茂木健一郎講演:「ビッグイシューと社会」(2 of 3)

※話者:茂木健一郎

※とき・ところ:2008年9月7日 明治大学リバティホール(『ビッグイシュー日本版』五周年記念イベント)
※出典:ビッグイシューと社会 - もぎけんPodcast
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

1 of 3からの続き)

 それで、今日ぜひお話ししたいと思っていたことのもう1つは「制度的脆弱性」ということです。私の本来の研究領域は脳のことであって、特に人間の意識とか知性のことなんですけれども、人間の知性というものはコンピュータなどと比べると大きな特徴があります。それをひと言で言うと「例外処理ができる」っていうことなんですよ……カモンセンスに則ってね。
 どういうことかというと、皆さんは日々一所懸命生きていらっしゃると思いますが、――僕も日々、苦しいなあと思いながら仕事をしているんですけれども――今の資本主義の社会の中だと「皆がそれぞれに市場のなかで労働をして対価を得て生活のプランニングをして……」っていうかたちで生きているわけですよね。資本主義という制度は色々とまずいところもあるけれども、過去に試みられた様々な他の制度に比べると良いんじゃないかということで我々は今それを採用しているわけですよね? いま資本主義というルールがあるとします。しかしその中には必ず脆弱性(fragility)があるんですね。
 その脆弱性とは何かというと、例えば、仕事をして生活の糧を得て、そして……っていうサイクルから一度外れちゃった人がどのようにリ・エントリー[=再参加]するかっていうことです。この脆弱性というのは、資本主義という制度の中にあらかじめ組み込まれているわけです。
 これがもしコンピュータだったら、資本主義という一つのルールだけで世の中を割り切っちゃおうとするんだけれども、われわれ人間というのはもっと広い認知のメカニズムを持っているんです。例えば、脆弱性ということでいうと「親子である」ということだって脆弱性の一つなんですよ。

(中略)

