ニュースの深層evolution:「なぜこんなに生きにくいのか」(4 of 5)

※話者:南直哉(みなみじきさい/禅僧)、宮崎哲弥、波多野健
※放送日:2008年12月10日※〈3 of 5〉からの続きです。先頭はこちら。音声の全体を通して聴きたいときはこちらをご参照ください。

※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

波多野:それであれば、自殺という選択肢もあると思うんですけれども……。
:だから、自己破壊の仕方として直接に自殺をするか、あるいは社会に敵意を向けるかというのは紙一重のことだと思います。ただね、自殺する人間は「自分が悪い」という何かのはっきりした自覚があるんだと私は思いますよ。しかしもしそれが無いと、これは自分を殺す動機づけにはならないと思います。
 自殺志願者の人と私も何度か会ったですけれども、自殺する人っていうのはとても自分を追い込んでいますわ……自分がいけないと思っている。それで、[彼らは]より善く生きたいんですよ。より善く生きたいのに今だめだから……。つまり、「死にたい」ということと「生きがたい」・「生きたくない」ということは違うんです。ところが、無差別殺人をするような人はやはり、[自分が]こうなってしまった――つまり社会に認められない・受け入れられない――のが何故なのかをはっきり分からないと思うんですよ。
波多野:要するに「自分の責任ではない」と。だからこそ自殺はしないで、他人を傷つける。
:そう。それで、そのときに「そういうこと[=社会に認められない・受け入れられない理由]が分からないあなたが悪い」ということはありますよ。私も、「あなたの言い方は優しい――特に犯人に対して優しい――」って言われることがある。そうやっても[=社会に認められなくても・受け入れられなくても]がんばっている人がいっぱい居ることは私も認める。しかしながら、彼らに私が非常に共感を感じるのは、「自分の敵がいったい何なのか? 自分がいったいなぜこれほどに追い込まれなきゃいけないのか」っていうことを決して確定的には分からないんですよ。もっと言えば、誰かのせいにできないんです。誰かのせいにできれば話は分かる。誰かのせいにできないから「誰でもよく」なるんですよ。と、僕は思うんですよ。
宮崎:よく分かりますよ。
 今まで犯罪というと、――色々なこの世の動機形成というのはあるにしても――「誰でもよかった」あるいは「人を一度殺してみたかった」というような動機というのは表面化してこなかった。なぜここにきてそれが表面化してきたんだと思いますか?
:私が思うのはやはり、「自分の存在の価値」みたいなものを自覚できる場所がものすごく狭くなって……。
宮崎:先ほどのようにね、承認されないっていうことが根本にあるわけでしょう? 承認された経験が無い。とりわけ一部の部分は誰かが承認してくれたかもしれないけれどもそれは永続的なものではなくて、わずかな期間だけちょっと承認してくれた。あるいは、承認してくれても、彼――その人――からすると「すぐ裏切られる」というような思いもある。だからそのなかで、要するにどんどん傷ついていくわけ。心が毀損していくわけですよね。そして不信感が募っていく。そういう意味では、全人的に彼/彼女を丸ごと承認してくれるという経験というのは非常に微弱で薄い。あるいは遠い過去でなければ、それ[=承認された経験]に遡ることができない。そういうことなんですかね?
:そうですね。そうだと思うんですよ。つまり、今の「遠い過去」って例えば母親とか父親みたいに「あなたがそこに居るだけでありがたい」と言われる経験がしっかりないと、そもそも自分がなぜ生まれてきたのかを知らない以上は、自己肯定する根拠にならないわけですよ。そうするとね、それが得られないという人間は根本的に、他者につながる時に非常に苦労すると思うんですね……それは何人も見て知っている。
