山下良道法話:「『生きる意味』を求めて」(1 of 2)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2008年10月12日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=457
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

(途中まで略)

 今日のことは昨日のメールにも「人生の目的について話す」と書いたですけども、このエックハルト・トール著“A New Earth”*1の“your inner purpose”――第9章――についてお話ししようと思っています。

(中略)

 それで、今日は“your inner purpose”という話題で、これも非常に……。だって、「何のために生きてるか」ということそのものですから、話が単純であるわけがなくて。だけど、どうなんでしょうかね、こういうことを今の日本で……まあ職場では話さないでしょうね(笑)。職場で話しますかこういうことを。「お前、何のために生きてんだ?」ってね。

 結局ね、今の日本ではこういうことを話すことが非常に苦手となっている部分がやっぱりあるんですよね。要するに、こういうことをディスカッションするということ自体に慣れていないから、それをどう考えていったらいいのかということが、まず掴みようがない。それで、このことに関して歴史的にはどういうことが言われてきたのかという知識も非常にあやふやだし、どういうディスカッションが行われてきているのか、今はどういう状況になっているのか[という知識もあやふやである]。何かをディスカッションするためには、それくらいの予備知識なり予備の訓練ができていないとディスカッションなんか成り立たないんですけども、今はそれが非常に弱いですから。
 だから、まあ私が今やっている作業も――今日は「求めて」という題になっているんですけど――、そういうことを「求める」ための叩き台というか土台を作ること……そういう作業をしているのかもしれないですね。だから、私がここでずっと喋ってきたことも、(中略)まあこの“A New Earth”を受け入れるための――あるいは、この本を通して色んなことを考えていくための――ひとつの土台作りにはなってくれたらなあと思ってますけどもね。
 だから今日はちょっと非常に深い問題を取り扱わなきゃいけないし……もちろんこのエックハルト・トールさんたちはそれを単に抽象的な論議にとどめないで、「じゃあどうしたらいいの?」、「あなたは一体どうしたらいいの?」という話に持っていきますから、ある意味で非常に実践的ですけどもね。だから今日は、そこまでうまく話すことができたらと思うんですけども。その話していく過程で、今年ずっと話してきたようなことの復習も兼ねます。というのは、この本の第9章の最初の部分が、今までのまとめに非常にふさわしいところがあるので。その今までのまとめを含んだうえで、じゃあ、“inner purpose”――生きる目的、生きる意味――はどういうことなのか、そしてそれを人生のなかで実際に実現していくためには、いったいどうしたらいいのかという、そういう問題に繋がっていきますから。
 それでまず、こういう深い問題となったらやっぱりね、池田晶子さんの[ものを読まなければ](笑)。これは『リマーク』という何回も採り上げてきた本で……まあどこを採り上げてもいいんだけども。まあ今日の箇所はやっぱり具体的に「生きる」ということと繋がってきますし。その具体的に「生きる」ということをもっともっと深い地点から[池田さんは]見ているわけですよ。ただ単に「具体的にどういう職業に就いたらいい」とかそういう話ではなくて――まあそういう話も含みながら――、もっと人生を根本的なところから見ていこうという。まあ当然そうなるんですけども。

 それでね、これが1998年の7月の01番。

(中略)

普通に人が「自分」とか「自分の思い」とか思っているものが、いかに間違いであるか。
例えば人体とか、その臓器の存在が、どの自分に負っているというのか。
あれらは立派な客観である。人体それ自体は、もはや人間ではない。人体は人間ではない。
人体も意識も、それが「在ること」自体で神秘である。
しかし、神秘と感じるこの感覚の源に遡ろうとして、それ以上遡りようがない。
自然

存在

( )


在ること=不知
池田晶子『リマーク』)