 皆さん、小学校や中学校の時の同級生を思い起こして下さいよ。あいつらが親になるんだよ(笑)。もう色んな奴が居たでしょう? あれが親になるんですよ。つまり、親というのは男親と女親が1人ずつしか居ないんですよ。いくら愛情があるっていったって、癖があって偏っていて欠点だらけで……そういう人が子供を育てるんです。何が言いたいかっていうと、親子の愛情というものはもちろんあるんだけれども、もし親に性格等の重大な欠陥があったり親が悪意を持っている――例えば虐待をするとか――場合に、親子という制度はたいへん危険な面も持っているわけです。つまり、親子という制度のなかには必ず脆弱性がある。資本主義にも脆弱性がある。それで、この脆弱性というものが生じたときに人間はそれに対して非常にフレキシブルに[=融通のきく]対応ができる性質を持っているわけです。
 僕がイギリスの成り立ちを見ていてたいへん面白いと思うのは、あの人たちほどに資本主義というものを徹底して追及している人たちは居ないわけです……効率とか経済性だとか。そのような経営感覚がこの『ビッグイシュー』みたいな雑誌の創刊とオペレーションにも当然成り立つわけですけれども、ただそれは上手くいかない場合も必ずあるということを[彼らは]知っているわけです。
 恋人同士だって仲が良い間はいいけど、その男がDVだっていうことが分かったら、その時になって困るじゃないですか。恋人という関係性の脆弱性がそこにあるわけでしょう? そのときに人間は色々と例外処理ができるわけですよ。同じように、資本主義というものにも脆弱性があるんですよ。そのときにどう対応するかということを含めて考えておかなかったら意味がないわけです。何代か前の首相みたいに、新自由主義で経済の自由競争ばかりを追い求めているという単一原理主義というのはまずいんですよ。
 単一原理で世界を成り立たせるなんていうことは、コンピュータ――人工知能――でできるんですから。でも人間の本質はそこにあるんじゃなくて……。多様な価値観を認めるというのはよく言われることなんですけれども、その「多様な価値観」ということが必然化される理論的な根拠はどこにあるかというと、いま申し上げた「脆弱性」にあるんですよ。単一のシステムは必ず脆弱性を持っている。どんなによくできたシステムも必ず脆弱性を持っている。だからそれを補わなくちゃいけない。社会的起業ということが必然化される理由がそこにあるわけです。
 この『ビッグイシュー』も社会的起業の一つですけれども、世の中のすべてがこういうものになるということではないんですよ。資本主義を一所懸命やっているおじさんとかが一方では居ていいんですよ。それはそれで自分の欲望を追求してくだされば良いわけです。でもそういう単一原理というのは必ず破綻するから、別の原理が必要だということです。
 我々が今やっている脳科学のなかではネットワークということがすごく大事になってきておりまして……最近発表された面白い研究の1つに、「人が他人のために行動する――利他性/altruism――ということはどのような社会条件の下に成り立つのか?」という研究があるんです。結論から言うと、「1人の人が属するコミュニティが多様であればあるほど利他性が育まれる」。
 つまり、「会社の利益!」と言って会社の利益ばかり追求しているような組織人というのは脆弱なんですよね。つまりコミュニティが1つしかないんだから。「そういう人というのは実は、利他的な行動というものを必ずしも自然にはできないんだ」と。
 皆さんだったら普段、職場があるかもしれませんが他にもボランティアをされているかもしれないし、友達のネットワークがあるかもしれないし、ここの会場に今日来たということもひょっとしたら1つの縁かもしれないし、mixiとかああいうSNSも良いかもしれません。そういうふうに1人の人が色んなコミュニティに属しているということが全体として脆弱性を減らして、他人のために何かをするという気持ちを育むんだということが数理的なモデルで最近示されています。それでこれは非常に注目されるべき研究でして、つまり、単一の原理に基づく社会は危ういっていうことです。
 だからね、一方では欲望の赴くままに自分の利益をどんどん追求して「ガッハッハ」みたいなかんじで儲ける人が居てもいいんですよ。それはそれで勝手にやればいいんだから。でも、それだけになっちゃうと社会は危うくて、一方では他人のために・困った人のために・貧しい人のために何かをやるという原理で動いている人が居なくちゃいけない。でもそういう人ばかりになっちゃうと社会はまた困るところができてくると思うんですよ。だから、「こうじゃなくちゃいけない・皆がこうならなくちゃいけない」っていうことはなくて、色んなコミュニケーションのチャンネルと回路があることが、社会全体としてはどうも良い結果をもたらすようなんです。
 それで『ビッグイシュー』というのはおそらく、日本の社会的な成り立ちのなかで非常に欠けていたそういうところへのシュートに至るキラーパスのようなパスを通している雑誌じゃないかなと私は思います。
 利他性っていうことをいま申し上げましたが、他人のために何かをするということは人間にとって実は最も深い喜びに通じることなんですよ。脳科学に関心のある方は皆さんご存じだと思うんですけれども、ミラーニューロンという神経細胞が脳の中にはあります。ミラーニューロンというのは、自分の行動と他人の行動を鏡に映したように表現している神経細胞なんです。他人が何かをしているのを見ると、あたかも自分がそれをしているかのように感じる。これがミラーニューロンなんですね。このミラーニューロンというのが実は、我々の自己の意識に非常に深く関わっています。
