山下良道法話:「坐禅入門 - 無所得ということ」(2 of 2)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2010年2月28日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=569
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

1 of 2からの続き)

 『正法眼蔵随聞記』を読んでみましょうね。これはまさにね、私らが今週に問題にしたこと[=この法話の内容]を道元禅師は問題にしているのよ。びっくりするよこれは。

 これは『正法眼蔵随聞記』の第二ですね。『正法眼蔵随聞記』というのは6つのチャプター(章)に分かれているんです。これは2番目のチャプターですね。それの、二十二番。

(中略)

因みに問うて曰く、学人若し(もし)自己これ仏法なり、外に向て求むべからずとききて、深く此の言を信じて、向来の修行参学を放下して、本性に任せて善悪の業をなして一期を過ごさん、此の見解いかん。
(『正法眼蔵随聞記』第二の二二)

 上記の引用文が、修行者からの質問なんですよ。それで、これからが道元禅師のお答えですね。

示して曰く、此の見解、言と理と相違せり。外に向て求むべからずと云て、行を捨て学を放下せば、この放下の行を以て所求ありときこへたり。これ覓めざる(もとめざる)にはあらず。只行学もとより仏法なりと証して、無所求にして、世事悪業等は我が心になしたくともなさず、学道修行の懶うき(ものうき)をもいとひかへりみず、此行を以て打成一片に修して、道成するも果を得るも我が心より求むることなふ(無う)して行ずるをこそ、外に向て覓むる(もとむる)ことなかれと云道理にはかなふべけれ。南嶽の磚を磨して鏡となせしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり。坐禅を制するにはあらざるなり。坐はすなはち仏行なり、坐はすなはち不為なり。是れ便ち自己の正体なり。此の外別に仏法の求むべき無きなり。
(『正法眼蔵随聞記』第二の二二)

 これは非常に有名なお言葉で、曹洞宗の人はここを何回も何回も読むし、あるいはこの中の言葉……最後の「坐はすなわち仏行なり。坐はすなわち不為なり」は、まあこれは内山興正老師とか澤木興道老師なんかがほとんど毎日言われているようなことなわけですよ。だけど、今ね、この一法庵の我々がこれを読むと、非常によく分かるはずです。

 道元禅師というのは非常に立体的な人だとさっき言いましたけども、またここでも、[道元禅師は]或る1つの極論を戒めているわけですよ。どういう極論なのかというと、この極論はまさに、今週に我々が問題にした極論なんですよ。

 これはどういうことかというと、「学人若し(もし)自己これ仏法なり」……「自分というものがすでに仏法であるならば」――さっきも言ったでしょう? 例えば「自分が仏であるならば」――というようなことなんですよ。[自分がすでに仏]だったらば、「もうすでに、自分はもう何もかもOKなんだから・何もかもパーフェクトなんだから、だからもう今さら何かを求めて修行するとか何とかは意味がないじゃん」という[考えになり得る]……まあこれは分かると思うけども。だから、「今さら『慈悲を育てる』とか、何言ってんの?」という話になるわけですよ。「もうそんな、今さら『こうすればこうなって、こうすればこうなって』というようなかたちで心を何か静かにしていくとか、何か慈悲を育てていくとかというのは、意味ないじゃん」というね。だから、「自分がもうすでにそういうふうに仏法である」……仏法であるということは「『すでに仏法のあらわれである』ということだから、だから今からこの自分を何か変えてとか、『今は悪い状態だから、これを良くして』とかそういうことではないから、だから、これから目標を立ててその目標に向かって何かしていくようなことは意味がない」。

 だから、「向来の修行参学を放下して」……要するに「今までやってきた修行とか色んな勉強とか――今までどういう勉強をしてきたかというと、『善いことをする。悪いことをしない』とか何か『道徳を守る』とか――を全部やめちゃって」、「本性に任せて善悪の業をなして一期を過ごさん」……「本性」には「うまれつき」という振り仮名がふってあるけども、これは要するに「やりたい放題」ということなんですよ。「やりたい放題やって、時には善いこともやるだろうけども、時には悪いこともする……酒を飲むこともあるし、時にはあれすることもあるし」。

