山下良道法話:「ウォーキング・メディテーション入門」(1 of 2)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2010年4月11日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=581
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

(途中まで略)

 今日はね、ウォーキング・メディテーション(“walking meditation”/歩く瞑想)の非常に有名な本を読みます。これはティク・ナット・ハンさんの本なんだけど――非常に小さな本なんだけど――“The Long Road Turns to Joy: A Guide to Walking Meditation”……「長い道のりが喜びへと変わっていく」という[意味の書名の本]ね。これね、小さな本なんだけど非常に影響力のある本で。ティク・ナット・ハンさんというのは、何百人でリトリートをする方でね、リトリートは色んなことをするみたいですけども、その大きなメニューの1つがウォーキング・メディテーションで。でも、歩く瞑想といっても、いわゆる日本の禅宗の経行(きんひん)とかテラヴァーダのいわゆるのウォーキング・メディテーション――「右足、左足、上げる、はこぶ、おろす」――のとはちょっと微妙に違って、この人たちは外を歩くんですよ。外の、森の中とか公園とか。それも、本当にすごい人数でね。それも、ゆっくりじゃなくて本当に普通のスピードで歩くんですね。だから、他人から見たらウォーキング・メディテーションしているとは気づかれないような様子で――ただ、多少ゆっくりめですけどね――ゆっくりめに歩くことをしているんですけども、これがどういうことなのか。今日はそこをちょっとみていきたいと思います。

 私もこの一法庵では、ウォーキング・メディテーションを一応2つ[のやり方で]とらえていて、基本線から言うとね、ここは接心とかあるいは日曜日とかだったら、座る瞑想があって、その2つの座る瞑想の中間に歩く瞑想を入れています。それは、ほとんどテラヴァーダ的なやり方をしている。つまり、ある直線のところを行ったり来たりする。まあこれはマハシの系列のところがどこでもやっているやり方ですけども。それもかなりゆっくりめでね、自分の歩くステップと呼吸とかに対してマインドフルである・サティを向けていくということで、非常にゆっくりめの歩く瞑想――歩行瞑想――ですね。(中略)ですから一法庵ではそういう非常にゆっくりとした歩行瞑想を、接心なら接心の座る瞑想(“sitting meditation”/坐禅)の合間、合間に入れていく。それが1つですね。
 もう1つのやり方の歩く瞑想――ウォーキング・メディテーション――も教えていて……これは外でやってもらっていて、あまり詳しくは教えてないんだけど、今日ちょっと、はっきりとしたことをお教えしますので。これはね、本当に外で歩く……公園とか道路とか海岸とかをまあ普通のスピードで歩く。だから、どこでもできるわけですよこれはね。だから皆さんが休みの日に近くの気持ちのいい公園があったら、そこを静かに歩く。べつに一直線を行ったり来たりじゃなくて、公園の周りをただ歩くだけでもいいですし。

 それで今、たくさんの人がウォーキング――ウォーキング・メディテーションじゃなくて、ただのウォーキング――をやっていると思うんですよ。実際に街を……公園とか見てもね、たくさんの人が歩いてるしね。ジョギングだけじゃなくて。それはいいんだけども……何て言うかな、iPodを聴きながらやっている人もいるけども、「ちょっとそれもね……」と思うんですよ。ですから、何が言いたいかっていうと、いま実際に、メディテーション[=瞑想]と関係なしにウォーキングしている人はたくさん居るし、あるいはウォーキングというほど大げさじゃなくても散歩だったら皆しているじゃないですか。あるいは、散歩とまでいかなくても皆さんどうせ毎日駅まで歩いてるんだし、一生懸命いろいろ歩いているんだし、なんやかやと日常生活のなかで歩いているわけで。その、普段やっている「ただ普通に歩いている」のでも、あるいはいわゆるの散歩、あるいはもうちょっと運動的なウォーキングでも何でもいいんだけども、とにかく歩いているわけで。そのために毎日、何十分、何時間を使っているはずですよ、どんな人でもね。(中略)ですから、その時間をメディテーションの時間に変えましょうということですね。それは、実際もう歩いているわけだから、もうわざわざ別の時間を新しく設ける必要はなくて、今まで1時間歩いている人だったら、その1時間の時間を歩く瞑想の時間に変える。どう変えるかは後で言いますけども。それはもう本当に心の持ち方だけで……今までただセカセカセカセカ歩いていたのが、歩くということは同じなんだけどもね――あるAという地点からBという地点へ動くという意味では同じなんだけども――心の持ち方次第で、それが単なるウォーキングじゃなくてウォーキング・メディテーションに変わります。

