茂木健一郎講演:「個別と普遍」(2 of 2)

※日時:2005年12月5日
※場所:立教大学太刀川記念館(立教大学比較文明学会総会)

※話者:茂木健一郎

※出典:個別と普遍 - もぎけんPodcast
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

(1 of 2)からの続き)

 それで、その「覚悟を決めて」ということがどういうことなのかということをこれからお話ししたいと思うのですが……これはちょっと視点を変えて、――ここに居る我々は日本人あるいは日本の文化の中で育ってきた方というふうに了解致しますが――我々が普遍性というものを追求するときにどのような意味で追求するかという点における「覚悟」なんですよね。
 例えば、記憶に新しいところでは村上隆さんが「スーパーフラット」という概念を前面に押し出すことによってニューヨークのアートマーケットで大成功を収めたわけですね。そのときに村上さんは、日本というものを普遍的なもの――ここでの「普遍」は括弧付きの「普遍」でありまして、さきほど申し上げた「力を持っているもの」あるいは「流通において支配的なもの」つまり「近代におけるヨーロッパ・アメリカ……そのようなものにおける普遍性の定義」ですね。その文脈――のなかに日本というものをどう埋め込むかということを彼は考えたわけですね。その結果、――ジャポネスムとか今まで色々あったわけですけれども――「エキゾティックなもの」に対する視線というものを彼が果たして逸脱できたかどうかという点はこれからの評価にまつところになると思うんですけれども、彼は戦略的に日本のアニメとかオタクカルチャーというものを浮世絵以来のスーパーフラットという文脈に結びつけて――椹木さんなんかは、日本の敗戦・原爆の投下によるアメリカによる事実上の支配などによってスーパーフラットというものがもたらされたという説を立ててらっしゃるわけなんですけれども――まあそのようなところに結びつけることによって[成功を収めた]。あるいはその私が村上さんの講演会で先日聞いた話ですと、ニューヨークの或る意味ではホモセクシャルなアートシーンの人たちにアピールするような作品を戦略的に出していくことによってまあ彼は成功を収めたわけですね。我々の日本文化というのは、性的な表現に対する許容性というのは伝統的に高いので。まあそういう意味でいうと、村上さんがやられたことは「日本という伝統文化のなかで、ヨーロッパとかアメリカとかいう括弧付きの『普遍』に組み入れやすいものを選んでいった」ということになるわけです。
 さて、このようなやり方に対してですね、我々は腹を立てるのは簡単なんですよね。しかし、私は例えばイギリスに居てつくづく思ったんですけれども、――これは日本も同じなんですけれども――イギリスという国の文化のなかでまあ2年ぐらいは滞在してお客さん扱いされて楽しむことは可能ですが、彼らの中枢に入っていくことというのはほとんど不可能ですね。まあこれは不可能なんです。これは日本もそんなに変わらないわけでありまして、もし外国人の方がいらして文化的あるいは色んなかたちで成功したとしても、日本の文化の本当の中枢にはなかなか入りにくいものですよね。日本の文化にもやっぱり中枢が有るわけです。
 ですから、村上さんがそのようにやったとしても、あるいは今みたいに日本の国策としてジャパニメーションとかそういうものを輸出しようという動きが出たとしてもですね、流通性とか一種のソフトパワーみたいなもののヒエラルキーのなかで普遍性ということを考えると、これはどうも勝ち目は無さそうですね。と、私は思います。
 先日、福島県の美術館でアンディ・ウォーホルの“Flower”という作品を2時間じっくり布施英利さんと観て、そのあと寿司屋に行って宝船の置物を観たっていうのが私にとって重要な思考のきっかけだったんですが……。やはり今の美術マーケットにおいてこの「美」というものはですね、或る意味では本当に政治学そのものなんですよね……それは男女のセクシャル・セレクションを考えれば分かることで。僕は「美」というものをそんなにナイーブに褒めて・肯定してしまってよいものだとはとても思っていないんですけれども、いずれにせよ現在の「美」をめぐる世界のパワー・ポリティクスのなかで、寿司屋の宝船の置物はどう考えても弱者ですからね。そこから村上隆的に下克上を目指すことは可能なんでしょうけれども、そこでの「下克上」というのはあくまでも、先ほどから申し上げている流通性とかパワー・ポリティクスにおける下克上でありまして……。本来、このクオリアというものを伝統的な哲学におけるプラトン的世界というかそういうものとして措定した場合には、1例でもう普遍に通じているわけですから、べつに宝船の置物だって普遍なんですよね。例えば美川憲一クオリアというのはアメリカ人には理解してもらえないでしょうけれども、あれはあれで普遍なんですよ……1例で普遍というかですね。
