ニュースの深層evolution:「なぜこんなに生きにくいのか」(3 of 5)

※話者:南直哉(みなみじきさい/禅僧)、宮崎哲弥、波多野健
※放送日:2008年12月10日※〈2 of 5〉からの続きです。先頭はこちら。音声の全体を通して聴きたいときはこちらをご参照ください。

※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

:そうですね……ですからね、いま「後進性」って仰ったでしょ? 企業がある程度アメリカナイズして、そういうドライな経営にもっていくというのはまあ分からんわけではないが、つまり市場化と言われるようなことが経済活動とかを超えて、もはや人間の有り様の全体を覆いつつあることが問題だと思うんですよ。
宮崎:逆流し始めている。
:そうなんですよ。
宮崎:つまりね、それはどういうことかというと、人間関係のなかで「売り」の部分――「人材」の部分――に焦点が当てられるというふうに南さんが仰ったじゃないですか? 人間関係のなかでもそういうかたちになってしまった。つまり、対人関係……例えば女の子とかと飲み会とかコンパとかあるでしょう? そうすると、今の若い子たちというのはまず「自分の『売り』は何か?」というのをすぐ考えるっていう。
:そうです。その通り。ですからね、「人材」という言葉が経済のシステムの中の市場化の言葉として[その外に]溢れ出るでしょう? 溢れ出ると今度は、「人材」という言葉が「個性」という言葉に変わっていくわけですよ。
 つまり、あの「個性」という言葉、あるいは「個性を育てる」とかっていうのは悪くはないですよ。しかしながら、僕が聞いていると、その「個性」というのは根本に「人材」のイメージがあるんですよ……「恋愛市場における人材」とか「友人市場における人材」とか。そういうふうに聞こえるんですよ。
宮崎:だって今のビジネス書の自己啓発本なんかを見ていると、「自分の個性――他の人に無い、相対的ななかでの優位性みたいなもの――をどうやってアピールするか。会社や同僚とか人間関係のなかでアピールしていくか」ということばかりが書かれているわけですよね。それが「個性」だということになっている。
:これは疲れると思うんですよ……ものすごく。つまり、自分の存在の全体性を切り詰めて「人材」の中にむりやり充填して、なおそれを膨らませるわけでしょう? 無理がかかるに決まっている。だから、「個性」とか「人材」とか「自己決定」とか「自己責任」ということが強調されればされるほど、そのアンチテーゼっていうのがある[=現れる]わけですよ。そのアンチテーゼというものがどういうふうに現れるかというとですね、「ありのままでいい」とか「自然体」とかって言うんですよ。
 ところがですね、「ありのまま」ってどういう状態かなんて、普通の人には分からないですよ。「自然体」ってどういう状態なのか? そういうものを作るにはおそらく、極めて高度なテクニックが要るに違いないんですよ。
 例えば、非常に売れている本で「求めない」とか「がんばらない」っていう本があるでしょう?
宮崎:それは要するに仏教的な文脈のなかで売られているわけですよね。
:その人たちの真意はともかくとしてね、そのタイトルというか売りの言葉だけをいうと、「『求めなくて、がんばらないで』果たして人が成り立つのか?」っていう[疑問]があると思うんですよ。ところが、あえてそれを強調して出すっていうのは、片方に「人材だ、個性だ」っていうのがあるわけでしょう? [この2つは対立しているように見えるけれども、]この2つには共通して或る基盤があって、両方とも「自分自身を何かで根拠づけたい」っていうのがあるんだと思うんですよ……「自分を自分だけで[根拠づけたい]」、「ありのままの自分でいい」、あるいは「自己決定の自分」。
 しかし、――宮崎さんもさっき仰いましたけど――自分のことを自分だけで何とかするというのは幻想だと私は思いますね。これでやっている以上は、要するに同じことになると思うんですよ。つまり、いま我々が非常に考えなきゃいけないのは、「信頼――社会における信頼――というものをどう考えて、共同体的あるいは共同的存在である自分をどのように再定義するか」が、まず問題だと思うんですよ。
宮崎:ところがね、先ほどの非常に市場主義的な自己責任論とか自己決定論と、一見するとそれとは対局にあるように見えるような「求めない」とか「ありのまま」――もうちょっといくと「スピリチュアル」も[そこに]入りますよね?――というこの両者は一見すると対局にあるように見えながら、「個人」というか「自己」というものが常に根っこにあるという点においては――あるいは「自己を渇望する」、「自己たることを渇望する」ということが根っこにあるという点においては――同じなわけ。この同じなもの……この両極端のなかで、両方において[自己を]定義できないから、無限の渇望に遭っていくということですよね?