 そこをどう変えていったらいいのかということを今日はお話ししたいと思います。(中略)だから、ここではウォーキング・メディテーションを、ゆっくりなやり方と普通のスピードでのやり方との2つをやっていて、今日はその普通のスピード――人が普通に歩くスピード――でやるウォーキング・メディテーションについて、このティク・ナット・ハンさんの本を使いながらお話をしたいと思います。
 そうなんだけども、ちょっとその前にね、先週の続きを終わらせておきます。というのは、先週は「カルナー・セラピー」なんて言っていながら、「カルナー・セラピー」の説明をほとんどできていなかったんだけども。
 まあ先週はね、“resistance”(=レジスタンス。抵抗すること)を、どう落としていくかということがテーマでした。それで、例えば仏教を勉強したときにね、どうしても「安らぎを求める」。それは、いかにも当たり前なことですよ。だけど、安らぎを求めるということ自体がもう、すぐに色んな問題を引き起こしてしまうという、どうしようもない矛盾を我々は持っていて。だから、仏教を修行するということが、我々が考えていた以上に非常にちょっと或る意味で難しくて。なぜかというと、その非常に微妙な複雑な点をクリアーしないと、実際には仏道修行にならない。だから、非常に表面的に何か「今、自分はイライラしていて、不安で、アレだから、仏教の修行をして安らぎを得たい。“peaceful”(=静かな、平穏な、平和的な)な心を持ちたい」というのを[多くの人は]当然やるんだけども、まさにそれをやることによって安らぎが遠ざかっていってしまうという、どうしようもない矛盾ですね。それで、それがどうしてそういうことになってしまうかについては、先週にちょっとお話しして。

 それでね、(中略)……一法庵でやっていることがなかなか理解してもらえない時期がかなり長かったんですけども、典型的な誤解というのが……今まさに私が言ったように「仏教というのは、安らぎを得るための、いわゆるの手段――メソッド――である。だから、何かのそういうメソッド・テクニックをとにかく教えてください」というような[ものだった。そういう]文脈で私に求められても、まあそれはちょっとできないということをずっと言ってきたわけですよ。なぜかといったら、――これは先週も言いましたけども――まさに、そういうふうにして「今、自分は苦しくて、イライラしていて、辛くて、だから安らぎが欲しい。安らぎのためには、こういう何かメソッドとか何かテクニックを知れば――それをやっていれば――、やがてはそういう安らぎが得られる」というような考え方そのものがまさに、我々の苦しみを生んできたという、非常にその、何とも言えぬ複雑な点があるわけで。私がずっと喋ってきたのも……まさにその点をずっと喋ってきたから。

 だから、例えば或る瞑想会の主催者が「とにかくテクニックを教えてください。ビルマで習ったメソッドを教えてください」というようなことを私に要求したとしたら、それだと話は違うから、そういう瞑想会とかは全部お断りしてきたんだけどもね。もちろんね、少数の人には何年も前から理解してもらっていたんだけども、それはやっぱりあくまでも少数だったんですけども、でも去年ぐらい――去年の後半ぐらい――から本当に、かなりの数の人たちが……理解してくれる人が増えてきたかなあという気がしています。
 それで、今日はウォーキング・メディテーションについて具体的にみていきますけども、その前に先週からのつながりをつけておかないと、何がなんだか分からなくなってしまうので、先週からのつながりをつけます。
 先週は「カルナー・セラピー」ということを言いました。「カルナー」というのは、慈悲の4つ[=慈・悲・喜・捨]のうちの2番目ですけども、同時に、慈悲全体を指すこともありますね。“compassion”といった場合に、4つに分かれたうちの1つを指す場合もあるし、4つ全部[=慈・悲・喜・捨]を指すこともありますから。だからまあ私の場合、単に4つのうちの1つというよりか、慈悲全体を代表して「カルナー」と使ったんですけども。それでもって[、カルナーという言葉に続けて]「セラピー」ですね。

