茂木健一郎講演:「ビッグイシューと社会」(3 of 3)

※話者:茂木健一郎

※とき・ところ:2008年9月7日 明治大学リバティホール(『ビッグイシュー日本版』五周年記念イベント)
※出典:ビッグイシューと社会 - もぎけんPodcast
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

2 of 3からの続き)

質疑応答

質問者1:さきほど、問題意識を共有してアウェアネスを高めるというところから偶有性のお話があったと思うんですけれども、共感を持ちつつまた危機感と焦燥感というものも持ちながら、絶望とかの感情にもっていかないようにする方法はありますか?

茂木:脳の仕組みから言うと、とにかく脳って抽象的な思考に非常に弱いんですね。だから、危機とか全体状況とかそういう大きなことを考えるとどうしてもすぐに絶望の方向に行っちゃって。一方、脳は「何か具体的な行動をすることによって何か成果が出る」ということはシグナルとして非常に良いんですよ。だから最近僕がよく言っている強化学習という意味で言うと例えば、たいへん大きな問題があって、それをどう解決したらいいか分からないっていうときに、どんな小さなことでもいいから目の前の具体的な何かをやることで少しでも成果が出れば、それによって報酬回路がはたらいて少しでも前に進むことができるんですね。
 ただし、そのときにやっぱりビジョンは必要で、よく“Think Globally Act Locally”って言いますが、そのlocalからglobalへ貫くロジックというかビジョンはどうしても必要だと思う。そこをどう鍛えるか。そこを鍛えれば、ローカルな小さなことでもそれを報酬として脳は一歩進むことができます。
 ですから、脳を研究している立場から言うと、“Think Globally Act Locally”っていうのは概念とかコンセプトのレベルでは非常に厳しく叩き上げる。一方で、具体的なやることはすごく実際的なことを少しずつやるということがおそらく非常に大事な2つの車輪なんじゃないかと思います。

質問者1:ありがとうございました。

質問者2:偶有性と仰いましたが、「想像してその人になる」ことはできますが、その人自身になることはできませんよね?

茂木:その通りです。それは我々は身体性の問題と言っていて、本当に例えば通りに投げ出されて、家が無くて……っていう時にどういう気持ちになるかということは絶対に分からない。これは他者性の問題ですよね。これは分からないんです。
 だからね、ミラーニューロンとかそういうものがあったとしても、自己と他者というのは絶対的な「壁」の向こうに居るわけですよ。だからね、さっき言ったのは、例えばまあ苦しい立場に居る人のことを想像したとしても、「その人のことを分かった」と思ってはいけないというその倫理的な態度と対(つい)になっていなくちゃいけないんだよね。
 他人のことなんて、分かるはずは絶対にないんです。分かるはずはないんだけれども、その絶望的な状況のなかでもなんとか自分の想像力の及ぶ範囲で「向こう」の場所に辿り着こうとするということが人間として一番尊いことだと思う。
 だからそういう意味で言うとね、さっき言ったJoan BaezとかBob Dylanフォークソングでも本当に届いていたかどうかは分からないんだよね。彼らがああいうふうに色々歌っていたやんか。でもそれが本当に、苦しい人――例えばベトナム戦争空爆を受けている人たち――にあの想像力が届いていたかどうかということは分からない。分からないんだけど、全然届かせないよりは幾らかはましなんじゃないかっていう気が僕はするんだけど。

質問者2:高い位置[=『上から目線』?]に立って……[発言内容が不明瞭]。

茂木:生命原理のすごく大事なところは、いろんなものが混ざっているっていうことなんですよ。だから例えば極端な話、マザー・テレサがああいうことをやったということについても、98%は善意だったとしても1%ぐらいは名誉欲みたいなものがあったかもしれないじゃん? でも、それはそれで良いわけ。つまり命っていうのは、或ることだけで100%塗り固められるというのが一番危ないことで、むしろその「不純」な状態が良いわけ。「不純」であることこそが命であるっていうか。
 だからさ、あなたがすごくピュアなのは分かるんだけど、例えば社会的なことに関心を持ってそういうことを議論している人のなかにちょっと「上から目線」みたいな要素が少しあったとしても、それゆえに全体を投げ捨ててはいけないっていうかさ。そこを含めての命だから。と、僕は考えるけど。
 あまりピュアになろうとすると却って苦しい感じがするんだけど。ガンジス川に行くと、すごく汚い川でみんな沐浴してるんだけど、肌がすごく綺麗なんだよね。無菌状態で生きている都会の人よりも、泥水に浸かっている人のほうが返って肌が綺麗で、それがやっぱり生命原理ということだと俺は思うんだけど。ガンジス川に飛び込んでみたらいかがでしょうか?(笑)。

