山下良道法話:「自分というなまの現実」(2 of 2)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2011年1月23日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=652
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

1 of 2からの続き)

 ここまでに扱ったことで分かったと思うけども、例えば私が皆さんから質問を受けたとして、「あの経典の何ページに○○と書いてありますよ。だから、その質問への答えは○○なんですよ」というような答えのしかたは一切してこなかった。その「してこなかった」理由というのはもちろん、ここまでで述べたようなことであって。結局ね、皆さんの質問というのは、皆さんの「なまな心をどうするか」ということじゃないですか。その「なまな心をどうするか」ということはつまり、「なまの現実のなかで・どうしていいか分からないような状況のなかで、どうにかしなきゃいけない」というような問題じゃないですか。それに対して、どこかの本の中にあらかじめ答えが載っているなんていうことはあり得るはずがない。その感覚なんですよ。
 そういう「なまな質問」に対して「××という経典の何ページに、こういう答えが載っていますよ。これが、ブッダの仰る正しい答えですよ」と[回答できる、という]ような発想にどうしてなってしまうのかというと、それは簡単な話で、その人はやっぱり「なまな現実」に接していないんですよ……その人自身がね。じゃあ、その人はどういう世界を生きているのかというと、やっぱり結局、thinking mindが作り上げた世界のなかだけで生きていて……thinking mindが作り上げた世界のなかでは、「答え」というのはまあ何となく出ているわけね。だから、どんな質問をされたとしても、そのthinking mindが作り上げた世界のなかにある「正しいこと」について答えていればいい、という話になっちゃうじゃないですか。それは、皆さん自身が皆さん自身の「なまな心」を問題にしないで、皆さん自身も何か仏教に関する知識が何となく増えていけばそれでいいやというレベルでやっているんだったらば、両者[=質問者と回答者]の利害関係は見事に一致して(笑)、皆さんの納得いくような答えがそこから貰えますね。だけど、そういう「××という経典の何ページに、こういう答えが出てますよ」というようなレベルでの答えを皆さんがいくら貰ったところで、――それは仏教に関する皆さんの知識が増えることは増えるかもしれないし、物知りになるかもしれないんだけれども――結局それによって皆さんの「なまな問題」が解決するということはあり得ない。それはあり得ません。その「あり得ない」ということは、もう皆さんも分かっているはずです。なぜかというと、皆さん自身の非常に苦い現実によってね。
 どうしてそういうことになっているのかというと、皆さんの問題というのは「なまな問題」だからね。“thinking mind”の世界のなかでの何かの答えを求めているのではなくて、「この生々しい現実をどうしたらいいか」という[問い]だから。

(中略)

 例えばね、瞑想のインストラクションということ一つにしても、いまの瞑想のインストラクションがどうしてうまくいかないのかというと、「なまの現実」のなかでの瞑想のインストラクションというものを、もう一回吟味していないから、何か「ヴィスッディ・マッガ(清浄道論)とかそういうところに書いてあるものを与えてしまえば、それですべてがうまくいく」というようなことじゃないですか。だけどそれはうまくいくはずがなくて。なぜかといったら、瞑想は生々しい人間がやっているわけだからね。
 「呼吸を観る」ということにしても……「私が居て、呼吸があって、その私が一所懸命に呼吸を観ます」なんていう話であるわけがなくて。だから、「今、自分が息を吸っていることに気がついている。今、自分が息を吐いていることに気がついている」ということだって、そんなに単純なことであるわけがない。「なまな人間」が「なまな現実」を生きているかぎりは、それが分かるはずなんですよ。だけども、それをしていないから……皆がthinking mindの世界に閉じこもっちゃっているから、[例えば]「アナパナというのは、集中して、息を吸っていることに気がついて、吐いていることに気がつくことだけですよ」という5分間の説明で終わっちゃうんですよ。そういう5分間の説明をいくら聞いて、いくらやってみたところで、誰も埒があかないのね。
 それで、「やりたくないことは、やらない」というのはどういうことかというと、それは、いま言ったように(1 of 2を参照)、わがままではない。それは、自分たちのエゴが「これはやりたくない」と言っているんではないんですよ。もうちょっと別なところのものが「それはやりたくない」と言っているのね。