 何のことか分からないかもしれないけども(笑)……要するに……もちろん池田さんは我々の常識に揺さぶりをかけているんですけども。まあ結局、私が今年ずっと言ってきたことはエゴの問題で、我々は簡単に「私」とか「自分」とか言ってしまうんだけども、それが本当にそんなに単純明解に自明なことなのかということで。
 普通、世間で生きているかぎりは「はい、私の名前は○○です」、「あなた」、「彼」というふうなレベルじゃないと生きていけないんだけども、それをもっと見ていった場合に、「自分とはいったい何なのか」あるいは「私が『自分』と呼んでいるものが、はたして本当に『自分』なのか」というようなことをちょっと考えていかないと、「生きる目的」なんて言ったって、もうあまりにも多くの混乱があるわけですよ。
 いまここで池田さんが言っているのは、まさに「自分」とか「自分の思い」――これはもう今年になってずっと問いかけてきた問題ですけども――[についてです]。あるいはこの自分の「体」って言ったって、あるいは「自分は胃腸が悪いの」と言ったって、何かまるで私がこの自分の胃を所有しているかのようだけど、だけど皆さん、いつ自分の胃を作ったんですか? 「生まれてきたらあった」というだけのことじゃないですか。だから本当にこの体というのは不思議で、これは本当に「私の体」だし、つねれば痛いんだけども、だけど私はこんな体を作った覚えはないんですよ、本当に……こんな体をね。それでまあせいぜい、「ウェイトトレーニングをすれば筋肉を作れる」ぐらいのことはできるけども、それだってただ単に「筋肉を変えた」というだけの話であって、もともとこの私のこの存在そのものは私が作ったわけではないという、まあとんでもない事実があるわけですよ。
 そういう辺りのところから、「私が私の人生を生きる」という普通の考えがいかに根拠のないものであるかということがだんだんと見えてくるし、そして、「いま自分がここに存在する」ということが途轍もない神秘であるということも何となくおぼろげながら見えてくるんじゃないのかということで。
 ただ、池田さんの場合はいきなりストレートに球を投げちゃうから、ほとんどの人には「え? 何を言ってるのかよく分からない」ということですけど、ここで池田さんが言ったのはそういうことなんですよ。
 だから、「自分の人生を生きる」とか「自分の人生の目的は何なのか」ということを考えていくのに、「自分とは何か?」、「自分の人生とは何か?」、あるいは「果たしてそれは『自分の』人生なのか?」というようなところから考えないと、話が全然分からなくなってくる。
 だから池田さんのはこれは答えじゃなくて――まあ答えもあるんだけども――、ちょっと我々の常識を揺さぶるための入り口として[この法話の内容に]入れてます。

(中略)

 今日のところも、まさにこの問題について後で詳しくエックハルト・トールさんの文章を読みながら見ていく。そのことについて、まさにティク・ナット・ハンさんが書いていますから、まずそれから入っていきましょうね。『ティク・ナット・ハンの抱擁』の29ページね。1月の第3週ですね。1月の第3週だから[、ページに添えられた写真では]雪が降っていますね。これもすごいですよ。最初の2行はね、

私たちの時間は、
ただ在ることのためにあります。
(ティク・ナット・ハン『ティク・ナット・ハンの抱擁』)

