『〈仏教3.0〉を哲学する』第一章の読書ノートとコメント

f:id:logues:20161105130541j:plain:w300:left 藤田一照永井均山下良道の3氏による共著『〈仏教3.0〉を哲学する』(春秋社、2016年)の第一章の読書ノートとコメントです。読み進むにつれて随時加筆していきます(最新の更新は2016/11/20)。この本の目次や、著者による内容紹介、関連情報などはこちらをご参照ください。

この記事の目次

鼎談の前に

本書の出版の3年前にあたる2013年に出版された藤田氏と山下氏の共著『アップデートする仏教』(幻冬舎、2013年)では、藤田氏と山下氏が出家から約30年の間に経験した仏教のあり方を〈仏教1.0〉および〈仏教2.0〉の二つに分類し、そのどちらとも違う仏教のあり方、両氏が構想し形を与えようとしている仏教のあり方を〈仏教3.0〉と仮に呼ぶことにしたという。〈仏教1.0〉と〈仏教2.0〉はそれぞれに問題があるという立場に立って、仏教の教義や実践を根本的に見直そうという藤田氏・山下氏の立場を同書ではとりあえず〈仏教3.0〉と呼ぶことにしたが、藤田氏によれば、同書ではまだ〈仏教3.0〉を素描したにとどまり、それを行として血肉化し立体化する道筋は明確になっていなかった(本書i〜vii頁)。
一方、永井氏は坐禅や瞑想をかなり以前から実践しており、藤田氏・山下氏の〈仏教3.0〉論に関心を持っていたという。藤田氏も、かなり前から永井氏の哲学するスタンスに非常な魅力を感じており、永井氏の展開している哲学を仏教にぶつければ、「平板で平凡な形に凝り固まった仏教を面白く揺さぶってくれるのではないかという漠とした予感」を持っていた(i〜vii頁)。
本書に結実した鼎談は、この3氏による「〈仏教3.0〉を哲学する」鼎談であり、いずれの回も〈仏教3.0〉の特徴が浮き彫りになるような特定のテーマが取り上げられ、それをめぐって〈仏教3.0〉と永井氏の哲学を突き合わせるという形で話が進められた(i〜vii頁)。

第一章 瞑想について――〈仏教3.0〉をめぐって

はじめに(4-10頁)

「マインドフルネス/サティ/気づきというものと山下氏の言う『青空』とが結合するのが〈仏教3.0〉である、結合を主張しているのが〈仏教3.0〉である」というのが、第一章の冒頭の時点での永井氏の〈仏教3.0〉に関する「大雑把な理解」である。3.0において「結合」されているこの2つのものが、仏教1.0と2.0においては分かれており、それが3.0において初めて繋がったことは非常に画期的というか本来に還ったと言っていいのではないかと永井氏は述べている(8頁)。

〈仏教3.0〉、〈仏教2.0〉、〈仏教1.0〉(10-20頁)

山下氏が11頁で「当たり前の前提」と呼んでいるものが「世界観」のことであろうが、山下氏によれば、〈仏教1.0〉、〈仏教2.0〉、〈仏教3.0〉という分類は、各々の世界観の相違に基づいてなされた分類であるという(11-12頁)。山下氏は〈仏教1.0〉の物足りなさと〈仏教2.0〉に感じる違和感に応対する過程で、〈仏教2.0〉の世界観が山下氏や日本人の世界観とは違っていることに気づいた(13-15頁)。

山下氏によれば、日本人にとっては「自己」という言葉が非常に重たいものとしてあり、それは「嘘の自分」と「本来の自己」という対比になっている。テーラワーダ仏教の国々(その国々は〈仏教2.0〉の『本場』とほぼ同義であろう)には、それがない。それらの国には、日本人の想定する前述のような「自己」という考え方が無い(13-15頁)。無いということを当人らが意識することすらないほどの「当たり前の前提」となっているので、「無いですよ」という説明が言葉でなされること自体が起こらない(11頁)。〈仏教2.0〉のヴィパッサナーのインストラクションは、そのような彼らの世界観(当たり前の前提)の下で作られたものである(15頁)。

