恐山の禅僧が説く 「死ぬこと」と「生きること」

※出典:BSフジLIVE プライムニュース 2012年5月18日放送分
※話者:南直哉(みなみじきさい/禅僧・恐山菩提寺院代)・島田彩夏(キャスター)・反町理(キャスター)・小林泰一郎(フジテレビ解説委員)

※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

島田:こんばんは。5月18日金曜日のプライムニュースです。さて、今日のテーマはですね、「死ぬこと」と「生きること」ということなんですけれども、反町さん、たとえば「あの世」とかそういうものって、反町さんは信じていたりとかします? 何となく。

反町:うん、肉親の死とかを経験したときに、そういうものをちょっと考えたりすることはありますけれど、日常的には……すいません、何か信心が足りないんでしょうか、あまり真面目に考えたことはないですね。

島田:そうなんですよね。あまり真面目に考えたことがないんですけれども、今日はちょっとヒントがあるかもしれないんですけど。
 小林さん、今日のテーマは?

小林:今日はですね、日本というのはここのところずっと少子高齢化が進んで、人口がどんどん減っているんですよね。ところがですね、ちょっとこれを見てほしいんですけど、
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死者数というのは、2003年に100万人を超えて、これからもずっと当分、100万人を遥かに超える人たちがどんどん死んでいくようになるんじゃないか、と[予想されている]。こういう大量死の時代になってですね、これまでの「死」というものを我々はどういうふうに受け止めてきたのかということを、もう一回考え直さなければいけないんじゃないかと思いまして、今日は、恐山の院代をされている南直哉(みなみじきさい)さんに「死とは」あるいは「生きるとは何なのか」ということを伺おうかなと思っています。

島田:南さんは、福井県永平寺で20年間修行をしていらして、その後、恐山に行って、今は9年?

:いや、8年目に入るところです。

島田:8年目。今、院代を務めていらっしゃるということですね。

:そうです。

島田:恐山って、まあ、イタコというイメージが強いんですけれども、実際は恐山というのはどういう場所なんでしょうか?

:どういうところかと言われれば、一番大きいのは……我々は日常で「決定的に大事でも、見てはいけない」と思っていることがあるんですよ。決定的に大事でも、見たり話してはいけないこと。つまり、今の世の中は、基本的に競争とか取引で人間関係を規定する世界なんです。そうでしょう? つまりその、市場経済とか言われて、そこで労働することによって自分の存在を示すというのが、この社会のルールですからね。我々は会えば、必ず「ご職業は?」って言うじゃないですか。おそらく、昔だったら「ご身分は?」という話になると思うんですよ。今[たずねられること]は職業なんです。となると、この社会は、取引と競争でやるとなれば、「全てが透明でないとだめ」なんですよ。ルールとか。競争のルールとか。あるいは、「何を取引しているのか[という点が透明でないとだめ]」。だから、情報も透明性が必要だ、と皆が言うでしょう? 明るくて透明で、はっきりしたルールの下で競争と取引ができるということが前提で人間関係を作るんですよ。これは当たり前でしょう? 当たり前ですが、それとは全然違う側面で、「真っ暗で曖昧で、何も見えないけれども決定的に重要なもの」。それが死なんです。

島田:決定的に重要なもの。

:重要なもの。それが死なんです。それが死じゃないですか。これは、この世界に持ち出せないんです。だって、持ち出されてどうします? 競争と取引のときに。ですが、持ち出せないけれども、我々が生きているということに意味を感じさせる重力を与えているものが死だとするならば、これは処理できない感情としてあるわけですよ。
 今の近代社会と違って昔は、日常的に家の中で人が死んで、死んだ人はこんどは御先祖様として奉る、みたいなルールがちゃんとありましたから、それなりに日常生活の中に埋め込むことができたかもしれないが、今の我々の社会は、これを処理できないんですよ。非常に強い抑圧がかかる。

反町:それは、その生きている間の透明性とか競争とか取引という「生きている部分」と、死というものの落差が大きすぎるということでしょうか?

