山下良道法話:「私の中のモンスター」(3 of 3)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2009年8月30日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=524
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

2 of 3からの続き)

 今日、今から読むところは「モンスター」とか「ペインボディ」という言葉は出てこないです。出てくるのは「サムヨーガ」という、「結び目」みたいなものですね。だけども、まあ同じようなものですから。
 それと、ご存じのように――サティパッタナ[の解説]もさんざん先生たちから聞いていると思うけども――、要するに「観ろ、観ろ、観ろ、観ろ」なわけですよ……「observeしろ」、「観察しろ」。だけども、その「観る」ということは……さっきも言ったように、「地球上」で・この「地球の上」でジタバタと七転八倒してきた我々は、もう色んなものを観てきたわけですよ。それと同じようにいま怒りを観たってどうしようもないわけね。だから、いまヴィパッサナーを勉強している人はやっぱりちょっと正直になってほしいんだけども、「観てどうにかなりました?」って私は言いたいんだけどね。ということは、「観ること」――今から「怒りを観る」ということをみていきますけども――というのはじゃあどういうことなのか。そこをもう一回考えてみて下さいね。
 ティク・ナット・ハン師の“Transformation And Healing: Sutra on the Four Establishments of Mindfulness”の105ページね。これはサティパッタナの或る一節を取ってきて、それをどうプラクティス(実践/修行)するか、エクササイズするか[をティク・ナット・ハンさんが書いたものです]。“Seventeens Exercises”ですね。これはどういうことをやっているかというと……サティパッタナの原文だけ言うとね、

He is aware of the eyes, ears, nose, tongue, body, mind, and aware of the form, sounds, smells, tastes, touch, object of mind. And he is aware of the internal formations which are produced independence on these two things. He is aware of the birth of the new internal formation, and is aware of abandoning an already produced internal formation, and he is aware when an already abandoned internal formation will not arise again.
(ティク・ナット・ハン“Transformation And Healing: Sutra on the Four Establishments of Mindfulness”)

……ということですね。要するに、我々はもちろん眼耳鼻舌身意――眼があって耳があって鼻があって舌があってそして身体があって心があって――ですね。それは感覚器官じゃないですか。それと、その対象ですね……眼は形あるものを見るでしょ、耳は音を、鼻は匂いを、舌は味を、我々の身体(触感)はタッチして何かを感じている。そして我々の心は、心の対象を。だから、眼耳鼻舌身意と色声香味触法ですよ。その2つがあるわけですよ。それで、その2つをきっちりと認識していて、そしてそこに“internal formations”が作られたことを観る……要するに、眼が何かを見たときに・耳が何かの音を聞いたときに・鼻が何かの匂いを嗅いだときにということですよ。そういうことが起こったときに、私らはそこに“internal formation”を観る。そしてその“internal formation”は、後から出てくるけども「サムヨーガ」のことで、これは要するに結び目みたいなものですね……心の結び目ですね。要するに紐が何かこんがらがっちゃって、そこに何か結び目ができてどうにもならないというような状態ですよ。そして、それが生まれてくること・それを捨てること・捨てられたものが二度と生じることがないということを修行者は認識しているということですね。
 だからもうお分かりのように、ここで一体なにをやっているのかといったらば、“aware”――“being aware”――ですね。何かを認識していること。だからここでは、私らが「生きる」ということは「眼が何かを見て、耳が何かを聞いて、鼻が何かを嗅いで、舌が何かを味わって、身体が何かに触って、そして心が何かを思って」……そうしているわけですよ。生きているかぎり、そういうことは常に起こっていて。だけどもそれが起こったときに、或るときに「結び目」ができてきてしまう。それを「サムヨーガ」、“knot”と言っているわけですね。
 それで、じゃあどういう結び目ができるかというと、“the five dull knots”……まあちょっと緩い、それほど深刻じゃない結び目は、

  • confusion(混乱)
  • desire(欲望)
  • anger(怒り)
  • pride(プライド)
  • dought(疑い)