 我々の「自己」という意識は社会の中で構成されているものであって、我々は他人を鏡として自分を磨いているのですよ。compassion(慈悲/哀れみ/同情心)とかempathy(共感/感情移入)という言い方がありますね……他人の痛みを自分の痛みとして感じるという。これを原理として生きている人というのは、ある意味では進化のなかで非常に進んだ人だと言うことができる。生き物っていうのは本来は・元々は自分勝手なんですよ。自分や自分の子孫の利益を図るというのが生物の本来のあり方なんです。ところが或る動物だけが、いま申し上げたミラーニューロンだとか、他人と自分を写し合うような共感回路を獲得して、そして高度な社会を作り始めた。特に人間はその傾向が際立っている。
 「鏡の前に立ったときに、その[鏡の]中のイメージが自分であるということを分かるかどうか」というミラーテストというテストがあるんですけれども、このミラーテストに合格している動物は、研究報告がされているところでは人間とチンパンジーとオランウータンとイルカとアジアゾウとシャチだけなんですね……ゴリラなんかも合格するんじゃないかと言われているんですけれども。それで、これらの動物には全て共通点がありまして、それは共感能力が高いっていうことなんです。「困った仲間が居ると、助けてあげようとする」と。逆に、困った仲間が居たら助けてあげようとするような動物というのはミラーテストに合格する可能性がある……他人と自分を別々と考えるのではなくて、他人のことを自分のことのように感じる。これはすごいことなんですよ。これは本当に今の脳科学の最先端の「自己意識」――自分は自分であるという意識の成り立ち――に関わる研究で、科学的にはたいへん面白い問題を含んでいるんですけれども……。
 僕は「偶有性」ということをこの5年間くらいずっと考えていて……俺はこういうところへ来ると会場の人を1人1人ゆっくり見るのが趣味なんですよ。今日は喋んなくちゃいけないからそういう時間がなくて(笑)。
 偶有性――偶然のようにある性質/contingency――はすごく大事な概念で、色んな意味合いがあるんですけれどね。僕は九州大学でパネルディスカッションがあったときにずっと暇で、一人一人の[聴衆の顔を]端から端まで見ていったんですよ……色んな人が居るなあとか思って。そのときに僕は「誰かあの辺に座っている人と自分とが人生が入れ替わったらどうかな?」ということを考えたんですね。パネルディスカッションのテーマとは全然関係ないんですよ。まあ暇だから考えていたわけですよ。
 そしてそのときに、「僕はどんな人の人生と入れ替わっても、その人生を楽しんでみせる」と思ったんです。それは私の脳科学者としての理論的探究のなかでそういう結論が出てくるんですけど……。すごい絶世の美女と入れ替わったら色々楽しいかもしれないんだけど、苦しいこともあるのかな。なったことがないから分からないけど。それで、顔がすごく個性的な女の子と入れ替わったら(笑)、いろいろ苦労するかもしれないけどそれなりに何か楽しみがあると思うんですよ。
 例えば六本木ヒルズで「今日のシャンパンはドン・ペリにしようかな」とか言っている人たちの生活と、一所懸命お金を稼いで下宿に帰って「今日の発泡酒は何にしようか」って言っている人の生活は、脳科学から見ると偶有性という点においては平等なんですよ。
 偶有性っていうのはね、「何が起こるか分からない人生のなかで脳が前向きに生きていく」ということに関わる概念なんですね。要するに、予想できないんだけれどもそのなかで、一所懸命に何かをつかもうとする・認識しようとするというときに大事な概念が偶有性(contingency)っていう概念なんです。
 この偶有性というのはすごく大事なことで……偶有性のもう1つの大事な哲学的な要素というのは、「私はあの人だったかもしれない、私はぜんぜん別の人生を歩んでいたかもしれない」っていうことを知るということなんです。これが偶有性の最も大事なところで……つまり「私はたまたま今ここにこういう人として居るけれども、まったく全然違った人生だったかもしれない」と。
 私の母親は小倉出身で、1945年の8月9日には小倉に居たんです。それで、小倉がたまたま曇っていたわけ。あいつらは諦めないで3回ぐらいぐるぐる[旋回して]いたらしいんだけど、ついに落とせなくて、それで長崎に落とされたんだよね。だから俺は居るんだよ。うちの母親がよく言っていましたよ。「曇っていなかったらお前は居ない」と。それはね、偶有性なんです。要するに人生ってそういう偶有性に満ちているわけです。
 アメリカという国は心の狭い人たちが政権に居る国にいつの間にかなっちゃったんだけど、もともとアメリカのJoan Baezなんかが歌っていた曲なんかすごく良いのがあってね……“There But For Fortune”なんていう歌があるんですよ。旧い人は知っていると思うんですけど(笑)。今はYoutubeという便利なものがあってすぐに聴けるから聴いてみてくださいよ。その歌は何かっていうと、「ウィスキーを呑んで飲んだくれている男が居て、そういう男を見て私は若者に言う……“There but for fortune.”(もし運がなかったら、私たちもあの人のようになっていた/あの人になっていた)」とか、「空から爆撃されている都市を見なさい。もし幸運がなかったら、私たち(あなた)はその都市に居たでしょう」と。そういうふうに、自分の運命と他人の運命が交換可能なものであるということについてのまさに偶有性の感覚を、あの頃のフォークの人たちは持っていたわけ……Joan BaezとかBob Dylanとかさ。そういう感覚を持っていれば……例えばイラン――イランってキアロスタミとか素晴らしい監督が居るところなんだけれど――で一部の人が変なことをやっているからといって、「イランの民衆は自分たちの敵だ」みたいなことを単純に考えるような発想は、あの頃のフォークの人たちには無かったわけ。偶有性の感覚があったからね。
