南直哉・茂木健一郎対談:「脳と癒し」(2 of 5)

※話者:南直哉(みなみじきさい/恐山菩提寺院代)、茂木健一郎

※とき・ところ:2005年6月3日 朝日カルチャーセンター(東京・新宿)

※出典:[full]南直哉さんとの対談〜茂木健一郎の講義 - YouTube
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

1 of 5からの続き)

茂木:南さんと前回お話したときに一番感銘を受けたことの一つは、宗教者にしか扱えない魂の領域があるっていうこと……要するに、「死にたい」っていう人がカウンセラーのところに来たときにカウンセラーは「そんなこと言わないで前向きに生きなさい」とかいうふうに言うしかないんだけど、宗教者だけは「死んでもいいかもしれない」っていうところに一度下りたうえで問題を共有するというか考えることができるっていうことを仰いましたよね。
 それで、――僕は科学者をやめちゃうのかもしれないんだけど――それぞれの専門性のもつ或る種の特権と義務みたいなものがあると思っていて、例えば脳科学をやっている立場からすると例えば靖国問題とか近隣諸国との軋轢とかについて――僕がどういう政治的な立場をとるかということは「一億分の一」だから大したことはなくて――ある極端な意見をもつ人がいたら、なぜそういう人はそういう立場をとるに至ったのかという切実さを――どういう立場の人であっても――それなりに脳の仕組みとして理解できるし、「距離をおく」ということでむしろ臨床医的な立場に立てるということが僕の特権であるし義務だなと思ったことがあるんですね。
 それで、南さんの「カウンセラーに扱えない領域を俺は扱える」っていうのは、――南さんがどういう個人的な思いをもって仏教の道に入られたかということは別として――南さんの特権であり義務であると思ったんですけれど、そこらへんについて教えて頂きたいんですがね……。

:あんまり持ちたくない特権で(笑)……。
 例えば、私のところに来る人に、不安神経症パニック障害で治らないという人がいるんです。

(中略)

:その人が最初に私のところに来た時、「座禅でもすれば治る」みたいなことを思っていたんだろうと思うんですよ。修行して「無」になればパニック障害とかそういうものも治るんだろうと思っていたらしいんですけど、これはナンセンスな話でございまして、座禅したところで何したところで治らない。それは、この世の「苦」というものをこの世の中で消すことが無理なのと一緒でございまして、苦しくても生きていけるようになんとかする智慧を出すのが仏教であって、「苦しいことを解消する」っていうのは――冗談では言えても――私は無理だと思う。
 そうすると、そういう人が例えば私の寺に来てもどうってことにはならないでしょうが、私としては「そういうことなら来てもらおう」、「どうぞ」と言うしかない。これは断っちゃだめなんです。
 寺に来て庭掃除して拭き掃除して座禅しても、たぶんどうもならんでしょう。しかし、それで気がすむんだったらやっぱり来てもらわんといかんのですわ。それで、そのときの苦しい胸のうちがあるんだったら聞くのが私の立場なんですね。癒されないですよ。今日は「脳と癒し」っていうテーマですけど、癒しというのは錯覚としては起こっても、人が生きるっていうことは「癒されない」んです。涅槃というのが究極の癒しなら、それはこの世では起こらないです。もしこの世で起こる涅槃があるとするんだったら、まあ要するに「私は一生懸命生きたんで、後悔することはない」と腹から思えればそれは涅槃と言ってもいいかもしれないが、苦しみのまったく無い状態というのは、この世のことではないんです。
 だから、そういう立場で人に接するというのは多分お坊さんのひとつのやり方で、他ではあまり言われないでしょうね。
 彼は僕から戒律を受けて在家の弟子になったんです。在家の弟子になったって、どうってことはないわけですよ。何も変わらん。生活の苦しさも変わらんし、病も変わらん。それを分かって[弟子に]なるわけです。となれば彼はたぶん、私との会話なり仏教に何らかの意味を見出してやろうとしている。寄り添うだけです。だから僕も忍耐が要るし、相手も忍耐が要る。しかしそれは忍ばなきゃいけないことなんですね。
 だから、――茂木先生の仰ったことに対する明確な答えになるかどうかは別ですが――「特権」というのは坊さんとして背負った責務だと僕は思いますね。

(中略)

茂木:この世というのは、自分の肉親が死ぬかもしれないっていうときにも、雑事っていうものがありますよね。要するに死とかアレルギーの苦しみとかそういうものは究極のものであって、それらの前ではこの世のすべてのものは消えていくような気がするんだけど、しかしこの世では実際的な配慮――生活の知恵というか――というようなもののなかでしか我々はそういうものに向き合えないでしょう?
 仏教では、そこらへんをなにか解決する理論はあるんですか? おそらくそんなことは当然考えられてると思うんですけれども。
 つまり、我々の魂は「究極の問題」というものに向き合うべきだし、向き合わなければ生きる甲斐が無いんだけれど、一方では、そういうものが或る時間と空間の制約のなかでしか起こり得ないっていうことを――例えば永平寺で修行されたわけですけどそのなかでどういうふうに活かされてるのかをすごく知りたいし――そもそも仏教者はそういうことについてどんなふうに考えを整理してきたのかっていうことを教えて頂けませんか?