山下氏によれば、〈仏教2.0〉のヴィパッサナーのインストラクションには、「誰が瞑想するのか?」という「瞑想の主体」に関する説明は無い。「誰が気づくのか」、「誰がマインドフルになるのか」という発想は〈仏教2.0〉のなかには無い(16頁)。つまり、「誰が瞑想するのか?」という問いを問うか否かという点に、〈仏教2.0〉とそれ以外(3.0および1.0)の一つの大きな相違があると言えよう。

「瞑想する主体」のことを山下氏は野球の投手に喩えており、〈仏教2.0〉には「投手」が一人しか居ないという(16頁)。この付近は山下氏の説明がやや端折られていて分かりにくい感があるが、要するに〈仏教2.0〉が想定している唯一の主体というのは18頁にあるような「思考と肉体が組み合わさったもの」のみなのであり、その世界観の人間がその世界観の下で出来た瞑想インストラクション(〈仏教2.0〉のインストラクション)たる「呼吸に気づきなさい」といったような指示を受けたら、その「思考と肉体が組み合わさったものとしての私」が呼吸に気づくのが瞑想であると当人は解釈してしまわざるを得ない(18頁)、ということであろう。

この「思考と肉体が組み合わさったものとしての私」は、仏教の「無我」や「非我」という教義で錯覚として否定されているもの(18頁)だから、それを瞑想の主体として設定することは教義との矛盾を来たすわけであろう。(そのような「私」が瞑想を試みても瞑想は成立しないという実際的な問題も勿論あろうが、そのことはこの付近のページでは述べられていない)。「無我」や「非我」で否定されたものではない「何か」を、前述の投手の喩えを用いて山下氏は「リリーフ投手」と呼び、それがそのまま「本来の自己」であるとしている。このような「リリーフ投手」は〈仏教2.0〉では想定されていない(19頁)。

山下氏は、ヴィパッサナーやマインドフルネスという現象が起こるのはあくまでも「青空としてのわたし」や永井氏の〈私〉=「比類なき私」だから起こるのであるが、その状態を概念的に整理するための理論(〈仏教2.0〉の教義のことであろう)に不備があったために、〈仏教2.0〉はその状態を上手く説明しきれていないと考えている(19-20頁)。上手く説明できないのは前述のような世界観の限定性によるものだと山下氏は述べており(19頁)、これはつまり瞑想の主体=リリーフ投手を想定しないという限定性を指しているのであろう。

山下氏は、テーラワーダの伝統だけではサティやマインドフルネスというものは開明できないと考えており、「マインドフルネス=サティ」というものの本当の意味は、テーラワーダと東アジアの大乗仏教の双方の伝統を深く学んで初めて分かるのではないかと考えている。〈仏教3.0〉になって初めて、ブッダが本当に意味したサティが明らかになるのではないか、と山下氏は述べる(16-18頁)。*1

「有心のマインドフルネス」と「無心のマインドフルネス」(20-26頁)

藤田氏は、アメリカの仏教は〈仏教2.0〉的なものが主流であり、そこでは瞑想の主体としては「普段の私」しか想定されていないと述べる(21頁)。その事例として藤田氏は、アメリカの瞑想センターで受けた「修行とは何か」に関する説明を22頁に挙げている。いわく、「心というのは子犬のようなもので、呼吸のところに集中しなさいと命令しても、落ち着きがないからすぐあっちこっちに行っちゃう。だから修行というのは、じっとしていないで動き回る子犬を、所定の位置から離れたら、摘まんできてそこへ置き直して、『ステイ(ここにいなさい)』と命令する。(中略)こうやって辛抱強く調教するようなものだ」という。この「子犬」と「子犬に命令する者」との関係性はこの付近のページでは明言されていないが、いずれにしろその両方が「普段の私」であるならば、〈仏教2.0〉の文脈においてそれは「思考と肉体が組み合わさったもの」であることになるのだろう。

