山下良道法話:「坐禅入門 - 無所得ということ」(1 of 2)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2010年2月28日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=569
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

(途中まで略)

 今日の法話の題は、「坐禅入門 - 無所得ということ」としてください。先週ね、慈悲の瞑想をここでもやって、後半の部分で実際に慈悲の瞑想をやって、何人かから「非常に良かった」というリアクションがあって。だから、先週の法話の後半の部分だけを抜き出せば、自宅でも慈悲の瞑想がそのままできるかたちにしましたけども。だから、もう鐘を鳴らす必要とかなくて、私の先週の法話の後半――40分ぐらいかな――を聴いてもらったら、そのまま慈悲の瞑想が自宅でできるようにしてありますので。ぜひやってみて下さい。なかなか皆さん良い結果が出ているみたいなので。

 それでだから、今日のテーマは坐禅なんですけども、まあこの一法庵とか池袋の会*1とかに来てくださる人には坐禅の説明――坐相とか――をしますけども、このポッドキャストの中で坐相の説明とかは今まで当然したことなかったですよ。というのは、それはいつもポッドキャストの話の録音が終わってから坐禅の時間になったのでね。だから坐禅の具体的な説明というのは、このポッドキャスト上ではほとんど公開してなかったと思うんだけども、ちょっとそれも必要だろうと思うのでね、今日の話の後半の20分ぐらいを、坐禅の色んなインストラクション――坐相とか色んなことがあると思うので――にあてたいと思います。だから、後半の15分、20分ぐらいを聴いてもらえれば、いちおう坐禅の具体的なやり方の基本的な知識が得られるかと思います*2。だからそういう意味で参考にして頂ければいいかなと思います。

 ただ、そうは言ってもポッドキャストだから音声だけだから、実際のその姿勢とかが分からないと思いますのでね、そういうことはもう実際に一法庵などに来て下さい。来て一緒に座れば、もうそれで分かりますし。だから、ポッドキャストを聴くのはあくまでもきっかけとしてこれ[=法話の内容]を公けにしているだけであって、ポッドキャストさえ聴いていれば、もうあとは一法庵に来なくてもいいと[思われるかもしれないが]、まあ遠いところだとしょうがないですけど、近くの人はやっぱり、なるべく皆と一緒に坐禅をするというのがものすごく大事なことですからね。日曜日に時間的余裕がある人はぜひ鎌倉――まあ来週は池袋ですけども――にいらして下さい。話は、いまこうやってポッドキャストで公開しているそのままですけども、そのあと坐禅をしたり、そのあと質疑応答とかね、色々ありますので。まあ皆さんもポッドキャストを聴いていて色んな質問は溜まっているかと思いますのでね、鎌倉とか池袋に来て頂いたら、そういう質疑応答ができますのでね、ぜひいらして下さい。

(中略)

 それで今日はね……坐禅といったら、私は道元門下の人間だったので――というか、今でもそうなんだけど――、やっぱり『正法眼蔵随聞記』ですね。『正法眼蔵随聞記』に、非常に大事な2つの章があって、今日はそれをていねいに読んでいきたいと思います。そうなんだけども、なぜいきなりそうなのかというと、もちろん色んな理由があって……。そうですね、そこいらへんからきちんと説明していかないと。
 一法庵ではね、ポッドキャストのリスナーからメールを幾つか貰って、(中略)今週はちょっと、重要な2つのメールを頂いたんですよ。ちょっとまあ、プライバシーもあるからあれなんですけども。(中略)私の話を色んな立場の人が聴いているはずなんですよ。テラヴァーダから来た人も聴いているだろうし、日本の大乗仏教を勉強してきた人も聴いているだろうし、もしかしたらチベット仏教をやっている人も聴いているだろうし。そういう人が聴いても分かるような話――すべての人が聴いても分かるような話、あるいは今まで仏教なんか触れたことがない人が聴いても分かるような話――[をしているつもりである]。
 そうなんだけども、ただ、テラヴァーダだけを聞いてきた人が私の話を聴いた場合、あるいは逆に言うと、禅の話だけを聞いてきた人が私の話を聴いた場合に、いろいろ戸惑うことが当然あるはずなんですよ。というのは、私の話はテラヴァーダだけの話ではないし、禅だけの話じゃないから、テラヴァーダだけの話を聞いてきた人にとっては「なんか余計なことも言っている」し、「肝心なことを言っていないような気もする」し。あるいは禅だけを聞いてきた人にとっては、禅の中では・禅の老師からは聞いたことがないようなことを私が喋っているだろうし。そういう色んな戸惑いとかが当然生じているだろうなあということは私ももちろん承知のうえでそれを話していて。