ですね。
 そして“the five sharp knots”――もっときつい結び目――は、

  • “view of the body as self”(有身見。この体を自分のものとするということ)
  • “extream view”(極端な意見)
  • “wrong view”(間違った意見)
  • “perverted view”(ひっくり返った・転倒した意見)
  • “superstitioned view”(迷信。あるいは、何かの儀式に執着するというようなこと)

ですね。
 だから、我々は当然、毎日この感覚器官を持って生きている以上、その感覚器官が対象に触れるわけですよ。触れるときに、色んなことが当然起こってきます。それが苦しみを生むこともあるし、生まないこともある。ではどうしてそういうことになるのか。だから今はね、後々に「ペインボディ」とか「モンスター」とかになるもう一つ手前のところを問題にしているわけですよ。
 ここは非常に面白いんですよ。どう面白いかというと……。英語を読んでいると時間がかかりすぎるから、いきなり和訳しながらいきますね。眼が何かの形を見たり、耳が何かの音を聞いたり、鼻が何かの匂いを嗅いだり、舌が何かを味わったり、身体が何かに触ったり、そして心が何かを認識したりしたときに、“knot”――「サムヨーガ」。結び目。これは一番初期の段階のペインボディと思ったらよいのかもしれない。一番初期の段階の「モンスター」ですね――が、結ばれたり結ばれなかったりする。要するに、心に何かがひっかかるということですよ。或るときは結び目ができたり、或るときは結び目ができなかったり。結び目ができるということは、モンスターができる最初のことを言っているわけですよ……ネガティブなエネルギーが湧いてくる最初のことね。
 じゃあどうしてそんなことになっちゃうのかというと、説明がありますね……例えば誰かが非常に酷いこと・不親切なことを言う。だから、耳が何かの声を聞いたわけですよ。だけどもその時に、その人がそんな不親切なことを言う理由が分かっていれば、私らはその不親切な言葉をそれほどまともには受け取らなくて、それでべつにイライラしたりとかすることはなくて、それで結局、結び目が結ばれることはない。これはまあ分かると思うけども、例えば小さな子がぎゃあぎゃあ騒いでも、そんなにイライラはしないじゃないですか……場合によってはイライラするかもしれないけどね(笑)。まあ大部分の場合は、小さい子が理不尽なことを言ったとしても、まあそんなにイライラしないじゃないですか。だからそれが、結び目ができないということですね。
 だけども私らが、なぜその人がそんなひどいことを言うのかが分からなかったらば、いきなりもう私らはイライラしちゃって、そしてそのときは結び目ができます。どういう結び目ができるかというと、“hated”(憎悪)という結び目ですね。そして、我々が誰かの言葉――あるいは行動――を誤解したときにできる結び目は“confusion”(混乱)。そしてそれがイライラ感を生み出していく。あるいは“pride”(自慢)とか、“attachment”(執着)とか、“doubt”(疑い)ですね。だから、そういう「混乱」という結び目――何かがきれいに観えないということ。これは当然、アビッチャー(無明)のことですよ――が、その他の全ての結び目の基盤になってくる。基盤というのは、そこから次から次へと色んな結び目ができてくる。
 いま、「結び目」って悪い意味で使っていますからね。ちょうど何か体の中に腫瘍ができるときに何か固まるじゃないですか。それから何か非常に悪いものができてくる。そういうイメージでいて下さいね。それがまあ後からモンスターになってくるんだけども。だから、モンスターの最初のところですね。
 そして、だからね、私らは何か不快なこと・嫌なことにぶち当たったときに、その結び目ができやすい。じゃあそれに対して、良いこと――非常に気持ちの良いこと・快適なこと――にぶち当たったら、その結び目はできないのかというと、もちろんそうではなくて……皆さんご存じのように、何か良いものに出会ったときに私らは当然、その良かったものを「もっと欲しい、もっと欲しい、もっと欲しい」って執着してくるじゃないですか。そして、それがうまくいかなかったとき――要するに、「もっと欲しい」ということに手が届かなかったとき――に、いきなりそれが苦しみの原因になってしまう。まあ、こんなことは例えば10代の男の子・女の子が毎日やっていることでね(笑)……好きな男の子・好きな女の子ができて、だけども全然振り向いてくれなかったら、いきなり憎悪に変わってしまう。もう当たり前なことね。