 要するに、「すでに我々はこうなんだから[=『仏なんだから』]、何をやったっていい」わけじゃないですか。だからそれを、「『酒を飲むのはよくない。酒を飲まないようにしましょう』とか『不倫をするのはよくない。不倫をしないようにしましょう』とかそんなことはもう一切関係なくて……だってもう『すべてが悟りの世界』なんだから・『もうすでに自分は仏法』なんだから、全部やったっていいじゃん」というね。「今さら『慈悲を育てる』なんて、何を言ってるんですか」という話になるわけですよ。ということを言っているんですよここ[=上記の引用文の前半]では。だからまさに、この質問というのは我々の質問なんですよ。だから、ここで道元禅師に対して質疑応答が行われているんだけども、これはまさに一法庵の質疑応答じゃないですか。
 いま言ったところが、道元禅師に対する質問ですよ。そのあとで道元禅師はこう答えられているんです。(中略)「此の見解、言と理と相違せり」……「この質問をした人が言っていることは論理的に矛盾する」ということを言っているわけね。なぜかといったらば、「外に向て求むべからずと云て、行を捨て学を放下せば、この放下の行を以て所求ありときこへたり」と、まあ図星をさされているわけね。質問者はね、要するに「自分はもう何もしないんだ。だって、もう何もする必要がないんだから、だからもう、あとはもう自分が好き放題やるよ」という考えを述べた。それに対して道元禅師は、「だけど、あなたはそういうふうにやってるじゃないか。あなたはもう、そういうふうにして、『いままでの修行とか勉強を全部捨てちゃって、好き放題やっている』ということをやっているじゃないか」ってね。そういうことなんですよ。分かりますね? これは、これでもう「終わってる」の。「終わってる」というか、もう、ぐうの音も出ないんですよ。というのは――いまのこの質問が皆さんにどれぐらいリアルかがちょっと分からないんだけど――、この質問は非常にリアルなんですよ、私みたいなこういう世界に生きてきた人間にとっては。だってやっぱり、こういう質問というのは……これは13世紀の日本で行われた質問と答えなんだけども、これとまったく同じ質問が、今の日本でも・今の台湾でも・今のインドでも起こってくるわけですよ。それが中国語であったり、ヒンディー語であったり、英語であったり、日本語であったりするだけであって。それで、まったくこれと同じ論理を使ってくる人も本当に居るのよ。それで、それに対して道元禅師は「あなたはいかにも『全部捨てた』と言っているけども、でもまさに、そういう『修行を捨てたり学問をやめたり、そしてもう、生まれつきの本能の赴くままに何かをやる』という、そういうふうにしてあなたはやっぱり求めているじゃないか」ということを言っているわけなんですよ。結局それは、本当の意味では「覓めざる(もとめざる)にはあらず」
 「只行学もとより仏法なりと証して、無所求にして、世事悪業等は我が心になしたくともなさず、学道修行の懶うき(ものうき)をもいとひかへりみず、此行を以て打成一片に修して、道成するも果を得るも我が心より求むることなふして(無うして)行ずるをこそ、外に向て覓むる(もとむる)ことなかれと云道理にはかなふべけれ」。だから道元禅師ももちろん、「自己これ仏法」ということを否定するわけがなくて。だから、「求めない」というのは或る意味でその通りなんですよ。だけど、「求めない」ということの本当の意味について話されているわけね。
 「もう何も求めない」ということはどういうことかというと、我々の修行とか我々の学問――仏教の学問――というのは「今、何も持っていないから、何かをすることによって何かを得よう」という話ではない。それはその通り。だから、「すでに我々の修行そのものが仏法なんだ」ということは、「もうすでに、ここですべてが満たされている。だからもう何も求めない」わけね。その時にね――ここは非常に大事なところだから、だからこそ今日の話題にしているんだけども――、これはどういうことかというと……私が最近は“resistance”(レジスタンス)という言葉を使っていて、それと、“reality”(リアリティ)という言葉も使っています。レジスタンスという言葉で私が何を言おうとしていたのかというと、私らの苦しみというのは、私らが“resist”(レジスト)したときに・レジスタンスしたとき[=抵抗したとき]に生まれるということを、何回も――今年になってからは何十回となく――言っています。リアリティということもね、過去の法話で言ってきたことは、「我々はリアリティからすぐに外れていってしまって、その外れていってしまったこと[について]リアリティに反撃を受けて、また元に戻ってくる」ということなんですよ。ということはどういうことかというと、「我々がもうすでにそうなんだ――自己はもう仏法なんだ――」というのはその通りです。だから、道元禅師はそれを否定しているわけじゃないんですよ。「自己はもうすでに仏法なんだ」ということの本当の意味は、この質問者が[誤解]したように「だからもう何をやったっていいんだ」ということでは全然なくて、「自己はもう仏法なんだから、それに素直に従う」だけなんですよ。「それに素直に従う」というのは、リシケシュのあのキリスト教の神父さん的に言えば“surrender”(サレンダー)することなわけね。“surrender”というのは「降伏すること」ね。そして、レジスタンス[に関して]言えば、「もうレジスタンスしない」ということなんです。「抵抗しない」ということなのね。だからこれは、「好き放題にやる」というのと全然逆の話じゃないですか。だから「もう我々は『完璧』……自己はもうすでに仏法なんだから」というところに、我々はもう完全に「降伏」をする・“surrender”をする。だから、[『自己はすでに仏法』なのに]それでも何かを求めるということは、求めたとたんに「自分が満たされていない」ということを認めちゃったことになるじゃないですか。「ああ嫌だ」と言ったとたんに・抵抗したとたんに……抵抗というのは「何かが嫌だ」ということを認めたことになるわけじゃないですか。分かります? だから、「自己はすでに仏法なり」と気づくということは、「ああもう、だから何をやったっていいんだ」ということではなくて……「何をやったっていいんだ」ということは、やっぱり「求めている」んですよ。やっぱり何か「抵抗」しているんですよそれは。分かるかなここのところ。ここが分かれば、もう、大丈夫。