藤田氏は、そのような(子犬を調教するような)修行観は仏教の目指すものであるのかという疑問を抱いた。アメリカの人たちが多くやっているのは、ある枠の中で瞑想テクニックに習熟する修行であって、それは道元が言うところの「習禅」であり、『六祖壇経』が批判した修行のあり方であると藤田氏は考えている(22-24頁)。藤田氏は、やや後続の92-93頁でも、瞑想のメソッドを一生懸命にできたかできないかということを見ている「私」が残ってしまうという例がアメリカでは少なくないと述べている。ただし全員がそうなるわけでもないという。

修行者が熱心であっても、それは必ずしも仏教的にOKということでもないという視点を藤田氏は禅から得ており、「どっちを向いて何が主体で熱心にやっているか」(修行の方向性と主体の問題)ということが大事であると藤田氏は考えてきた(24頁)。

藤田氏は、〈仏教1.0〉と〈仏教2.0〉と〈仏教3.0〉のそれぞれを「マインドフルネス」と関係づけた場合に、それぞれのマインドフルネスがどのような成り立ちであるか、という観点から、〈仏教2.0〉を「有心のマインドフルネス」、〈仏教3.0〉を「無心のマインドフルネス」であるとしている。藤田氏によれば〈仏教1.0〉はこの観点においては「無心」のみで終わっている(25頁)。これは、〈仏教1.0〉にはマインドフルネスはないという解釈なのであろう。(では「無心」とは何なのか、という議論は、やや後の43-49頁で述べられる)。

25頁の記述からすると藤田氏は、マインドフルネスというのは「無心」に至るための道筋であると考えていることが分かる。つまり道筋を持っているのは〈仏教2.0〉と〈仏教3.0〉であり、その2つは、道筋たるマインドフルネスを有心で行うか無心で行うかという差異がある。〈仏教1.0〉は道筋の到着点たる「無心」を説くのみであり道筋を持たない。27頁の記述から、山下氏もそれと同様の認識であることが分かる。山下氏は同頁で、〈仏教2.0〉は「私」というかなり問題のある主体がマインドフルネス(あるいは瞑想)を実践するので〈仏教2.0〉は「有心のマインドフルネス」になってしまうと述べ、それは本当のマインドフルネスと言えるのかと疑問を呈し、〈仏教3.0〉は〈仏教2.0〉と〈仏教1.0〉の問題を乗り越えた「無心のマインドフルネス」になると述べる。

「有心のマインドフルネス」に問題があるからといって、単なる「無心」(〈仏教1.0〉)に戻るのでは駄目な理由は、iv頁や13頁、28頁に記述がある。だから〈仏教1.0〉と〈仏教2.0〉を乗り越えたものとしての〈仏教3.0〉の必要性が導かれるということであろう。

「子犬=私」の瞑想と「子犬≠私」の瞑想(27-31頁)

「無心」を英語に直訳すればmindlessまたはno-mind(心が無い)になる。マインドフルネス(mindfulness)の文字通りの意味は「心がいっぱい」(26頁)。だから「無心のマインドフルネス」を英語に直訳するとmindless mindfulnessとなり、「からっぽな満タン」のような形容矛盾になってしまう。27頁で山下氏がティク・ナット・ハンの"Be mindful!"(気づきなさい)という教えに最初に触れた頃(1990年頃か)に違和感をもった事情はこのことに関係しているだろう。「無心」を説く大乗仏教からすると、「無心」と「気づき」は矛盾する組み合わせではないのか、というのが、「曹洞宗の中で純粋培養されて育った禅僧」としての当時の山下氏の最初の反応だった(27-28頁)のであり、当時の自身は〈仏教1.0〉であったと山下氏は自己評価している(27頁)。これは「〈仏教1.0〉にマインドフルネスはない」という先述の評価と一致する。

「無心」と「マインドフルネス」が互いに対立するかのように見えるというこの問題について永井氏は、「マインドフルなのに無心」と言う場合にはその「無心」の「心」と「マインド」は違う意味であると述べている(32頁)。両者が違う意味なら、たしかに形容矛盾にならないし、両者が対立しない可能性が開かれる。この「無心」において「無い」と言われるその「心」とは何であるか、という論述は、やや後の43-49頁で述べられる。