 「在ること」というのは(中略)「存在する」ということですね。「ただ在る」。“just to be”というか……“just to exist”と言うのかな。

 本当にね、こういうのを皆はどう受け止めるのかな? と私は不思議なんだけどね。まあこの一法庵に集まって下さっている人たち或いはこのポッドキャストを聴いている人たちは、まあこういうものに接してもそれほどトンチンカンな・的はずれな受け止め方はしないと思いますけども。
 「ただ在ることのためにある」、「ただ存在することのためにある」。これを理解するためには、「ただ存在する」ということが途轍もなく深いものであるということ――池田さんの言葉を使えば「神秘である」ということ。あるいは我々がずっと使ってきた言葉で言えば「奇跡である」ということ――[を理解する必要がある]。そして、その奇跡・神秘を深く深く感じていくための方法……例えば「呼吸を観る」とかいうことを我々はずっとやってきているから[、それほど的はずれな受け止め方はしないだろう。しかし]、ただ在ることのために私たちの時間はある――ということは、私たちの人生は[そのために]あるということですよ――ということが[一般の人に]通用するかな? っていつも思うんだけど、まあ通用しないんだろうな(笑)。まあだから、これがどれほど通用するかが私は本当に見当もつかないし……。あるいは、今は通用しなくても、何やかや言っていくうちにやがては通用していくのか……多くの人にね。
 今回の接心でも、「息を観つめる」ということだけのなかにもうすでに安らぎがあるんだということを、参加者の人はだんだん分かってきてくれたみたいですけども。だから、そういう呼吸瞑想をして息を観つめるというただそれだけをしている時に、そこにものすごく深い安らぎがあって、それは何もしていなくてただ呼吸を観つめているだけなんだけども、そこに深い安らぎとよろこびがあるということを自分の実感として――私がさんざん言うとか或いはティク・ナット・ハンさんが仰るとかじゃなくて自分の実感として――本当に納得できたときに、そこに無限の深さを観ますから、それで初めてこのティク・ナット・ハンさんの言う「私たちの時間は、ただ在ることのためにあります」ということの無限の深さが分かるわけですよね。だから、それが分かればすべてが分かっていきます。
 だけど、いま言ったようなことが普通は通用しない。なぜ通用しないのか? なぜほとんどの人にとって、こういうことは理解できないのか? ティク・ナット・ハンさん自身も、地球上のほとんどの人にいかにこれが通用しないかということをすべて熟知したうえでまあ仰っているわけですよ。
 じゃあ、どういうことを仰っているかというと、

私たちは、在ることより
行動することが重要だと考える傾向があります。
私たちは、何かをしていないと
時間の無駄遣いをしていると思ってしまいます。
それは間違った考えです。
何よりも私たちの時間は、ただ在ることのためにあります。
何のために私たちの時間は存在するのでしょうか。
生きるため、平和のため、喜びのため、愛のため。
これらは、私たちの世界が最も、そして切実に必要としているものなのです。


……存在する質が、行動の質を決めるのです。
(ティク・ナット・ハン『ティク・ナット・ハンの抱擁』)

 「質」というのは要するにクオリティ(quality)です。だから、「どう存在するか」……その質が、行動の質を決める。そういうことですね。だから、いま「自分が自分である」こと……今どういうふうに「自分が自分である」か。そのクオリティが、自分の色々な行動――人と交わること、社会活動をすること、職業で色んなことをすることなど――の質を決めていくという話になってきます。
 だから今日の法話の内容も、ティク・ナット・ハンさんが非常にコンパクトに書かれた上記のことの範囲の中に全部収まるんですけども、ただこれだけではあまりにも分かりにくいと思うので、これからもっとみていきましょう。

 それで、今日の話は今までの話の続き――今までのまとめでもあるんだけども――ですが、もうちょっと実践的な面も出てきて……要するに、「どう生きるか」っていった場合に純粋にスピリチュアルなレベルでも色々話せるわけですけども――今から話しますけども――、それと同時に我々は1人の人間として或いは1人の社会人としてこの現代の日本社会或いはこの地球上にいま生きているわけですよ。ということはもちろん、色んな経済活動をどうしてもせざるを得ないわけでね。要するに職業に就かなきゃいけない。あるいは色んなことをしなきゃいけない。そのときに、どういうふうに生きたらいいのか――最も世俗的な意味でも――ということが非常に問題になってくるわけですよ。というのは、スピリチュアルなことを求めていればいるほど、「じゃあ、自分はどういうふうにお金――収入――を得て、どういうふうに生きればいいのか、どういう職業に就くべきなのか」[が問題になってくる]。それはここに居る人だけでなく全ての人にとって非常に切実な問題で。