 「セラピー」っていう言葉をわざわざ使い始めた1つの理由は……いま宗教というのはあまりにもおかしな状況になっていて、それは歴史的な理由があってそうなっているわけですよ。その歴史的な理由について喋ったらきりがないし……。それでただ、「宗教」という言葉を今の日本社会のなかで使ったとたんに、ありとあらゆる誤解を避けることはまず無理なんですよ。「それはあなたの誤解なんだよ。宗教というのはそういうものじゃないんだよ」ということは私自身もまあ言ってきたんだけど、それだとあまりにも多くの無駄な時間とエネルギーを使わなきゃいけないんでね(笑)。だから私も、宗教という言葉はあんまり使いたくはないんですよ。というのは、宗教という言葉をめぐって、あまりにも分厚い・どうしようもない誤解とか何とかがあってね。だからまた変に身構える人も居ますしね……何か「勧誘されるんじゃないか」とかね(笑)。だからまあ、私らが今ここでやっていることにたぶん一番近いのは、まあ「セラピー」……セラピーという言葉は[それはそれで]誤解もありますけどね。ただ、「セラピー」という言葉と「宗教」という言葉を2つ比べて、どっちが誤解されているかというと、圧倒的に「宗教」[のほうが誤解されている]わけですよね。「宗教」という言葉に対する誤解はとてつもない数で・とてつもない量で。それに比べたら「セラピー」のほうが、まだ誤解の量は少ないんじゃないかなと思って、そういう言葉をちょっと使っています。

 ただ、「セラピー」という言葉にも大きな誤解があるに決まっていて……どういう誤解かというと、要するに「セラピーというのは、ある特殊な人にだけ意味があって、一般の・すべての人には意味がない」という誤解があるじゃないですか。「私はべつに、そんな心の問題は抱えてないですから。セラピーは要らないですよ」と、普通の人たちはどうせ言うに決まっているし。そうなんだけど、私がいま「セラピー」と使っているのはそんな意味じゃなくて、もうちょっと本当に一番広い意味で使っていますけども。

 それでね、この「カルナー・セラピー」――慈悲のセラピー――がなぜ本当に大事なのかといったらば、それは結局、次のようなことなんですよ……。こないだの最後のほう[=1週前の法話を指すと思われる]で言ったように、「安らぎを求める」というのは、いかにもそれが仏教であるかのように皆は普通は思っているわけですよ。だけど、そこにどうしようもない落とし穴がある。それはなぜなのか? ということですね。

 それはつまり、本人は本人で「今、どうしようもなく不安で、恐怖があって、心配があって、イライラしていて、怒っていて、恨みがあって……」[というような心の状態が]あるわけですよ。嫌じゃないですか。気持ち悪いじゃないですか。ね? 気持ち悪いわけですよ……自分のなかの、このなんとも言えない不安感とかイライラ感とか、どうしようもなさ加減とか、絶望感とか。そういうものは嫌じゃないですか。そういうものが嫌で、「仏教を勉強すれば、瞑想すれば、リトリートに参加すれば、座禅会へ行けば、安らぎが得られる」[という予想は]、なんか非常に尤もそうなんだけども、そこに、どうしようもない落とし穴があって。それはなぜか? それは先週も説明したけども、今、自分が抱えている心のあり方――それが不安に満ちていようが、心配に満ちていようが、怒りに満ちていようが――をもう「嫌だ」というふうにして、それに対して抵抗することが苦しみを生んでしまうんだという[落とし穴である]。その「嫌だ」という抵抗をして、それを何かの瞑想メソッドに頼ってやっちゃうとね……「なんとかして、吸っている息に気がつくぞ! 吐いている息に気がつくぞ! 右足に気がつくぞ! 左足に気がつくぞ! 怒りなら、怒りということに気づくぞ! 『自分は怒っている』と気づくぞ!」として、そういう瞑想メソッドのテクニックを駆使するんだけども、その瞑想メソッド・テクニックを駆使する根本的なモチベーションというのが、「なんとかして、その怒りを抑えつけてやるぞ」というんだったら、やっぱりこれは「抵抗」なわけですよ。それで、――皆さんは嫌というほどやったから分かると思うんだけども――いくらそういうことをやっても、どうにもならなかったわけですよ、我々はね。「自分は怒りが湧いてきた。怒りは良くないから……これは三毒のうちの1つだから……怒り、怒り、怒り……怒りだ。怒りがあります。怒りがあります。怒りがあります」といくら言ったって――怒りがあるということにいくら気づいていても――、どうにもならなかったんですよ。なぜ、どうにもならなかったか。それは簡単な話で、やっぱり皆さん――我々――は「下心」があったからなわけね(笑)。「下心」があったわけですよ。ただ純粋に「怒りがあります」・「はい、ベルがあります」なんていうように純粋に気づいたわけじゃなくて、「気づくことによって、なんとかしてこの怒りを抑えつけてやろう」というね……それはやっぱり「下心」ですよ。本当に「下心」という日本語がいいと思うんだけども、要するに「下にある心」じゃないですか。
 結局、皆さんが「怒り」というものに対してヴィパッサナーをしたじゃないですか……色んな先生方から聞いて。それで結局、どうにもならなかったじゃないですか……と勝手に決めてるんだけど(笑)。「どうにかなったぞ」という人も居るかもしれないけど、まあだいたいは、どうにもならないんですよ。それで、それはなぜか? 「自分は怒りがあるということに気づいていますよ。ヴィパッサナーしてますよ、○○先生に教わったとおりに」[と本人は自認しているだろう。]だけど、どうにもならなかった。なぜ、どうにもならないか。それは、やっぱり我々は純粋にヴィパッサナーなんかしてなかった[ためである]。「怒りがある」と気づくことによって――「怒りだ、怒りだ、怒りだ」と気づくんだけれども――、やっぱりその「下心」としては「それ[=怒りなど]を、なんとか抑えよう」というね……「なんとかして、怒りから逃げたい」という気持ちがあって、そのために、どうにもならなかった。その「嫌だ」って何ですか? 「嫌だ」って、怒りなんですよ実はね。実に単純、当たり前のことで。だから、「怒っている」ということに対して「嫌だ」という怒りが生じているから、どんなに「怒り、怒り、怒り」とヴィパッサナーしてみたところで、それと同時に「怒りは嫌だ」という怒りを生じているから、怒りから解放されるということは全然無かった。だから、どうしたらいいの? となったら、もう我々に唯一残された手段は「それをもう、ただ受け入れる」……もう「怒りを嫌だ」とはしないで、もう、ただ、「それはどうしようもないものだ」と受け入れる。だけどもそれは――絶対に間違えてほしくないのは――、「どうしようもないものだからといって、怒りのままにもう何か滅茶苦茶する」ということでもない。

