茂木健一郎講演:「思い出せない記憶の意味について考える」(2 of 3)

※話者:茂木健一郎

※とき・ところ:2005年7月22日 「第14回 三木成夫記念シンポジウム」(東京藝術大学
※出典:第14回 三木成夫記念シンポジウム - もぎけんPodcast
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した語句です。

1 of 3からの続き)

 今までは過去の話をしていたんですけれども、未来のことについて私が考えていることについて残りの時間を使ってお話しさせて頂ければと思うんですけれども……。私がいま非常に興味を持っていることの一つが創造性なんですけれども、いま簡単に申し上げたアウトラインでも分かりますように現代科学は記憶というものを極めて機能主義的に捉えているわけですね……「あるところでイベントがあって、それがメモリーのなかでM1というものにトランスされて、ここでワーキングメモリーとして呼び出されることによって意識にまた表象される」というような、こういう図を描くわけですよね……記憶というものを。いま申し上げたように、これは過去の記憶――というか履歴――が私たちの身体に実際に残している痕跡のトータリティからみると極めて狭い領域しか扱っていないということは皆さんおそらく同意して下さると思うんですね。それで、このような非常にpoorな記憶のピクチャーを持っていることの裏返しとして我々が今どうしても扱えないものがクリエイティビティなんですね。最も価値――ある意味では経済的な価値――を生み出すと期待されるにも関わらず、近代合理的な科学がまったく扱えていないのがクリエイティビティです。ちなみに「近代合理的な科学」って言ったのは、「近代合理的な科学が駄目だ」っていうわけじゃないですよ。今は括弧付きの「近代合理的な科学」で、基本的に我々は合理性というものを捨てるわけにはいかないので、むしろ合理性をもっとrigidnessに追求していくことによって次の世界に行けると思うんですけれども。つまりですね、「新しいものが生み出される」ということは、こういう[従来の]記憶の描像からは全く説明できないんですね。
 最近の脳科学の事実を幾つか申し上げると例えばですね、記憶というのは基本的に側頭葉で思い出すわけですけれども、「未来のことを想像してもらう」っていうか――「未来のことを想起してもらう」って変なんですけど――「これから10年後のことを想って下さい」っていったときに活動する領域と、過去の記憶を思い出すときに活動する領域というのは相関があるというかつまり「未来のことを想像する」というのは或る意味じゃ当たり前なんですよね……過去の記憶のアーカイブからそういうものを引っ張ってくるしかないわけですから。「思い出す」ということと、新しいものを創造する――クリエイションでもイマジネーションでもいいんですけれども――ことというのはすごく相関があるんですよね。
 私の友人の、複雑系の研究をやっている人たちも例えば創発(emergence)という言い方でこういうことを説明しようとするんですけれども、それは今のところまったくお題目であって、emergenceをちゃんと説明できた理論とかシュミレーションは今のところ無いんですね。これは、近代科学のはっきりとした失敗ですよね。つまり我々の身の周りに今あるこういうデジタル機器というのは、非常に精密に論理的なオペレーションをやるということについては長けているんですよね。そのような論理的なオペレーションというのはまさにこういう記憶の……[数語聞き取れず]……操作可能なアイテムを時空間の中で操作していくっていうことによってまあこういう機械はできているわけなんですけれども、肝心要な――人間にとって最も重要な――創造性とかイマジネーションということを我々は理論的に全然扱えていないんですね。先ほど申し上げたように、記憶のシステム……記憶を例えば想起するということと「新しいもの生み出す」ということはどうも関係しているというのが最近の脳科学のconjectureなんですね。ですからある意味では、記憶ということを我々が非常に狭く捉えていることによって失っているものというのは、クリエイティビティとかイマジネーションということについて有効な理論を持てていないということと相関しているんじゃないかということを、私を含めた少数の人が考え初めていて、それが三木先生の僕にとっての最もアクチュアルな問題なんですよね。「生命記憶」というか太古のことを思い出すことによって独特の印象というか感覚がもちろん生まれるんだけれども、それを必ずしも過去のもの――過去のこと――として考えるのではなくて、むしろ未来というものに対して我々が投企し得るような何らかの原理として転用することですね。そこに非常に重大な関心があって……。