 それでもって、ここでいったい何をしようとしているのかというと、そういうことを何かすべてごちゃまぜにして1つにしようなんていう、そんな雑なことをしようとしているわけでもないし、「皆さん、セクト[=宗派]どうし仲良くしましょうね」というようなことをやっているわけでもなくて、それぞれ[=テラヴァーダ、禅、チベット仏教というようなそれぞれ]の見かたが……それぞれ非常に重要な見かたがあって――重要なんだけども微妙に違う見かたがあって――、それをどう受け止めていったらいいのかという話をしているんだけども。そうなんだけども……あとで道元禅師のテキストを読みますけども、どこをどう考えても、この道元禅師が問題にしているのもそこいらへんなんですよ。2つの相矛盾するようなところで、そのどちらかに――極論に――走っちゃっている人に対して「そうじゃないんだよ」というところを仰っているのね。

 だから、『正法眼蔵随聞記』というのは曹洞宗の坐禅をやってきた人にとっては皆が読んでいるはずだし、色んな老師から色んな提唱とか聞いていると思うし、まあ岩波文庫で手軽に手に入りますのでね。ポッドキャストで聴いている人も(中略)1冊手に入れてゆっくり読んでください。まあ本当に、一番大事な日本語の仏教書のひとつですから。まあもちろん、13世紀の言葉で書かれているからちょっと馴染みにくいかと思うけれども、読んでいけばだんだん分かってくると思いますのでね。ぜひ、そうして下さい。
 それで、私もいま読み返してみてもね、やっぱり道元禅師の視点というのは、まさに我々の視点なんですよ。その「2つの極論に走らない」ようなところでね。後から詳しくみていきますけどね。(中略)曹洞宗の知識だけだと、ちょっと読みにくいんじゃないかなと思うんですよ。というのは、――あとで具体的に読めば皆びっくりすると思うけども――非常に複雑な視点・色んな見かたがされているんだけども、そういうのは[1つ1つの視点・見かたを]ちゃんと分かった上でじゃないと、分からないんですよ。それで、大乗仏教だけだとやっぱり1つの見かただし、テラヴァーダだけだとやっぱり1つの見かただし、相手の見かたをよく分かっていないというね。それで、我々はテラヴァーダの見かたも大乗の見かたも両方ともだんだん分かりつつあるから……両方分かっているわけですよ。それで初めて、物事の立体的なあり方が観える。道元禅師という方もやっぱりこの立体的な見かたをなさっているから――立体的というのは、「色んな見かたを総合して」ということじゃないですか――、だからそれが全部分かっていないと理解できにくいと思うから。だから、ようやく私らの立場で初めて、道元禅師の真意なんかが分かってくるんじゃないかなと思ってます。
 それで、[仏教に関心がある人の中には、]阿羅漢だとか預流果だとか不還果(アナガミ)が「大好き」な人たちが居るわけですよ。それで、ご存知のように私はそういうのを話したことは滅多に無いですよ。預流果というのは「流れに入った人」ですね。それから、一来果――1回だけこの世に戻ってくる人たち――、不還果――もう戻らない人たち――、そして阿羅漢。悟った人は、まあこの4つの段階に分けられて、阿羅漢というのが悟りの最高のかたちだということにテラヴァーダでは一応なっていて。それで、この[4段階の]区別がどうのとか、それだけじゃなくて「あの人は預流果だ」とか「いやいや、あの人はもう不還果だ」とか「阿羅漢だ」とか、「ビルマには今、阿羅漢が何人居るか」とかいう、そういう話が大好きな人たちも居るわけね。だけど一法庵でそういう話は一度もしたことがないと思うんだけども(笑)。