:そうです。切り分けなきゃならないんです。

反町:切り分ける。

:ですから、その圧力は今の時代のほうがずっと高いんです。

島田:昔は、処理できていた部分もある。

:そうです。もっと曖昧で、日常と死というのは曖昧だったか地続きだったと思います。

島田:重なり合っている部分があって。

:そうです。しかし、[今は]それがものすごく厳しく切り分けられているんですよ。そうすると、この感情というのは、意味は決定的ですから、どこかで出さなきゃならないんですよ。処理しなきゃならない。霊場とかっていわれる所は、たぶん、そういう感情とか思いというものを、ある意味で自分の思いのとおりに出せる場所だろうと思います。

:死者というのはですね、ある独特のあり方で在る人なんですよ。存在する人なの。しかし、その存在は、存在させないといけないわけですよ。
 別れるというのはですね、生きている人も死んだ人も基本的には同じなんですが、別れるというときに必ず挨拶するでしょう? なぜその、挨拶することが必要なのか。挨拶しないで別れちゃっていると、何となくこう、行方不明みたいになっちゃうじゃないですか。別れるといった人は挨拶するんです。挨拶するという行為は、「あなたが不在になったものとして、もう一回、縁を結ぼう」という意味なんです。「出会い直そう」という。それが「別れる」ということです。だから、それがうまくいかないと、「不在のままで出会う」というやり方に失敗してしまうんです。しかし、不在になったその大切な人の意味は変わらないんです。親が死んだって、親は親でしょう? 子は子じゃないですか。その人間関係の枠組みは残るし、そのありようも残る。となれば、うまく、不在というあり方で出会い直さなきゃいけないんですよ。そういうことが、例えば弔いなんですよ。あるいは、別れの挨拶なんです。ここで、うまく感情を整理するというのがとても大事なんです。

島田:去年、東日本大震災があって、多くの方が亡くなったり行方不明になったりして、それ以降たくさんの方がそちら[=恐山]に訪れるというふうに聞いたんですけれども、そういった方々というのは、何と言うんでしょう、今のお話の、「別れ」というのを、なかなか受け入れられないという、そういうことなんでしょうか?

:あのね、致命的な問題があるんですよ、やっぱり。つまり、私が会っていて思ったのはですね、「死者がいない」んですよ。遺族なのに。死者がいないの。死者になってないんです。

反町:それは、遺体が見つかっていないとかそういう話じゃなくてですか?

:それもある。それもあるけど、突然絶ち切られてしまうでしょう? そうすると、うまく出会い直せないんですよ、不在の人として。出会い直せない。

島田:挨拶をしていないから……。

:そうです。ですから、「涙が出ない」という人がいっぱいいるんです。「悲しくない」という人が。いっぱいいるんですよ。

反町:そういう人は、恐山に来て何を……恐山に何を求めて・探しに来るんですか?

:それは人それぞれでしょうし、だいたいね、そんなこといきなり訊けませんよ。訊けません。ですが、何かの折りに話してくれる人がいるわけです。そうするとやっぱり、一番印象的だったのは、悲しそうでない人と、はっきり口に出して「涙が出ない」と言う人なんですよ。いっぱいいるんですよ。その人は例えば、自分が失った人の意味とか価値みたいなものをまだ納得……自分に起こった出来事が納得できないんですよ。

 たとえば、失った人の大切さとか意味というものを実感するには、その人と分け合った時間や経験を思い出せないとだめなんですよ。だけど、思い出す余裕がないんですよ。

(中略)

:[大切な人を亡くしたことを]悲しくないわけはないが、「悲しめない」んですよ。たぶんね、自分としてはまず「これは仕方ないことだったんだ」と[自分に]言い聞かせているんじゃないかと思ったですね。それともうひとつは、ひょっとすると周りから「あなたが悲しむと、[亡くなった人は]もっと悲しむよ」みたないことを悪気なく言われているかもしれない。あるいは、もっと言えば、若い人ですから「早く立ち直れ」とか「復興に向かってがんばれ」みたいなことを言われるでしょう? そうすると、自分に起こったことをしみじみ自分の中に落としこむ時間と余裕がないだろう、と思ったんですね。「この人は、弔いができたんだろうか」・「この人は、そもそも[亡くした人の]遺体が見つかったんだろうか」と思ったですね。[もし]それがなくて、「今、死んでしまって別れた」といわれたって、それがどういうことか自分の中で納得できないでしょう? ひょっとすると[そういう人は]、恐山というのが、不在になった[大切な人]と出会い直す最初のきっかけではないかと思うんですね。

