南直哉・茂木健一郎対談:「脳と癒し」(1 of 5)

※話者:南直哉(みなみじきさい/恐山菩提寺院代)、茂木健一郎

※とき・ところ:2005年6月3日 朝日カルチャーセンター(東京・新宿)

※出典:[full]南直哉さんとの対談〜茂木健一郎の講義 - YouTube
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

(途中まで略)

:恐山というと、霊を背負ってきたのかと思われるかもしれませんが(笑)……今日、じっさい恐山――霊場――から参りました。

(中略)

:いわば「先祖に対する供養」とか、あるいは霊魂の問題と恐山とが具体的に結びついているとすれば、私が行ってみて思ったことは、あそこ[=恐山]には人の思いが形になって出ているんです。それが、そこを霊場らしくしている。
 例えば比叡山とか高野山霊場です。ああいうところの条件として、自然環境が非日常的だ――恐山みたいに火山の跡にできているとか、深山幽谷にある――というものがありますが、それだけでは霊場にならんのです。例えば火山でできた土地といえば長野県には地獄谷がある。火山といえばキラウェア火山みたいに未だに噴火しているところもある。それに比べれば恐山なんてかわいいものです。
 だから、単に自然環境が非日常的なだけでは霊場にはならない。その上に何かがかぶらないと霊場にはならないですが、行ってみればべつに霊が飛んで歩いているわけではないですよ。あるのは、「そこに来る人」なんです。膨大な供物を持って、リュックサックを背負ったようなおばあさんが四国の果てから来るわけですよ。

(中略)

:お堂には――供物であふれかえっているんですが――いちばん多いのは服なんですよ……故人が着てた服。毎年買い換えてくる人がいるんです。おそらく、死んだ子供の年齢を数えながら買ってくるんじゃないかと思うんですね。
 それから、膨大な人形。三十数個の花嫁人形があるんです。たぶん、お嫁に行かないで亡くなった若い女性のものだと思うんですね。
 伊達や酔狂で来ませんよ……おばあさんが下北半島の果てまで。何かを思って来る。あそこでは、その思いが具体的に見える形になっている。

(中略)

:私は仏教徒ですから、霊魂の存在・非存在に関しては答えないというのが我々の原則です。しかしながら、人の思いはあるわけですな。恐山が霊場になっているのは、そういった「人の思い」というものが形になって見えるからだろうなと、行ってみて思ったですね。

茂木:せっかく南さんと喋るんだから、なるべく深いところに行きたいと思っているんですが……この前、「無記」の話をしたわけですよね。「霊魂の存在・非存在については答えない」っていう。
 それで現代に対して――南さんは非常に深いところで考えていらっしゃるんだけど――仏教がどういうスタンスをとれるかっていうことを考えたときに、この前また別の人に「やられた!」と思うことがあって……。

(中略)

茂木仏教の本来の教義から言えば、さっき南さんが仰った「思いが形になったもの」っていうのは或る意味では人の心を惑わすものであるかもしれないですよね。でもそれが妙な形で共存していることで距離ができて、そこに何ともいえないダイナミクスが生まれているんだと思うんですけれど、そこらへんを南さん自身はどうお考えになってらっしゃるんですか?

(中略)

:たとえば「お浄土」といったときに、具体的にお経があるわけです……観無量寿経とか阿弥陀経とか。たとえば観無量寿経なんかは、「極楽浄土はどういうものか」みたいなことが事細かに出てくる。
 日本には往生要集みたいなものがあって、そこでは「地獄を見てきたかのような」凄まじい描写をするわけです。そういうものを、ある種のキャラクターなりイマジネーションの中でできたものと言ってしまえばそれまでですが、問題は、そういったイマジネーションがなぜあれほどの力とリアリティをもって世に出てきたのかっていうことです。
 そうすると、ああいうものっていうのはたぶん、どうしても必要な人が居たに違いない。その「どうしても必要な」ものとして何がそれを駆り立てたのかというと、たぶん苦しかったんだろうと思う。あのリアリティの底にあるのは、仏教――ブッダ――が見つめた苦と同じような、苦しかったに違いない。浄土というものに対する熱狂的な信仰や多彩なイマジネーションに向かって動いていった原動力がそれだと思う。
 従って、例えば浄土教典なんかは上っ面だけ読むと馬鹿馬鹿しい話なんですな。馬鹿馬鹿しい話なんですけど、微に入り細に入りあれだけ描写するっていうのは、そうさせるなにかがある。おそらく、自分の存在というものの悲しみとか切なさというものが、浄土というものをあれほどありありと描く力になっていたんじゃないかなと思うんですよ。
 だから、「あの浄土が現実に存在するか」あるいは「人のイマジネーションから離れて『あの世』というものが具体的に有るか無いか」ということは分からないです。そして、もし分かったとしてもそれはどうでもいいことだと僕は思う。

茂木:それについてはまったく賛成なんですが、具体的に絵とか仏像というかたちで目に見える物象として表すかそれとも教典の中の言葉として表現しているかというのはずいぶん違いますよね。そこの差についてはどう思われます?

仏教は最初は仏像――イメージ――をまったく作らなかった。大乗仏教になってしばらくして、有名なガンダーラ美術というのが西方の影響で出てきて、――もちろんギリシャやヘレニズムの影響でしょうが――そういうところから具体的に仏像を作るようになってきたんですね。これは明らかに仏教のある種の変質だろうと思うんですよ。キリスト教もそうですよね?