 これは内田先生がしょっちゅう言うことだし、どんなスピリチュアルの先生も言うことなんだけども……つまり、仏教の場合ね、智慧ということをさんざん言ってきたわけじゃないですか。だけども、智慧というのは「単なるthinking mindがclever(利口な、賢い)になることではない」ということもさんざん言ってきていて。thinking mindがいくら速く回ったところで、それは智慧にはならないんだということね。そして、智慧というのは全然別なところからくるんだということを、私もさんざん言ってきたじゃないですか。ということはね、thinking mindに分かるようなこと・thinking mindによってすぐに見つかっちゃうような答えでは、この生々しい現実には太刀打ちができないという話でしょう? ということは、thinking mindがその限界に達しちゃって、「thinking mindでは、もうこれ以上乗り越えることができない」というところまで追い込まれたところで、そのときになって初めて「まったくどうしていいか分からないんだけれども、どうしていいか分かる」。その「どうしていいか分かる」のはthinking mindかというと、thinking mindじゃないんですよ。それはもっと深いところから・もっと高いところから来ていて、さっき言っていた「『特殊な能力』を養う」ということ(1 of 2を参照)は、その「もっと深いところ・もっと高いところ」に対する感受性をどう養っていくか、という話になるわけね。ということは、「やりたくないことは、やらない」ということは、自分のその「もっと深いところ」が命じていることに関して「それに反することは、もうやらない」という、そういう感覚なんですよ。だからそれは、わがままであるわけがない。「自分がいちばん大事なものを大切にして、このいちばん大事なものに反するものを、一切やらない」という話なわけね。じゃあその一番大事なものに反することとは何かといったら、それは「マニュアル」です。[マニュアルというのは]要するに、「こうやればこうなるから、こうすればこうなる」というね。

 これはもう去年ぐらいからずっと言ってきましたけども、瞑想マニュアルとか瞑想ガイドラインとか瞑想テクニックというものがもつ根本的な矛盾というのは、そこにあるんですよ。瞑想にマニュアルなんか存在するわけがない。瞑想にテクニックなんか存在するわけがない。しちゃいけないんですよ。なぜかといえば、マニュアル化して・テクニック化したら、もう瞑想はそのとき死んでるのね。死んだじゃないですか。誰もうまくいかなかったじゃないですか。じゃあ、だれが殺したの? 我々が殺しちゃったんですよ、瞑想を。マニュアル化することによって・テクニック化することによって[殺してしまった]。なぜかというと、マニュアルとかテクニックというのは、すべてthinking mindの領域であって、瞑想というのはthinking mindを超えることなんだから。

(中略)

 これは現代の問題なのかというと、そうでもなくて、道元禅師のころからの問題でもあるんですよ。(中略)ある人が[道元禅師に]質問してきたのね。[それは、この法話で扱ったことと]まったく同じ質問なんですよ。いわく、「自分はもう長いこと坐禅をしてきた」。あるいは「仏道をしてきた」。何年間とは書いていないけど、まあ10年、20年、30年になるんでしょうけどもね。だけど、「いまだ省悟の分あらず」……「まだ何も悟っていない。『何かが本当に分かった』ということが、ピンとこない」。そして、「仏道というのは頭の良し悪しで[決まる]のではない[と昔からいわれている]から、『自分は劣った器だから、どうせ自分は駄目なんだ』と思う必要もないと思うんだけども……何かヒントがあったら教えてください」という質問なんですよ。それに対する道元禅師の答えは、「たしかに、頭がいいからといって仏道がうまくいくということではないんだけれども、だからといって『馬鹿になれ』という話でもない」という、まあ当たり前のことを仰ったあとで、

誠の道はやすかるべきなり。然あれども大宋国の叢林にも、一師の会下の数百千人の中に、まことの得道得法の人はわづかに一人二人なり。
(『正法眼蔵随聞記』第二の一四)