 さきほど北山先生に言及して頂いた、私の友人の郡司ペギオという人はまあおそろしく頭のいい人なんだけど、彼がしばらく前に国宝の話をしきりに気にしていたのはそこら辺に関係すると僕は思うんですよね。つまり、個体の生命のかけがえのなさということをどのようなかたちで考えるかということなんですが、そこで郡司が持ち出してきたのが「国宝」ということで……。つまり国宝というのはこの世から失われてしまうとなぜか大きな損失であって、かけがえのないものであるというふうに我々は了解するんですけれども、国宝の担っている普遍性と同じような普遍性(国宝性)を、ごく普通の奴――ひょっとすると途轍もなく醜い、あるいはひょっとすると極悪非道の奴、とんでもない奴――にもどのくらい認められるかということを郡司は気にしていたように僕は思うんですが……。そういう話をしていたら神戸の人が素晴らしいことを言ってくださって……「プラトン的完全さをもったゲロというのが在るんですよね」って(笑)。まあそうなんですけれども、どのくらい覚悟をもって「そのようなものを個別から普遍への回路として認めるか」ということが、先ほどから申し上げている「覚悟」であって、こんなことを言いながらもそれはなかなか難しいと私は思っている・分かっているんですけれども、それ以外に面白いことは無いなあと思ってもいるんです。それでそれは単に社会的あるいは文化的な意味で面白いだけではなく、それは「脳というものになぜクオリアというプラトン的普遍が宿ってしまうのか」という根本問題にもつながっていくわけであります。
 ちょっと話題を変えまして他者性の話をさせて頂ければと思うんですけれども、今のモデルはですね、物質的な基礎を持っている「個別」というものが、クオリアというものが雛形となっているプラトン的世界にいかに[関係するのか?]――プラトン的世界というのは、現代的文脈のなかでは数学的構造とかを思い浮かべてしまうのですが、プラトン的世界というのは私の理解では本来は「プラトン的完全さをもったゲロ」とか「プラトン的完全さをもった気持ち悪いオヤジ」とかそういったものもその中に含まれているわけでありまして、それは古代ギリシャの哲学における正統的な使用法とそんなに変わらないと思うんですけれども、要するに必ずしも数学的概念を扱っているだけがプラトン的完全さをもっているわけではないわけです。そういう意味で言うと人文科学というのはそのまま威張っていればいいわけで、「数量化できなければ普遍性をもたない」なんていうのはまったく素人の陳腐な考え方でありまして、自然言語の表現であろうが何であろうが、それ自体においてもう普遍性は完備しているというか普遍性は完結しているのであります……おそらく。それに気づかないのは、おそらく我々が単に流通性というものを前提に世界を考えるということに慣らされているからであって、僕はやはり数字というのは基本的に流通性の問題だろうと思っているんですよね。というのは、「2つ、3つ」っていうのは通じるでしょう? 流通しますよね? 数学というものが特権的な地位をもっている根本的な理由がそのようなことだろうと私は思っております。ですから、自然言語で学問を組み立てたって何の問題もない――。
 それで、他者性の問題ですね。私がやっている脳科学の話を具体的に少しすれば、他者性を考えるときに最も大事な概念の1つがミラーニューロンというものです。ミラーニューロンというのは、自己の行為と他者の行為を鏡に映したように同じように表現する神経細胞のことであります。これは最初はサルの運動前野というところで見つかったんですが、その後に人間の運動前野――その運動前野というのはブローカ野と呼ばれる運動性言語野ですね。言葉を司っているところ――でも見つかって、コミュニケーションということを考えるうえで極めて重要な意味をもつわけです。
 ミラーニューロンに象徴されるような、コミュニケーションに関わる脳の部位によって介在される他者性というものは、最初に申し上げた「流通における普遍性」と、いま申し上げている「個別で完結している普遍性」とを結ぶ、か細い橋なんですね。