(中略)

 結局ね、そういうことなの。上記の引用文の中に「無所求」ってあるでしょう? それは要するに「求めない」ということなんですよ。逆に言うと、「求める」ということは要するに「自分が満たされていないから何かを外に求める」という話になりますね。それをもうしないということは、「完全に自分に落ち着く」んだけども、それはもう完全に“surrender”すること(降伏すること)であって、それは自分に対して完全に「レジスタンスしない(抵抗しない)」ということであって。そこからは、どこをどう考えたって、「好き放題する」ということは絶対に出てこないんですよ。
 それでそのときに、「世事悪業等は我が心になしたくともなさず」……そこで「我が心」という、わけのわからないものがまだあるわけね。これはまあだから、今まで言ってきた言葉――我々の使ってきた言葉――でいえばエゴのことですね。そういうエゴがあって、そのエゴがまだ何かを――悪いことを――したい。だけども、このエゴを手放して、一切やらない。
 そして「学道修行の懶うき(ものうき)をもいとひかへりみず」……昔の学問とか修行とかは、とうぜん辛いに決まっていますよ。今と違って寒さ・暑さのこともあるし。食べ物だって、そんなにあったわけではないしね。当然、色んなことがあるに決まっている。大変に決まっています。だけども、そんなことも一切かえりみないで「此行を以て打成一片に修して」……「一つになる」ということですね。
 「道成するも果を得るも我が心より求むることなふして(無うして)」……だから、「ようし、これでもって仏道を完成させるぞ」とか「何か結果を得てやるぞ」というような「求むること」を無いようにしてはじめて、「外に向て覓むる(もとむる)ことなかれと云道理にはかなふべけれ」……「『自己はすでに仏法』なんだから、だから『何か足りないものを外に向かって求めていくのではないよ』ということの本当の意味はそうなんだよ」ということですね。