島田:私も報道に関わっているので、去年の震災[も含めて]色んな方が悲しんだり泣いたりしていて、時々考えるんですけれども、スレスレで助かった人・スレスレで助からなかった人[がいる]。色んなニュースをやっていても、何の罪もない方が日々、不幸な目に遭って亡くなっていくという、この、死ぬことと生きることの境目とか、どうしてこんな不条理なことが起きてしまうのか時々分からなくなってしまうんですが、その点はどういうふうに捉えていらっしゃいますか?

:分からなくて当然だと思うんですよ。ただ、この問題はですね、例えば要は、「なぜ、あの人は死んだのに私は生きているんだ?」ということでしょう?

島田:そうです。

:これは、今回大量に吹き出したに違いないんです。僕だってそうですもん。あの時は福井に居て、揺れもしないところで畳の上で見ていたんだから。それで、車が津波に呑まれていくところをずっと見ていたんですよ。なんであの人たちはあそこで津波に呑まれていて、僕はここで見ているんだろうな、と思いましたよ。

島田:そうなんですよ。

:それは思って当然で、大事なのはですね、性急に結論を出さないことなんですよ。というのは、この問いの根底には[=この問いの根底は]、「自分がなぜ生きているのか分からない」というのと連動しているんですわ。つまり、「向こうは生きて[ない]のに、こっちは生きている」ということに根拠が無いということはですね、ダイレクトにですね、「自分がなぜ生まれてきたか分からない」ということと繋がっているんです。同じ。だからあれほど、そのことにこだわるんですよ。不安に思うんですよ。
 あの[震災の]後ですぐ、「天罰だ」と言った人がいたでしょう?

島田:いましたね。まあ、訂正されましたけどね。

:私、[その発言を聞いた]瞬間にですね、「ああ、この人、気が弱いな」と思ったです。不安なんだと思う。すごい不安を抱えながら生きている人じゃないか、と思ったんです。それでね、あのとき思ったのは、例えば「因果応報だ」と説教したお坊さんがおそらくどこかに必ずいると思う。あるいは、牧師さんあたりで、ひょっとしたら「神の思し召しだ」みたいなことを言った人がどこかにいるんじゃないかな、と思ったです。それは[なぜかといえば]、耐えられないんですよ、その違いに。[死んだ人と、生きている自分との違いの]理由が知りたいわけ。

島田:何かの理由がある、と[彼らは思っている]。

:「本当の自分」とかって、よく言うでしょう? それと同じことなんですよ。「絶対に確かな根拠」みたいなものを知りたいんですよ。だから、その不安を直撃しているんです。
 それで、私が今回思ったのは、「今、こうあることに根拠がない」ということは実は「諸行無常」ということの最大の意味なんですよ。核心的な意味なんですよ。桜を見て「散って儚い」なんていうのは、それは違うんです。そうじゃなくて、「こうあることに根拠がない」という感覚なんですよ。

反町:「こうあることに根拠がない」。

:そう。あなたがあなたであることには、実は大した根拠がない。ということに対する戦慄が、「無常」ということなんですよ。それが[無常の]核心的な意味なんですよ。
 だから、今回僕が思ったのは、あれだけの大震災ですからね、濃淡の差はあれど、いわゆる仏教でいう無常みたいな感覚が、言葉は違っても、ひょっとしたら日本人全体に共有された部分があると思うんですよ。濃淡は違っても、強烈に。遠く離れていても、感じた人がいると私は思う。その後、色んな天災が起こる、事故が起こる。原発事故が起こる。そうすると、今まで自分が疑わなかった自分の存在の基盤に亀裂が入ったことは皆が知っているはずです。だから私は、無常という仏教の言葉は、多くの人が共感するバックグラウンドになってしまったと思いますね。

