南直哉・茂木健一郎対談:「脳と癒し」(5 of 5)

※話者:南直哉(みなみじきさい/恐山菩提寺院代)、茂木健一郎

※とき・ところ:2005年6月3日 朝日カルチャーセンター(東京・新宿)

※出典:[full]南直哉さんとの対談〜茂木健一郎の講義 - YouTube
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

4 of 5からの続きです。先頭はこちら。)

質問者3:「ずっと永平寺で修行してると傲慢になってくる。けれども一面では、出家修行をしないと仏教は分からない。だから完全な出家制度を日本で打ち立てたい」というようなお話がありましたが、その「一面……」というところと「出家制度が必要だ」というところについて、もう少し詳しく教えて下さい。

:ある種の自己相対化をする視点が要るんですわ。日常生活で生きてきた自分の有り様を一挙に外側から見る目というのが必要で、これは知的な営みというより、経験そのものを切り替えないとだめなんです。
 生活や行いを変えないかぎりは、人間の考え方は変わらないですよ。生活の様式とかいったものをドラスチックに切り替えないと、人間の頭というものは切り替わらない。これは私の実感です。その意味で大事なんです。と、僕は思う。
 だってねえ、あれは異常な世界ですよ。朝三時半に起きてお粥食って生きてるなんてね……。それで何をするかといったら、座禅ですよ座禅。生産活動にまるで結びつかないです。手も足も出ない状態で、やっている。
 ところが、おそらく人間の意識というのは、向目的――「何かのために何かをする」・「手段と目的をはっきり決めて、それに向かっていく」――あるいは取引と競争というような世界で自意識というものは強くなる。しかし、座禅の最中は取引もへったくれもないわけです。
 そうすると、ああいう生活環境なり生活の様式のなかでしか実感として分からないことがあって、そこを体験すると、それまでの自分とか一般社会での人間の有り様がクリアーに見えるときがある。それが、私にとっては――私にとってはですよ――非常に大きい。
 座禅というのは土台で、「そこから、ものをぜんぶ見直そう」と。一回リセットをかけるんです。リセットをかけて、プログラムを書き換えようっていう話です。リセットをかけたときに、それまでのプログラムが見えるんです。
 それまでのプログラムがよく見えないと、次に自分で書き換えられないでしょう? 書き換えモデル――「こう書き換えればいい」という教え――はあるが、自分のプログラムとしてやるには、それまでの自分のプログラムをはっきり相対化しないと書けない。だから私は修行の空間というのは必要だと思う。
 日本でもね、タイみたいに一時出家する若者が居てもいいし、定年で出家する人が居てもいいと思うんですよ。それは生き方の一つの知恵として勧めたいと思う。一生出家する人が居てもいいけど、臨時出家する人が居てもいいと私は思うんですね。というようなことですよ。

質問者4:例えば解脱を目的とした修行という場合に、その解脱をする主体というのは個人――自分――なんですかね? 出家をする人は個人の内面の問題意識から出発して出家をするじゃないですか。それが、どこで「衆生を救う」みたいなところに変わるのか? そして、解脱をする主体は何ですか?

:僕のアイデアでいいですか?
 もちろんブッダも自分の問題から出発しているんですから――仏教の成り立ちからいっても、インドで都市社会が興ってからですから――徹頭徹尾、最初は個人の問題です。
 しかしながら、彼が見抜いたのは、その個人が他者との関係にあるということなんですよ。つまり他者との関係がまともにならないかぎりは、自己の存在はまともにならないということなんですよ。
 つまり、慈悲という概念は慈善じゃないんですわ。チャリティ――「自分が安全なところに居て、他人が可哀想だから何とかしてあげましょう」――じゃないんですわ。慈悲というものの根底にあるのは想像力だと私は思うんですよ。その想像力とは何か? それは、他者に自己を見ることです。私に言わせれば、これが解脱ですわ。
 つまり、自我というものが残るかぎりは、その自我は輪廻していくでしょう。解脱といったときに、その自我を否定する力がはたらかないかぎり……少なくとも解脱が何であるかは分からないが、解脱の条件として必要なのは、自我を切ることです。切り開くことです。それがどうしても要ると思うんですよ。
 私が苦しいのは、――さっき言ったように――都合でなんとかしたいことがあるわけですわ。だけど、「苦しい」と言って私のところに来る人を、私が娑婆に居て忙しければ「切る」でしょう。しかし坊さんになった以上は、何にもしないで「私は忙しいから……」とは言えないんですよ。言っちゃいかんこれは。そうすると、下手に付き合うと10時間ていう人もいるわけですよ。そうするとどうやって折り合いつけるか……「悪いけど今日は忙しいから何日に来て下さい」と。しかし私は坊さんである以上、「忙しいからあなたとは付き合えません」とは言えないですよ。言うぐらいだったら[僧侶に]なっちゃいかんと思うんですね。
 私は何もできないですよ。しかし「おそらくこの人は、辛いところがあるんだろうな」と。俺も辛かったんですから。やっぱり、ちょっとでも慰められるというかまあ良い気持ちになるんだったら――言いたいことがあるんだったら――聞いてあげなきゃいけないなと思うんですよ。これはチャリティーじゃないんですよ。その人には俺が居るんですわ。
 だから、解脱といったときに大きい意味を持っていることは、自分というものを切れるかどうかなんです。切り開けるかどうか。それが慈悲なんです。大乗仏教の根幹です。大乗仏教が一歩踏み出したのはそこなんです。「衆生を救済する」と言い出したのは大乗仏教ですよ。なぜか? それは、おそらく仏教の空(くう)の思想――縁起の思想――と結びついているんです。或るものの存在は、他のものとの関係によって成り立つ。だったら自己存在とは何か。他者の存在によって成り立つ。となれば、慈悲というのはチャリティーではない。仏教者として生きるうえで絶対必要な想像力のことを言うんだと思うんですよ。

質問者5:出家者でない一般の我々が先祖のお墓――先祖の霊――を祀ることの意味は何ですか? それは必要なことでしょうか?

