山下良道法話:「仏女と仏男の方々への招待状」(2 of 4)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2009年10月18日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=538
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

1 of 4からの続き)

 今までの話の整理はね……私が京都へ行って・大原へ行ってたくさんの仏女の人たちとお会いして。今、仏女といわれる女性――女性だけじゃなくて男性も――が大量に居て、その人たちが何かを求めて大原に来て、何かを求めて上野の博物館に阿修羅像を観に行かれて……それは大いに結構。だけども、その人たちが求めているのは単に仏像を観ることだけではなくて、もっと深いものであって、その「もっと深いもの」というのは、私たちが今まで話してきた言葉を使えば「新しい意識」というものである。ですからそうであるならば皆さんは、自分は何を求めているのかをはっきりと自覚したうえで、もうストレートにそれを求めていってほしい。その手段が、今までは仏像を観ることだったんだけども、それは単に仏像を観るだけにとどまらないで、あらゆる方法があって……あるいはもっとストレートに行く方法があって。そして、もっとストレートにシンプルな方法がもしあるんだったら、それを試してみませんか? ということを、私は仏女の人たちに言いたいわけ。ただ、まあそうは言っても何が何だか分からないから、少しずつやっていきますね。
 我々はここ数週間は、「古い意識と新しい意識」という言葉――これはちょっとまあ便宜的ですけども――を使って話をしてきて。「古い意識」の行き詰まりというものがあって、それが個人のレベルで行き詰まることがあって、それと同時に、個人が集まることによって社会ができて、社会が集まることによって国ができて、国が集まることによって世界ができているわけですから、個人が行き詰まることは社会が行き詰まることであり、社会が行き詰まるということは国家そのものが行き詰まるということであり、そしてそれは、地球全体が行き詰まることである。だから、個人でどう行き詰まっているかということと、地球全体がどう行き詰まっているか・日本がどう行き詰まっているか・アメリカがどう行き詰まっているかはまったく同じで。
 だから……よくね、「私は宗教には興味があるけど政治には興味無い」とか、あるいは「政治には興味あるけど宗教には興味無い」とか[いう意見があるが]、そんなものはぜんぶ嘘ですよ。その人たちは宗教も政治も全然分かってなくて……分かったらば、宗教と政治の区別なんかつくわけなくて。こんなことを言うと、「宗教と政治を分けるのが近代の政治の基本だから、それを無視しているんじゃないか」って思われるかもしれないけど、そんなことを言ってるわけじゃなくて、あるいは「宗教教団として選挙に出るべきじゃないか」とか、そんな馬鹿なことを言ってるわけじゃなくてね、そういうことじゃなくてもっと本質的なところで、個人の行き詰まりと地球全体の行き詰まりがまったく同じ質のものであるということをちゃんと観なくちゃいけなくて……という話であってね。だから、個人が呼吸――アナパナ瞑想――ができなくて苦しんでいるその姿がそっくりそのまま、核廃絶ができなくてオバマさんが苦しんでいる姿でもあるっていうことなんですよ。なぜ核廃絶ができないのかという理由と、なぜ我々が呼吸瞑想ができないのかという理由はまったく同じ理由なんですよ。ということは逆に言うと、我々が呼吸を観ること――呼吸瞑想――ができるようになったら、核廃絶も当然できるっていう話になるんだけども(笑)。というふうに見ていかないと。そうじゃないと……物事というのは「できない」と思ったらもう「できない」わけですよ。(中略)最初から「核廃絶なんて無理だ」と思ったら本当に「無理」なわけで。だけども、「どうせ核廃絶なんて無理だよ」と思うような意識のあり方が問題で、そこを本当に問題にしていかなきゃいけない。そういう問題認識でここ数週間はずっと「古い意識、新しい意識」という言葉――まあちょっと便宜的なんで、色々な誤解を生んじゃうことも分かっているんだけど、こう言ったほうが物事の整理がかなりつくので――を使わせてもらってます。その「新しい意識」っていっても、何かその、ちょっと進歩的な意識とかいうそんなレベルのことを言ってるわけでは当然なくてね、もう全く違う意味での「古い意識と新しい意識」と言ってます。