 ……つまり、道元禅師も中国へ行かれたんだけれども――宋の時代ですね――、そこでは一人の師匠のもとで数千人が修行しているわけですよ。この数千人というのは、これはお坊さんたちですよ。24時間フルタイムのお坊さんたちだからね。そういうフルタイムで何十年も修行されている、ある立派な先生のもとで修行している人のなかでも、「まことの得道得法の人」……「本当に道が分かった人・ダルマが分かった人」は、「わづかに一人二人」だというのね。「然あれば故実用心もあるべきなり。」……「そうであるから、気をつけなきゃいけない点も今、あるはずなんだ」。
 つまり、「これをやったら全ての人が悟るよ」というような話だったら簡単なんだけれども、でも実際・リアリティとしては全然そうじゃなくて、[うまくいっている人は]まあ非常に少ない。ということは、なにか非常に「ここをミスしてはいけない」というポイントがあるはずだということなんですよ。じゃあ、その答え[=ポイント]とは何かといったらば……『正法眼蔵随聞記』で書かれている下記のことは非常にオーソドックスな答えなんだけども、

今ま是を案ずるに志の至と至らざるとなり。真実の志しを発して随分に参学する人、得ずと云ふことなきなり。
(『正法眼蔵随聞記』第二の一四)

 ……つまり、「志というものが本当に何かに達したのか、あるいは達していないのか。その違いだけなんだ」というね。つまり「本当の志をもったのか、あるいはもたなかったのか」。そこだけが違いで、本当の志をもった人は「得ずと云ふことなきなり」……「悟りを得ないということはない」。ということは、「本当の志をもつ」ということと「悟りを得る」ということはもう、イコールなんだということ。それで、問題の焦点は「悟りをどうやって得るか」じゃなくて「本当の志を、どうやってもつか」という話になってきますね。なぜかって、本当の志をもてば、それはイコール、本当の悟りを得ることになるから。
 じゃあそのときに、何を気をつけなきゃいけないかというと、「先づ只欣求の志しの切なるべきなり」……「何かを求める志が、本当に身に迫ったものでなければいけない」ということですね。
 それで、

此の如く道を求る志し切になりなば、或は只管打坐の時、或は古人の公案に向はん時、若は知識に逢はん時、実の志しを以て行ずる時、高くとも射つべく深くとも釣りぬべし。是れほどの心ろ発らずして、仏道の一念に生死の輪廻をきる大事をば如何んが成ぜん。若し此の心あらん人は、下智劣根をも云はず、愚痴悪人をも論ぜず、必ず悟りを得べきなり。

(『正法眼蔵随聞記』第二の一四)

 ……「色んな修行をするんだけども――坐禅をしたり、あるいは勉強をしたり、公案を練ったり、あるいは先生に会ったり――、どんなことをするときでも、本当の志をもって、それぞれの・一つ一つのことをするならば、必ずその目的に達することができる。だけども、それほどの心が起こらなかったならば、仏道をすることによって輪廻から脱することは、どこをどう考えても、できない」ということですね。
 その……「志」というと、なんかまたボヤッとしちゃうじゃないですか。じゃあ、その「志」というのはいったい、どういうことなの? あるいは、志を起こすためにはどうしたらいいの? ということになると、それに対する道元禅師の答えは次のようになっているのね。

亦此の志しをおこす事は切に世間の無常を思ふべきなり。
(『正法眼蔵随聞記』第二の一四)

……「世間の無常――“impermanence”――について、本当に真剣に思うことなんだ」。[それを聞くと、多くの人は]「『無常』というのは『アニッチャ』*1だから、まあ、いつもどおりのことか」という[反応をする]じゃないですか。[いちばんの問題は]、ここいらへんなんですよ。
 この『正法眼蔵随聞記』というのは、いわゆるの経典(スートラ)じゃなくて、道元禅師が日々にふれて話されたことを、懐奘さんというお弟子さんが書き留めた本なんですよ。だから、(中略)非常にドキュメンタリー的な[描写]で、いちばん生き生きとした会話を記録しているわけね。それはもう普段の会話だから、「こういう経典にこう書いてある」という[内容ではないし、また]、非常にアカデミカルな内容とも違うわけですよ。そうなんだけれども、これを非常につまらなく読もうと思ったら、それもできるわけ。[つまらない読み方というのは、どういう読み方かというと、例えば]「世間の無常」という言葉が出てくるじゃないですか。[『無常』は、パーリ語で]「アニッチャ」じゃないですか。そうすると「ああ、はいはい、『無常』ね」と言って、「もう分かった気になっちゃう」のね(笑)。そして、「アニッチャ? ああ、もう知ってる知ってる。長老からの話でさんざん聞いたから」とか[いう反応に]なっちゃって。だけど、[問題なのは]まさにそこなのね。

