってきたと思うんですよ。
 私は、「個人」というものと「私」――「滅私奉公」の「私」――は別のものだろうと思うんですよ。「私」というものは共同体のなかで規定されるでしょう。滅私奉公って言うくらいだから。少なくとも日本語では。しかし「個」は共同体の機関ではないんですよ。さっき仰ったように、自分が自分であるということだけの意味を自覚するには、別の何かに照らさないと見えないじゃないですか……鏡で見ないと自分の姿が。それがたぶん仰ったように西洋ではキリスト教だろうと思うんです。
宮崎:そうですよね。
:そうすると、ある意味で「個」の共同体みたいなものを作るんだったら、どうしたって鏡が要るだろうと思いますね。
宮崎:その鏡が宗教なわけだよね……。
:そうならないとまずいだろうと思いますね。
 ところが、私の感じでは、そういう役割をかつて日本で果たした宗教は――唯一例外と考える鎌倉期の仏教者の教えを別にすれば――ほとんど無いんじゃないかと思いますね。
宮崎親鸞や、道元や、日蓮といった人たちですね。
:そうです。あの時代ですね。あの時代に出てきたあの人たちがたぶん日本の歴史上空前絶後の普遍的な理念……もっと言えば「個が個を自覚する」ということを可能にする理念を提出した唯一の思想家群だと思うんですね。
 ところが今、状況は同じで、そういうものが要るんじゃないかと思いますね。もし共同体を作るんだったら何をテコにするかといったときに、「宗教だけ」だとは言えないと私は思いますが、私はお坊さんですからあえて言えば、仏教の或る部分は使えると思いますね。
宮崎:或る部分とは?
:それはつまり、自分が生きてることの意味それ自体を自覚したり考えたりするときの大きなテクニックになると思います。
宮崎:それが『老師と少年』のなかに書かれてるんだけれど……と言いたいわけね?
:いや、そこまではそれは言えてないと思いますよ。
宮崎:この『老師と少年』の中に「道の人」っていうのが出てきます。これは明らかにブッダのことですね?
:そうです。
宮崎:まさにブッダの生きた時代……道の人が生きた時代っていうのは、実は今の日本とかなり似てるんじゃないか。
:同じです。手前味噌ですけど、ブッダの生きた時代と、鎌倉仏教……道元禅師の時代と、我々の時代は似てると思う。だから私はコミットしたんです。
宮崎:うん。そこでは単純に答えは出ないとしても、どういう取っ掛かり……思考の取っ掛かりで踏み込んで行けるんだろう?
:小さくてもいいんですけどね、何でもいいんですけれども、仏教なら仏教をめぐって人間関係を作る努力を私はしたいと思いますね。だから本を出すのもその一助でしょうけれども。
 つまりその、これは「教え」なんですから、真に受ける必要はないんですよ。ですが、教えとして残ってるものを考えて参考にしたり、色々とそれを元にして縁を広げていくっていうことは不可能ではないと思うんですよ。それでこの試みがより拡大して深化していくことに私は望みを賭けているんですけどね。
宮崎:なるほど。
 アメリカでもね、最近――最近というかかなり前からそうなんだけど、鈴木大拙なんていう人がいてね、禅を広めて――“Zen”っていうと英語でも通じるわけですけど、どうですかアメリカ社会の宗教的な基礎みたいなものは。あるいは何か仏教的なものに触れたりしました? アメリカ時代に。
:仰るように、やはりキリスト教がメインでしたね。それで、この『老師と少年』に書いてあるように、神様があえて答えをくれないで、「悩み続けなさい」っていうようなところとはキリスト教ってちょっと違うような気がするんですよね。
 ただ、今ってマニュアル本がすごく売れたりね、ボタンを押すと答えがポンと出てきたりっていうのに慣れちゃってるじゃないですか。そうすると『老師と少年』は読者にとって「物足りない」っていう声もあったりします?
:もうあらゆるところから批判されているのはですね、とにかく「ストレスのたまる書物だ」と(笑)。「何が書いてあるか分からない」なんていうのは良い方で、「ストレスのたまる書物だ」って言われますからねえ。ですから、ああ申し訳ないなと思うんですが、誰でもね――ワンフレーズポリティクスじゃないですけど――「一発で何か教えてもらいたい」っていうのはあるんですよ。あると思うそれは。「これだけで大丈夫です」っていうね。簡単ですからね。だからそういうことを言いたくなるときもあるんですけども――それで、もしそれがやれたら僕も教祖になれるんじゃないかなと思うんですけど(笑)――それはやはり人を幸せにはしないと思いましたね。
 というのは、教養がないから或いは知的レベルが違うから分からないんではなくて、原理的に分からないんですよ。つまり「なぜ生まれてきたか」という問いは、考えが浅いから分からないんじゃなくて、原理的に分からないんですよ。じゃあ「なぜ分からないのかな?」というところが問題で、これはもう引き受けるか引き受けないかだけの問題だと思うんですね。
 ですから私は、ブッダも色々読んだんですけれども、確定的な回答なんざ何処にも無いんですよ。
宮崎:無い。
:うん。
:無いんですよ。とにかく「何かしら善なるものを求めて私は出家した」って。「何かしら善」って言われたって(笑)。しかしこの言葉は重い。重いんですよ。つまり、我々が何か答えを出すでしょ、出したとしても、その答えは標識にはなる。しかしゴールはひけない。標識にしかすぎないものをゴールと言ってはいけないんですよ。じゃあ標識の役割は何か。それは、「その人が正しい道を歩けるかどうか」なんですよ。じゃあゴールは何処にあるのか。それは「立ち止まったとき」ですよ。と僕は思う。
宮崎:なるほど。
:ですから、僕は或るところで言って非常に誤解を受けたんですけれども、――私はキリスト教のことをあえて言いませんが、あるいは一神教のことをあえて言いませんが――仏教は「生きるテクニック」なんですよ。その人が、生きてることに深い実感があって、「ああ、こういうもんかな」って分かればそれでいいと思うんです。その助けになればいいと思う。それだけです。ですから私は、「そういうふうに俗化させて言うからおまえはだめなんだ」って或る老師から怒られたんですけれども、涅槃っていうのはですね……この世で涅槃が起こるとすればたぶん、「ああ、ブッダじゃないが、やるだけのことはやった。思い残すことは無い」ってところまでが、この世に起こる涅槃ですよ。つまり、死の受容ができるとすればそこだけだと思うんです。そういう生き方ができればいいと思うんですね。
宮崎:あなたはこの『老師と少年』のなかで老師に言わせてるんだけど、「生きるか死ぬかっていうのは選択の問題でしかない」と言ってますよね。じゃあなぜ死なないのか。取り立てて理由があるわけではなくて……。
:無い。
宮崎:「生きるという決断をするんだ」と。そう言ってるよね。これはどういうこと?
:だってすごい誘惑じゃないですか? 一発必殺のジョーカーカードですよ。死ぬっていうのは。だから、いじめを受けてる人だって私分かるですよ気持ち。しかしそれでもいけないんですよ。その理由は無いんです。そう言い続けるしかないと私は思いますよ。これは賭けなんです。責任取れない。しかし言う責任があるんです宗教家には。他の誰も言えない。宗教家しか言えない。だから思いこみですからね、はっきり言えば。「生きてたほうがいい」なんていうのは。しかし誰かが言わんといかんのですよ。それを言うのが宗教だと私は思う。

5 of 5へ続く)