 それでね、なぜそうなのか[=そういう話をしてこなかったか]というのは……もちろんね、「預流果とは何か」とか「不還果とは何か」、「不還果と阿羅漢との違いは何か」とかいうのは教科書に書いてあることだし、ビルマの先生・スリランカの先生たちが盛んに教えておられるから、あえて私がここで触れる必要は無いかなと思って触れてないだけなんですけども。まあ、ご希望とあればその解説もしますけどもね。そうなんだけども、ただね、物事の本質はやっぱりそこじゃないんですよ。そこじゃないのね。
 それで、どこが物事のそういう本質なのかなということが、ずっと長く分からなかったんだけども、最近、ある方のメールを通して非常に見えてきたのはね、(中略)要するに簡単な話なんですよ。要するに、[ある人に]「今、どうしようもない苦しみがある」。この「苦しみ」というのは非常にリアルな苦しみなんですよ。身も蓋もない苦しみなのね。要するに、親とうまくいかなかったとか、あるいは学校でいじめられたとか、あるいは奥さんと・旦那さんとうまくいっていないとか、あるいは仕事がうまくいっていないとか、あるいは病気だとか。(中略)そういう、もう身も蓋もない苦しみがあって。[物事の本質を見誤っている人は、]そういう身も蓋もない苦しみをそのままで解決しようとするのではなくて、もう「一気に飛んじゃう」わけですよ。一気に話を飛ばして、そこで「阿羅漢という人が居るみたい」とか「預流果という人が居るみたい」、「こうすれば預流果になれる」とか[というような話にしてしまう]。これはやっぱり、話が飛びすぎているわけね。
 これはどういうことなのか? というので、前にもプロレスの話をしたと思うけども、それはこういうことなんですよ……プロレスラーたちって、とんでもなく丈夫じゃないですか。殴ったり蹴ったり飛ばしたりして……凄いことをやってもぜんぜん痛まないわけですよ。[例えば、体のことでしょっちゅう悩んでいるような虚弱体質の人の]目の前で、ものすごい頑強なプロレスラーたちがプロレスをやっていたら、それを見たその人が「よし、自分はプロレスに入ったらば、この弱い体の痛みから解放されるんじゃないか」って考える。そのぐらい話が飛んじゃっているわけですよ。たしかに、その頑強なプロレスラーたちは、体の弱い悩みとかは一切ないからね。それはその通りだけれども、今、もう歩くこともできないような人――体に非常に障害があったり、弱かったりするような人――がいきなりプロレスラーになるというのは話が飛びすぎているわけですよ。
 それで、なぜそこまで話が飛んじゃうのかっていうと、この肉体的には完璧なプロレスラーとかを見ていたら、自分のどうしようもなく弱い体というものを無視できるわけですよ。それで、阿羅漢とか預流果というものの噂話をしているかぎりはね……「○○セヤドーは、もしかしたら阿羅漢じゃないか」とか「○○セヤレーはもしかしたらあれじゃないか」とかいう噂話をしていると、なんとなく話としては[気分が]良いじゃないですか。阿羅漢とか預流果というのは、苦しみをほとんどもう超えちゃった人だから。だけど、そういう人[=そういう噂話をする人]の話っていうのは、聞いていても何か話が飛びすぎている。というか、何かを隠しているっていう気がどうしてもしていたんだけど、そうしているうちにようやく、[その当人が]どういう苦しみを持っているのかを言ってくれたんだけど。それで話は「ああ、そういうことだったの」というのが分かったわけで。
 要するに、その苦しみというのはもう身も蓋もない苦しみなんですよ、本当に。どうしようもなく身も蓋もない苦しみで。それと、仏教の最終的な教理・境地とかということの2つがあって、「その2つをなんとかして結びつけて、それで一気に苦しみの解決をしよう」ということ[をその人は目論んでいた]んだけど、そんなのは無理で。絶対に無理で。そうではなくてね……だから私は今、阿羅漢の噂話も預流果の噂話も一切していなくて。そうじゃなくて[=噂話をするのではなくて]、いま我々が持っているどうしようもない苦しみ――もう身も蓋もない苦しみですよ――を、もうまっすぐに観ていこうという立場しかここでは採っていなくて。