:例えば、永平寺で修行してると、面白いことは一つもないわけですわ。

(中略)

:面白いことは一切無い。ところが、どれほど切ない時にも、嬉しいことが時々あるんです。今までずっとできなくて怒られてきたことが突然なんとなくできたり、座禅してて脚ばっかり痛かったのに、ある時に「あ、こうやるとうまくいくな」というのがちょっと分かったりすると無茶苦茶嬉しいときがあるんですよ。そうすると、「もうちょっとなんとかならんかなあ」みたいな。それでまた続くときがある。
 仏教は、苦しむ人や切ない人に何か決定的な答えを与えるものとはちょっと違うと私は思います。私は、仏教は生き方のテクニックだと思うんです。つまり、問題があったとしても「どうやって切り抜けていくか」っていう話だろうと思うんです。座禅にしても何にしても。
 例えば「永遠」というものを考えたときに、「永遠なもの」というものは我々には「瞬間」見えるときがある。それは我々の生活の秩序や雑事の毎日を断ち切るように現れるときがあるんです。それは座禅のなかであるときもあるし、法要をやっているときもある。あるいは、困っている人と喋っているときに突然来ることがある。「ああ!」って分かるときがあるんです。「これがおそらく、正しいことなんだなあ」みたいな。
 つまり、日常の雑事と別にあるんではなくて、日常生活のなかで突然現れるものがあるんですね。おそらく道元禅師もそうだったと思いますが、座禅の修行というものが日常の有り様――「日々是好日」って言いますが、つまり日常生活――のなかに真理を見ようといったときに考えているのはそういうことだろうと思う。

茂木:彼岸というか――「極楽のビジョンを見ていた人はそういう必要性があったから見たんだろう」っていう話をさっき控え室でしましたが、釈迦来迎図なんかがありますよね――ああいうものがもし「永遠」というか「無限」だとすると、そういうものは脳の仕組みとしてはたしかに「瞬間」のなかで見るものだと思うんですね……認識として。
 数学なんかやっている人は数学の空間というのは無限で……だからおそらく、宗教、科学、数学とかいう区別なしに、有限の生を送る人間が「無限」とか普遍的なものと向き合うときの形式はそういう「瞬間の接触」ということだと思うんですけれども、その一方で行為――「いかに生きるか」っていうか――の問題においてはどうしても悩んでしまうことが僕なんかはありますね。
 さっきの母親の例で言えば、ずっとそばに付き添ってやりたい時期にだめだったとか。僕が南さんの仕事で想像するのは、すごく苦しんでいる人がいて、――おばあちゃんに「私は極楽に行けますかねえ」と訊かれて、「そりゃ行けるよ。おばあちゃんぐらい苦労した人は絶対行けるよ」って言ったっていう話をこないだしたでしょう――「癒し」っていう言葉を使うかどうかは別としても、南さんの存在が助けになっている人がいますよね。でも南さんだって自分の生活や諸事があるから、そういう人にずっと付き添えるわけではないですよね。そういう、行為における色んなものが入ってきてしまうことの苦しさとかそういうものについての仏教の考え方とか南さんの考え方ってありませんか?

仏教には「縁起」っていう大切な言葉があって、この言葉は「関係によって起こる」、「一切のものは関係によって成立する」――ある一定の条件下において、ある場合にそれが起こる――という意味であって、「絶対普遍のなにものか」はなにもないということです。
 ある苦しみがあったとしても、苦しみがそうやって成立している時と場合と条件があるんだと考えるわけです。しかし、人間は苦しいときはそれを忘れるわけですな……自分だけが無茶苦茶苦しくて、自分だけが切ないと思う。そしてそれはずっと続くし解決がつかないものだと思うかもしれない。
 しかしよく考えてみると、自分の苦しみというものをそのときちゃんと見てないんですね。私がよく相談を受けるのは、――これは中年の男に多いんですが――いきなり飛び込んできて「座禅させてください。私は真実を知りたくて座禅に来ました」みたいなことを言う中年の男は、たいてい目的が違うんですよ。違うということを隠しているんですね。
 いちばんよく覚えている例は、「とにかく私は宗教の真理を知りたくて座禅に来ました」って言うんですね。私が「宗教の真理は結構だが、あなたはなぜ今それを知りたいの?」と訊いたら、「女房が新興宗教に入っちゃった。仏壇を捨てて娘も新興宗教に入れようとするので困ったから、僕が永平寺で正しい宗教を知って妻を説得したい」などと訳の分からないことを言うんですよ。
 それなりの覚悟で新興宗教に入った妻が、たかだか三日ここで修行したあなたの理屈で説得できるかっていうんですよ。これは話が違うんです。これは本当は家庭内の夫婦関係の問題なんですわ。奥さんは寂しいんです。