質問者3:イギリスの社会起業活動としてたいへん良い取り組みをしているなと思う例があったらご紹介ください。
 また、銀行マンがホームレスと話をするという、日本ではあまり見られないようなそういった社会的な状況ができるイギリスの背景・文化としてどういったものがあるのでしょうか?
 また、『ビッグイシュー』の記事の内容について偶有性の観点から今後期待することを教えてください。

茂木:どうもありがとうございます。『ビッグイシュー』はまさに“Big Issue”で色んなことがあるから、言い忘れちゃったことを今いっぱい思い出しましたよ(笑)。
 まず記事から言うと、本当に良い記事が多いですよね。僕が忘れられない記事の1つはユニーク・フェイスの記事かなあ。要するにこの雑誌って、日本のあらゆるメディアのなかでこの雑誌でしか読めない記事が多いんですよ。そういう意味でいうとまさに、偶有性ということを感じさせる雑誌ですね。
 いま一連の質問を頂いたなかで、それと関連した話を一つだけすることで返答の代わりにしたいのですが、僕はケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ……トリニティ・カレッジというところは、そこだけでノーベル賞学者が30人居るというクルクルパー(笑)なカレッジなんですよ。そこのトップがアマルティア・センという人――バングラデシュでマイクロクレジットの研究をしてノーベル経済学賞を取った――なんですね。
 センのような人は凄くて……つまりバングラデシュの飢饉の問題を実証的に調べて、「実は食料が無かったのではなくて、或る人が或る食料を得るということについての社会的な正当化事由(justification)が無いがために食料がそこに行かなくて大飢饉が起こった」ということを研究されているんですよ。
 『ビッグイシュー』ができる前は俺はどうしたらいいか分からなくて……俺はそんなに金持ちじゃないけどさ、例えば今ここ[=小銭入れ]に500円が入っているとするじゃないですか。「この500円で俺がビールを一杯飲んじゃうよりは、[自分が通りがかったところに居るホームレスの人が]ハンバーガーぐらい食べた方がいい」と思ったときに[ビッグイシューのない時代は]どうしていたかというと……[お金を渡す方法に]困るじゃないですか。だから俺はよく靴ひもを結ぶふりをして500円玉をそこに置き忘れてきたりしていたんだよね。
 それでそのときに、「俺がこれ[=500円玉]を持っていると思っているけどさ、この小銭入れのお金を『俺が持っている』って意味が分からないじゃんか」……。でもね、――なんか所有とか所得だとかいうことについてのかなり根元的な思考をしたからこそセンはノーベル経済学賞を受けたわけですけど――日本人の思想的な足腰はやっぱりかなり弱い気がして……。そこらへんも含めて――例えば、さかのぼればマルクスとかが居るわけですよね。もっとさかのぼればヘーゲルとかが居て――イギリスは「人間がどう生きて、社会がどう成り立つか」ということについての思考をかなり重ねてきた国なんですよ。
 それで、さっきご質問があった「イギリスではそういう振る舞い[=ホームレスでない人がホームレスと容易に交流する]がなぜ見られるのか」っていうのは、大もとをさかのぼればインテリがちゃんとしていて、そういうことをちゃんと考えているからだと思うんです。そもそもの「社会の正義」とかそういうことは何なのかっていうことについて。
 だって、本当に俺、分からないんですよ。
 なぜ『ビッグイシュー』が偉いのかというと、「俺のこの500円を誰かにあげる……だって、お腹が空いてて大変なんだから、あげたっていいじゃん」ということが社会的に色んな意味合いを持っちゃうんですよね……それこそ香山リカさんが気にしていたような。そのときに、今の資本主義の成り立ちは一応そのままにしておいたうえで、雑誌を売買するというかたちでお金を移転できる仕組みを作ったということがやっぱり画期的なところだと思うんです。
 ちょっとうまく言えないけど、この『ビッグイシュー』というもの自体が一つの哲学の対象になり得るというかさ。『ビッグイシュー』というものがなぜそんなにスペシャルなものなのかということは、かなり深いことを考えないと分からないことで、日本はそこらへんの思想的な足腰がちょっと弱い気がしてならなくて。やっぱりセンとかああいう人たちがやったことを考えると、凄いと僕は思いますし、はっきり言って日本はそこらへんがやっぱりまだ弱いです。インテリが弱い。だからみんな反省してがんばりましょうっていうか……。

(以下略、終わり)