 だから、今まではもう、我々にはたった2つのチョイス(選択)しかなかったわけね。その1つは、要するに「怒りにまかせて色んな暴言を吐く(中略)なり、あるいは政治活動をするなり[色々するというチョイス]」。もう1つのチョイスは、「怒りはもう嫌なんだ」として、「怒りをなんとかして乗り越えるぞ」というふうに、怒りに対して怒っちゃって、何か仏道修行をしようと思ったんだけど全然らちがあかない。この2つのところで我々は悩んできたわけですよ。それで、我々が今やっているのは、この2つではない、もう1つの道ですね。だから、怒りにまかせて何かをするのでもないし、怒りを「嫌だ」といって怒りを抑えつけることによって、怒りに対して怒りを持って、さらにどうしようもなくなっていくというのでもない。この2つを乗り越えるためには、この「嫌だ」という“resistance”(レジスタンス。抵抗すること)を手放すということ。それについて、先週は“forgive”(許す)ということを言いました。要するに、本人が「今、自分が怒っている」ということ――「自分が今、怒りがある」ということ――を許すこと。許したときに、本人はそれまでとはまったく違う“dimension”(次元)に入っていく。

 いまテキストとして読んでいるのは、先週の続きのエックハルト・トールさんの本なんだけど、それにいわく、「それはちょうど、深い湖のようなものだ」。深い湖ってどういうことなのかはだいたい想像がつくと思うけども……湖というのは当然、風があれば表面は波立ったり色々あるにきまっているわけですよ。だけども、ずっと深いところに行けば、そこはもう何もなくて。寒いところにある湖だったら、寒いときはもちろん表面が凍っちゃうこともあるだろうし、風で波が立つこともあるだろうし。それはまあ我々の人生みたいなものじゃないですか。だけど、深いところへ行ったら何もないわけですね。静かな……何にも邪魔されない。だから、我々は普段はもう、その「湖」の表面しか見ていなくて、そこは2つの極端しかなくて。それは、怒りにまかせて[何かを]やるか、あるいは何とかしてそれを抑えつけようとして、さらに何だかわけのわからないことになってしまうか。だけども、「自分が今、怒っている」ということを許したときに我々は、この2つに分かれたものを超えて、「自分自身が、実は『湖』なんだ……波が立ったり色々するのは、あくまでも表面のことであって、そうではない深い深いところでは、波なんかまったく立っていないし、表面のことによって邪魔されない静かなものがある」ということを、我々は感じることができる。これはもう本当に、そう感じられるわけね。本人が「自分が今、怒っている」ということを許したときに。受け入れたときに。そのときに、自分のなかにある「湖」の一番深い部分――「風」にまったく邪魔されない部分――を感じることができて、非常に深い・本当の意味での安らぎ[を感じることができる]。かつての、「怒りを抑えつけることによって、なんとか、安らぎを求める」[というやり方のせいで]何がなんだか全然わけが分からなくなっちゃったのではない、そういうこととは一切関係ない、本当の意味での安らぎを感じることができる。