反町:それは、いいことなんですか? いいこと・悪いことというふうに判断するものじゃないかもしれませんが……。

:私は、大事なことだと思います。「いい」とは言いませんよ。「悪い」とも言いませんが、大事なことだろうと思います。というのは、その感覚がないと、我々は自分の存在というものをはっきり見ることができないと思いますね。

島田:こちらのグラフをご覧いただきたいんですけれども、
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島田:こちらは年間の自殺者の数の推移を表したものです。ご覧いただいて分かるようにですね、みずから命を断つ人が、1998年以降ずっと、14年連続で3万人を超えているという、この日本なんですね。
 [視聴者からの]メールも、自殺について[触れています]。

反町:青森のかたからメールが来ています。30代の男性の方なんですけれども、「最近の若い人は、すぐに自殺したがりますが、何も挑戦しないで死を選ぶことが正しいのでしょうか」というメールなんですけれども。
 若者の自殺について、どのようにお感じになりますか?

:こういうのも、やっぱり一般論でやるべきではないんですが、ひとつは、「死にたい」ということと「生きているのが嫌だ」というのは別なんですよ。この違いが分からないと、話が通じないんですよ。「死にたいんだ」という人の本音が実は「生きているのが嫌なんだ」ということなんですよ、実際は。つまり、「今いる、このような生き方は嫌なんだ」と言っているだけなんですわ。「そのまま死んでしまいたい」ということとは、どこか違うんですよ。つまり、そこで言われている、今の本人の生き方に対するすごい切なさみたいなものが汲み留められないと、「次の話」にならないんですよ。
 そのときに例えば、「自殺は悪だ」とか「正しくない」とかってバーンと言うでしょう? [私が問題だと思うのは]、自殺を否定する議論とか思想とか理屈っていうのはですね、基本的に、意味がないと思いますね。というのはね、自殺する人は、全部分かって死ぬんですよ、そんな理屈は。「お父さんとお母さんが悲しむぞ。命は大切だぞ。死んだら何もならないぞ」……そんなことは全部分かって死ぬんですよ、死ぬ人っていうのは。その人に「自殺はね、正しくないんだよ」とかね、「キリスト教はこうだよ」、「仏教はこうだよ」なんて言ったって、絶対に効かないです。大事なのは、その人が「自殺しない」って決めることなんです。あるいは我々だったら、「自殺してほしくない」ということ。それだけ。つまり、死ぬか生きるかを選べるときに、生きているほうに賭ける、というふうに本人に思ってもらうしかないんです。

島田:それを、納得してもらうしかない。

:そうです。なぜかといえば、色んな宗教には戒律といわれるものがあるでしょう? それね、理屈で言いますか? 神様が一方的に[内容を決める]でしょう? あるいは、釈尊だったら一方的に決めるわけですよ。[なぜ内容がそうなっているのか、という説明は]書いてないです。なぜか? これは理屈の問題ではないんです。生きている意味は我々に概念句としては捉えられないように、死んじゃいけない理由なんか捉えられっこないですよ。
 だって私ね、出家するときに一番迷ったのはですね、「これでもう、自殺するカードがなくなる」と思ったですもん。「一発必殺のカード」ですよ。だけど、仏教で不殺生戒というのがあるから、これで僕は自殺するカードは捨てないといけないんだな、と思ったのが最大の逡巡ですもん。
 となればね、要するに人間というのは、幸か不幸か、「死を選択できる存在」なんですよ。それははっきりしているわけです。しかもその選択の根拠というのは、何を理屈付けたって、それは理屈である以上は反対意見があるわけです。どっち[の選択]にも「根拠」がある。となれば、生と死の問題は、我々にとっては、「自殺しない」と決めてもらう。まず本人に。あるいは、周りの人間はその人に「[自殺を]してほしくない」と説得するしかないと思いますね。

島田:このグラフは、自殺を考えた経験がある人の割合。
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島田:実際に自殺を[した人の割合を示しているのではない]のですが、20代が28.4%というのが結構衝撃だったんですけれども、その他にも、働き盛りだったりとかする方々が皆さん25%以上と、本当に何かこう、自殺を考えたことがある方の割合が多いんだなと思うんですが、今の南さんのお話を聞いていると、「死にたい」と思うことというのは、「苦しい」・「今、この状態で生きていることが苦しい」と言っているというふうに[見てよいのか?]