 まあ「とにかく生きていければいいんだ」っていうんだったら話は簡単なんですけれども、私の話を聞きに来たり、こういうことを勉強しようとしている人たちにとっては、ただ単に生存するだけじゃなくて、もっと意味を求めざるを得ないわけじゃないですか。でも、意味を求めてもやっぱり生存していかなきゃいけないわけで――要するに、どうしても収入が必要なわけで――、「じゃあその収入をどうやって得ていくべきなのか」というような、ある意味で非常に生々しい問題とぶつからざるを得ないわけですよ。だからそういうことを踏まえて、今からエックハルト・トールさんのことを色々お話しします。
 というのは、ご存じのようにエックハルト・トールさんという人はまあ“Spiritual Teacher”ですけどもお坊さんではなくて、お坊さんのようにどこかの深い山の中で生きてるとかじゃなくてまさに世俗の中で普通の人に囲まれて生活していて。普通の人というのは、もちろんそれぞれが職業を持って家庭を持って、そういうなかでやっさもっさして色々やっていますから、まさに皆さん――ポッドキャストを聴いていらっしゃる方――と同じ状況で。そのなかで「どうやったら私はもうちょっと意味のある人生を生きられるの? ただ単に生存していくだけじゃなくて、もうちょっと意味のある・もうちょっと生きがいのある・もうちょっと深いところで満たされる、そういう人生をどうやって生きたらいいの?」という話になってきます。
 [話の対象になる人は、特に]先進国といわれる国の若い人ですね。だから一応お金があって、少なくとも今日食べるものと住むところは保障されている。「それだけに精一杯」ということはまずないわけで……まあ、現代の日本でもそうじゃなくなりつつあるということはその通りなんですけども。だけども、いきなり飢え死にするとか――まあ、そういうこともあるか――ということは、もっと貧しい国と比べればないわけで。そういうときに、そういう国で生まれた若い人は、「人生の意味と目的」を問題とせざるを得ないんですよ。それを問題にするということに対して「それは贅沢だ」という見方があるのは私も承知しています。だって、ほとんどの人たちは人生の意味も目的もへったくれもなく「今、とにかく食べるものが無い」という状況に置かれる人が本当に多いんですから。だけども人間は、もうちょっと余裕ができてくると――だからそれは先進国の若い人ということになりますけど――、ただ単に食べ物があればいいというだけではどうしても済まなくなるんですよ。それはしょうがないんですよ。しょうがないし、そういうふうになっているわけですからね。そのときに、「意味と目的」を求めざるを得ない。そこでもう、ありとあらゆる混乱があって……意味と目的の求め方のところであまりにも多くの迷い――迷いと言ったらアレだけども――があってね。まあもちろん、そこで七転八倒しちゃうわけですよ。意味と目的を求めてものすごくたくさんの活動をしちゃうとか、あるいは活動ができなくて、とにかく何もできないという状況になっちゃうとか。あるいはものすごい強いストレスを感じるとか、あるいは退屈で退屈でしょうがなかったりとかね。あるいはとにかく一生懸命にお金を儲けたら自由と人生の意味・意義を感じることができるんじゃないかと思って一生懸命に働いている人もいるし。それである程度成功して、人が羨むようなある程度の年収を得るようになってそこで意味を感じているかというと、そうも言えなくて……自分が期待していたほどの意味をどうしても感じられないというようなことがあるわけですよ。
 こういう話をわざわざ聞きに来る人や、このポッドキャストを聴いているという人は、いま私が言ったようなことは多分もうさんざんやってきているはずなんですよ。そのうえで「どうしても満たされないものがある」。どうしても「もっと何かを自分の人生に求めざるを得ない」。「だけども、それが何なのか? それが年収1000万円、2000万円を目指すことなのか? 年収が2000万円あれば、ようやく自分が好きなことができて、それで初めて自分の人生に意味を感じることができるのか? 要するにそれはお金のことなのか? キャリアのことなのか?」と考えて、多くの人がもちろんそれをやっているんでしょうけども、「でも、どうもそうじゃないんじゃないの」ということを感じるから、まあ仏教とか或いは瞑想とかに興味を持ってやっていらっしゃると思うんですよ。だからそこら辺は皆さん色々感じていて。
 それで、ここでエックハルト・トールさんが2つの言葉を使ってそこの意味を整理したんですけども……彼は“inner purpose”と“outer purpose”ということを言っています。“inner purpose”といったらば、[その意味は]やっぱり精神的な目的。“outer purpose”というのは、もっと具体的な……要するに何かの職業であったりとか何かキャリアであったりとか具体的なことですね。だからその「内なる目的」と「外で達成すべき目的」の2つのポイントから見ていかなきゃいけない。
 だけども、それが本当にきれいに2つに分かれるのかといったら、分かれるはずがないじゃないですか……1人の人間として生きていてね。だから当然、この2つは密接に繋がっていて。じゃあどちらが大事かといったら、もちろん“inner purpose”の方が大事に決まっているんですけども。
 “inner purpose”――内なる目的。要するに、「我々はいったい何のために生きているのか」――というところで、だいたいの先生たちは何か非常に曖昧なことを言うんです。それに対して、エックハルト・トールさんは非常に簡単なことを言っていますね。