 それで、その「全く違う意識」に入っていくためのものとして、まあ瞑想というものがあって……ということを[この数週間で]色々とお話ししてきたんだけども、先週は言葉――言語――というものを採り上げてみました。言語を採り上げるとなると、これはとんでもないことになるのは当然分かっていて……だって、言語ということで途轍もない色んなことを皆が考えてきてるから。だけども――先週はエックハルト・トールさんに触発されて言語というものを採り上げたんだけども――非常に簡単な話で……言語というものはやっぱり「古い意識」の産物なんですよ。
 これはきちんと押さえなきゃいけなくて。それで、「古い意識」というのはどういう意識かというと、主体と客体がきちんと分かれた世界であって、この主体が客体に対して何か動作をする。その動作を動詞というもので表す。だからどんな言語も、主語と動詞と目的語という構造になっていて。(中略)だから、言語というものがどうしてもそういう「古い意識」――古い世界観――から生まれているということを私らは繰り返し繰り返し考えなきゃいけなくて。なぜかと言ったらば――これは先週も言いましたけど――我々がいま目指しているのは「新しい意識のあり方」であって、その「新しい意識」というのはまさにこの主語と目的語――「主」と「客」ですね――が分かれているということそのものを問題にしているから。だから、「私がって、世界があって、そして私が世界に対して何かをする」という世界観そのものに根本的に疑問を呈している・根本的に問題視しているわけね。だから、そこをはっきり見なきゃいけないんですよ。ということはどういうことかというと、私らが言葉を使ったとたんに、我々は古い意識の「奴隷」になってしまう。だけども私がなぜ今こんなことを言うかというと、「私は奴隷なんだ」と言ったとたんに私[=本人]はその奴隷状態から或るていど自由になるわけね。奴隷というのは普通は、自分が奴隷であることに気づかないわけなんですよ。これは先週も言いましたけど、我々はずっと我々の心の奴隷になってきた。これはもうこの瞑想会で百万回言ってきたことだけども、我々は我々の心の中に湧いてきた色んな怒りだとか心配だとかの奴隷状態になってしまう。怒りが湧いてきて、その怒りの奴隷になったままにいろいろと酷いことを言ったり酷いことをしてしまう。あるいは心配というものが湧いてきたら心配というものの奴隷状態になって、次から次へと悪いストーリーをこしらえて、その心配のなかにズブズブになっていってしまう。だけども本人からすれば、自分が奴隷だとは思わなくて、「自分の目の前にひどい人間が居るから、だから自分は怒ってる」と思うし、「ここに酷い状況があるから、だから自分は心配をしている」と思っているしね。だけども本当はそうじゃなくて、その人は怒りというものの奴隷になっている。心配というものの奴隷になっている。ありとあらゆるものの奴隷になっているわけじゃないですか。それで、[瞑想の]先生たちから「心を観なさい」と言われたでしょう? 心を観るということがなぜそんなに大事かというと、自分がいかに色々な物事の奴隷であるかを知るのがまず第一歩だからなわけですよ。
 「自分が奴隷状態である」ということを知るのが解放への第一歩ですね。それこそ歴史上に……黒人の奴隷解放運動にしたって、どういうふうに運動してきたかというと、「我々は今、奴隷状態なんだ」ということを自覚して、それで「解放」じゃないですか。そうじゃなくて「これが当たり前」だと思ったら、奴隷解放運動なんてあり得なかったわけですよ。植民地からの解放というのも大抵そうで、「他国の植民地になって、ひどい目に遭っているんだ」という自覚の下で独立運動が起こるわけね。だから、「これが当たり前だ」なんて思ったら、独立運動なんて起こるわけがないんですよ。だからそういう意味で、今まで我々が嫌というほど知っているように、うまく植民地を経営してきた連中にとっては、「自分が奴隷になっている」ということを[現地人に]気づかせないということが重要だったわけですよ。(中略)それは歴史――政治――の文脈だけれども、個人の文脈で言うと、「ああ、自分は自分の心の中に湧き起ってくる怒りというもの・心配というものの奴隷になっているんだ」というところからいよいよ、本人が[奴隷状態から]解放される修行が始まるわけですよ。