ティク・ナット・ハンの著作との出会いから5年くらい後(1995年頃か)には、オウム事件の影響もあり山下氏は「無心」のほうに違和感を覚え始めた。のちに、「無心」と対立しているかに見えた「マインドフルネス」の本拠地(ミャンマーの瞑想道場であろう)へ修行しに行ったが、そこで山下氏が見たものは「有心のマインドフルネス」であった(28頁)。それはつまり藤田氏の言う子犬を調教するような修行のあり方(22頁)なのであるが、「子犬」がじっと瞑想対象に向かって動かないでいるのが瞑想の目標であるとか仏教の目標であるとしたなら、それが意味するのは「自分は『子犬』だ」ということであると山下氏は述べる(28-29頁)。

山下氏は、「落ち着きがあろうが、なかろうが、子犬は子犬ではないですか」と述べ、「子犬が瞑想をする」のは「無理な話」だし「夢のない話」であるとしている(28-29頁)。この「子犬」はテーラワーダの想定している主体たる「思考と肉体の組み合わさったもの(18頁)」を指すのであろう。この付近のページではそれは明言されていないが、「子犬」がつまり「落ち着きのない普段の私」を指す(18,22頁)のである以上、それはテーラワーダの文脈では「思考と肉体が組み合わさったもの」であると位置づけざるを得まい。

山下氏は、「子犬が瞑想をする」という構図には最初から根底に何か矛盾があると述べ、「私とは何か?」の答えが「子犬」しかない文化圏(文化圏というのは、ここでは世界観と同義であろう)においてはこの矛盾が深く追求されなかったのではないかと考えている(29頁)。山下氏が同頁で「道元門下」と呼んでいる文化圏は日本を含む大乗仏教の根付いた文化圏のことであろう。そこでは、「私とは何か?」の答えをこのような意味での子犬であるとは考えない世界観(13-15頁)が存在している。そこで育つと、「落ち着きのない子犬を調教して落ち着きのある子犬にするのが修行である」という修行観に違和感を抱くのは当然のことであると山下氏は述べる(29頁)。

藤田氏は、「呼吸を観察してください」と言われた時に大事なのは「どういうふうにそのインストラクションを受け止めて、どういう態度でそれをやるか」であると述べ、「有心のマインドフルネス」では「観察する私」と「観察する呼吸」に距離があり、そこに断絶や分離があるとしている(29-30頁)。それが30頁および22頁の「調教モデル」、つまり子犬を一箇所に居させるように強制する仕方であろう。そういう「二元的」な観察でない観察の仕方の喩えとして藤田氏は、広いグラウンドに子犬を放しておいて子犬が自発的に静かになるようにするという喩えや、子犬が動き回ってもはみ出ることのない広い空間を作るという喩えを述べる(30-31頁)。このような観察の仕方ならば、観察する私と観察される対象との間にギャップができないのではないかと藤田氏は考えているようである(31頁)。

藤田氏のそのような「子犬を放しておく」・「広い空間を作る」という表現にみられる余裕は、藤田氏が自身を「子犬」ではないと前提しているから生まれている余裕であると山下氏は述べる。山下氏によれば、藤田氏が「子犬」から離れて自身を見ることができるということは、藤田氏がすでに「青空」の場所に立っているということであるという(31頁)。

「無我」と本質と実存(32-43頁)

永井氏は32-35頁において、自身の哲学に基づけば「無我」はどのような意味であると理解すべきかについての概要を述べる。永井氏によれば、「無我」という概念において「無い」と言われているのは「実体」ではなく「本質」であると理解するのが「哲学上のポイントとしては的を射ている」という。「私には本質がない」というのが永井氏がここで主張したいことであり、かつ仏教的なことでもありうるという。「本質」は西洋哲学の伝統的な概念としては「実存」(ただ存在すること)と対立しており、永井氏は「私には本質はないんだけれども、何があるかというと、実存だけがあるんだ」と述べる。なぜそう言えるのか、という説明は後述のように35-39頁などで述べられる。