 だからここで何を言っているかというと、「自己がすでに仏法である」ということは、この質問者が誤解したように「ああ、だからもう何をやってもいいんだ」という話ではなくて、この「自己はすでに仏法なんだ」という、そういうリアリティに対して完全に“surrender”していく(降伏していく)こと。どのようにしてか? レジスタンス(抵抗)を手放して。そうすることによって、「もう一切なにも求めない」。結果を求めることもない。何かを期待することもない。だから具体的には、それでも残っている自分のエゴが何かをしたいとかいうのも手放す。何か非常に辛いとか退屈だとか当然いろいろあるに決まっている。それも全部手放していく。そういうことをもって初めて「外に何も求めない」ということになるということですね。

 上記の引用文にはその後ね、南嶽と馬祖さんの話があって、これはちょっと分かりにくいかと思うんだけども、これはね、馬祖道一という人が一生懸命に修行――坐禅――していて、そこへ「お前、何をやってるんだ」と言ってお師匠さん(南嶽)が来た。馬祖が「はい、仏になりたいんです」と答えたら、南嶽はそこにあった磚(瓦)を拾って一生懸命に磨き始めた。「瓦を磨いて何をしているんですか?」と馬祖が南嶽に訊ねると、南嶽は「瓦を磨いていけば鏡になるだろう」答えた。そしたら「瓦をいくら磨いても鏡にはなりませんよ」と馬祖が言ったわけですよ。そしたら「お前がやっているのも、そういうことだ」って馬祖は南嶽に言われたわけね。「瓦と鏡」ということは、これは何を言っているのかというと、「我々が仏になる」といっても、それは「我々が今までまったく凡夫で、それから仏になる」ということではないということなんですよ。「AがBになる」ということではなくて。「AがBになる」という[図式]は違うというのは、「瓦というAが、鏡というBにはならない」ということなんですよ。分かりますね?
 それで、「じゃあもう、このあと馬祖は何をやったっていいのか」ということにはなっていないわけですよ。そのあと馬祖は何をしたかというと、それでももちろん坐禅をしているわけですよ。だけどもそのときに、坐禅の意味が180度変わったわけね。どういう意味かというと、何か別のものになるための坐禅ではなくなったわけですよ。要するに、[かつての馬祖は]何か別のものになろうと一生懸命にやっていたわけね。「だけども、それは違うんだよ。瓦をいくら磨いても鏡にはならないんだよ。だから、瓦が何か急に鏡になるかのように凡夫がいきなりブッダになるということではないんだよ」と[馬祖の師匠の南嶽は]言っているわけよ、ここでは。分かりますね?

(中略)

 だからそのときに、坐禅する意味が180度変わったわけ。つまり、「坐禅することによって凡夫から仏になろう」ということは要するに「いま自分は満たされていないから、何かを外に求めていく」ということでしょう? 話としてはね。それが坐禅ではないんだよ、ということを言っているわけ。南嶽さんが教えたことは[そういうこと]。いいですか?
 だけども、だからといって馬祖が「ああ、もうやめた。仏になるのやめました。じゃあもう、好き放題やります。酒飲みます」ということなわけがないじゃないですか。じゃあそのときに何をやったのかというと、「この自己はすでに仏法なり」と分かって、そのリアリティに対して徹底的に“surrender”をしていったということなんですよ。
 それでその後[=上記引用文の最後]に――非常に有名になった言葉ですね――、「坐はすなはち仏行なり、坐はすなはち不為なり」……「坐」というのは坐禅のことですよ。「それは仏行――仏の行――なんだ」。ということはどういうことかというと、「いま凡夫だから、一生懸命に坐禅をして、これからブッダになるぞ」ということではなくて、 「いま、坐禅をする」ということそのものが仏行――ブッダとしての行い――なんだ、という話です。