 か細いというのはどういう意味かと申しますと、我々は他者の心というものは原理的に知り得ないわけでありまして……ですよね? 「あいつの気持ちは分からない」と言って、その「分からない気持ち」についてそれなりの分かりやすい説明を受けたところで私たちはそれを「分かった」と了解してしまいますが、それは「分かったことにしてるだけ」であって、ほんらい計算としては停止しないものを無理やり停止させているわけなんですよね。どんな恋人同士であってもお互いに相手の気持ちは分からないわけです。そういう意味で言うと、この「物質と精神の間のカップリングを通した普遍性への回路」というのは、簡単に言えば自分のクオリアは相手には伝わらないし相手のクオリアは自分には伝わらないわけですから、「流通性における普遍性」ということを考えると極めて貧しい世界なんですよね。主観的体験の切実さがそこらへんにあるし、或る意味では[主観的体験の]貧しさもあると思うんですけれども、それでは困るというので脳は進化の過程でコミュニケーションの手段を発達させたわけですね――特に人間の場合は社会的動物なので――。
 これは逆説的に聞こえるんですけれども、意識というものはデカルト的な意味での自我を支えるものであって、基本的にクロージャルというか世界に対して閉じているものであるというふうに我々は思い描きがちなんです。しかし、意識を進化論的な視点から探求する人たちの間では「意識はコミュニケーションのためにこそ発達してきた」という説が有力なんですね。これについては「意識というものが随伴しなくても物質的過程として同質のものが在ればいいじゃないか」という反論があるので根本的な解決にはなっていないんですけれども、いずれにせよ「我々は意識のうえにのぼるものだけを相手に――特に言語を通して――伝えることができる」という有力な説があるんですね。
 ミラーニューロンがやっていることはですね、「一見すると世界に対して閉じている『自分の意識』という私秘的な――プライベートな――体験を、相手の心の内容との鏡像関係に置くことによってコミュニケーションを辛うじて成立させている」という、ちょっとトリッキーなメカニズムなんですよ。ですから、コミュニケーションというものは基本的に我々の心の中の鏡に映った相手の像を通して起こっているわけですね。「相手はこういう気持ちであろう」というふうなまあ推測を我々は行うわけですけれども、「相手はこういう気持ちであろう」と推測しているときのコンテンツ――心の状態の内容――というのは実は自分の心の状態なんです本当はね……原理的にはね。
 つまり、心の状態――心理的状態――というのは脳のなかに在るわけですね。あとはそれに対してアトリビューション(attribution)――「それが誰の心か」――があるわけですね。「自分の心である」とアトリビュートするかそれとも「相手の心である」とアトリビュートするかということによって我々は極めてアクロバティックなことをやっているわけですよね。それが共通のフォーマットだからこそ、コミュニケーションという一見奇跡的なことが成立している「ように見える」ということであります。コミュニケーションというものはすべては脳内現象として――これは原理的にそうなんですけれども――完結してしまっているわけなんですね。
 そう考えると、我々が「流通性における普遍」と呼んでいるものというのは、とりわけそれが物質的な基礎だけには留まらないもの――例えば芸術だとか文学だとか映画だとかそういうもの――を対象にしている場合には、脳の中のこの非常にアクロバティックな鏡のメカニズムを通してそういうものをまあ仮想的に実現させているだけなんだよね、結局。だって例えばよくトリッキーな言い方しますよね……例えば「『セカチュー』は誰にでも分かるようなお涙頂戴の物語である」という言い方がありますよね。「誰にでも分かる」ということがどうして言えるのかというと、これは本来はそう言えるはずがないわけなんですよ。「『セカチュー』は通俗である」ということを或る人が言うとすると、その人の脳の中に「通俗」という観念が在るからというか、その人自身が「通俗」な心を持ち得るからこそそういうことが言えるわけであって、一般に二項関係だけじゃなくて社会全体にそういう議論を敷衍するときというのは必ずそういう形の非常にトリッキーな議論を我々は使わざるを得ないわけであります。だから、私をはじめ世界の様々な研究者が「心脳問題こそが、社会的事象も含めた色んな意味での難題・アポリアを突破する鍵になるのではないか」と考えているわけであります。

