ニュースの深層evolution:「なぜこんなに生きにくいのか」(5 of 5)

※話者:南直哉(みなみじきさい/禅僧)、宮崎哲弥、波多野健
※放送日:2008年12月10日※〈4 of 5〉からの続きです。先頭はこちら。音声の全体を通して聴きたいときはこちらをご参照ください。

※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

宮崎:でもその後の世代がね、――例えばコミュニケーション状況を考えると――もっとそれが深化していて……例えばパソコンやケータイを使ってインターネットでコミュニケーションを部分的にしていればそれで済む、と。実際には全人的な承認なんていうものはそこでは得られない。まさに極小化した部分に過ぎないんだけれども、それでそこそこ満足で、快適なコミュニケーションがあったかのように――もちろんコミュニケーションはあるんだけれども――なってしまう。じゃあそれで根元的に満足するのかというと、常にこの満足感は満たされるわけではないから、生きにくさが激化していく。そういう環境にあるんじゃないですかね?
:何て言うんですかね……それで済めばいいんですけれども、済まない場面というのが必ずあるじゃないですか? 例えばその、介護をする/される状態になったら、これはインターネットでは済まないですね。
宮崎:それは、もうちょっと前の話として家族というのは[どういうもの]なのかという話をしないと……一足飛びに介護まで飛びすぎです。
:ただね、家族というものの状況を介護ほどに露骨にあぶり出すものは無いでしょう。
宮崎:その通り。
:そのときにね、私は介護の現場というものを聞いたり、または父親が亡くなる時の母親の様子を見たときにね、――これは誤解されるといけないんで、もし間違っていたら言って頂きたいんですが――普通は介護される人が弱者で、介護する人が強者に見えるんですよね。ところがこれが、人間関係が閉じたこの2人[=介護する人とされる人]の間だけの話になると、どうやら介護される人が権力者で、介護する人が弱者のように見えるんですよ……私が見ているとそう見える。
 つまり、周りから見れば「これだけ弱っている人なんだから、ちゃんと看てやって当然だし、介護する人は何もかもを犠牲にしてこの人を看てやって当然だ」みたいな社会的合意のなかで[介護を]やっているわけですよ。そうすると、介護される人にはそんな気はさらさら無くても、[介護される人の]存在自体が権力者になっちゃうと思う……人間関係が閉じていれば。そして、介護する人は腹の底から「介護してあげたい」と思っても、「権力構造」がきつくなってくると、――[人間関係が]閉じれば閉じるほど・外に開かれないと――「権力構造」の不均衡や強弱がもっと露骨に出るから、ものすごく辛くなると思うんです。介護の現場で「虐待」って言いますけれどね、この「権力構造」に対する「反乱」に見えるときが僕にはあるんですよ。
 そうするとね、この問題をどうするかというと、この「介護する人を介護する人を介護する人……」みたいにですね……。
宮崎無限後退していく。
:そう。要するにね、共同化……具体的に言えば、介護というものを誰か一人に孤立させないように……もっと言えば「介護することというのは一人の手には負えないんだ」ということをね……。
宮崎:だからね、そういう意味では具体的な政策話になってしまう……つまらん無味乾燥な政策話になってしまう……。
 今は訪問介護ということが主流になっているでしょう? 今の介護保険システムも、訪問介護が前提になっている。これはスウェーデンとか北欧を模したんです。そういう意味では本当はね、やっぱり施設介護のほうが良いんじゃないかという気がする。
:あのね、私は政策的なことは非常に暗いんで分からないが、私が言いたいのは例えば「共同体を構成し直す」とか「再興する」とか言ったときにね、それは観念的な問題ではないということなんですよ。具体的に「介護する人/される人」みたいなあの状況を見ると、孤立した問題として放っておくことは、人間関係というよりも人間の有り様そのもの、あるいは社会の有り様そのものを傷つけていくと思いますね。
宮崎:でも難しいねそれは。つまり、先ほどの伝で言うならば、夫婦の間で両方が両方を全人的に認め合う――承認し合う――ような関係性というのが、いったん社会の視線に触れていくと「主と奴隷」になってしまう……「主従関係」になってしまう。それが「逆転」したりする。そういう権力関係のなかで人間性の「暗黒的な部分」というようなものが非常に露出したりするというような……。介護の場面というような非常にデリケートな場面が、そういう暴力的な場面になってしまうということですよね。
