ニュースの深層evolution:「恐山の禅僧」に日本社会の現代を問う(3 of 5)

※放送日:2006年12月5日
※話者:南直哉(みなみじきさい/禅僧)、宮崎哲弥堤未果※〈2 of 5〉からの続きです。先頭はこちら。音声の全体を通して聴きたいときはこちらをご参照ください。

※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

宮崎:いじめる側、あるいは差別する側というのは、何が裂けてる?
:たぶん誰でも裂けてるんでしょうけれども、その裂け方が非常に厳しいんだろうと思いますよ。つまり、ダメージを負っていると思いますね。
宮崎:それは例えば幼児体験、幼児期に負った傷なんですか?
:これは一概には言えないんですけどね。ただ私が思うのは、私のところにときどき相談に来るような若い人たちのなかに、色々いるわけですよ。リストカッターの人とか。それで、――これは私の狭い経験ですけど――よく聞いていくと7〜8割は、どこか親子関係でこじれてるんですね。あとの2〜3割は、猛烈ないじめですよ。小学校、中学校の。そうするとこれは、いじめる人間にもひょっとしたらあるのかなと思うわけですよ。つまりいじめている人間も、どこか自己存在を肯定される場がなかったり、あるいは自分もかつていじめの被害者だったりという。つまりですね、人はみんな、さっき言ったように理由が分からなくて生まれてくるわけですから、何かができなくても「そこにいるだけでいいんだ」って誰かに言ってほしいんだろうと思うんですよ。
宮崎:だから神がつくられた。それを代償するものとして。
:そうです。最初は母親ですが、親は死んじゃうわけですから。私もその不安におびえていた人間ですからね。親は死んじゃう。すると誰かに言ってもらわなければいけないから、こんどはそれを飛び越えて、消え去らないもの……理念ですよ。あるいは絶対者ですわ。
宮崎:神かイデオロギーだよね。
:そうそう。それによって代償するという道を選ぶ人もいるでしょう。と私には見える。だから、カルトの熱狂もどこか通じるところがあると思うんですね。
 例えば今年1月に始まったのはライブドアの問題じゃないですか。それで最後はいじめの問題でしょ。私は堀江さんていう人はよく知らないんですけど、あの人はそんなにお金を好きな人ではないんじゃないかと思うんですよ。
宮崎:そうです。
:買いたいものがいっぱいある人でもないと思うんですよ。ちょっと美味しいものが食べたいぐらいで。
宮崎:興味深いのはね、週刊朝日で私、インタビューしたんですよ。いま売ってる週刊朝日で。それで最後に、「あなた、いったい今一番怖いものは何だ?」と訊いたら、何と答えたと思う?
 普通だったらね、有罪になって刑務所に入れられるのが怖いとかね、お金がなくなるのが怖いとかって答えるだろうと思うんだよ。彼は、「死ぬのが怖い」って。「自分が死ぬのが怖い」って。
:ああ、分かる。あの人、ニヒリスト的なところがあるんだな。よく分かる。というのはね、僕が思ったのは、あの人は買いたいものがあってお金が欲しいタイプの人ではないんですよ。あの人は、お金ですべてが買えるっていう価値観とか主張みたいなものにコミットしてるんだと思うんですよ。
宮崎:その通りですよ。
:つまり、お金を持っていれば何でもできるっていうことは多くの人が求めることだろうと思っているだろうと思うんですね。だから、それを強く主張するっていうことは彼にとって正義を主張していることに非常に近いんだろうと思うんです。
 そうするとあの人もやっぱり、――誰でもそうであるように――自己存在をめぐる闘争のなかでですね、その果てにああなったんじゃないかと思いますよ。
宮崎:まさしくそう思いますね。だから私は自己存在をめぐる闘争というものの一番最悪の形態って、やっぱりオウム事件だったと思う。
:その通りでしょう。
宮崎オウム事件っていうのは、だいたい南さんや私の世代が首謀者ですよ。それで私は、明らかに堀江貴文という人は我々の弟だなと思った。
:ああ、もうその通りです。
宮崎:それはやっぱり彼は、いままでの無限に増殖していく資本の運動というもののなかに不死を見出そうとしていた。それと同じように、――例えば彼が話したことっていうのは――ホーキングとかの本を読んで、「別の宇宙があるかもしれない。そこに自分というものが居たんだとすれば、自分はこの世界で死んでも他の世界で生きているかもしれない」みたいなことを言うわけ。