:というふうに見える人がいっぱいいますよ。「自分の今のありようが切ない」と訴えているんだろうな、という人がいっぱいいますよ。
 それともうひとつね、それ[=自殺を考えた経験がある人の割合が小さくないこと]を驚いちゃだめですよ。当たり前。当たり前ですよ。人間ね、一回ぐらい自殺したくならなかったらね、人間としてだめですよ。だめ。
 だからその、私は、自殺してほしくないと思うし、生きるほうに賭けるべきだと思うし、生きる決断をすべきだと思うし、その決断だけが、人間に存在の根拠とか意味とか価値を与えるとは思いますが、その、死にたくならないような人生を送ってたら、だめですよ。「自分は、ああ、もう死んじまおうかな」と一回も考えない人生はね、人生と呼んじゃだめですよ。当たり前ですよ。

反町:それは、あれですか、やっぱりこう、「つらい思い」といっても命がけのつらい思いみたいなものをするような場面というのもやっぱり、人として生きていくうえで必要だという、そういうふうに仰られるんですか?

:「必要だ」っていうと余裕があるんですがね、そんなことないんですよ。要は、生きていると何か起こるんですよ。そのときに、つくづくこう、「ああ」と思うのは当たり前でしょう。だから、転んでもいいんですよ。だから、転ばない人生はない。転んでもいいが、起きられるかどうかなんですよ。で、もっと大事なのは、転んだときに「大丈夫だよ」って手を出してくれる人がいるかどうかなんですよ。人の生に力を与えるのは結局ですね、別の人なんですよ。当たり前でしょう? あなたの存在は、人から来たんだから。名前だって自分で付けたわけじゃないし、言葉だって自分で覚えたわけじゃないし、立てるようになったのも親のおかげじゃないですか。他者との関係性の中で自己が在るというのは当たり前で、この他者との関係性をどう充実させていくかということが重力を与えるんですわ。そうすると、何度転んでもいいが、転んでどうしようもなかった時に「まあ大丈夫だよ」って言ってくれる人がいるかいないかですよね。

島田:だけれども、実際に自殺者は増えていますよね? ということは、今の[お話をふまえると、転んだときに「大丈夫だよ」と]いうふうに言ってくれる人が少なくなってきた、というふうな社会なんですか?

:そう。私はそう思う。じゃなかったら、「世界に一つだけの花」なんていう歌が流行るわけがないでしょう。

島田:どういう意味ですか?

:だって、ああいうことを言ってほしいわけですよ。要するに「ナンバーワンじゃなくていい」・「オンリーワンだ」と。「あなただけが尊い」と。あれは一番言われたい台詞ですよ。誰も言ってくれないから歌手が言ってくれるんですよ。

島田:だから流行る。

:そう。私、あれ聴いたときに「ああ、なんて悲しい歌だろう」と思ったんですよ。
 それ以前には、ナンバーワン[を目指すことに価値を置く]時代があったでしょう? 「ナンバーワンになろう」と。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」。あれ、ラクですよ。なぜかといったら、序列だから、自分が56位だろうと何だろうと、「ここ」って決まっているんだから、存在価値は。ところが「オンリーワンはありがたい」って誰が決めるんですか? 「たった一人である」ということは価値ではないですよ、それ自体は。石ころだってオンリーワンなんだから。

反町:なるほど。

:或るものが「尊い」ということは、別の誰かが「そうだ」と言ってくれないかぎりは[成り立たない]ですよ。

島田:その価値づけというか意味づけをしてくれるという関係性が、今……。

:必要なんです。

島田:お母さんとかお父さんとかね。

:それなんです。それが、普通だったら、[或る人の]存在自体を肯定する存在というのが親の役割なんです。私が増えていると思うのは、この時点で傷つく人がいるんですよ。うまくいかない人が。

反町:子供のときに?

