茂木健一郎講演:「ビッグイシューと社会」(1 of 3)

※話者:茂木健一郎

※とき・ところ:2008年9月7日 明治大学リバティホール(『ビッグイシュー日本版』五周年記念イベント)
※出典:ビッグイシューと社会 - もぎけんPodcast
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

 こんにちは。水越さん、『ビッグイシュー』の皆さん、5周年・100号ほんとうにおめでとうございます。
 『ビッグイシュー』というのは僕にとってたいへん思い出の深い雑誌でして……というのは、もともと『ビッグイシュー』はイギリスで創刊されまして――たしか91年? 93年? ぐらいですね――僕は95年から2年間イギリスのケンブリッジというところに留学したんですね。その準備も含めてイギリスに行き始めたのがちょうど92年か93年ですから、奇しくもイギリスで『ビッグイシュー』が創刊されたのと同じ頃に行き始めたんですよ。
 それで、ここにいらっしゃってる方は『ビッグイシュー』のことをよくご存じの方も……ときどき買ってみるという方もいらっしゃると思うんですけれども、いわゆるホームレスの方をとりかこむ環境が日本とイギリスではたいへん違っていて、それが僕はたいへん印象的でした。
 イギリスではまず、ホームレスの方というのは或る意味では非常ににぎやかなんです。日本だとホームレスの方はどちらかというと静かに段ボールの家なんかに寝てらしたりするでしょう? イギリスだと、これ[=小銭入れを揺する音]……要するに、「小銭あったら、くれ」って言っているんですよね。寄付を募る方がこういうふうによくやるんで。非常にアグレッシブなんですよ。アグレッシブというか主張があるんです……イギリスのホームレスの方というのは。
 それだけじゃなくて、たいへん若者も目立っていて――すくなくとも、僕が居たときはそうでした――いいガタイの兄ちゃんがゴールデンレトリバーみたいな犬を連れて、よく通りで寝てました。
 日本のホームレスの人とイギリスのホームレスの人の違いを僕が一番感じたのは、一般社会の人に対する関係性なんです。この『ビッグイシュー』という雑誌が画期的な存在であると考える理由もそこにありましてですね……日本の社会だとホームレスの人が遠慮気味というかちょっと控えめなんですよね。

(中略)

 イギリスのホームレスの人というのは、もうちょっと積極的なんですよ。「お金をくれ」というときの言い方も、そこに色々と主張が書いてあるんですよね。“Homeless and Hungry”って書いてあるのが基本なんですけど、ほかにも色々書いてあるんですよね……なんかすごく表現があって。
 僕は、それって個人の資質の問題じゃなくて社会の問題であると強く感じたわけです。つまり、どうも日本というのは、色々な事情があって苦しい境遇に立たされた人たちが、それをあまりオープンに言えないような社会情勢があって……それがなぜなのかは、たいへん複雑な問題があると思います。イギリスのホームレスは或る意味では明るい――明るいっていうのは変なんだけど――もっと積極的な主張があるんですね。
 そんななかで、イギリスのホームレスの人たちの或る種の象徴的な存在だったのがこの『ビッグイシュー』だったんです。95年に僕がイギリスに行ったときには、『ビッグイシュー』はすでに完全に社会に根付いた状態になっていて、ロンドンやケンブリッジの街を歩いているとよく販売員の方がこれをこういうふうに持って“Bigissue, Bigissue”って売ってるんですよ。
 当時たしか1ポンド50だったかな。1ポンド50で買うんですよね。それでだいたい2ポンドぐらいあげて「お釣りいらない」とか言ったりするんですけれども、そのときの感じが……僕はそれまで感じたことのないような開放感を味わいました。その理由はどういうことかというと、イギリスのホームレスの人というのは『ビッグイシュー』が誕生する以前から或るていど積極的だったんですよ……「お金をくれ」というときの感じとか。
 街の人もホームレスの人と意外と喋っていて……僕が忘れられないのは、寝っ転がっている若いホームレスのお兄ちゃんに、すごいピシッとしたスーツを着た金融マンみたいな人が話しかけているんですよ。「なにか欲しいものないかい?」って。「うん、じゃあ、チーズバーガーと大きなダイエットコーク」とか言っているんですよ。それから2人で連れ立ってハンバーガー屋に行って買っていたんですよ。そういう光景って日本で見たことあります? そういうのって[イギリスには]前からあったんですよ。そこらへんが日本とはちょっと違うんですよ。
 でも、そうは言いながら、一介の留学生である私がホームレスの方と会話をするというのはなかなか難しくて……ところが、“Bigissue…”って売っていると、なんというか自然に会話ができる。
 これは今日のお話の重要なポイントになるんですけれども……人間には認知的なバイアスというのがあります。つまり、――これは私の専門の脳科学の領域でもあるんですけれども――善意はあるんですよ。善意のない人なんてこの世に一人も居ないと思う。僕は誰にでも善意はあると思う。ただ認知的なバイアス――偏り――があって……コミュニケーションというのは対等――相手と自分が対等――であるときに最も進むわけです。だから、やたらと威張る上司というのは駄目なわけですよね……「きみ、これをやっておいてくれよ」とか。コミュニケーションは対等でないと進まないんだから、支配・被支配の関係があったら本当に仕事の話ができないですよね。命令・被命令の関係があったらコミュニケーションは対等には進みませんよね。だから我々科学者は、どんな偉い先生――ノーベル賞を取ったような人――でもファースト・ネームで呼び合って、議論とかも対等にするんですよ。それはもう我々の倫理なんですね――まあ日本の大学の先生というのはふんぞり返って威張っている人も多いけれども、それはそれで科学以外の何かをやっているんだろうから関係ないとして――科学をやっている人というのは対等なんです。
 それでね、「コミュニケーションは対等でないと成り立たない」というのは、これは本当に大事なことなんです……人間の脳のはたらきを考えるときに。とにかくお互いに人間として認め合って、対等に話し合うということが大事なんですよ。
 ところがね、そうは言ってもこれは理想論ですよね。香山リカさんが100号記念の中でも書かれているけれでも、色んな気持ちが起こっちゃうんです……たとえば『ビッグイシュー』というのは通常の商行為として「お金を差し上げて商品をもらう」という形で、ふつうに我々がコンビニでもやっているようなことをやるわけですよね? そういう意味で言うと、そこで色んなコミュ二ケーションが成立する基盤ができるわけです。