(中略)

 それで、これから扱うのは言葉なんですよ。もう一回言いますけども、言語というのは必ず「古い意識」によって作られているから、言語を使っちゃう限りは我々は「言語の奴隷」にならざるを得ないわけですよ。私はいま日本語を喋ってますけども……皆さんは日本人だから、日本語という共通なものを持っていて、新しい言葉をつくったりとか新しい表現をすることはできるけれども、[言語から]完全に自由なわけではないわけですよ。我々は日本語を話す以上は、日本語の文法と語彙をやっぱり受け入れざるを得ないわけですよ。その受け入れた時と同時に私らは、主体と客体が分かれた世界観をも受け入れざるを得ないわけね。(中略)ということは何を言っているかというと、言葉をそういうふうに自覚的に使っていかなければいけないということなんですよ……これはもう先週も言いましたけどね。ここのところにね、今までの宗教のテキストのすべての読み方の問題があるわけですよ。今まで宗教のテキストを「表面的に読む」、あるいは「深く読む」という普通の言い方をよくするし、あるいは――イスラム神秘主義だったかな。井筒俊彦先生の本にあったと思いますが――「内的解釈」っていうね、「どんどん経験を深めていったところで読む」というような言い方をするわけですよ。まあ要するに解釈の問題になるんだけども。それでそれはどういうことかというと、非常に簡単な話で、宗教というものが問題にしてきたのは「新しい意識」以外にあり得ないわけですよ。そうでしょう? だって、お釈迦様の「悟り」というのもこの「新しい意識」のことだし、キリスト教で言う「神の国」とか何とかいうのもみんな、この「「新しい意識」のことなんですよ。だけども、宗教のテキストの根本的な矛盾というのは、この「新しい意識」のものを、「古い意識」に基づいた言語によって描写しなきゃいけないという根本的な矛盾だったわけですよ。これが問題のすべてなの。だから当然、「古い言語」によって「新しい意識」を描こうということをずっと――何千年か――してきたわけ。「新しい言語」なんて、今のところは無いんですから。これでどういうことが起こるかというと、この「新しい意識」を直接知っている人たち――お釈迦さまであったり、イエスさまであったり、あるいは色んな瞑想の達人の先生であったり――は、これ[=新しい意識]を何とかして伝えようとしたわけじゃないですか。彼らは本当は、「新しい意識」を「新しい言語」で伝えたかったわけですよ。だけど「新しい言語」なんて無いから、相も変わらず、我々が使っている日本語[などの既存の言語を使わざるを得ない]。あるいは「パーリ語サンスクリット語聖典の言葉だ」と言ったって、それはやっぱり「古い言語」ですよ。「古い」言語構造を持っているわけですよ。あるいはイスラムだったらアラビア語聖典の言葉だし、あるいはペルシャ語とか。あるいは「聖書はギリシャ語で書かれた」とかね。そうかもしれないですよ。だけども、それは現代の日本語だろうがパーリ語サンスクリット語だろうがチベット語だろうが、やっぱり言語だから、すべて「古い」んですよ。要するに「古い意識」の産物なわけね。だから、「古い意識」の産物である「古い言語」で「新しい意識」を何とか描写しようとしたことの根本的な矛盾に我々はずっと苦しんできた。「私はちゃんとテキストを読んでいますよ」と皆がずっと言ってきたじゃないですか……「私はほんとに、ちゃんとテキストを丸暗記して……」。だけども、何も起こらなかった。当然じゃないですか。テキストは言葉によって書かれていて、言葉というのは「古い言語」だから、――言語というのは「古い意識」から来る言語だから――何を言おうが、ぜんぶ誤解されてきちゃった。「ブッダ」と言おうが何と言おうがね。そこを何とか、言葉を使いながら何とか「これ」[=新しい意識]を伝えようとしてぎりぎりのところまで使った人たちがいて、それが当然、大乗の哲学のあの何だかわけの分からない論理形式であったり、あるいは私らなんかだと道元禅師という人が正法眼蔵というものを、もう何が何だかわけの分からない言葉で書かれているわけですよ。それは、もう何とかしてこの「新しい意識」を描写しようということだったわけですよ。だから、そこをまず本当に理解しないと……それで、いま私が言っていることによって、仏教だけじゃなくてすべての宗教のテキストの根本的な問題点と、それをどうやって読むのかのヒントが分かるわけですよ。