:そうなんです。非常に小さい時に、親子関係でこじれてしまう人がいる。それは大きなダメージを受けるんですよ。つまり最初の存在の、力の基盤の部分にひびが入ってしまう人がいるんですよ。あのね、やっぱり多いんですよね……その、可哀想だなと思うのは、親は「良かれ」と思うわけですよ。つまりその、「私はあなたのために」とか「あなたのことを思って」と[親は]言うわけですよ。ところが子供のほうは、それは分かっているんだが、その「支配」が切ないわけです。

反町:あの、昔のほうが子供が多くて、親と子の関係って、1対1の[関係性より]希薄だったように思いますけど……。

:そうです。だけど、そういう[昔の]人に話を聞いてみれば、例えば「自分のところは大勢の兄弟だから、自分が病気になったときには他の兄弟は放っぱらかしてお母さんに一日中看病された」みたいな経験が、どこかにあるんですよ。つまり、何もできない・何の能力もない[状態でも]、ただそこにいるということだけを確かに喜んでくれる人というのが人には必要なんですよ。絶対に必要なの。

島田:「あなたがここにいるだけで私は幸せよ」という。

:「幸せだ」というか、それを喜んでくれる人が要るんですよ。

島田:それでは南さんに、これからの時代、私たちは死とどう向き合うべきなのか、提言を頂きたいと思います。南さん、お願いします。

:じゃ、こういうことで。
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島田:「やりすごす」。

:あまりね、積極的な言葉ではないですね。
 だからね、さっきも言ったように、何でも分かって対処法があると思ってはだめなんですよ。もっと言えば、待てないと[いけない]。相手がどういうものかということが次第に見えてくるときもある。まず、しかけるのではなくて待てないとだめ。で、待っていてもどうにもならないことが世の中、いっぱいあるんですよ。どうにもならないことに[対して]はね、「こうだ」ってすぐ決めちゃだめなんですよ。それは、何とかそのままやっていける方法を考えたほうがいいんですよ。
 よく人はね、「人生、夢と希望は持つべきだ」って言うでしょう? 私は思うんですが、そういう言い方はですね、人を結局ね、前のめりにして駆り立てると思うんですよ。じゃあ、夢や希望のないものはだめなのか、ということです。私は、夢や希望なんか持たなくたって全然かまわないと思いますね。

反町:高度成長期って不幸な時代ですか? 高度成長期って皆、夢や希望を持って……。

:いやいや、不幸な状態ではない。しかし、幸福な時代だとは断言できないですね。

島田:夢や希望を、持ってもいいわけですよね?

:もちろん。だけど、私が言いたいのは、夢と希望は持たなくても生きられるし、そんなものを持たないで堂々と生きていた人がいっぱいいた時代が、近代以前にはあったはずですよ。

反町:なるほど。

島田:みんな、夢と希望を持っていなくても普通に。

:堂々と生きていたと思いますね。
 だって、夢と希望ってなぜ必要なのかって、走るためですよ。何が走らせるのか? お金ですよ。お金は、走っていないと死んでしまうでしょう?
 だから、私は思うんですが、近代以降の人のあり方、人間の有り様(ありよう)を規定しているあり方と、あの「夢と希望」という言い方はね、似ていると思う。個性とか人材とかっていう言葉。つまり、「何か意味のあるものと交換して、より大きなものを手に入れるために突っ走れ」というのを陰で支えていると思いますよ。
 だから、「夢と希望」という言い方はいいですよ、しかし、あれほど言わなくたっていいし、もっと、夢と希望を持たなくたって人は堂々と生きられるに違いないと思います。

島田:持ってもいいし、持たなくてもいい。

:持たなくてもいい。

島田:そういう生き方でいいじゃないか、と。

:いいと思うんです。だから、「やりすごす」というのはそこ[に関係していて]、「夢と希望のない人間はだめだ」という言い方はだめだと思います。

島田和歌山県の男性[からのお便り]です。「死について考えると、怖くて眠れなくなるときがあります。これを受け止めなければならないと分かってはいても、いつか迎える死を考えると、吐き気がするくらい胸が気持ち悪くなります。家族からは、『メンタルが弱い』と一蹴されますが、どう気持ちをコントロールすればいいでしょうか。何かアドバイスがあればお願いします」と、まあ、こういう質問はけっこう来て、「死が怖い」ということなんですけれども。