(中略)

 だから結局どういうことかっていうと、悪いもの・不快な出来事に出会っても結び目は当然できるし、不快ではない・快適な物事に出会えば結び目ができないのかというとそうではなくて、結局それもまた結び目ができる。だから、対象が快適だろうが不快だろうが、良いことだろうが悪いことだろうが、どういう対象に出会おうが、どちらにしても結び目はできてしまうっていうね。ということなんですよ。そして我々はその結び目に従ってなんとかしようとするけれども、まあ、もう手遅れですよね。
 いま107ページの第2段落ですね。今はちょうど、結び目ができるところ――出来始めのところ――を言っていたんだけれども、じゃあそれをこれからどうしていくかっていう問題になります。
 例えば“sorrow”(悲しみ)――悲しみの感覚――ですね。それもまた結び目の一つであって、それは混乱とか欲望とか憎悪とかプライドとか或いは疑いとかそういうものから起こってくる。そして、そういう苦しみの根っこの部分[=結び目]が本当に変わっていかないかぎり、その悲しみの感情はずっと残ったままでいる。そして、毎日の生活の中でその悲しみの種子が我々の意識の中に蒔かれる。それは他人と交わることによって蒔かれる。あるいは他人と交わらなくても蒔かれる。
 そして、他人が何かを言う。あるいは他人が何かをする。それが我々の心の中で結び目を生んでいく。だけども、もしそれと同時に理解や或いは智慧と寛大――寛大であること。ゆるすこと――と慈悲の種子を蒔くならば、相手が何を言おうが・しようが、それは我々の中で結び目をつくることはない。だから結局、何が起ころうがそれを我々がどう受け止めるかによって、結び目ができるかできないかが決まってくる。そして我々が安定していて、リラックスしていて、智慧があって、慈悲があって、エゴによって不自由になっていなかったならば、他人がすることや言うことは結び目を作る力にはならないということですね。
 だから――だんだん近づいてきましたけども――、要するに我々が感覚器官を通して何かに出会ったときに、結び目がどうしてもできてしまう。不快なものに出会おうが、あるいは快適なものに出会おうが。だけども、結び目をそのまま作らせるのか、あるいは作らせないのかの2つにやっぱり分かれていて……じゃあ、作らせないため、あるいは作ってもすぐに解いていくにはどうしたらいいのかというところで、いよいよマインドフルネスということが出てくるわけね。

 じゃあどういうことかというと、もし我々がこのサティパッタナ――四念処経――の教えに従って生きていくならば……。四念処経がどういうことを教えているかというと、要するに“mindful observation”――マインドフルに観ていくこと――ですね。それは、「結び目が起こってくること」、そして「それが続いていくこと」、そして「それが変化していくこと」[を観ること]。そして日常生活のなかで我々は完全に目覚めていなきゃいけない。そうすることによって、この結び目が生まれたときにすぐにそれを変化させる――要するに、結び目を大きくしない。腫瘍を大きくしないようなものですよ――。そして、もし我々がそういうふうに[結び目を]変化させないで、そのまま結び目をどんどんどんどん大きくしていったならば、それは“dominate us”(我々を支配していく)。それがまあ、さっきからずっと言っていたペインボディあるいは「モンスター」になるということですよ。そしてそうなると、それを変えていくことはとてつもなく難しいことになってくる。そしてそういう、憎しみとか欲望とか、あるいは疑いとかのような結び目に対しては、我々は完全に目覚めて注意を向けていかなきゃいけない……それが起こったときにね。それが生まれた瞬間に。そういう結び目が起こったならば、すぐに“transform”(変換する)ことができる。なぜかといえば、最初に起こった瞬間というのはまだ結び目が緩いからね。だからそれを“untying”(解いていくこと)は簡単なのだということですね。