Your inner purpose is to awaken.
エックハルト・トールA New Earth”)

 だって(笑)。要するに、「我々の『内なる目的』というのは“to awaken”(目覚めること)だ」。非常にシンプルじゃないですか。シンプルこの上ないでしょう。だから、話としてはまずこれを押さえなきゃだめなんですよ。ここを押さえることがまず第一歩ですね。その上で人は収入が必要だし、職業に就かなきゃいけない……色々と悩んでいるかもしれないけども。だからこの「目覚めること」という自分の人生の目的をしっかりすることで、“outer purpose”――外の目的。「どういう職業に就くべきなのか」など――ということが見えてくる……だからまあ、そこでありとあらゆる非常に複雑なことがあるに決まっているんだけども。だけども、ここがはっきりしないで“outer purpose”――外の目標――だけを探し始めると、「自分は一体どういう職業に就くべきなのか、何が何だか分からなくなってしまう」という、結局そういうことじゃないですか。
 それは何も若い人だけじゃなくて――若い人は若い人なりに、中年の人は中年の人なりに、老人になったら老人なりに、引退した人は引退した人なりに――、それぞれの人で「どう生きるべきか」というのが非常に問題になってきている。そこでいきなり“outer purpose”――外の目標――とかを話し始めちゃうと、どうせ何が何だか分からなくなることだし、皆そんなことはもう他の人たちとさんざん話しているから私が話す必要は全く無いんですけども、絶対に押さえなきゃいけないポイントは「我々の目的というのは“to awaken”(目覚めること)だ」という、そこなんですよ。
 だからもちろん、“to awaken”なんて言われてもまだこれは何を言ったことにもならないんだけども、「我々の生きる目的というのは“to awaken”(目覚めること)だ」ということをまず押さえましょう。そのうえで、この“awaken”というのはどういうことなのかを今から見ていきますけどもね。

 だからね、「生きる目的」とか「私はどう人生を生きたらいいのか」ということであまりにも多くの混乱があるから、今は整理をしているわけですよ。それで、何かもう世俗を捨てちゃって純粋にピュアな・スピリチュアルなことを求めているというようなことじゃなくて……エックハルト・トールさんが実際に相手にしているのは普通に生きている人たちで、それぞれの家庭も仕事も持っている、収入を得なければいけないそういう普通の世間を生きている一般の人たちのことですから。「そういう普通の世間を生きている一般の人たちがどう生きるか」というところであまりにも多くの混乱があるから、ちょっと一旦、整理――“inner purpose”と“outer purpose”に分けて、“inner purpose”が大事で、それは“to awaken”(目覚めること)だということ――をして。

 一応これは、最初の整理ですね。整理だから、これでは全く何も明らかになっていないんだけどね。だって「awakenする」ってどういうことなのかがまだ何も説明が無いから。だけど一応、この線を押さえるということをまずやって下さい。

2 of 2へ続く)