 そしてだから、その場合の安らぎというのは「表面上の波が立っているのが静まった」というレベルでの安らぎではないわけですよ。だから、「湖」の表面が波立っていようが平面的に凪いでいようが、そういうことは一切関係ないところでの安らぎですね。そういうものを自分のなかで感じることができたらば……だけどもそれでも我々には「湖」の深い部分もあるし、同時に表面的なところも当然あって。それで、この深い部分から表面的なところを観たらば、まあ、あとはもう――何て言うかな――[表面の波立ちを]そんなにシリアスには受け取らないわけです。表面が波立っているか静かかが、以前はあれほど気になって気になってしょうがなかった。だけども、「今はもう、関係ない」わけですよ。

 「今はもう自分の心の表面が怒っていようが静かだろうが、それらはもう、シリアスな問題にはならない」。なぜかといったらば、「湖」の深い深い部分をもう感じているから。そういうふうなことを感じている本人が世間に出ていって、色んな人に会った場合に、ものの見方が今までとは当然ちがうわけですよね。今までは、「あの人が好き」だのとか「あの人が嫌い」だのとか……それで、好きな人を追いかけて、あるいは嫌いな人から逃れて、あるいは嫌いな人と喧嘩して、それでもって何がなんだか分からないことになってきた。だけども今、我々がこの「湖」の深い部分にタッチしながら自分の心を観て、その次に、具体的な他人というものを見ていったときに、以前とはぜんぜん違うふうに見えるわけですね。それはどういうふうに見えるかといったらば……(中略)そういう人が別の「湖」を見れば、「湖」の表面は或る時は波立っていて、ある時は静かだ。だけどもその人は、単に表面だけじゃなくて、その表面の[下の、]ずっと深いところ――「水深100メートル」の部分――も見えるわけですよ。だから、表面はたくさん色々なことがあるかもしれないけども、その表面のことにとらわれないで「湖」全体を見通すことができる。そういうことですね。だからこの他人というものを見たときも、他人には色々あるにきまっていますよ。だけども、その他人が――何て言うかな――怒っていたり、笑っていたりということはあくまでもその「湖」の表面みたいなもので、その表面の底[=下]に、深い部分がある。本人が例えばAさんに会った、Bさんに会った場合に、そういうようにAさんの表面的なことを突き抜けて、[Aさんという「湖」の]底の部分も感じることができる。なぜかといったら、本人はもうすでに自分のなかで、「湖」の深い部分に触れているから。そうしたときに――或る「湖」と「湖」とが出会ったときに――、お互いに深い部分で出会ったらば、(中略)もう表面的なことに煩わされることはないということですね。

 だから、表面的なところではどういうことが起きるかというと、ある人が苦しむことももちろんあるだろうし、ある人が何かわけのわからない状態になっちゃって、怒りにまかせて何かをやるとか、非常に愚かなことをしてしまうとかいうことは当然あるわけですよ。それはちょうど、湖の表面に色んなことが起こるのと同じで。だけどももう、そういうことに悩まされることはなくて、「湖」の表面ではない底の部分――だから、その人の苦しみとか愚かな行為とかという表面を突き抜けた、その人の深いところ――を感じることができる。
 そうなったときに、例えば我々の目の前で非常に愚かなことをしている人に出会ったとしても、その人によって悩まされるということはなくて。ということです。そうすると、そこから“healing”(ヒーリング。何かを本当に癒していく力)ができてきます。そして、「湖」の表面的な部分を突き破ってその「湖」の底の部分まで観る、その視点というかその視線を、慈悲なら慈悲という言葉を使ってもいい[=慈悲と呼んでもいい]ですね。
 それで、エックハルト・トールさんのこの慈悲の定義って非常に面白くて、“Compassin is awareness of a deep bond between yourself and all creatures.”……だから、「あなたと、すべての生きとし生けるものとの間の深い結びつきを気づくことが慈悲なんだ」というね。これはどういうことかというと、「湖」の表面的なものを突き破って、「湖」の底の部分をすべての生き物のなかに観ていくということ。だから、自分の「湖」の表面と、誰か他者の「湖」の表面はたしかに違うけども、その底のところまで行ったらば、すべてが同じであるということですね。それが、慈悲というものがもっている、深い癒す力ですね。

 ここで読んでいるテキストはもうちょっと続くんだけれども、これはちょっときりがないからここまでにして……それで今日は、表面的な波の立っているのを突き抜けて「湖」の深いところを感じる[ということを解説してきた]。それは、今までの内容は慈悲によって[感じるということ]だったけれども、今からお話しするのは、歩く瞑想によって[感じる]ということです。

2 of 2へ続く)