 まあ今の箇所は、「いま結び目ができかかってきた。けれども、このできかかった瞬間に観ちゃえば、それをほどくことは割合に簡単だ」ということですね。

(中略)

 だけども、我々は「昔の借金」があるわけね(笑)……「昔の借金」があるんですよ。それがどういうものかといったらば、抑圧してきたような結び目ですね。それがまあ“Transformation And Healing: Sutra on the Four Establishments of Mindfulness”に載っている18番目のエクササイズになりますけれども。これがね――まあ全部を読んでいく時間はないんだけれども――、要するに、誰だってちょっとでも仏教を勉強したら「怒りがよくない」、「執着がよくない」ということは書いてあるから、まあそれは分かるわけですよ。だけどもそこで非常に複雑なことが、仏教とか何かを勉強していると却って起こってしまうことがあるんでね。それがどういうことかというと……仏教なんかを勉強しないでもう怒り放題に怒っている人は、ある意味で単純なわけですよ。まあ、それが良いとは言わないですよ。だけども、仏教なんかを勉強しちゃって「怒りがよくない。三毒のひとつなんだから」となって、特に「怒っている自分というのが許せない」ということになるじゃないですか。あるいは、「怒るということは非常にまずいカルマを生むから、よくないな」となるじゃないですか。そうすると、本人はそれ[=怒り]を見ないふりをしてしまうわけね。ここでは“replace”って呼んでいるけども、押さえ込んじゃうわけですよ、当然ね。それが非常にややこしい問題を生むわけね。
 それで――これはいま110ページぐらいのことを言っているんだけども――、本当に我々が自分の思っていることを表現しないで押さえ込んでいくと、心が何か複雑骨折するようなことが起こってきてしまうんですよ。それで、そういう心というのは、それは完全に解決したわけでは全然ないから――それはただ単に押さえつけているだけだから――、当然、ワーッと湧いてきてしまうものですよね。その恐ろしさなんですよ。分かりますね?
 それで――ちょっと時間がないから読まないけども――、さっきは「結び目ができたばかり[の時点]」だったじゃないですか。だけどいま取り上げているのは、できたばかりの結び目じゃなくて、完全に押さえつけられた、あるいは隠された――隠れた――結び目ですね。見て見ぬふりをしてきた結び目……だけども、見て見ぬふりをしているだけであって、それらは存在していて、存在しているものはいつでも出てくる。出てこようと待ちかまえている。あるいは、出てこなくてもその人の色んな考えに非常に歪んだ影響を与えている。そういうことは分かりますね? じゃあ、そういうのをどうしたらいいのかっていったらば……111ページの最後のほうね、

The method of curing the sorrow which comes when internal formations are replaced is the deep observation of these internal formations.
(ティク・ナット・ハン“Transformation And Healing: Sutra on the Four Establishments of Mindfulness”)