:そう。おそらくそれがね、ブッダが懸念した一番大きい欲望だと思うんですよ。これはね、自己破壊していくことになると思いますね。
 本来、自己というのは根本的には「課されたもの」なんですわ。我々はべつに「望んで始めた自分」ではないんですよ。だって、自分の名前を自分で付ける人は一人も居ないんだから……この事実一つを考えたって、自己というのは「課されたもの」ですよ。そうするとね、「自己を肯定する」ということになれば、「課された何ものか」も一緒に肯定しない限りは駄目なわけですよ。
宮崎:でも、「何によって課されたのか?」というのは……。
:そこで、それ[=課した主体]が分からないと嫌だということになると、「神」みたいな話になるかもしれない。しかしながら、そこ[=神など]で自己を根拠づけてしまうと、結局はそれに依存することになると僕は思うんですよ。つまりそれは、「自己の底に何かがある」ということから決して離れていなくて……。自己が自己を始めていないにしても、一番大事なのは「この自己を受け入れるか受け入れないか」ということだとするならば、それはどう見たってですね、それを「神」とかって名指ししてしまった途端にそれが「自己」に変化して、同じように閉じてしまうと思うんですね。
宮崎:同じように閉じてしまうし、実はそこの根底に「神」とかあるいは「集合的無意識」とか「大我」とかいうようなものを見出した瞬間に、皮肉なことに自分というものは無くなってしまう。その次元では消えてしまうわけですよ。拡散してしまう……あるいは無限に拡散してしまう。自己を求めてどんどん掘り進みながら、実は自分――自己――が消えてしまう。そして、「なぜ課されたのか?」というような問い自体が無意味化してしまうわけですよね?
:だからその……私が感じる仏教の凄みというのは、そこで寸止めしちゃうところだと思いますね。
宮崎:そう。
:つまり、「関係性のなかに在る」と言って、「その関係がどうしてそこにそのように生まれたか」に関しては「言わない」。だから、これが忍耐できるかできないかが、仏教徒であり得るかあり得ないかという分かれ目だと思うんですよ。
 ですが、――私は今日はべつに仏教の宣伝をしに来たわけじゃないからね――普通は社会的な存在としては、自己の存在は他者との関係性のなかに在るわけですわ。つまり、さっき卑近な例で「名前を付けたのは自分自身ではないでしょう?」って言った通りに、少なくとも社会的な自己を課すのは社会であり他者だと思うんですよ。そうすると、社会的な自己を受け入れるためには、その課した――しかも一方的に課した……はっきり言えば、自己決定も自己責任も及ばないようなことを一方的に押しつけた――社会なり他者もひっくるめて受け入れなきゃなんないわけですよ。これが共同性の根本にあると私は思うんですよ。
 それで、この「自分に自己を課す他者」というものを受け入れられるか受け入れられないか、あるいは、そういう存在を認めるか認めないかが倫理の根幹にあると私は思うんですよ。
宮崎:そうだと思いますね。ということはね、自分の或る種の根元に問いかけるというところまではやるんだけれども、それに対して今現在あるこの自分が置かれている立場――実状――というものから、「一般的な他者」つまり「自分を名付けた他者……何らかのかたちで名付けた者」あるいは「自分を規定してしまっているもの」に対して憎悪を抱いてしまうような人たちというのが社会のなかで一定数出てきて……。
 今年の犯罪のキーワードは「被害者は誰でもよかった」。この「誰でもよい一般的な他者に対する憎悪」あるいは「社会全体に対する憎悪」、「共同性に対する憎悪」っていうものが社会の表層にこれほど出てきた年は無かったと思うんですけれども、いかがですか? この本[=南直哉なぜこんなに生きにくいのか』]でも、そういうことは少し触れられていますけれどね。
:あのね、「共同性に対する憎悪」なら分かると思うんですよ。さっき仰ったように、今その共同性そのものが危殆に瀕しているでしょ? そうするとね、共同的な存在のはずなのに、共同性――人間の信頼関係みたいなもの――の根底にヒビが入ってしまうと、その人は誰を憎んでいいか分からないと思いますね。だから社会の責任にできないわけですよ。そうするとそれは、いったい自己に対する自己嫌悪なのか、社会に対する憎悪なのか見当もつかない……つまり、誰を敵にしていいのか、自殺したらいいのか、あるいは誰かに敵意を向けたらいいのか分からなくなってしまうと思うんですね。
 ですから、「[被害者は]誰でもいい」っていうのには実は「自分」も入っているだろうと思いますね。ですから、あれは共同体に対する敵意ではなくて、共同体に対する信頼を決定的に傷付けられた人間の、――何て言うんですかね――最後の行動だという気がしますね。つまり人間は、共同体に対する信頼を根こそぎ傷付けられてしまうと、自己破壊するんだと思いますね。

4 of 5へ続く)