 だからといって、ここでは「阿羅漢は存在しません」とか「預流果なんか無意味です」なんていう、そんな馬鹿なことを言っているわけでは当然なくてね。そうじゃなくて、いま歩くことすらできないんだったらば、とにかく歩けるようにリハビリをするとかね、そういうことが一番現実的なありかたであって、いきなり「よし、じゃあもう、エベレストに登山するぞ」というのはね、話が飛びすぎちゃっているわけですよ。もちろんね、歩けない人がまず1歩1歩、歩けるようなリハビリをしていけば、最終的には回復して、エベレスト登山ぐらいできるぐらいになるかもしれない。だけども、今はエベレスト登山なんて話す必要もなくて、「今、プロレスに入門する」ことを話す必要もなくて、今やらなきゃいけないのは、自分の今おかれた、身も蓋もない苦しみをまっすぐに見つめること。それ以外は無いんですよ。

 そこを外しちゃったら、すべてが噂話になってしまって……そうするとそういう人はやっぱり、「スーパーヒーロー」を求めちゃうわけね。「阿羅漢のスーパーヒーロー」だったり、あるいは「菩薩のスーパーヒーロー」だったり、「○○リンポチェ」だったり、「○○セヤドー」だったり、ね。それで、「そのリンポチェがどれほど凄い奇跡的な力を持っているか」とかいう噂話になってしまうんですよ。
 それだからこそね……こないだダライ・ラマ法王様とラリー・キングさんとのインタビューを紹介しましたけどね、その中で法王様が非常に面白いことを言われていて、それは2年前に法王様がニューデリーかどこかの病院で胆石――腎臓結石かな? 同じか――の手術をされたんですよ。とにかく、何か石ころみたいなのを取ったんですよ。なぜそんなことをわざわざ仰ったのかというと、それはまあ「健康についてどうですか?」って訊かれたからなんだけども、そこで法王様は非常に面白いことを仰った。それは、「だから、ダライ・ラマといえどもヒーリング・パワーなんか持っていないんだ」と仰ったわけですよ。要するに、ダライ・ラマがヒーリング・パワーを持っていたら、[自分で病気を]治せばいいじゃないですか。でも、自分の結石を治せないわけですよ。当たり前のことで、法王様といえども我々とまったく同じこの肉体を持っていて、――まあ、法王様はお歳の割にはご健康ですけどもね――当然、永遠に生きられるような肉体であるわけがなくて。我々と同じように時々はお腹が痛くなったり色々する。そういう肉体なわけで。だけど皆は、いきなり法王様を「スーパーヒーロー」に仕立て上げちゃうんですよ……「ミラクルなヒーリング・パワーを持っている」というね(笑)。だから、「そういうことじゃないんだよ」ということを言うために、わざわざ法王様は「自分はそういう腎臓結石の手術をして、だから、ダライ・ラマがヒーリング・パワーを持っていないということが科学的に証明された!」と言って喜んでニコニコしながらラリー・キングさんに話してたけども、[要点は]そこなんですよ。
 それで、なぜ我々は「スーパーヒーロー」を求めてしまうのか。あるいは、ダライ・ラマという人がいたらそのダライ・ラマという人をむりやり「スーパーヒーロー」に仕立て上げてしまうのか。やっぱりそれ[=その問いの答え]は、もう簡単な話で、「いま現在、自分が抱え込んでいる、もう身も蓋もない苦しみを一気に解決しよう、一気に解決してもらおう」という[目論見であって]、ちょっとそれは話が飛びすぎだし、それは怠けすぎているんですよ。そういうことを全部分かっているから、法王様はそういうものを全部否定なさっている。それは、法王様がああいう非常に良心的な人だから否定しているわけであって、もし法王様が悪い人で、それ[=一般人が『ヒーリング・パワー』や『スーパーヒーロー』に寄せる期待]を利用しようとしたら、いくらでも利用できちゃうわけですよ。「俺はヒーリング・パワーを持っているぞ」と言うような人はもう山ほど居るじゃないですか。だけども、法王様は本当に本物の仏教者だから、「私は、そんな『ヒーリング・パワー』は一切持っていない」と自らはっきり言い切っちゃっているわけですよ。そこを本当に皆さんね、――このポッドキャストを聞いている人も――絶対に間違えないで下さい。
 だから、阿羅漢とか預流果とかの噂話をするんではなくて、そうではなくて、あなたがいま持っている、もう身も蓋もなくてどうしようもなくて惨めなその苦しみ・惨めさをまっすぐ見つめて、それをそっくりそのまま解決する。私はそのことしかここでは話してないし、私が今ずっと話していることに従ってもらったら、それ[=上記のような苦しみ]を本当に解決できると思いますので。そこをね、まっすぐ観てください。それが[今日の法話の前置きの]1つですね。