:会ってみたいですね。
宮崎:面白いでしょう。彼は東大宗教学科の中退ですからね。やっぱりね、そういう志向を非常に色濃く持っている人なの。
:そうだと思うんですよ。私は今年がライブドアで始まっていじめの問題で終わるというのは象徴的な問題で、本来、自己をめぐる闘争っていうのは今までの社会だったらこんな剥き出しの闘争にならずに済んだ……。
宮崎:こんなに社会の表面に出てくるものじゃない。だからね、全共闘世代の人って、こういう話をしていると何の話をしているのかまったく分からないんだって。
:ああ、そうですか。
宮崎:うん。分からない人多いですよ。
 それでやっぱり彼らはまだ、社会のなかに埋め込まれている関係性っていうものを非常に実体的なものとして捉えているところがあったと思うんだけど、我々の世代、あるいはオウム世代あたりから、「その関係性っていうのは仮初めのものに過ぎないじゃないか」というふうに見えるようになってきてるんだね。
:私が強く思ったのはですね、普通の現場……人間の現場でも動物の現場でもそうでしょうけれども、闘争になる前の段階ってあるでしょ。挨拶したりとか、「相手を見てこうなったら、これは降参だっていう意味だからこれ以上攻撃をしてはいけない」とか。同じような、自己存在の基礎を作る文法みたいなものが、バブルの前ぐらいまでは、高度成長というコンテクストとか「より豊かな日本」みたいなコンテクストのなかにあったと思うんですよ。
 よく坊さんの話でね、「今までは物の時代だったがこれからは心の時代だ」みたいなことを言うわけですわ。私はね、これやめてもらいたいんですよ。高度成長期には高度成長期を支えた倫理があったんですわ。あの人たち贅沢は何もしてないですよ。禅寺に来て猛烈な訓練をやっていたのは高度成長期のお父さん方なんですわ。つまり「豊かになりたい」と。「豊かになりたい」ということで「みんなでがんばろう、みんなで協力しよう」という倫理があったんです。
宮崎:精神修養の名の下に企業人が禅寺に行ったわけ。
:いっぱい来てたです。だからそういうことを思うと、そんな単純に「物の時代」、「心の時代」なんて言うこと自体がおかしいんですよ。
 大事なのは、自己というものが一つの様式であるならば、それを組む作法みたいなものがあった時代と、それが――それがあやふやになった時代がバブルの中だってあっただろうし――それが結局崩れてしまって出てきたのがオウムみたいな鬼っ子だと私は思う。
 そうすると、それを過ぎて「ようやく日本の社会も変わったのかな」とか言ってはいますが、自己をめぐる闘争といったものがこれほど剥き出しになるというのは、この社会はやはりまだ、極めて人に対して過酷なんだろうと思いますね。
宮崎:厳しい。それは今の若い子、まさにいじめのそばに居るかもしれない――いじめと直接向き合ってはいないかもしれないけど――そういう若い子たちが感じている厳しさと同じじゃない?
:たしかにそうなんですが、若い人たちはこれを感じてて、今まさに訴えてるわけですね。ところが、若くない人たちは過酷でないかというと、過酷さに耐えて声を出さないんですよ。
 私は、ひょっとしたらですよ、さっきの教師居ましたね? 私は教師の方々も耐えに耐えているんではないのかなと思うことがあるんです。
宮崎:いや、だから、前の世代の人たちは、今の子供のいじめを見て「なんでこんなことぐらいで自殺しちゃうんだ」と。たかだか3年間我慢すれば……。無視されたぐらいで死んじゃったりするのか。「我慢すればできるじゃないか。弱くなってるんだ」みたいなことを言うんだけど、それはなにか、その言葉自体に世代間のものすごいギャップを感じますね。
:私もそう思いますね。だから、今起こっていることっていうのは実は子供さんだけの問題ではないんですよ。企業に居ればね、言うことを聞かない人を地下のところに閉じこめて仕事させないで辞めさせるみたいな。あれ立派ないじめでしょう。そういうことが、例えば合理化とか経済を立て直すという名の下に行われるわけですわ、たぶんね。そうなるとそれは、「いや、仕方がないんだ。我慢しろ」と言って済む問題だとは私は思えないんですよ、やっぱり。
 そうするとね、これは共同体っていうか我々の社会の人間関係のあり方や、さっき言ったように「自己が自己になるための作法」みたいなものを再建するという大きな事業や大きな知恵が要ると私は思うんですよ。それを対症療法みたいなことをやってたって、これはそう簡単にはいかないです。

4 of 5へ続く)