 「無常」という言葉は仏教にとっていちばん基本の言葉――イロハのイ――じゃないですか。イロハのイなんだけども、この「無常」という言葉を聞いて「『アニッチャ』でしょう? はいはい、分かった分かった」となったらば、もうそれで終わり[=つまずいた]なんだよ、という話なんですよ……ここでは。今日話してきたこともみんなそうであって、「アニッチャ」と聞いてすぐ「分かったような気になる」のは、まさにあなたが、結局はthinking mindの世界から出てないということ。養老孟司さん的に言えば、「情報」と「情報化」のうちの「情報」のほう――なまの現実ではなくて、パッケージ化された情報のほう。なまの現実をパッケージ化して、きれいに整えられた情報としての仏教の「無常」――[を勉強しただけだ、ということになる]。そうであるかぎり、それは、本当の「なまの現実」にぶつかっていないということなんですよ(中略)。

 だから、「無常」――すべてのものが変化していくこと――というのはたしかに「アニッチャ・ドゥッカ・アナッター」*2で、仏教の三法印のいちばん基本的な教えの一つで、それはそのとおりであって、それは確かに仏教というもののパッケージのなかに存在しているんだけども、だけどその「無常」というものがパッケージ化される以前の生々しい現実があるわけね。それで、この道元禅師が仰っているのは、「無常」というパッケージ化される前の、この生々しい現実のほうの無常を観じなきゃだめなんだよという話なんですよ。いいですか?
 [そうであるにもかかわらず、]仏教をほんのちょっとだけ勉強した人間[の関心]はすぐに、この生々しい現実の無常ではなくて「仏教の三法印の一つとしてのアニッチャ」のほうになっちゃうわけね。ということは結局、パッケージ化された情報のなかにまた戻ってしまって、この生々しい現実からは遠ざかってしまうということなんですよ。そこいらへんのことを次のように仰っているの。

(中略)

此の事は亦只仮令の観法なんどにすべきことにあらず。亦無きことをつくりて思ふべきことにもあらず。真実に現前の道理なり。人のおしへ、聖教の文、証道の理を待つべからず。朝に生じて夕ふべに死し、昨日みし人今日はなきこと、眼に遮ぎり耳にちかし。是は他のうへにて見聞することなり。我が身にひきあてて道理を思ふに、たとひ七旬八旬に命を期すべくとも、終に死ぬべき道理に依て死す。其の間の憂へ楽しみ、恩愛怨敵等を思ひとげばいかにでもすごしてん。只仏道を信じて涅槃の真楽を求むべし。況や年長大せる人、半ばに過ぬる人は、余年幾く計りなれば学道ゆるくすべきや。此の道理も猶のびたる事なり。真実には、今日今時こそかくのごとく世間の事をも仏道の事をも思へ、(…)
(『正法眼蔵随聞記』第二の一四)

 ……この引用文の最後のほう[で述べられていること]は、もう「なまな現実」ね……「無常」というのは、仏教の三法印の一つ[というだけの意味]なんかじゃなくて、「いま、目の前でどんどん人が死んでいくじゃないか。そして、この私自身だって、いつ死ぬか分からないじゃないか」……それはもう、生々しい現実じゃないですか。その生々しい現実とは別に、パッケージ化された情報のほうの「無常」のほうに[関心が]行ってしまう[場合もある]。例えばそこで[本来とるべき態度は]、「仮令の観法」……「何か非常に人工的に『ああ、これが無常でーす』とかいうふうに見ること」[ではないし]、 あるいは「亦無きことをつくりて思ふべきことにもあらず」……「目の前の生々しい無常ではなくて、生々しさを除けたところで何か人工的にむりやり作って『ああ、これが無常ですね』なんていうことでもない」。(中略)あるいは、聖教の文、証道の理を待つべからず」……「『どこかの経典にこういうことが書いてありましたよ』とか『○○○という理由で、無常なんですよ』とかいうことじゃないんだよ」という話なんですよ。つまり、「どこかの経典に、こういうことが書いてありましたよ」とか、「仏教の理論としては、無常というのはこういうことですよ」というのはあくまでも、パッケージ化された情報のなかでの話なんですよ。それに対して、この引用文で道元禅師が仰っている無常というのは、もっと生々しい、なまな現実のなかでの無常を言っているわけね。この「生々しい現実」というのは、人がどんどん死んでいってしまうこと。そして自分のこの肉体も、いつどうなるか分からないということ。(中略)結局、問題は……なまな現実のほうに戻らなきゃいけないということ……なまな現実のなかでの無常を観じるということなんですよ。