 そしてだから、逆に言えば「坐はすなはち不為なり」でしょう? 「為」は何かをすることですね。それを否定しているわけ。「何かをすることではないんだよ」ということ。「何かをする」ということは「自分が今、満たされていないから、何か外に求める」というね……ふつう我々は、「何かをする」というときは「求めるために何かをする」わけですよ。だけど、坐禅ということはそういうことではないんだよ、ということを言っているわけね。

(中略)

 「是れ便ち自己の正体なり」……「これが本当の自分なんだ」ということですね。「此の外別に仏法の求むべき無きなり」ということですね。
 だから、「自己がすでに仏法なんだ」と本当に分かったならば、「ああ、だからもう何をやったっていい」とはならなくて、もう、そこにただ落ち着いていく。どうやって落ち着いていくかというと、もう何も求めないことによって。でも、何も求めないといったって、「ああ、もう昼寝しよう」ということではなくてね――「ああ、もう何もしないで、慈悲の瞑想も何もかもやめちゃって、ああ、もう何もしない。ボーッとしている」ことではなくて――、もうそのときに、坐禅ということの意味が180度変わっている。そのときに当然、慈悲というものの意味が180度変わる。今までだったら、慈悲の瞑想が「これからテクニックを使って慈悲を作っていくぞ、育てていくぞ」という話だったけども、そうじゃない。なぜなのか? 「坐禅のそのところに……慈悲というものはそこにしか存在しないから」ということです。

 次が『正法眼蔵随聞記』の第三章の三番目ですね。時間がないから全部は読めないけども、これは要するにどういうことかというと、どうやって自分の心を捨てていくかという、そういう話なんですよ。途中ぐらいから読んでいきましょうかね。

此の故実はまづ世を捨て身を捨つべきなり。我が身をだにも真実に捨てぬれば、人によく思はれんと謂ふ(おもう)心は無きなり。然あればとて亦(また)人はなにとも思はゞ思へとて、悪しきことを行じ放逸ならんは亦仏意に背くなり。只よき事を行じ人の為に善事をなして代りを得んと思ひ我が名を顕はさんと思わずして、真実無所得にして、利生のことをなす。即ち吾我を離るゝ、第一の用心なり。此の心を存ぜんと思はゞまづ無常を思ふべし。一期は夢の如し。光陰は早く移る。露の命は消へ易し。時は人を待たざるならひなれば、只しばらく存じたるほど、聊か(いささか)のことにつけても人の為によく仏意に順はんと(したがわんと)思ふべきなり。
(『正法眼蔵随聞記』第三の三)