 ですから問題は、取引ではない人間関係をどれだけ経験するか、あるいは作れるかだと思うんですよ。ところが、特に高度成長が終わってバブルが崩れて今に至るまで、取引を度外視して人間関係を構築したりする場というのが非常に少ない。あるいは、限定されたところにしかない。また、ますますそれが経験しづらくなってくるわけですよ。取引でない人間関係――つまり、「僕にとってあなたが大切だ」という言葉が信頼できるような人間関係――を作れなくなれば、これは苦しいでしょうね。
宮崎:しかも経済的な状況が悪くなって……例えば労働ということだけを考えても――まあ南さんはなかなか適応できなかったみたいだけれど(笑)――経験の無い一般の若い人たちというのは、労働の過程のなかで企業の側がどんなに一面的な部分――効率性など――しか認めないとしても、互いに働くなかで何らかのかたちで社会性や或る種の全人的な承認――十全ではないかもしれないけど――というものを得ていたわけですよね?
:[そういう状況は]あったんです。
宮崎:その[労働の]場というのが、例えば内定取消とか、あるいは内定取消ではなくても新卒者を非常に絞ってしまって、やたらに会社で仕事を押しつけれるばかりで同世代は同じ部署にあまり居ない、同世代も血眼になって仕事をするしかないというような状況に立たされると、そういう疎隔感・疎外感というのは募っていくんじゃないですか?
:厳しいですね。
 あのね、昔あの「コツコツする人・コツコツやっていく人」って良い意味で使っていたでしょう? 私は自分の弟子が或る小さいお寺に入るときに言ったんですよ……「とにかく毎日コツコツ真面目にやってろ……草取りするなり何するなり。誰も見ていないと思っても必ず見ている。お坊さんは、コツコツ真面目にやっていれば必ず人が寄ってくるし、必ず人が助けてくれるから、どんなに小さい寺でも大丈夫だ」と言ったんですよ。それはね、幸いなことにお坊さんの世界ではまだその通りになるわけですよ……今でも。しかしこれは一昔前・二昔前の会社だったら、コツコツ努力して真面目にコツコツやっていく人に対する評価というのは今よりずっと高かったですよ。
宮崎:ずっと高かった。
:それで、「やっぱり彼は頼りになるね」みたいなのがあったじゃないですか。ところが今はですね、コツコツやっているということはそれ自体では価値ではないんですよね。それがもし誰でもできることだったら、「より安い方へ」ってなるわけですよ。コツコツやっていくことが対人関係をどのように作っていくかということは一切度外視して、「彼のやっていることは、こっちの人だったらもっと安く使える」っていうだけでその「コツコツ」はバサッと切られちゃうでしょう? これはね、まさに生きづらいと思うんですよ。
波多野:私が大学を卒業したのが95年なんですね。もうバブルが崩壊して就職氷河期に入った時なんですけれども、友達に話を聞いていると、やはり「コツコツやる」というよりも何か「どでかいことをやってしまった方がいい」と。おまけに、他人とあまり会話というかコミュニケーションをとらないままに、どちらかというと一人で仕事をやっているような状況というのが……周りの同級生なんかからそういう話を聞くことが多いんですね。そうすると、ある意味で社会に対して不感症になっているんじゃないかと僕は思うんですよね。
宮崎:不感症? 具体的にはどういう症例なんですか?
波多野:例えば、他人の評価だとかそういうものはあまり受け入れずに自分で物事をすすめていくというような……。
宮崎:そのほうが立派なの? それともそのほうが楽なの?
波多野:楽なんだと思うんですね。やりやすいんだと思うんです。
宮崎:なるほど。でもそれだと、いま流行りの言葉で言うとKY――「空気読めない人」――になっちゃいませんか? でも、「空気読めない」っていうのもあれはあれで抑圧的な言葉ですよね?
:つまりその、共同体というものがどういうものかということをあまり真面目に考えないで単なる同調だけを求めるのが「空気を読む」ということですよね。
波多野:だから、「生きにくいのが当然」って考えちゃってる部分があるのかもしれないですよね。それが、就職氷河期というもののなかで就職していった皆が考えていることなのかもしれないですね。

5 of 5へ続く)