:そう見えるんです。だから、或るものを「孤立して、それ自体で完結したもの」として見てはいけないと思うんですよ。「この集団も、別の集団との関係で成り立つんだ」という考え方で「開いて」いかないといかんと思いますよ。「介護される人・介護する人」だけの関係の中に閉じ込めないで、それをどこか開いていかないといけないと思いますよ。
 つまり、あれを見たときに私が思ったのは、最終的には「自己が自己であるということを自己だけで完結させない」ということがとても大事だと思うんですよ。「自己決定」、「自己責任」というのは、自己に対する考え方が甘いから出てくるんだと私は思うんですね。それ[=自己決定、自己責任]で割り切ってしまうと、「そもそも自分が自己決定で生まれてきたわけではない」というところがズボッと落ちちゃうんですよ。
宮崎:でも、仮にそうするとね、「一人である」ということも病であるということになると、「二人である……対の関係」ということも病である可能性がある。いったい自己というのはどこまで広がっていくと――自己の領域を広げていくと・自己の関係性の領域を広げていくと――病ではなくなるのかな?
:だから、どこかで止めようとしちゃ駄目でしょうね。つまり、例えば「自己が自己であるのは何によってか?」と言ったときに、色んな回答を――例えば哲学や宗教が――出すでしょう。それを、一つの考え方、あるいは自分の道しるべとして使うならいいでしょうが、「これで決定」って思ってしまっては駄目だと僕は思いますね。
宮崎:ただね、社会政策みたいなことを考えると、どこかでこう線引きをしないといけない瞬間というのはあるわけですよね。そうしないと、色々なものの制度設計というのはできなくなってしまう。介護なんて、非常にアクチュアルな問題――関係性の問題であると同時に、アクチュアルな政策的な問題でもある――なわけですよね。ここはどうすればいい?
:うーん……これは宗教家が即答できるような問題とはちょっと違うような気がしますが、ただですね、政策的な制度、あるいは制度というものは、どこかで必ず[線を]引きますよね。そうすると、この[線を]引くというのは……[CMで中断]。
宮崎:人間というのはね、根底的に関係的な存在である。ところが、その関係性がいったん閉じてしまうと、これは――2人であれ3人であれ4人であれ何らかの共同体であれ――当然に病理が発生してくる。しかしながらその共同性なり関係性というものは人間を支えるうえで極めて重要な根元的なものである。とするならば、例えば介護という場面を例として出されましたけれども、こういう場合に政策というのは何らかのかたちでそこに「線」を引かなきゃいけない。線を引くことというのは、本当にできるのか? 妥当なのか? ということを伺ったわけですけれども……お話の途中で[さっきは]CMになってしまった。
:制度にしても共同体にしても、一定の線を引いてそこにシステムを作るわけでしょう? だから、出来上がったシステムなり制度というのは常に「一定の条件下で暫定的に出来ているんだ」ということを皆がわきまえておくべきだと私は思うんですよ。「今は、こういう条件でこの範囲のことをやるためにこういう制度やこういうシステムを作りました」と。しかし条件は「諸行無常」で変わるし、人の有り様も変わる。あるいは、そこに加わってくる人も変わるかもしれない。そうなったら、「この制度は常に見直して、再構築していかなきゃいけない」と。人はやっぱりこの手間を惜しんじゃいけないと思うんですよ。
 つまり、簡単なことですよ……いったん夫婦になると、――私もそうですけれども――お互いに相手を「妻」、「夫」としか見ないじゃないですか。それでいいんですよ普段は。ところが、妻の裏側には「女」が隠れていて、「女」の向こう側には「人間としてのその人」が居るかもしれないじゃないですか。そうすると、今はとりあえず「夫と妻」で安定している二人の関係も、状況が変われば――またその別の要素が介入してきたりすれば――「妻」では耐えられない「女」と「人間」の部分が吹き出してきて、[人間関係を]もう一回組み替えなきゃいけない。こういうことを織り込んで、それを覚悟してやって頂かんといかんですね。
宮崎:その覚悟っていうのは結局はね、――先ほどから[話しているように]――「全人的に承認される」ということを人は求めるんだけれども、「全人的に承認されるということは結局は無い」ということですね。
:[全人的に承認されるということは]無い。ですからそこを自覚して耐えるし、想像力として「他人もそうなんだ。辛いんだ」ということに想像力が及ばないといかんと思いますね。
宮崎:最後はやっぱり仏教的な話になって終わりました。どうもありがとうございました。またよろしくお願いします。
:ありがとうございました。

(終わり)