 例えば先日オックスフォードで会ってきたロジャー・ペンローズっていう数学者はずっと「思い出すことと創造することは似ている」っていうことを言っているんですけれども、「新しい数学の定理を考えつこうと思って一所懸命考えているときは、ど忘れしちゃった友達の名前を思い出そうとしているときに似ている」と。つまり、「なにか『こういうことがある』っていうことは分かっているんだけれども、それを思い出すことができない」と。それが、過去に確かに体験したようなこのようなスキームに乗るようなものであれば「ど忘れ」なんですけれども、ペンローズの場合は今まで人類が誰も証明してないような新しい証明を考えているときにも、似たような「何かを知っている」という感じ――FOK(Feeling of Knowing)って言い方をしますけれども――が生まれるっていうことを言うんですね。
 それで、実際にそういうことは我々が常日頃経験することですよね? 例えばなにか短い文章を書くときにも、文章を書く前から「こういうことを書こう」というのは何となく固まっていて、その固まっていることに伴って我々の「ものを書く」っていう行為が生まれるわけですよね。ですから、現象学的に我々の体験をちゃんと冷静に見ると、創造する――クリエイションする――ということと、何かを想起する――recallする――ということは現象学的に確かにかなり相関が高いわけでして……でもそのような相関の高さというのは、単純な機械的な記憶のモデルで考えている限りはおそらく説明できないことなんですね。より数理的なかたちで引き寄せて言えば、例えばカオスだとかランダムネスとか、それから最近の我々の言い方だとcontingency――偶有性。半ば規則的で半ば不規則な現象――っていう言い方があるんですけれども、そういう色んな概念が串刺しに入ってくるわけなんですけれども、そのような何かもう、ちょっと触れるとパンドラの箱が開いて色んなものが飛び出してくるような、可能性と危険性とまあ或る意味では偶有性をもった概念群に、いま申しあげたようなことが接続していくんですね。
 ある意味では三木先生はそのようなことについて科学的なアプローチをしていったんだと思いますね。というのは、創造性というものを我々はどうしてもブラックボックスに入れがちで、自分がどうやって創造しているかというのはブラックボックスに入れておいたほうが神秘化されてイイわけです……都合がいいっていうか。でも本当は、そこに何らかの非常に具体的な・厳密なプロセスが起こっているはずなんであって、それを神秘化してしまうというよりはむしろ解剖していったほうがこれからの科学のためになるだろうし、科学とはいわず人類のためになるだろう、と。
 三木先生が言われているような「生命記憶を思い出す」ということについてもおそらく我々はなにか或る種のタブーを設定しているところがあって、それはおそらく人類が近代の文明を作るときに自然というものから自分を隔離して、自然というカテゴリーのなかから人類という新しいカテゴリーをまあ捏造したということと関連していると思うんですけれども、つまりそこで「人類というものは理性を持った合理的な存在である」というかたちで自然――nature――の上にあるというかたちでカテゴリーを捏造することによって、まあ或る意味では「生命記憶」というものを隠蔽して別のスクリーン・メモリーを作っているんだと思うんですけれども、その「向こう側」に行くというのはきっとかなりしんどいことで、三木先生がなんか「ウンチを掴め」とかよく言われていたっていうのは、そういう何かそのしんどいところに我々がいかに踏み込んでいけるかということと関係していると思うんですけれども……。
 実はその「新しいものをつくる」とか「創造する」ということも時にはしんどいことであって……よく知られている「ヨナのコンプレックス」というのがあるわけですよね。これは、自分が能力を全面的に出すことを非常に恐れるというコンプレックスなんですけれども、要するに「ドリルをやって、10分前に見たものを一所懸命に思い出して……」とかやっているのは、脳の使い方としては気楽なんですよね。だから、いま大流行りのドリル本というのは私は非常に批判的ですけれども、あれはまったく近代的な、工場における大量生産のパラダイムに則った話なんで、あまり面白くないんですね。その外に出ようとすることは非常に勇気が要ることなんですけれども、記憶ということをめぐって考えるべきことはそういうこと以外にはあまり無いなと僕は思っております。
 ですから今日お話ししてきたことというのは……私の非常に個人的な体験から出発して、私は三木先生の講演を聞いていかに感銘を受けながらも20年間もそれを忘れていて、忘れていたにも関わらずそのことによってその間ずっと影響を受けていて、そのことを思い出すことによって私の人生がいかに様々な「思い出せない記憶」によって影響を受けて・恵みを受けているかということを思い出したということ……それによって、我々は実は我々の身体のなかに実際に引き受けている痕跡というものにいかに無自覚でいるかということですね……それを自覚することによって広がる世界というのがあるというのが前半のお話で、後半は、実はそれは過去だけの話ではなくて、未来に向かって何か新しいものを創造していく……今までにないものを生み出すっていうことですよね――びっくりしたいわけですよね――。そのびっくりするということにも、いま申し上げたような記憶というものの描像の変化がおそらく関係しているだろうと思うわけで、だから、三木先生がやられていたようなことを、新しいことを作り出すこと――未来志向の創造性――にいかに結びつけていくかということに僕は一番興味があるんですね。

続く