(中略)

:家へ帰って奥さんとちゃんとお子さんの話をしたり、コミュニケーションを取るのが先であって、こんなところで座禅して真理を知りたいなんていうのは「あとの話」ですわ。この種の錯覚から解けてもらわないといけない。
 何がそこで起こっているのか。仏教では、如実知見――「実の如く見る」――って言うんですよ。自分の置かれた立場をちゃんと見るのは難しいんです。そういうものを見る視点をどこかに確保しなければいけない。仏教はそういう視点になり得るんです。日常生活のルールや秩序と違う場所に或る視点を確保して、それで見なければいけない。
 しかしそれは、お坊さんだからっていつでも成功するわけではないですよ。

(中略)

仏教には特効薬が無いんですよ。「これ一発でカタがつく」ということはあり得ないんです。もしそれを言うとすれば、それは仏教ではない。「これ一発」でこの世の悩みや苦しみが解決すると思うというのは――あるいは、そうであるかの如く言うのは――仏教ではない。具体的な悩みがあるんだったら、じゃあどうしようかと一緒に悩んで一緒に考えるのが、仏教者のやることなんです。
 そのとき一番大事なのは、「或る物事は無条件でそのままそうあるわけではなくて、或る条件・或る縁のなかにある」っていうことです。

(中略)

:従って、この世の雑事やこの世の苦しみを仏教がどう見ているかといえば、そういうものは「生きている」っていうことなんです。それが「生きている」っていうことなんです。

(中略)

:死んじゃいけない理由は無いですよ。私は自殺肯定論者じゃないですよ。自殺が選択肢にある以上、仏教徒がとる態度は「そうであっても生きるべきだ」となります。生きる方に賭けを打つ。これが「信じる」ということです。仏教者が。
 でも苦しいんです。最初から。お釈迦さんが二千年前に言っているように、苦しいんです。[苦は]無くならないです。「でも生きていく」にはどうするか、というのが智慧であって、そのときには苦しみというものの正体をはっきり見るのが先だとブッダは言っているんだと思うんですよ。
 ですから、「この世の雑事と苦しみから一発で……」と言われると、目の前の父親も何ともできない私としては、特効薬があるとはちょっと言いにくいですね。

茂木:非常によく分かりましたよ。ようく分かった。
 僕はすごく具体的な悩みを抱えているんですよ。つまり例えば学生さんが8人います。彼らの論文の面倒を見なくちゃいけないわけね。一人一人がすごく切実な問題を抱えているわけですよ。それで、僕がすごく時間を費やせば良い論文ができて彼らもハッピーになるのは分かっているんですよ。でも、できないんですよ。そういうことはいっぱいあるわけです。親のことだってそうだし、みんなそうなんだけど……。
 今の話で分かったんだけど、そういう状態自体が「生きている」っていうか縁起っていうことなんだから、しょうがないんだな、それは。簡単に言うと。

:「あきらめる」って言うでしょう? 「あきらめる」っていうのは元々は「つまびらかに見る」っていうことですからね。ですから、いま自分がどうなっているのかをはっきり見ないとだめなんですわ。「あきらめる」っていうのはそういうことなんですよ。
 それで、そのときに自分の都合に合わせて物事をやろうとしたときにものすごく苦しいわけですわ。「自分のやりたいようにやりたい」っていうその気持ちがどこから出てくるのかをはっきり見て、そしてそれが可能かどうかを冷静に見る。仏教の「知」がはたらくところがここなんです。
 自分が苦しいならば、その苦しいということの原因は何で、ひょっとしたら原因は自分の欲望で、その欲望というのは要するに「思いどおりにしたい」ということじゃないのか。じゃあなぜそうしたいのか? [思い通りに]できるのか? 一つずつ冷静に見ていかなきゃいけない。これが「あきらめる」――「明らかに見る」――っていうことです。
 永平寺でも[新人が修行に]来るわけですが、あそこは最初の一週間ぐらいは凄く激しいですからね。私の頃は一割ぐらい脱落していたんですよ。

(中略)