茂木:そうです。

:つまり、最初は人格と切り離して理念――仏教でいえば「法」ですね。ダルマ――を大切にしていたとしても、そのうちの人間が具体的な形象なり人格みたいなものを求めるというのは、普遍宗教はどこでもやっている――唯一、イスラム教が偶像を作らないですが、そのぶんモスクの華麗さがあるじゃないですか――。
 そうすると、具体的なイメージを求めるといったときに、やっぱり人間には弱さがあると僕は思うんですね。キリスト教の教えも仏教の教えも、人間の存在を否定する部分があるんですね。つまり、人間であるということを全面的には肯定しないんですよ。だから、原理的な教えというのは非常に厳しくなる。ですが、人間であることを理念として肯定しない部分があるとしても、それは慈悲とか愛といったかたちで人間に向かって訴えてくる。そうすると、慈悲や愛の対象となった我々としては、それを掛けてくれる人格者――人格みたいなもの――に対する慕情というか慕わしい気持ちがあるんだろうと思うんです。これはやはり無視しがたい力だろうと思うんです。それは、ある種の「人間の否定」というものを宗教が含んでいるだけに不可避的に出てくるものだと思う。
 宗教は根本に、人間の全面的な肯定を持ってないと思うんですね。仏教は特にそうです。それは非常に厳しくて切ない教えなんですが、それは我々に対しては慈悲とか愛というかたちで提出されてくるものですから、そこにやっぱり或るイマジネーションが湧いてくる余地というか力があるんじゃないでしょうかね。

茂木:それは本当に非常に深いところで……要するにどんな真理でも、近づいていくと――奥に近づいていくと――人間否定というか、人間というものがワン・オブ・ゼムになるというか、人間というものが特別な位置を占めないところに行ってしまうと思うんです。
 現代物理でもそうですからね。ブラックホールがどうのこうのとか言ってるときに、人間というもののスケール感とか存在感は宇宙のなかの芥子粒みたいなものになるわけであって……だから宇宙論をやっている物理学者はみんなそういうかんじになりますよ。
 つまり、妙なんだけどね、日常生活のなかでは自分の家族とか友人はもちろん大切なはずなんだけど、自分のやっている学問としては「何十億光年」とかいう話をしているわけだから、人間のスケールはそのなかの一つの点にすぎないわけですよね。
 仰るように、仏教でもキリスト教でも、およそこの世の真理を扱うものはどうしてもそういう方向に行ってしまいますよね。おそらく、特に先覚者というかイエス・キリストブッダはそういう方向に行ってしまいますよね。そのあとの、人間性に戻ってくる運動というのは結局何なんですか?

:よくわからないですが、最近よく思うのは、――科学と宗教ということであえて言えば――お医者さんとか科学関係の人で信仰を持つ人は意外に多い。
 科学で「知」――知ること――を代表するならば、宗教は「信じること」だと言ってもいいと思いますが、この二つはお互いに究極的には結びついているものだと思います。
 というのは、宗教においても仏教なんかは極めて知的な宗教で、人間の有り様を鋭い目で見つめてそれを理論化してきた歴史があるんですね。原始仏典から大乗仏教なんかでも極めて明解な理論を持っている書がいっぱいあるんですが、その根底にはやっぱり、「信じる」ということがあるんです。
 それは要するに、或る人間の見方――「私はこのように見るんだ」――の根拠は、彼の選択なんですね。つまり、「ブッダの言ったことは正しいと俺は思う」という一点に賭けてまず選択して、そのうえで教えを学んで理論化していくということで、最初は根拠がないわけです。要するに、仏教を選ぶかキリスト教を選ぶか無神論でいくかというのは、その本人の決定以外ではない。本人は最初からぜんぶ分かって決定するわけではない。或るところで「これに乗る」っていうのが出家ですからね。私もぜんぶ分かって出家したわけじゃないです。「これでいこう」と思っただけで。
 ただしそのあと勉強するなかで、理論で処理できるものはきちんと理論で処理しないとまずい。もっと言えば、信じていることが何であるかということは明確に知らないとまずいんですよ。だから、知的な側面というか「知」はどうしても必要なんです。
 ところが一方で科学者の話を聞いていると、まじめな科学者であればあるほど、どうしても科学で分からないところ――知の極限――が出てくると、そこから先は我々とあまり変わらないんですね。
 だから我々が理論的に喋ることの根底には「信じる」ということがあるが、どうやら科学者も、ある一つの体系――科学という体系――を選んでいて、やれるところまではやれるけれど、そこから先になると、自分が科学という信念体系の中でやっているということに気づくらしいんですな。そうすると宗教に向かって非常に敏感な反応をする人が居るんですよ。
 それで、茂木先生の「クオリア」あたりはまさに、「この人、科学者辞めるのかなあ」、「このまま行ったら唯識かなにかやる人になるのかなあ」というくらいのことを私は思ったですね。
 それで、「帰ってくる」って言いますが――例えばいま言ったように「宗教を極めたら科学に帰ってくるか」とか「科学を極めたら宗教に帰ってくるか」とか或いは「人間が成仏したら、成仏したところから帰ってくるか」ということを言うならば――帰ってこれるかどうかは別ですが、我々はやっぱり「引き裂かれている」んですね。だから両方分かるし両方必要なんだろうと思うんですよ。
 つまり、「信じる」ということは高度成長期とか近代以降は馬鹿にされてきたかもしれない。しかしながら人は、「信じる」ということを抜きにして或る立場でものを言ったり、或る生き方を具体的につくっていくことはできないと思うんですよ。
 そうすると、さっき言ったように、人間を否定するという思想の意味を深く感じないと、人間であることの意味も深くは取れないんじゃないか。それは「行く/帰る」ということとは違うかもしれませんが、私の実感としては、この分裂には意味があるだろうと思いますね。

2 of 5へ続く)