 今日の『正法眼蔵随聞記』のポイントは……道元禅師の頃ですら、何百人・何千人いる人のなかでも本当に仏道が分かった人はほんの少ししか居なくて。なぜそうなの? といったらば、「志がやっぱり、ちゃんとしていないからなんだ」、志をもつにはどうしたらいいの? といったら、「志をもつには、無常を本当に思わなければいけない・観じなければいけない」。ここでまた分かれ目があって、[分かれ目の一方は、]無常というものを単なる「仏教の三法印の一つ」・「仏教の教学の一つ」としてとらえてしまうこと。あるいは、「○○の経典のなかに、こう書いてありました」とか「○○○という理由によって、無常なんですよ」とか(中略)……そういうとらえ方ですね。そういうのは全部、パッケージ化された情報の世界の話であって、生々しい現実ではないということね。道元禅師が仰る「志をもつこと。そのために無常を観じなきゃいけない」ということにおける無常というのは、そんなパッケージ化された無常ではなくて、生々しい現実としての無常なんですよ。だから、今日の内田先生の話(1 of 2を参照)とまったくシンクロしてくると思いますけども。

(中略)

 人間というのは中途半端に頭がいいと、情報処理が非常にうまくなってくるわけですよ。そうなってくると、いつの間にか、「情報処理がすべて」になっちゃうのね。そして、「その情報処理のなかに、仏教もある」・「情報処理のなかに、仏教瞑想もある」・「無常」といっても、単なる「仏教の三法印の一つにすぎない」・「どこかの経典のなかに、こう書いてあります」・「○○○という理由で無常なんです」とか[いう類の理解に]なってしまう。そうであるかぎりは、ぜんぜんどうしようもなくて。だから、本当の意味での現実に触れなきゃいけないという話ですね。

 パッケージ化された情報を処理するのがうまい人というのは、そのパッケージ化された情報について沢山の知識があって、それをまあ巧く処理するんだけども、それは決して「なまの現実」に触れてないということじゃないですか。だけど、我々というのは「なまの現実」なんですよ(笑)……人間としては。人間としては「なまの現実」で――結局ここに根本的な矛盾があって――、なまの人間としての私[=本人]が、なまの現実に触れていない。それでいつの間にか、パッケージ化された仏教の知識のなかに閉じこもっちゃっている。だから、何ひとつとして起こらない。何かが起こるというのは、なまの現実のなかで起こることだから。だから、何かリトリートとかいう人工的なところで何か人工的な瞑想をやれば、その間はなんとなく結果が出ているようにみえるんだけれども、実は本当の意味では結果が出ていないというのは、リトリートが終わった時点ではっきりしちゃうわけじゃないですか……リトリートが終わって、なまの現実に戻ったときに、何ひとつ変わってない自分というものを発見して。なぜそうなのか? といったらば結局、なまの現実のところで勝負をしてないからだという話になるわけね。

 今日の内田先生のブログ道元禅師も、まったく同じことを言っていて……つまり「なまの現実」に触れたときに、自分のthinking mindではどうしても分かりようもない何かがそこで生じてきて、どうしていいかが分かる。そして、それをするためには……内田先生はそれを「特殊な能力」と言われていて(1 of 2を参照)、道元禅師はまあ「志」とか「得道」とかそういうオーソドックスな仏教の言葉を使われているけども。(中略)それを磨くためには、なまの現実に触れ続けなきゃいけない。そして、それを阻害するようなことは「やりたくないこととして、やらない」というね。それが、わがままとは正反対の生き方であって、それをすることによってその「特殊な能力」をずっと保ち続ける。ということは、仏教の文脈で言うと、「志を持ち続けて、そうすることによって道、ダルマを得る」という、そういう話になってきますね。

(以下略、終わり)

*1:「アニッチャ」は、パーリ語で「無常」のこと。

*2:「アニッチャ・ドゥッカ・アナッター」は、それぞれパーリ語で「無常・苦・無我」のこと。