 ここでも、さっきのところとポイントはまったく同じですよ。要するに、「どうやって自分を捨てていくか」。だから、自分を捨てるといっても、何か無茶をして「滝に打たれる」とか何か「火の中を渡っていく」とかそういうことではなくてね、この「すでに自己が仏法である」というリアリティーに、ただ完全に“surrender”すること(降伏すること)ですね。だから、そこに向かって「我が身をだにも真実に捨てぬれば」……これは“surrender”ですね。「完全に降伏すること」ですね。
 そこまでくれば、「人によく思はれんと謂ふ(おもう)心は無きなり」……だからもう世間の評判というものは関係なくなるわけじゃないですか。だからといって、「ああ、もう世間を気にしないんだ」と言って、やりたいことをやるということではないということですね。「そうすれば[=やりたい放題をやれば]、もちろんまた仏意――仏様のご意向――に反することになる」。
 ではどうすればいいのかといったら、「只よき事を行じ人の為に善事をなして代りを得んと思ひ我が名を顕はさんと思はずして、真実無所得にして、利生のことをなす」……だから、「それでも我々は何か善い事をやっていく。人のために親切な事ね……色々なこと。だけども、そうすることによって何か結果だとか評判――自分の名前を有名にするとか――だとかそういうことを思わないで」、「無所得にして、利生のことをなす」……「何か本当に衆生――世の中――に役に立つことをただコツコツとやっていく」。それが「吾我を離るゝ、第一の用心なり」
 そのときに一番大事なのは、「まづ無常を思ふべし」道元禅師は「無常を思ふべし」ってしょっちゅう言われるんだけども。「一期は夢の如し」……「すべては夢のようなものであって」、「光陰は早く移る。露の命は消へ易し」……本当に、「時間というのはすぐに経っていってしまって、命は簡単に消えていくものなんだ」。「時は人を待たざるならひなれば」……「ちょっと待って、ちょっと待って」というわけにはいかないんですよ、本当に。「ちょっと待ってください」って[思っても、時は人を]待たないで「はい、おわり」となる。「只しばらく存じたるほど、聊か(いささか)のことにつけても人の為によく仏意に順はんと(したがわんと)思ふべきなり」
 だからここではね、「無常」と言われているんだけれども、この無常という感覚がないと……ただもう「何もかもすでに整っているんだ」ということだけを言うとね、何か非常にダラーッとしてきてしまうんですよ。だけども、この無常というどうしようもない現実があって……いまここ[=引用文]にあったように、人の命なんて本当に儚いんですよ。「えっ」と思うぐらい簡単に消えていってしまう。だからそこいらへんをちゃんとしていけば……。

 テラヴァーダの人が「パラミを積む」ってよく言うじゃないですか。「パラミが大事だ」ってね。それを道元禅師的に翻訳すると、「陰徳」になります。「陰徳を修すべし」……これが非常に重んじられます。だからそこいらへんをうまくお互いに翻訳していけばね、「テラヴァーダはテラヴァーダ。大乗は大乗。全然ちがいます」なんていうことは絶対ありえないんですよ。そういうものをすべて含んだ……テラヴァーダ的な視点・大乗的な視点を含んで、それを立体的に構成していくというようなことを道元禅師ご自身がされていて、それは私らがいま読めば明らかなんですよ。今日のところは、私らの話から分かって頂けるかと思います。