(中略)

 そもそも、人間がこの世界に生まれて様々なことを体験し死んでいくということの基礎には何があるのかということを考えるときには、他者性やコミュニーションを含めて最後のファウンデーション(foundation)というのは個体の主観的な体験の基礎のなかに在るというのが私のマニフェストです。これは、そう考えない方がいらしてもかまいません。

(中略)

 この比較文明学の専攻で研究されていることを色々とさっき拝見していてですね、長期的に見て僕は何に一番興味があるのかというと、やっぱり価値とか欲望の起源ですね。これは非常に興味があるものです。
 無名というかほとんど評価されなかった画家だったフェルメールがなぜ今あれほどの価値をもつようになっていて、一方で宝船とか寿司屋の壁に掛けてある有名人の色紙みたいに非常に俗っぽい馬鹿にされる存在があるのか。これは本来、この中[=脳の中]の理屈から言えば、価値の序列ができる謂われは無いのであります。なぜそういう価値の序列ができるかというと、我々がやっている感情とか記憶の研究に非常に関係したものでありまして、長い歴史のなかでそういう価値観が徐々に出来てきたわけですね。我々は美とか価値というものを最初からプラトン的な完全さを帯びたものとして了解しがちなんですけれども、そんなことはないということは、「いくら美人の人間が居てもそれはゴキブリのオスにとってはぜんぜん魅力的じゃない」ということを考えれば簡単にお分かりになると思います。
 そう考えると、我々が主観的な体験のなかで知覚している様々な価値とか美というものは、その根本において偶有性を帯びたプロセスを起源としているわけであります。ですから最近私がよく思うのは、「この世のなかの偶有性――様々な偶然的要素も含んだプロセス。「どうなるか分からない」ということ――が、一見完全に見えるようなプラトン的世界になぜ接地するのか?」ということが、様々な問題を考える鍵になるんじゃないかと思うんですね。
 これはどっちも真実だと思うんですよ。つまり、例えば乱暴なおじさんがフェルメールなどの絵を観ながら「なんだ、こんなもの全然たいしたことないじゃないか」と言うのはやっぱり冒涜だと僕は思うんですよね。様々な歴史的な背景があるにせよ、フェルメールの絵は素晴らしいと私は[絵の]前に立って思って、2〜3時間観ていても飽きない。
 一方で、ある種の評論家的態度に見られるように「価値というのは最初から決まったものであって、偶有性のほうで足掻いているみっともない存在は最初から顧慮するに値しない」というような冷たい態度を取るというのも駄目だと思うんですよね。よくそういう人居ますよね。
 だから、我々はいかにしてこの2つを引き受けるかということを心がけなくてはいけないわけです。それは単にethics(道徳原理, 倫理, 道義, 徳義)の問題だけではなくて、我々の脳というのは実際にそういうかたちで「一見すると完全なもののように思える様々な価値を、実際は進化の過程で作ってきた」ということですね。
 最後に、今日が命日のおじさんの話に戻りますが、モーツァルトはやっぱりそれをやったわけですよね。一方ではスカトロジーのものすごい下品な世界に触れながら、一方ではああいう完璧な音楽を作ったわけで。モーツァルトがやったことというのは一見すると特権的な天才の所行に見えますが、実は我々人間の一人一人が誰でも持っているような生き方の1つの典型例を示しただけだと思うんですよね。
 つまり、モーツァルトみたいな天才が居なくても我々は皆「赤い色」って見えるでしょう? これは大変なことなんですよ。だって、脳の中にある神経細胞の活動ってノイズだらけですからね。同じ活動は二度としないんですよ。神経細胞の偶有性を帯びた活動から、――皆さん赤いものを何か見てくださいよ――こんなに完璧なプラトン的世界に属しているかのように見える「赤い色」というものがなぜ見えるんですかね? 我々1人はそういう意味では天才なんであって……べつにモーツァルトをまたなくても。
 「普遍性をいかに覚悟をもって引き受けるか」――流通における普遍性ではなくて、脳と心のカップリングにおける普遍性――ということが、このグローバリズムの時代における非常に重要なテーマだと一番最初に申し上げましたが、これは言い方を変えると「偶有的な世界からクオリアというものを立ち上げてしまうという或る意味では天才的なプロセスの種子が我々1人1人のなかに埋まっている」と。「我々1人1人は実はモーツァルトと同じである」という図々しいことを考えるということがこれからの時代で重要なのではないかと思っているんですよね。

(以下略、終わり)