:[永平寺での修行が]駄目になる奴というのは、必ずしも体力の問題ではないですよ。駄目になる奴っていうのは、体力の問題じゃない。「あきらめ」の悪い奴です。
 要は、自分が何のためにここに入ってきて、何をしようとしていて、どうしなきゃいけないかということをはっきりと分かっている奴は「後ろ」をちゃんと切ってくる……「もう、しょうがない。入った以上は」。ところが、「あきらめ」の悪い奴が何人か居るわけです。自分の状況が分からない奴。永平寺に入ってきたのに、「昨日食べたカツ丼の余りが懐かしい」とか「昨日分かれた彼女が懐かしい」なんていうことをいつまでも引きずっていると、ズズズズズズズッと後退していっちゃう。永平寺に入っちゃったらもうどうにもならないんです。煮て食おうが焼いて食おうが、あとはこっちの勝手なんですから。昨日のカツ丼のことを今さら考えても駄目なんですよ。そこを明らかに見てもらわないと、修行にはならない。
 ものが見えなくなるときというのは大抵、自分の都合に合わせようとするときなんです。その「自分の都合に合わせる」ということがどういうことかを一回立ち止まって見ないと、事はうまくいかない。縁起ってそういうことなんですよ。ある物事がどの条件でどのように存在して、それが自分にとってどういう意味をもっているのかということまでちゃんと見えないと、解決法にはならない。これを智慧というんですね。と、思います。

茂木源氏物語に出てくる、二人の男に言い寄られてしまってどちらを優先したらいいかが分からなくなって最後には狂っちゃう女の人――葵の上だっけ――のことは南さんはどう思います? そういう人物像についてはどう思います? つまりどちらの男に対しても、その男の思いに応えようとすると相容れないわけだよね。そこで「しょうがない」とあきらめられなかったのかな……その女の人は狂っちゃうんだけど、そういうことはどういうふうに理解します?

:人には、どちらかを諦めないと先に進めないときがあって、そのときにやり方は二つあって、「どちらかを諦めて前へ進む」というやり方と「どっちも諦めないで自分が沈む」というやり方があると思うんですよ。それはやっぱり、理屈で割り切れる問題ではないんですね。
 どう思うかと言われれば、例えば実際にそういう人の相談というのがあるわけですな。私も永平寺に居る時代からそんなことまでやらされて参ったですけどね、それは要するに、ある女の人が「写経に来た」って言うんですね……「私は座禅ができないから、ここに一週間泊まって写経したい」と。こういう妙なことを言う人はたいてい何かあるんだ。よくよく聞いてみたら、[その人は]不倫中の人妻なんですね。そんなこと俺に言われたって困るっていうんですよ。それで「私は悪いことをしているから、懺悔の意味で写経をしたい」と。懺悔する前に何とかしろっていうんですよ。「夫も愛しているから家庭も失いたくないけど、私は好きで好きでしょうがない」って言うんですよ。これを何とかしろと僕に言われたって、それは無理ですよ(笑)。
 「写経に来た」なんていうのはどうでもいいことであって、その人はたぶん、苦しくてしょうがないわけですわ。それで私としてはまず、「業(ごう)を落とす」と思うわけですよ。この言葉は危険なんです。「前世でなにかあったからそうなった」なんていう話をしているんじゃないですよ。自分の意志と知的判断ではコントロールできないことが人間にはあるんですよ。コントロールしなきゃいけないと思えば思うほど、そういう人間は苦しむんですな。親鸞っていう人はたぶんそういう人ですな。
 私は彼女に、「つまらない写経はしちゃいかん。それは何の功徳にもならん」と言ったんです。血を吐くまで苦しむべきですわ。[不倫を]続けるんだったら、地獄に堕ちる覚悟を決めて不倫をして頂くんですな。文字通り地獄に堕ちる覚悟で不倫していただくなら分かる。そうでないならば、たとえ右半身を切られるような痛さだろうとも、転居するなりドラスチックなことをして振り切るしかないですよ。
 僕はそういう人たちに対して決断を迫ったり慰めたりしないんですわ。何を背負わなきゃいけないかを言うんです。それで、「背負う覚悟がないんだったら捨てる覚悟を決めるしかない」――つまり二者択一で前に進めない人に「自分が地獄に沈んでいく覚悟がないんだったら、どちらかを切るしかない」――と迫る。これは常に成功するわけではないですよ。ですが、僕のところに相談に来る人は往々にして、「今の苦しみは、このままやっていてもなんとかなる」と思っているんです。不倫をこのまま続けていても、今の苦しみが「写経すればなんとかなる」とか、「座禅すればなんとかなる」とか、「お寺参りすればなんとかなる」とか。私は「なんともならん」と言うんです。それはその人が業(ごう)として背負った以上、その人が自分で背負うしかない問題なんです。もしそうしたくないんだったら、自分の有り様――業の有り様――を見て、次の展望を開かざるを得ない。開いた以上は、どんなに苦しくても、どちらかに賭けざるを得ない。そうとしか言いようがないですね。

3 of 5へ続く)