茂木健一郎講演:「個別と普遍」(1 of 2)

※日時:2005年12月5日
※場所:立教大学太刀川記念館(立教大学比較文明学会総会)

※話者:茂木健一郎

※出典:個別と普遍 - もぎけんPodcast
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

(途中まで略)

 私が最近ずっと気にしていることの1つが「個別と普遍」ということなんですね。クオリアを考えるうえで、この関係をどう考えるかということが凄く大事なことでありまして……これは「個別と普遍」と書くと一見哲学的な問いに聞こえるんですが一方で現代的に非常にアクチュアルな様々な問題群に繋がっていくと思うんですね。
 私はきのう神戸大学のシンポジウムに行っていまして、アラブとか中近東を研究されている方にそのパーティでお会いしたんですが、「中近東の人々と日本人との考え方の差というのは脳科学で説明できるのか?」ということをその方に訊かれたんですね。それに対しては「ナチス優生学とか非常にネガティブな問題もあって、一般に民族間の差とかあるいは個人差を研究することは一種のタブーになっている」ということを申し上げたんですけれども……せいぜい男女の脳差ぐらいは研究できるんですけれども。
 それで、私が一人称でこれから人生を生きていくなかでも或いは様々な社会的事象を考えるうえでも、この「個というものと普遍というものをどう考えるか」ということはかなり覚悟の要ることだと僕は思うんですね。
 多くの場合、我々は「普遍」ということを流通において捉えがちなのであります。例えば「日本映画よりもハリウッド映画のほうが普遍的だ」ということを言う場合にそこで含意されているのは、「ハリウッド映画のほうが多くの人に流通され、多くの興行収入を上げている」という意味にしか過ぎないわけですね。例えばグローバリズムという文脈を立てたときに、「日本あるいはアラブあるいは中国というものが『個別――個別というかローカルなもの――』であり、ヨーロッパとかアメリカの文明が『普遍――ユニヴァーサル――』を現している」というのも、そのような意味[=流通]において使われることが時々あるというふうに私は了解しております。つまり、「何が力をもっているか」、「何が流通しているか」ということにおける普遍性の概念ですね。
 ところがですね、私が研究しておりますクオリア(qualia)――感覚質と訳されますが――という問題に寄り添って考えますと、個別と普遍のまた違った関係が見えてまいります。
 クオリアというのは実は我々が子供の時から慣れ親しんでいるものなんですね。赤い色の質感だとか水が冷たいだとか、夕暮れ時のなんとなく寂しい感じとか。そういうものがクオリアです。それでこのクオリアの起源だとか、その背後にある第一原理についてどのような見解を取るかということは別にして、そのようなもの[=クオリア]が我々の意識のなかで感じられているということは皆さんとりあえずお認め頂いてよろしいのではないかと思いますが、クオリアの問題を突き詰めていきますと、流通性とはまた違ったかたちで「個別と普遍」の関係が立ち現れてくるんですね。
 極端なことを申し上げます。私の脳というのは1つなんですよね……これは「個別」です。日本だと「1億分の1」です。それで、私のなかで或る瞬間に脳活動がこのようにあるわけですね。それとクオリアの空間があって、その間にマッピングが起こるわけです……それがなぜかということは分かりません。脳のなかに1千億の神経細胞がありまして、それが活動するとクオリアが生まれるんですけれども、「1個の脳であっても、その人の脳のなかで或る活動が起こり、その結果として或るクオリアが感じられた」と致します……例えば、世界でたった1人――私だけ――しか持たないクオリアを私が持っていたと致します。「個別と普遍」という関係からすると実は、そのときに私という「個別」にクオリアという「普遍」が宿っている――随伴している――と考えて何の不都合も無いと思うわけですね。これについて議論し始めると大変なことになると思うんですけれども、つまり流通性という文脈の設定の仕方とはまったく違った「個別と普遍の関係の考え方」が有るということであります。これについてどのような覚悟を決めるかということが、単に私の研究しています心脳問題――脳と心の関係を考えること――を考えるだけではななくて、現代の様々な遣りきれないというか曰く言い難い問題を考えるうえで本質的な点なのではないかと。この点をどう考えるかですね。
 極端なことを言うと、「自分という有限な物質の内部活動によって或る特定のクオリアがそこに宿る」ということを普遍性の担保だともし考えるならば、流通する必要は無いのであります。もうちょっと言うと、――クオリアというのは本来、流通できるものかどうかという問題もあるわけなんですけれども――「自分という生の個別性を引き受けて生きる」という態度はそもそも、現代の流通性・流動性に依拠した社会的評価のシステムや構造とは独立した問題なんですね。実はこのことが、科学主義というものと潜在的に齟齬を来すんですね。
 私はふだん脳科学をやっておりまして、先日も北米神経科学会というところに学生を10人ぐらい連れて行ってきて……そこは毎年3万人くらいの科学者が集まるところです。そこで科学者がやっていることは、古典的な意味での普遍性を求める試みです。そこにおける普遍性とは何かといえば、「再現性をもっている真理を見つける」……「或る一定の条件下で実験すれば、世界中のどこでも同じ結果が出る」と。そういうことを我々は「メソッド」というかたちで論文に書くわけですね。科学論文の書き方というのは基本的に、「このやり方に従ってやれば、その人が日本人であろうとアラブ人であろうと中国人であろうと、世界のどこであっても同じ結果が出ます」ということを指向して書くわけですね。