(中略)

 じゃあどう読むのか。「古い言語」というのは、そのまま使うと必ず「古い意識」の奴隷になってしまう。そういうことをすべて理解したうえで……「自分が奴隷状態である」ということをすべて見抜いたうえで、「古い言語」を使いながらもこの先生たちが何とかして伝えようとした「新しい意識のあり方」を読み取っていかなきゃいけない。そういう作業をしなきゃいけないということなんですよ。いま言ったところにすべての問題点とすべての方法がありますから、そういうふうに読んでいきたいと思います。
 私らが呼吸瞑想でずっと問題にしてきたのは……さらっと[経典を]読むと当然、「古い言語」は「○○さん、呼吸を観なさい」とたしかに言っているわけですよ。そうすると我々は「私が居て、目の前に呼吸があって、この私が呼吸を観る」としか解釈のしようがないわけですよ。言語というものはそういうふうにできているから。だけども、これ[=呼吸瞑想]をちょっとでもやった人間が分かるように、そんなので呼吸を観たって、何も起こらない。「私が居て、呼吸があって、この私が呼吸を観ている」……「主体と客体」ですね。主体である私と客体である呼吸があって、動作には『観る』という動詞を使っている。
 しかし[本来は]そうではなくて、呼吸瞑想というのは「新しい意識」へ入るための一つの方便だったわけですよ……私はもう「方便」と言ったほうがいいと思うんだけどね。まあ日本では「方便」というと「嘘も方便です」になるから、「ちょっと何かね……」というニュアンスがあるじゃないですか(笑)。だけども結局、瞑想がうまくいかない最大の理由は、「本当は方便だったのにそれをあまりにも真面目に受け取りすぎた[ということだった]」。それはもう、しょうがなかったんですよ。だって、お釈迦さまの呼吸瞑想の説明のしかたを素直に読んだら、やっぱり「私が居て、呼吸があって、この私が呼吸を観ている」というふうにしか読めないんだから。それはお釈迦さまといえども「古い言語」を使ったから。「古い言語」というのはどうしてもそういう構造になるからね。だけども、もう皆さんがお分かりのように、「私が居て、呼吸があって、私が呼吸を観ている」というような主体と客体が分かれた世界では、瞑想なんて成り立つわけがない。だから、この瞑想のリアリティーを何とか言葉で表そうとしたら、非常に変な表現にならざるを得ない。要するに「ただ呼吸が観えている」とかね。「私が」というものが落ちちゃって。そうすると、「『私』――主語――が落ちちゃって客体だけがあるなんて、論理矛盾じゃないか」って、どうせ突っ込まれるに決まってるじゃないですか。だから、「スダンマチャーラさんの言うことは何かおかしい」ってどうせ言われてるに決まってるんだけど(笑)。それで、何かちゃんと言語どおりの「『主語があって、客体があって……』という説明のほうが何か論理的だ」と、どうせ思われてるんでしょうけど。まあだから私がここ数年間ずうっと「変なこと」を言い続けてきたのは、何とかしてこの「新しい意識」を皆様に伝えようとして、この「「新しい意識」を言葉で表現するとどうしても変な表現にならざるを得ない。なぜかといったらば、言葉として普通の表現をしたらそれはもう「古い世界」になるからね。ただそれだけのことなんですよ。

3 of 4へ続く)