NHK教育テレビ「こころの時代 〜宗教・人生〜」:南直哉インタビュー「仏の教えをたずねて」(3 of 3)

※話者:南直哉(みなみじきさい/恐山菩提寺院代)、金光寿郎(ききて)
※放送日:2008年12月7日
※放送内容についての南氏ご本人のコメント:メディアの言葉 - 恐山あれこれ日記
※《 》内は南氏の著書または道元正法眼蔵』からの引用分。[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

2 of 3からの続き)

金光:それであの、日本人の生き方として「もっと自己を独立自存させて、主体性を持って……」という発言があるわけですが、[南さんが]主体性についてお書きになったものがあったのでそれをちょっとご紹介させて頂くとですね……

《自分の存在に縁起を自覚しつつ、その縁起から生成されてくる様々な事態を因果関係のなかで「自分」に編成していくこと。私はそのような存在の様式を主体性と呼び、この編成運動こそを、道元禅師の言う意味での「自己」と呼びたい。》

(南直哉 著作より)

 やっぱり、「死ぬ」というのは自己が死ぬわけでしょう?

:そうです。つまりその、何と言うんですかね……道元禅師も仰っていますけれども、「黄泉に堕つ」つまり「黄泉の国に行くのは他の誰でもなくてお前のことなんだ」というのはまさにそのとおりだと思うんですよ。
 人間は、生まれてくるところと死ぬところに関しては一切分からないんです……何のことだか。つまり誕生と死は経験の外なんですよ。そこに自己は居ないんです。

金光:はい。

:ですが、そこから自己は降り立ってきて、そこに自己が消えて行かざるを得ない。そうするとですね、生きている間というのは、その「自己と他者の矛盾」や「生と死の矛盾」のなかに橋を架けていくような行為ですよ。それを可能にするのが因果という方法でしょう。「じゃあなぜ人が生きるんだ?」と言われてもね、これは言いようがなくて……。

金光:「生かされているから生きている」という……。

:「生かされている」っていうと良いことに聞こえるんですがね、僕にしてみれば「課せられたこと」なんですよ。

金光:それはそうですよね、ええ。

:ですから、もし主体性ということが起こるのであればまず第一に、自分が自分であることを引き受けるということをどこかで決断せざるを得ないんですね。

金光:はい、はい。

:あるいは、「生きることを課せられた」っていうことに覚悟を決めたときにまずその人が或る自己を獲得するんだと思うんですよ。

金光:最近の色んな犯罪を起こした人の告白みたいなものを見ていますと、根底に自己嫌悪というか「自分が世の中に認められていない」・「見捨てられている」というか……[そういう感覚があるようです]。それを主体性と呼べば呼べるのかもしれませんがそうではなくて、「自分が嫌」で、その嫌であるということを何かの形で爆発させるから変な事件が起きるんであって、本当の「自己を引き受ける主体性」というのがあそこには無いんじゃないかという気がするんですが……。その、「引き受けることによる主体性」というのと「自己嫌悪に陥ってしまったうえでの行動」というのとは次元が全然違ってくるような気がするんですが。

:うん。私が思うのはですね――安直なことは言えませんが――衝動的な或いは「理由が無い殺人」と言われるものを行う人っていうのはやはりその「自分が自分である」ということに対して非常に不安を抱えているに違いないと思うんですね。不安がある人間が何かを引き受けたりすることはできないと私は思うんですね。ですから大切なのは、「苦しくても生きていく」ということは決意を固めるしか道がないわけであって、「理由があってこれこれ」ということではないと思うんですよ。つまり人間は自殺することができる……自殺する能力を持って生まれてきてしまいますから、そうである以上、「どっちを選ぶか」ということは本人にしか任せられないでしょう?

金光:はい、はい。

:私は、人が生きていくということを肯定すべきだと思うんですね。しかしそれは理由が無いんですよ。
 それで私ね、仏教の本をどんなに読んでも、「生きることは素晴らしい」って無条件で言ってるところは見つからなかったですね。

金光:お釈迦様が最晩年に阿難に「自分を頼りにしなさい。法を頼りにしなさい」と言われたという有名な話がありますが、「自分が生きようとするときに頼りにする『法』というものに俺は任せるんだ」という決心というか覚悟ができると、そこで或る道ができてきますでしょうね。

:と思いますね。釈尊が最後に語った言葉っていうのは「最後」ですからね。苦難の道のりを越えてきて、それこそ涅槃に入る直前に自分の生き方を肯定する言葉を言ったんだと思うんですよ。
 そうすると、自分の生を受け入れるということは非常に困難な道のりだと思うんですよ。ですがそれはやはり、やるべきなんです。そうすると「なぜですか?」って言われるんです。そのときにその「なぜ?」は遮断すべきだと私は思いますね。それが、「信仰」といわれる世界に入っていくことだと思うんですよ。

金光:なるほど。
 それと同時に、先ほどからの「縁起」といいますか色んな条件の中に居る自分というものをよくよく正しく見ることができると、そこに「すぐ死んでしまう」というような方向ではないものが……。