 そして、もう1つ[の前置き]がね、さっきテラヴァーダとか大乗とかの話をして、テラヴァーダだけを勉強してきた人が私の話を聞いても「あれ?」と思うだろうし、逆に、大乗だけを勉強してきた人が私の話を聞いても「あれ?」と思うだろうしね。それ[=そういう反応]は両方とも分かるんですよ。私はテラヴァーダの枠を超えたことを言っているし、大乗仏教の枠を超えたことも当然言っているし。だから、聴く人が非常に「あれ?」という違和感を覚えるようなことをたぶん私は当然言っているからね。そうなってくると当然ね、色んな混乱がそこから生じてきてしまうわけですよ。その混乱というのは、ある1つの色んな矛盾点に自分自身が向かい合って、そのときにどうしても生じてきてしまう混乱なんですよ。だから、――何て言うかな――私はその混乱を素直に観てほしいし、その混乱を素直に観てごまかさなかったらば、本当の仏法がそこから当然みえてきます。

 それで、どういう混乱なのかというと……(中略)一方[=混乱のうちの一方の極]では、こういうことになるわけね……要するに私の話をちょっとでも聴いてもらうと、なんか「山下先生って、瞑想メソッドを否定しているんじゃないか」っていうふうに聴こえるかもしれない。それはどういうことかというと、要するに、普通に瞑想となると非常に話は簡単で、「こうすれば、こうなる」という[図式で理解しがちである]。だから、瞑想メソッドとか瞑想テクニックをたくさん知れば知るほど、「その瞑想テクニックを使って、こういう結果を得る。だから、テクニックを教えて下さい。テクニックを教わったら、それに従ってやりましょう。こういう結果を期待して、やりましょう」というふうに、話が非常にストレートになるわけですよ。「こういうテクニックを使って、こういう結果が出て、じゃあ次にこういうテクニックを使って、こういう結果が出て。そして順番に階段を上っていって、階段を上っていったらその最上階のところにこういうものがあります」というね。話としては非常に単純明快じゃないですか。それで、慈悲についてもね、「慈悲というものがあります。慈悲は大事です。じゃあ、慈悲を育てましょう。慈悲を育てるために、こういうテクニックを使って下さい。はい、じゃあ、こういうテクニックを使って慈悲を育てました」という話になるわけですよ。だけども、私がこの3年間言ってきたのは……「そういう話ではない」ということを言ってきたわけね。

 まず、「そういう話ではない」ということの色んな理由の1つには、「そういうふうにはうまくいくはずがない」という[点がある]。リアリティ――瞑想のリアリティ。もう身も蓋もないリアリティ――として。慈悲についてもね、「こういうテクニックを使えば、はい、慈悲が育てられます」なんて、やってみて下さい。それで慈悲が育てられるか。育てられなかったわけですよ、我々はね。瞑想についても、「こうすれば、こうなる」というふうにはならなかったわけですよ。いいですか? だから、「こうすれば、こうなる」・「こうすれば、こういう結果が得られる」というような単純な話であるわけがない。ということを、この3年間ずっと言ってきました。

 じゃあ、もう一方のあり方として――これは大乗の人ならお馴染みなんだけども――、「我々はすでに○○である」……「我々はすでにブッダである」とか「衆生本来仏なり」ということを[大乗仏教では]ずっと言ってきたわけですよ。だから、「『自分がすでに○○である』、『自分が本来、十分に満たされている』んだったらば、なんで今さら瞑想しなきゃいけないの? なんで今さら呼吸を観なきゃいけないの? なんで今さら慈悲を育てなきゃいけないの?」という疑問[=『混乱』のもう一方の極]が出てくるわけですよ。「我々はすでに○○である」の「○○」の部分に色んな言葉が入るわけね。大乗仏教的に言えば「我々はすでにブッダである」とか「我々はすでに悟りの中を生きている」とか「我々はすでに一切の命とつながっている」とか……「我々はすでに○○である」。大乗仏教のほとんどのことは、この文章の中に全部入っちゃうんですよ。そうなってくると、「じゃあ今さら何をする必要があるの? もう何もやることがないじゃん。それなのに、ある一部の人たちは『こうすればこうなって、こうすればこうなって』という、なんか人工的に何かをやろうとしている」[と感じる]から、それに対する批判というのも当然出るわけですよ。