 だから、深く「観る」こと。なぜ深くかといったらば、その結び目が非常に深いところまで入っちゃっているからですよ。要するに、もう表面的な結び目ではないから。だから、もう深いところまで入っちゃっているから、それはもう奥のほうに隠れたゴキブリみたいなもんだから届かないわけですよ。だから捕まらないわけですよ。だからそれをどうやって表面化させていくかという非常に難しい問題があるわけですよ。だからまずは、押さえ込んだものを表面化していく、表面化させていくことが大事。
 それで、じゃあどうやって表面化させていくかというと、まず自分の心を観ていく。それで、我々は非常に不思議なことをやるわけですよ。いま112ページの第2段落ですけど、例えばここでティク・ナット・ハンさんが挙げているのは……あるときに誰かが何かを言うわけですよ。「それが何か非常に不快に感じた。なぜなんだろう? それはその人がただ単に不快なことを言ったのか。でもそうでもなくて、なにか自分だけ非常に不快に感じた」。それは、その人が言った言葉が何か自分の中をもちろん刺激したわけですよ。あるいは、「あの女性を見たときに、なぜ私は自分の母親のことを考えるのか」……これもよくありますよね(笑)。あるいは「なぜあんなことを彼に言ってしまったんだろう」。あるいは、「なぜ、あの映画の中のあの性格をしたあの俳優を私は好きになれなかったんだろう」。あるいは、「いま目の前に、誰かに似ている人がいて、この人に非常に何か不快な感じを持っているんだけども、この人そのものじゃなくて、どうも何か過去に出会った、この人に似ている誰かを私は実は憎んでいるんじゃないか」。なにかそんな感じなんですよ。要するにね、本当だったらば、私らはいま神聖な気持ちで眼が何かを見て、耳が何かを聞いたりしているわけじゃないですか。だけども、今のだけじゃなくて昔からの色んな流れがあるから、不思議に何かを嫌ったり、何かに執着してしまったり[している]。そういうところに、我々が押さえていた色々な結び目が絡んでくるから、できてくる。まあ、それもいいでしょう[=そのことは理解できるでしょう]。
 だけども一番簡単なのは――もう皆さんは瞑想をする人だから分かるように――、瞑想中にそういうのが出てくるんですよ。要するに瞑想・坐禅というのは――ここでも接心でもやるけども――、外的な刺激というのはもうあんまり無くなるわけですよ。まあもちろん車の音とか多少入ってくるけどね、テレビをガンガン観るとか誰かとガンガンお喋りするとかじゃないじゃないですか。静かに「吸って、吐いて」してるだけなんですよ。だから外からの刺激が最低限になるわけですよ。そうするとどうなるかというと、本人の心のなかに押さえ込んであったものがバンバン出てくるわけね。要するに、本人は普段は人とガンガン話し合ったりテレビを観たりワーワーとやって、まあ外からの刺激に動かされているわけですよ。だけども外からの刺激が無くなったとたんに、本人の心のなかに押さえつけられていたものが色んなかたちで出てくる。それが例えば、ある一つの出来事を繰り返し繰り返し思い出すということにもなるだろうし、あるいは何かのイメージが繰り返し繰り返し出てくるということもある。それはちょうど……夢の中で「なんでこんな夢を見るのか」って分からないじゃないですか大体のことはね。「こんな夢を見る必然性は何もないのに、昔のこと――30年前の人――の夢を見た。普段の日常生活のなかでそんな人のことは考えたこともない」。だけどもなぜ夢の中に出てくるかといえば、当然私らのなかにあるからですよ。そして、夢の中に出てきた必然性というのも何かあるわけですよね。それと同じようなことが瞑想・坐禅のなかで起こって……瞑想・坐禅をしていると、普段は気にもかけていなかったような、今まで押さえつけられていたものがバンバンバンバン出てきてしまう。

 だから良いのね。要するにね、瞑想というのは或る意味でお掃除みたいなものなわけですよ。掃除といっても、普段の掃除ではなくて大掃除になるわけね。普段だと、例えばタンスの向こう側なんて、わざわざタンスをどけてまで掃除なんかしないわけですよ、面倒だから。だけども当然そこにはホコリが溜まっていて。それで、大掃除になるとそのタンスを動かして、タンスの向こう側に溜まっている色々なホコリを取る。それと同じように、瞑想・坐禅のなかで、自分の心のなかに溜まっていた色んなものが出てくるのを観る。それこそが本当の修行なのね。