 偶有性ってすごく大事で、例えば「敵と味方」だとか「富めるものと富まざる者」とかそういうものの関係を固定化するんじゃなくて、なんか「混ぜちゃう」わけ……「自分もそうだったかもしれない」って。人類の、ミラーニューロンに始まる共感の進化の歴史というのはここに一つの達成を見るわけであって、偶有性の感覚を持って目眩を感じることのできる存在というのはおそらく人間しか居ない。それはもっと目眩を感じればいいと俺は思うんですよ。
 例えばみなさん、「自分が家を明日失ったら、どうやって生きていこう?」って考えてみたらいいじゃないですか。考えよう。俺は何回も考えてみたけど。そういう時に色々と立ち上がる感情とかそういうものがすごく大事でして、――そして、これからがすごく大事なところなんですけれど――偶有性って、考えると胸が掻きむしられるというか何か胸騒ぎがするわけ。だいたい人生っていうのは、子供のときは偶有性がたくさんあるわけ。だって[自分が]何になるか分からないんだから。小学生のときとかは、自分が何になるかを分からなかったでしょう? 子供の時は偶有性がいっぱいあったわけですよ……「ああいうふうになるかもしれない」っていう。ところが大人になると偶有性がだんだん失われていって、「自分はこうだ」って決めつけちゃう態度になるわけです。僕はよく若者に「自分は何者だ」と決めつけるなっていつも言ってるんです。偶有性に対応して活動する脳の機能は、「自分は何者だ」と決めつけた瞬間に失われてしまって「歳をとるよ」って言っているんです。
 だから、色んな事情で例えば家や仕事をたまたま今は失って苦しい思いをしている人が居たとして、「それは私たちとは関係ないよ」という態度はまさに偶有性を失った態度であって、そこの部分ではもう「年老いている」わけ。だからアメリカの一部の人たちは年老いちゃっているわけ。世界で最も若い国だったのに、そこの部分では世界で最もジジイの国にいつの間にかなっちゃったわけ。
 若さというのは、「自分が何者でもあり得た」、「これからも何者でもあり得る」ということを引き受けてそして他人の様々な苦境とかそういうことに共感を持って、できることをやるということが大事だと僕は思います。
 最後に申し上げたいことは、やっぱりビジネス・アズ・ユージュアル(Business As Usual)の感覚で物事をやっていきましょうということですね。それは本当に大事なことだと思います。
 アウェアネス――問題が在るということに対する気づき――を高めるという意味においては、べつにホワイトバンドだって良いわけです。アウェアネスを高めるという意味においてはあれも立派なものですよ……「ああ、なんか地球環境は大事だな。ここに白いバンドがあるから……わたし地球環境のこと考えてるしぃー」みたいな。別に深い意味はないですよ(笑)。だけどさ、それ以上の何かがあるかといったら、ないんですよ、残念ながら。ゴメン、ホワイトバンドには[それ以上の何かが]ない。アウェアネスは高まったかもしれないけど、それだけ。
 でもね、『ビッグイシュー』はリアル・プロブレムを本当に解決しようとするわけですよ。そうでしょう? ホームレスの人がとりあえず収入を得られる。それによってソーシャル・スキルも身に付いて、色んな人と知り合える。そのなかで、「卒業」というふうにもなっていく。つまり、この世の中で物事を本当に動かすというビジネス・アズ・ユージュアルの“no nonsense”なアプローチというものが、どうしても必要なんです。『ビッグイシュー』というムーブメント全体から我々が受け止めるメッセージがそれだと僕は思う。
 おそらくこれから我々は色んな分野において、善意を社会化するそのような構造を作っていかなかったら生き延びられないと思います。地球環境の問題についても、アウェアネスを高めようという話――「地球に優しい」とかいろいろ――は飛び交っているが、あれだって同じことでしょう? ほとんどのものがホワイトバンドと同じだと今は思っているんですが、そのなかで本物を見極めるというのはすごく大事なことであって……ちょっと変な言い方をしちゃうとね、ティーンエイジャーの初期の頃って恋愛に対してすごく曖昧な態度を我々はとっているでしょう? 「恋に焦がれる」みたいな……恋というもの自体に恋しているから。でも、そのうち厳しくなってくる。1人1人を吟味して「ちょっとこれは駄目だ」とかね。社会的な問題についてもそれくらいのことだと思うんですよ……最初は様子が分からないから「環境に優しい」とか「ああイイ」とか思っているわけでしょう? そのうちだんだん厳しくなってくるよね? 本当のリアル・プロブレムになっていけば、「環境に優しいとか言っているけど、こんなんじゃ駄目じゃん」とか。その厳しい目をもって色んなことをやっていくことがすごく大事だと僕は思うわけです。そういう意味で言っても、『ビッグイシュー』の未来というものを僕は心から応援したいと思っていますし、皆さんももしできたら買ってあげてください。同じ雑誌を2冊、3冊買ったっていいじゃないですか、べつに(笑)。

(中略)

 街で『ビッグイシュー』の販売員さんを見たらパッと寄って行って買う。そういう男の子・女の子・おじさん・おばさんは素敵じゃないですか。そういうふうに思って我々はこれから生きていきたいと思うわけです。

(中略)

3 of 3へ続く)