 だから、2つの陣営に分かれてお互いに批判しあうという事態が、当然、簡単に生じてくるじゃないですか……Aという陣営があって、そこでは「こうすればこうなって、こうすればこうなって、こうすればこうなって」というふうに階段を上っていくようなかたちになっている。そういう人からみれば、Bという陣営が「もうすでに○○である」と言うのは、――何というのかな――「とてつもなくおかしな考えかた」でね。「もうすでに○○」だったら、階段を上っていく必要がなくなってしまうじゃないですか。だからそういう意味で、このAの陣営の人はこのBの陣営を非常に批判するし。だけども逆にBの陣営からすれば、「我々はもうすでに○○である」。だから、これから何か無理して修行するとか、これから何か無理して人工的に慈悲を育てるとかいうのが、何か非常に不自然か或いは非常に人工的に聞こえてしまうんですよ。
 それで、いま私のこのポッドキャストを聴いている人のなかでかなりの人がたぶん混乱していると思うんだけども……というのは、私はこの2つの見かたを両方とも紹介するし。だけども、この2つの見かたをどう乗り越えていくかということしか話してきていないんですよ、この3年間。

 というのは、それはもともと、このA陣営とB陣営を両方とも私は知っているからね。「両方とも昔の友達だから」っていうね。もともとは私はB陣営のほうに居たわけですよ。「すでに○○であるから、もう一切何もする必要がない」という方向のね。まあこれは大乗仏教の考え方だけども。だけども、そこに居ながら、そのままだと、何かどうしようもなく……「じゃあどうしたらいいのよ?」というところがなんか全然分からなくなっちゃって。周りを見ても、どうしたらいいのかをちゃんと分かっている人は、どうなのかな[=居るのかな?]という感じになっちゃって。そうすると、A陣営の話――「こうすればこうなって、こうすればこうなって」という話――が非常に具体的[に感じたから]、私もこのA陣営のほうに一時的に移って、それをまあ勉強して――色んなテクニックとか色々すべてをマスターして――きたんだけども。ただ、私がA陣営のほうだけにとどまることができたかというと、それもまた当然できなくてね。それはやっぱり、昔のB陣営の話がどうしてもあるので。

 そこ――この2つのものの見かた――を、どう折り合いをつけていったらいいのか。それはただ単に「仲良くしましょう」とか「2つを足して2で割りましょう」(笑)とかいう、そんな話ではあるわけがなくて。「両論併記にしましょう」とか、そんな話でもあるわけがなくて。そこ[=2つの見かたに分かれているということ]を、「いったいこれは何を意味するの?」というところで、ここ3年間ずっと、やっさもっさしてきたわけなんですよ。

 だから、――何て言うのかな――(中略)テラヴァーダから来た人が違和感をもつのはまさにその点で、私の話の中に「もうすでに我々は○○である」という言い方が入っています。この言い方は、テラヴァーダの中には無いですから。だから、この言い方に非常に違和感を覚えるのは当たり前です。それに対して逆に、大乗仏教から来た人が私の話を聴くと、私の話はやっぱりどうしてもテクニック的なことを話してますからね……「こうすればこうなって」という。私は、アナパナとか慈悲の瞑想とか――これはもうビルマで習ったテクニック――を私はいま教えてますから、だから当然、そういうことも話してますから、その部分で「あれ?」と思う人も居るかと思います。だけども、私の話が単純な大乗仏教の話であるわけがないし、私の話が単純なテラヴァーダの仏教であるわけがなくて。その2つの視点を、――その2つを足して2で割るということでもなく――どういうふうに折り合いをつけてきたか。[ポイントは]そこだけなんですよ。そこがポイントだと思って私の話を聴いてもらったら、非常に分かって頂けるかなあと思います。

2 of 2へ続く)

*1:「池袋の会」は「新しい地球の会」を指す。

*2:瞑想の全体を扱った解説が http://www.onedhamma.com/?p=5007 で公開されています。