仏教はもともと葬祭は一切やっていないんですね。日本では先祖供養というものを仏教が引き受けたんですね。だから、「仏教が先祖供養をやらなきゃいけない」とか、仏教の教義のなかに先祖供養をやることの根拠を見つけるということは、理論的にはおそらく無理でしょう。例えば中国・韓国だったら先祖供養は儒教が引き受ける。それをたまたま日本では仏教が引き受けたというだけのことでしょう。と私は思います。
 それはこっちに措いといて。引き受けたんですわサービスとして。その「引き受けた」というときに、そういったことを思う人の気持ちを汲めるか汲めないかです。
 例えば私のところに、ある若い女の子が水子供養に来るわけですわ。そんなことやってないけど。

(中略)

:私はそのときに言ったんです。先祖供養とか死んだ霊の供養は結構だが、まずもって問題なのは、供養以前にこれは「罪」なんです。仏教で言えば殺人罪なんです。二度とやってもらっちゃ困るわけですよ。だから、「供養は供養で結構だが、これは懺悔(さんげ)だから、懺悔のつもりでやるんだったら供養してやるし、二度とやるなと誓え」と言ったんです。そしたらそのときは「うん」と言ったから、私は読経したわけです。
 その人が「霊」ということで私に言ってきたのは、もっと言えば「怯え」なんですよ。罪の自覚なんです。それが大事なんですよ。
 それが無かったとしても、霊を思う――死んだ人を思う――という気持ちは古今東西の全人類にあるわけですわ。なぜか? なぜ人は昔から洋の東西を問わず、死んでしまって居なくなった人のことを霊として呼ぶのか。たぶんその底には、「自分がどこから来て、どこに行くのか分からない」という根本的な不安があると思うんですよ。
 だから私は、先祖を祀り霊を思う人の気持ちはリアルなものとして無視できない。

(中略)

:霊があるかないかよりも、霊を思う人に仏教は触れるべきだと私は思うんですよ。
 葬式やるでしょう? 私は思うんですけど、――お布施が高いとか最近色々とご批判の多い御葬式でございますが――べつに仏教でやって頂く必要はなにもないです。死んだ人を弔う儀式は決して廃れないと思うんですね。我々は死というものは分からないわけです。これは絶対に分からん。経験の外にあるんですから。とすれば、愛する人が亡くなったという事実を納得するには、別れるという形式を借りるしかないじゃないですか。別れるというのは、普通は挨拶をして別れるんですよ……「さようなら」って。そうじゃなきゃお互いに行方不明ですからね。
 そうすると、葬式というのは、ある人物の不在を「別れ」というかたちで決着させるしかない。そして「彼がいなくなった」という現実を、「欠けた」という条件下で自分の社会的な縁を組み直さなきゃいけないんです。その意味では、仏教が葬式をやらせて頂いているのは有り難いことだと私は思いますね。

(中略)

質問者6キリスト教では絶対神があって、神を[自己の]根拠に持ってきているけれども、ブッダは「根拠は無い」と言ったと仰いましたね。それで、ブッダは「他人とのつながりのなかに根拠がある」と言ったと仰ったんですけれども……。

:私の解釈ですけれどね。

質問者6:ええ。それで、他者との関係がまともにならないと人間はまともにならないということをブッダは考えて、それが仏教の姿だということを仰いましたが、このへんのことをもうちょっと詳しくお訊きしたいんです。
 キリスト教では絶対神があるからそれを信じればいいんですけれども、神がなければ何を信じればいいんだということになるわけですけれども、他人とのつながりのなかに根拠があるというのは、分かるような気はするんですがもう少し詳しくお聞かせ頂ければと思います。

(中略)

:「私」というのは結局、他者との関係から与えられた或る様式なんです。これに何か実体があると思ったときに話はおかしくなる。無いはずの「私」に実体があるということになると、補強しなきゃいけない。
 そうすると一番分かり易いのは、人が欲しがるものを掻き集めるということ……所有欲です。所有というのは貯蔵とかとはわけが違う。人の欲しがるものを自分のところに抱え込むんです。
 所有は社会関係ですから、所有というのは人と人との関係であって、法律で決めないかぎり「所有権」にならないでしょう? そうすると他人の欲しがるものを抱え込んで、その「欲しいもの」に人の視線を集めてそこに自己を投射するんです。
 無いはずの自己を強化するために所有という概念を使うのは、近代資本主義社会の常套手段ですな。従って所有欲には限度が無い。欲求には限度があっても、所有欲には限度が無い。それは、無いはずの自我が欲望の対象だからです。

(以下略、終わり)