 ここでね、ティク・ナット・ハンさんは非常に面白いことを言っているんだけども……瞑想というのは、アナパナだったら「吸うこと・吐くこと」、あるいはサティパッタナだったらこういう、しなきゃいけないオフィシャルなメソッドが決まっているわけですよ。それをまあ一生懸命にやるんだけども、でもやりながら、自分の心のなかに湧き起こってくるものを無視してしまうことはあるわけね。だけども、ティク・ナット・ハンさんが言っているのは、なにか瞑想メソッドで決まったようなことをやるのが目的ではなくて――それもやらなきゃいけないんだけども――、そうすること[=メソッドに従って瞑想すること]で自分の心のなかの何かをつつくことになるんですよ。つつくことによって、自分の心の底に沈んでいた何ともいえない嫌なものが出てくるのね。その嫌なものを出てこさせるのが瞑想の目的なのね。いいですか? この作業をやらない人って、けっこう多いんですよ。瞑想というと――もちろんメソッドだから、やらなきゃいけないことがちゃんとオフィシャルに決まっているじゃないですか。それもやらなきゃいけないんだけども、そういうことをやりながら――実は、本人の心の底に溜まっている何かをつっついて出してくることね。そっちのほうがよっぽど大事なんですよ。それはなぜかといったら、そっちのほうが本人を苦しめてきたんだから。今なにか「吸うこと、吐くこと」、「観ること」よりか、いま底のほうから浮き上がってきた、何ともいえない臭い匂いのものを……それを出すことが大事なのね。それで初めて、瞑想というものがはっきりしてくる……もうちょっと意味のあるものというか。
 はい。じゃあもう、ちょっとまとめていきますけども……そういうふうにしてね、モンスターが出来上がるその最初のところをいま言っているわけね。それが結び目としてできてくる。私らが何かに出会ったときに。だから、最初に出会ったときに――もうその瞬間に――それを観ることによって、それをほどくことはできる。それはわりかし簡単。だけども、今までの私らは「借金」を背負っているから、結び目が観えないとか心の底のほうに沈んでいる。それを、観えるところにどうやって持っていって、そこでほどいていくか。そういう作業をしていかなきゃいけない。だからそれはちょうど、モンスターをわざと起こして、それを観ることですよ。そして結局、「観る」ということね……ここでも「こうしろ、こうしろ、ああしろ」ってティク・ナット・ハンさんが言われているけども、結局は「観る」ということしか言われていないわけですよ。それはまあサティパッタナでもみんなそうでしょう? とにかく「observeしろ」っていうね。まあそれはもちろん「智慧でもって」とか「compassionでもって」とか言いますけども、本質的なところは「観る」んですよ。じゃあなぜ、観たときに本人のなかの嫌なものが湧き起こってきて、「観る」だけでこれを本当に“transform”することができるのか。「観る」ということがなぜそんなに奇跡を起こすことができるのか。そこなんですよ問題は。それは、「地球上」からじゃないからね(笑)。そこでね、結局なぜ「観る」ということがそんなに大事なのかといったらば、観たときに、我々はもう「地球」を越えている。それでこれは、この部屋に居る人たちはまあ多分、だいたい私が言いたいことは分かると思うけども、本人がそういう自分のなかの怒りとか――今日の言葉で言えば「結び目」ですよ――を観ることができたときに、本人はもうそこから自由になっている。なぜかっていったらば、本人は今までの「地球上」での観かたではなくて、観たとたんに本人はもう別の次元に行っている。瞑想体験が何もなくてこの話を聞いたら「何のことだ?」って言うかもしれないけども、まあ、瞑想体験をやっている人だったら、私が何を言いたいか分かると思います。「観る」ということは、それぐらいすごいことなんですよ。それがなぜかといったらば、池田晶子さん的に言えば「もう地球上のことではないから」。だからそこにはもうメソッドもなにもないわけですよ。いいですか?
 先週はずっとペインボディそして「モンスター」のメカニズムをみてきましたけども、その続きで、「モンスター」が最初に生まれてくるのが“knot”――「サムヨーガ」、「結び目」。心の結び目――で、その結び目をどうほどいていくか。それには色んなレベルがある。最初にすぐほどく。あるいは、できあがったところでほどく。あるいは、それが完全に抑圧されたものをわざと出してきてほどく。だけども、鍵はあくまでも“observation”……「観る」こと。その「観る」というところに、私らがここ何ヶ月間かずうっと話してきたすべての秘密があって、観たときに我々はもう「地球上」を越えている。ということです。

(終わり)