 基本的に諸学問が科学主義への或る種の移行を目指している現在の状況においては、このような再現性ということにおいて学問というものを捉えるという傾向がますます強くなってくると思うのでありますね。ところがそこで実は、困った問題が生じます。これは脳科学の現場で現実に困った問題になっているんですが……つまりそれは「個人差というものをどう考えるか」というか、――「個人差」というと統計的な話になっちゃうんですね。「統計的に有意かどうか」とかそういう話になっちゃうんですけれども――もうちょっとラジカルな立場で言えば「個人というものの存在」――“n=1”ですね。つまり、さきほど申し上げた「世界にたった1つのインスタンスというか具体例」さえあれば、そこでもう普遍性が担保されているというような強烈なアピールをする存在――というものをどう考えるかということです。これははっきり言えば、脳科学だけではなくて科学のつまずきの石ですね。
 それで、この“n=1”という現象が極めて重要だということは我々は経験的には知っているんですね……ここに来る前に私は文藝春秋のビルで文學界の人とモーツァルトの話をしてきて――今日12月5日はモーツァルトの命日なんです――来年が生誕250周年で、モーツァルトの音楽について喋ろうということで喋ってきたんですが……。この2週間、私はモーツァルトの音楽を徹底的に聴いてですね、あるいはバイオグラフィーみたいなをぱらぱら見てつくづく思ったんですけれども、あれはもう生理的な奇跡としか言い様がなくて、異常なんですよ……とにかくですね、生きている時間と作曲した曲数とそのクオリティを比較した場合、もう、ちょっと「あり得ない」。特にモーツァルトの場合に不思議なのが、日常的な非常に猥雑な環境であのような音楽を作り続けたということなんですね。
 或る意味では現代人の環境に似ているんですよ。現代人というのは極めて断片化した時間を生きていますね。「忙しいからロクなものができないんだ」ということを我々は言い訳にしますね。ところが、モーツァルトもまったく同じような状況なんです。曲を作るときに、「俺はクリエイターだから部屋に閉じこもって誰にも会わないで自分の世界を突き詰めるんだ」なんていうかたちで作曲したのではないですからねあの人は。オペラを作るときでも「この歌手を出さなくちゃいけないから」とか。台本は別の人が書き上げてくるわけですから。「作曲を命じた国王の望みはこうで……」とか。今で言えば電通とか博報堂みたいな人がいっぱい居てですね(笑)、「ああしろ、こうしろ」と言って……そのようなきわめて偶有的な環境――contingencyに満ちた環境――で作曲したわけですね。ですから現代人はモーツァルトを範とするべきだと僕は思いますよ。つまり、モーツァルトが仕事をした環境は、皆さんが仕事をしている環境と何も変わりません。もっとひどいと思う。『ドン・ジョバンニの序曲』なんて、午前4時まで呑んでいて、それからバーッと書いて、皆が起きる頃にはもうスコアができているという……そういう環境で書いているんですからね。あと、良い曲を作っていて興が乗ってくると、わざと奥さん――コンスタンツェだっけ――を呼んで、くだらない世間話をさせたりとかですね。とにかく異常な人なんです。
 それで、モーツァルトの脳を知りたいんですけれども、これは通常は研究の対象にならないんですよ……“n=1”ですから。つまり、極めてユニークなものなので。科学というのは、“n=1”だとだいたい論文にはならなくてですね――サルの脳の研究だとだいたい2つ揃えると論文を受け付けてくれるんですけれども――“n=1”だとこれはどうしようもないんですよね。1例しかないんですから。それで、モーツァルトなんて2例も3例も出るものじゃないですからね。
 そのような個別のケースを普遍性に結びつけるときに、従来は統計という手法しかなかったわけであります。つまり、「個別のケースを集めてきて統計的有意性を検証する。統計的真理を目指す」ということしかなかったわけなんですけれども、クオリアという問題を突き詰めると、そういう経路ではない・まったく違った「個別性から普遍性への回路」が開けるのではないか……極端なことを言うと「“n=1”でいい」という世界が開けるのではないかということを私は実は期待しているわけなんですね。
 “n=1”という話は、例えば文学なんかを考えるときには絶対に不可欠な話でありまして、どうも夏目漱石なんかはその辺の原理的な問題を考えていたとしか思えなくてですね……彼が明治に東京美術学校でおこなった「文芸の哲学的基礎」という講演があるんですけれども、その中で漱石はそもそも「皆さんがこの教室の中で時間とか空間とかそういうものを通して世界を知覚している」というその基本的な成り立ちに遡って文学というものを検証しようとするんですね。そこで明らかに現れてくるのは現象学なんですよ要するに。イギリスから帰ってきて『我が輩は猫である』とかをまだ書いていないときに――つまり小説家漱石がまだ誕生していない時で、まあ文芸評論家漱石というんでしょうか哲学者漱石というんでしょうか――いちばん番最初にやったことが、その現象学的な基礎を論ずることなんですね。それで、この「現象学的な基礎」というものがまさに個別と普遍を結びつける回路でありまして、「どう覚悟を決めてそこを引き受けるか」ということにしか、現代における本当にエキサイティングな知の回路は無いだろうと私は思っているんですね。
 それで、その「覚悟を決めて」ということがどういうことなのかということをこれからお話ししたいと思うのですが……

続く