 だから今……ここ十何年の間、テラヴァーダ的な考え方が日本に入ってきて、しかも日本は禅宗の強いところだから禅宗的な考え方を持っている人も当然居て、その2つの考え方をどう折り合いをつけていくかというようなところで悩んでいる人は本当に多いかと思うんですよ。それで、非常に簡単な折り合いのつけかたは「どっちか一方を捨てる」というね……それはぜんぜん折り合いがついていないんだけど、まあ簡単に「もう大乗を捨てちゃう」とか或いはテラヴァーダを「あれは小乗だ」といって捨てちゃうとかね。そうすると話は簡単になってくるんだけども、それも非常に非生産的だし、ここ十数年の間になぜテラヴァーダが導入されてきたのかということの歴史的な意味というのが、それでは全く分からなくなってしまうから。
 それで私自身もそういう、禅宗の人間がテラヴァーダを勉強するということをやって、2つの見かたを両方とも学んできて、それでようやくそれが絶対に対立するようなものではなくて、対立すると捉えたら何がなんだか全然分からなくなってしまう[ということが分かった]。たとえば今日の『正法眼蔵随聞記』の話を聴いてみてもね、お分かり頂けるかと思います。
 それで、「自己が今、仏法だ」ということが分かったところでしか瞑想というものはできない。[そうでなければ、]たとえば「呼吸を観る」ということができるわけがないんですよ。去年ぐらいから法話の中で「古い意識」と「新しい意識」と言って、「古い意識」というのが「呼吸が観えない意識」、そして「新しい意識」というのが「呼吸が観える意識」というふうに先週ぐらいからようやく結びつけることができましたけども、それも理解して頂けると思います。
 それで、「呼吸を観る」というと、それはいかにも「〈俺〉という主体が〈呼吸〉という客体を観ている」かのように当然みえるわけですよ。だって、文章で表現すると「私は呼吸を観ています」となるんだからね。〈私〉という主語が〈呼吸〉という目的語を「観ている」わけだから。それは、日本語で表現しようが、英語で表現しようが、中国語で表現しようが同じなわけですよ。だから、それをテキストだけ読んだらば、何となく「〈私〉という主語が〈呼吸〉という目的語を『観ている』」ように当然理解するし、それ以外に理解の仕方はできないんだからね……言語を使うかぎりは。
 だけども、実際に呼吸を観るという瞑想をやってもらったら、そんな理解だったら絶対に呼吸なんか観ることができなくて。そういう「〈俺〉が居て、〈世界〉があって」……主体と客体が分かれたままで瞑想することなんか絶対に無理で。だから、「この主体と客体が分かれた世界で〈私〉という主体が〈呼吸〉という客体を観るようにしなさいよ」というふうなことをお釈迦様が仰ったはずがなくてね。だけども、2500年間、ほとんどそういうふうに[誤解して]読んできてしまった。だけどそれは、瞑想をしないかぎりはそう読めちゃうわけですよ。それで、実際に瞑想した人間は、「とてもじゃないけど、そんなことではないんだ」と分かる。なぜかって、[誤解したままでは]自分が[瞑想を]できないんだから。
 それで、私がまあようやく説明できるようになったのは、「呼吸を観る」ということ――あるいは「呼吸が観える」ということ――は、もうすでにそこでは主体と客体という区別はもう無くなっている[ということ]。だからそこでは、「呼吸が観える」というまったく新しい意識がそこに生じないかぎり、呼吸が観えるはずがない。それで、その「呼吸が観える」という意識は「新しい意識」でもあり、そしてそれが「自己が仏法である」というそういうリアリティでもあるんですよ。だからそこでもって初めて我々はリアリティに触れる。
 そして、慈悲というものもね、「慈悲というものがあります。これを、こういうテクニックを使ってこれから育てましょう」なんていうことができるわけがない。そんなので、「あの人が幸せでありますように」なんて言ったって、それはただ[決められた文句を]ワーワーワーワーと言っているだけであって、本当の慈悲なんか起こりようがない。「本当の慈悲って、いったい何なの?」となったらば、[それは呼吸に関することと]まったく同じで、呼吸が観えている「新しい意識」のところにのみ慈悲は存在している。だからそこがリアリティの場所であり、そのリアリティに帰っていくことが慈悲の瞑想のポイントなんだということを、今年ぐらいになってからようやくはっきりと言えるようになったと思いますけども。

 だから、[これまでの]我々はずっといつでも“thinking mind”の世界に生きていて、そっちのほうが我々に親しいわけですよ。だけどもリアリティからすれば、こっち――呼吸が観えている意識。そこには慈悲が存在する意識――のほうがリアリティなんですよ。こっちのほうがリアリティで。なぜならば「自己は仏法である」から。いいですか?

 だから要するに我々は今まで、リアリティから外れていた。外れていたから、苦しかった。なぜ外れていたか? それは、抵抗したから。すべてが、そういう構造になっています。抵抗することで、[リアリティから]外れちゃった。外れたから、苦しい。だからその苦しみ――ドゥッカ――ということをお釈迦様が最初から仰ったのは、その「外れている」ということに気づかせるためのものであったわけじゃないですか。まあそういうことでね……これはまあずっと言ってきたことだから、いいですね。
 今日の話で、今まで私らがやってきたことを道元禅師の言葉で結びつけてやってみました。

(終わり)