 いま僕はいつも新宿住友ビルというところで朝日カルチャーセンターというのをやっているんですが、住友三角ビルの前にいつもいらっしゃる販売員の方がいらして、色々とお話ができるんですよ。僕は[販売員の方を]見つけたらとにかく買うことにしているんですよ。だから、すでに1冊買っちゃってる場合もあるわけですよ。そのときにもう1冊買うということは、俺はふつうにやるんです……誰かに上げようと思って同じ人から2冊買うこともあるし。だけど香山さんはそこですごく厳密に考えていて、すでに1冊買っちゃっていて、あなた[=販売員]のためにもう1冊買おうとすると、それは普通の商行為ではなくて「私のなかの変なこだわりですけど、ここでも買うということは、読みたいから買うんじゃなくて施しみたいな意味合いになってしまうのではないか。そして、販売員さんによっては丁寧に説明までしてくださる方がいます。“今回はこんなインタビューが載ってます”とかね。ちなみに私がそれをすでに読んだものだとしても、そこで“ああ、そうなんですか”とかって応えると、それはとりあえず嘘をついたような気持ちになる」と。僕はあんまりそういうことを考えないで、とにかく見つけて買うということで、同じ雑誌を2冊・3冊買ってもぜんぜん良いんですけど。

 でも例えばね、ホームレスの方と普通に話すという機会を『ビッグイシュー』が与えてくれたとしても、なかなかそういう難しい問題が色々あるわけでしょう? ましてやそういう取っ掛かりが全くない状態でコミュニケーションを成立させようとすると、まさに何か非対称の関係になっちゃうんですよね……そういうふうに思わなくても。
 僕は実はすごく苦労していたんです。ホームレスの方――「ホームレス」ってもっと良い呼び方がないのかな? イギリスでは「ストリートワイズ」っていう呼び方もあるんですけどね。「ストリートワイズ」ってなかなか良い言葉で、要するにロックとかああいうのを「ストリートワイズ」って言うんだよ。シャツを[ズボンの]中に入れているのはオジサン(笑)で、外に出しているのが「ストリートワイズ」だ、みたいな。だからホームレスの方というのはそういう意味で言うと「ストリートワイズ」なんですよね。――そういうホームレスの方たちと喋りたいと思っていたんだけど、なかなか難しくて。それで、『ビッグイシュー』が出て本当に僕自身は「助かった」と思っています。それで、おそらくお互いに気兼ね無しに相手とコミュニケーションできるっていう対等・対称な関係がおそらくそこで初めて生まれたんだと思うんです。
 それで、この『ビッグイシュー』みたいなものを日本という国が果たして受け入れられるかどうかということが1つの試金石というか我々の人間の器の大きさというかそういうものを測る一つのきっかけになると僕は思うんですよ。
 一番肝心なのはね、――これはイギリス的な発想でもあるんですけど――「商行為として成り立っている」ということです。僕はイギリスに行って色々学んだことがあるんですけど、チャリティーをビジネスにするっていう彼らのセンスですよ。これはね、本当にすごいと思う。いわゆるハイ・ストリートっていうイギリスの目抜き通りがあるんですけど、そこに例えばセーブ・ザ・チルドレンとかオックスファムとか要するにいわゆるチャリティー――日本語では何と言うんですかね? ボランティアの人が社会貢献をするために色々やるようなもの――のお店が並んでいるんですよ……ハイ・ストリートの一番良い所に。それでそれは家賃も当然払わなくちゃいけないし、――日本でも最近は「ボランティアは有償である」という概念が出てきましたが――ボランティアの方々に給料を出さなくちゃいけないし、オペレーションをやる人たちも当然生活をしなくちゃいけないし……ビジネスとして回さなくちゃいけないわけですよね。オックスファムにしても何にしても。

(中略)

 そういうことをビジネスとして回すということについてイギリスの人は本当に才覚を持っている。
 それで、日本の人は善意は持っていると思う。我々は心優しい国の人だと僕は信じています。僕が好きな日本は……源氏物語のように、愛している妃が死んでしまうと「いつか別れが来ると思っていたがこんなに早く来るとは思わなかった」と言ってなよなよと泣くような男の優しい日本は大好きですが、もっともらしいことを言って威張っている日本は僕は大嫌いです。
 まあそれは措いておいて……日本は優しさはあるんですよ。ですが、それをビジネスとして回していくというアングロサクソン的な才覚というのはこの国ではなかなか無くて、その意味では『ビッグイシュー』というのは画期的なものだと思っています。
 いま[『ビッグイシュー』の価格が]300円で、160円が販売員の方の収入になるということなんですけれども、こういうことを考えることが大事なことだっていうことですね。つまりそういうファイナンスとかそういうものも含めて社会の色々なことを考えていくことがすごく大事なことだっていう感覚を日本はイギリスからもっと学ぶべきだと思っています。

2 of 3へ続く)