:あのね、ちゃんと怖がりゃいいと思いますよ。怖がって当然ですわね。ですから、妙に「何とかしよう」とか[したり]、「メンタルが弱い」とかって言われてるみたいですけども、それで当たり前だと思いますね。問題は、それに巻き込まれないことですね。つまり、それによって例えば日常生活がガタガタになってしまうとかいったら、これは話は別です。

島田:この方は、仕事をハードにすることで忘れようとしたいというふうに……。

:怖がりながら仕事すればいいと思いますね。ごまかさないで、怖いまま仕事をすればいいと思います。大事なことですよ。だから問題は、付き合えるかどうかです。その怖さと。付き合えればいいんですよ。否定しちゃだめだと思いますね。メンタルなんか弱くたって、生きていければ充分ですよ。

島田:さっきの「やりすごす」というのとまた同じで……。

:そうです。だから、そんなに性急に、人から言われて「だめなんだ」なんて思っちゃだめですよ。大事なことですよ。その恐怖のなかで日々の生活を築いていくとしたら、強靭な精神ですよ。

島田:それはやはり、生きるということと繋がっていく。

:もちろん。だってその人、生きているもの。

島田:こういう場合は、家族は、こういう方がいらしたらどういうふうに接してあげればいいんでしょう?

:家族の問題というのは個々別々だから、すぐには言えないですが、要するにね、「あ、そういうことを考えてるんだな」ってだけでいいと思います。だって、人の心とか死に対する気持ちなんか、決して分からないですよ。他人のことが分かると思っちゃだめです。他人と自然と死は分からないんです。分からないけど付き合うんですよ。

反町:南さんご自身は、死は怖いですか?

:怖いと思ったことはないですね。ずっと考えてきたんで、慣れちゃったです。

反町:ほう。でも例えば、ご家族とかとの、ある意味で一つの節目というか別れになるわけですよね?

:僕、極端でしてね、他人の死というのは感じないんですよ。死というのは自分の死だけしか意味がないと思っているんです。

反町:自分が死ぬということは要するに家族とお別れするということには……そういう整理の仕方はされていないんですか?

:いや、私ね、ちょっと特殊でしてね、小さい頃に非常に病弱だったものですから、生まれついた頃から、「死ぬとはどういうことか」みたいなことをずっと考えるわけですよ。それで、結論出ないでしょう? 大人に訊くと、「次の話」になるんですよ。「死んだらどうなるか」という話になる。そんなこと聞きたくない、私。「どこに行くか……花畑とか天国」とかは関係ない。「死とは何か」を知りたいのに誰も答えないんですよ。だから分かったんです、「あ、[誰も]分かんねえんだな」って。

反町:じゃあ、[死が]お別れかどうかも、分からない、と?

:誰に訊いても分からないんだから自分で分かるしかないけど、これは多分わからないことなんだな、というのが小学校4年の頃に分かったんです。だから、私には[死は]考える対象なんです。怖がる対象じゃなくて。ずっとそうなんです。だから、怖がる余裕がないの。

反町:ほう。
 北海道の看護師のかたからメールが来ています。「職業柄、死に関わることが多いです。何度関わっても、いつも『こうすればよかった』・『これでよかったのか』と反省の日々で答えが出ません。どうしたらよいでしょうか」。

:同じことを、ある麻酔医の人に言われましたけどね、答えが出ないことに耐えるですね。

反町:耐える。

:耐える。そこに意味がある。「なぜだろう」って考え続けることですよ。絶対に放しちゃだめです、その問いは。誰に何を言われても、「ああ、そうか」と思ってもいいですよ。しかし、それでもその人には残るはずです……終生残るはずです。しかしそれは「財産」なんです。その人のとても大事な意味なんです、看護師さんをやっている。だから、どんな意見に触れてもいいです。どれに納得してもいいです。しかし、心から納得することはないんだと思ってやったほうがいいですよ。

島田:それをずっと考え続けることに意味がある。

:抱え続ける。だから、そういうことが多分、看護師さんとしての生き方を充実させるに違いないと思いますね。

(終わり)