:そうです。あり得ると思いますね。つまり、他者との関係で自己があるとするならば、「他者との関係性を調整する、或いはより善くしていくことにしか自己のありようはない」と腹を決めてしまえばですね、ただ単に「自分が認められないから」とかいうことで狭い考えに陥っていくことは無いのではないかと思うんですよ。
 その人間の凝り固まった考え方を誰かがほぐしてあげて、回路を別に繋いであげれば、その人には別の道があると私は思います。それはやっぱり発想の或る種の転換が必要で、それは縁起の道だと思います。

金光:今までのお話を伺っていて、聞いている人の中にはやっぱり「関係性だとか周囲の状況のなかで自分を……」というようなことになってくると、「周囲の状勢に流されるんではないか」というような消極的なイメージをお持ちの方もおられるかもしれませんけれども、先ほど仰った「自分を編成し直す」ということは大変なことでしょうし、仏教の本来の生き方というのはその「自己を編成し直す」というところにあるんでしょうか?

:これは僕が「そうかな」と思っていることですけれども、実感として要するに他者との関係の中でしか生きられないとするならば、他者との関係から自己を織り上げていかなきゃいけないわけですよ。自分としての様式というか自己というまとまりにしていかなきゃいけない。となれば、いかに人との縁や他者との関係を充実させていくかということが決定的に重要だと私は思うんですよ。「編成する」と言ったときに大事なのは、人との関係を深くする、或いは広く深くしていくことだろうと思うんですね。それでそれは、他者に流されることとは違うんですよ。というのは、広くして深くする主体はこちらにあるわけですからね。
 ですから、もちろん他者との関係ですから他者を自分の思う通りにしようということではない。ですが、「縁を深くしよう、広くしよう」とするならば、まず第一に考えなきゃいけないことは、相手と対等な関係をつくるっていうことです。そうでなければどちらかの支配に飲み込まれてしまう。
 もう一つは、相手に対する敬意を忘れないっていうことなんです。つまり、「僕には決して分からないところが彼にはあるかもしれないけれども付き合っていきたい」っていう気持ちですね。
 この二つをもとにして人間関係を大切にしていくべきだろうと私は思うんですよ。

金光:これはそうしますと、自分の考えた自分の頭の中で操作するのではなくて、現実の生きた関係を正しく見て……。

:そうなんです。具体的に関係を作り出していくことなんですよ。それが自己の編成に結びついていくし、それが即ち自己の編成だろうと思うんですよ。
 つまりね、「関係」っていうと「AとBがあって間に関係がある」というふうに考えるかもしれませんが、仏教は違うんですよ。「関係があるから、そこにAとBが居る」んですよ。

金光:ああなるほど、はい。そうですね。

:ですから、「この縁をどうするか」ということがAとBのありようを決めると思うんです。つまり、人を支配しようとする人は自己も他者も貧しくしていくと私は思いますよ。
 損得とか「相手を支配する/支配しない」とか或いは利害関係ということを超えて、「或る人間がそこに居る」ということを認めてその人と付き合いたいとするならば、その「居る」ということを大切に思いながら付き合うということがとても大事だと思うんですよ。それは結局、[人が]関係から成り立っている以上、「他者を大切に思って付き合う」っていうことが即、「自己を大切にする」ということを意味すると思うんですよ。これでやっているかぎりはね、「ある日突然道路を走って人を刺して歩く」っていうことにはならんと思うんですよ。

金光:ならないですよね、はい。

:これは或る積み重ねと或る学びが必要だと私は思います。つまり、他者に敬意を払うということは本能とかで簡単にできることではないと私は思うんです。それができる人が教養のある人だと思うんですね。

金光:その姿勢であるかぎりは、歳を取ろうとも或いは病気になろうともその場所で他者との関係を作るということですね。

:できることですよ。私が永平寺に居る間に長期入院を一度したときに看護婦さんが言っていましたけどね……「寝たきりで何もできない患者さんも居るでしょう?」って私が言ったら「おられます。だけどその人が喋ることができなくても、慣れてくれば、私たちのことをどう思ってくれているかが目つき――目――で分かる」っていうんですよ。寝たきりですよ。口もほとんどきけない。だから目つきや目の色で「ああ、私たちに感謝してくれるんだな」とか「励ましてくれてるんだな」というのが分かるっていうんですよ。そうするとね、その人はそれだけで、或る部分で誇りを持ったり救われる部分があると思うんですよ。
 ですから、どんな場面であれどんな状況であれ人は、生きることを肯定できると思うんですよ。できる以上はすべきだと思うんですよ。

金光:なるほど、はい。そうしますと、「自己というものを今までのお話のようなかたちで見つめて、自己を編成し直していくという姿勢でいくと、どういう事態になっても主体性を保って生きていける」というのが仏教の本来の教えが伝えようとしてきたことだというふうに伺いました。どうもありがとうございました。

(終わり)