35頁半ばから38頁冒頭までの部分にあるのは、「私には本質がなく、実存だけがある」ということの認識論的な説明。いわく、たとえ人間が複数いる場合であっても、その中の誰が自分(自己、私)であるかを識別する際には、「本質」(性質や属性)を使って識別することはできず、〈ただ直接的に実存しているこいつ〉が居るという事実によって識別している。起こること(出来事や経験を指すのであろう)は全て、そのような〈ただ実存しているだけで特定の誰かであることがないような私〉において起こるのであり、そういう意味では「私は、ただ実存しているだけで、(中略)それが全て」である(37頁)。この部分の補足になりそうな記述が、永井氏と香山リカ氏の対談「ヴィパッサナー瞑想を哲学する」に収録されているので、下記に引用しておく。この対談は、香山リカマインドフルネス最前線』(サンガ、2015年)に所収されているが、ここでは初出本の「サンガジャパン Vol.17」(サンガ、2014年)の138-140頁から引用する。下線部は原文では傍点付き。

永井 僕は、「私とは何か」っていう問題をずっと考えていて、瞑想と関係する限りで簡単に説明すると、「私」には二種類の意味があるんですよ。一つは、まず、他の人々からさまざまな特徴によって区別された永井均という人がいて、人々は彼を永井さんとか均ちゃんとか呼ぶけど、自分で呼ぶ場合には、言語規則に従って「私」と呼び、「私」ととらえる、ということです。永井均という人は、他の人から顔かたちのような身体的特徴とか、思想内容や来歴といった、その人に固有の特徴によって区別されていますが、(中略)誰でもふつう「私」というものをそういうふうにとらえていますよね。他の人とは違ってこういう境遇にあって、こういう問題を抱えていて、こういう心理状態にあって、……そういう者が私だ、と。で、これは事柄の一面ではあるけれど、ある意味では誤解であり、もっと強くいえば錯覚なんです。
 実は、そうしたこととは全く無関係に、私は私をとらえることができる。というか、そんなこととは無関係にしかとらえられない。私が私を他の人々から識別するときに、今言ったようなさまざまな特徴を使って識別するなんてことは絶対にしません。したくたって、できません。そもそも他のものから識別することによって自分をとらえる、なんてこと自体をしません。なぜなら、他のものなんてないので。十人の人間がいて、それぞれの識別的特徴が、足首が痒い人、膝がくすぐったい人、お尻が痛い人、……というようなことだったとして、私は足首が痒かったとしても、私が、私とは足首が痒い人なのだ、ととらえるなんてことはありえない。なぜなら、そんな対比は実在しないからです。そもそも感じられる感覚はそれしかないからで、足首が痒かろうが、お尻が痛かろうが、何かが感じられれば、それは必ず私です。そういう識別の仕方しかできないんです。識別するための特徴なんてないのです。
 それがあるように見えるのは、言語というものが後から作り出した錯覚です。つまり、実際にはこの目しか見えないし、この身体しか痛くも痒くもないし、こいつの心理状態しかわからないし、こいつの記憶していることしか思い出せない。そういうことの集まりが私なのであって、結局のところ、私がどういう記憶を持っているかとか、何を考えているかとか、どんな問題に直面しているかとか、そういった内容的な事柄は、じつは私の存在とは無関係なわけです。そうした中身とは一切無関係に、私は存在していて、したがって、そうした中身とは一切無関係にしか私は私をとらえられない。そうすると、思考の中身とか、記憶の内容とか、そういうものとは無関係な私が存在することになります。というか、実はそれしか存在しない
 〈私〉と言いましたが、この意味での〈私〉は、実は〈世界〉と区別がつきません。オリオン座も白亜紀も、実はこの視覚にしか映らず、この思いにしか登場しないのだから〈私〉の一部だし、逆に、私が今感じているこの痒みもこの悲しみも、そのまま世界の痒みであり世界の悲しみです。そうでなくなるのは、後にパーソン、つまり人称という言語的装置が導入されて、他者との対等な対比という虚構が成立して、全く異質の世界像が構築されて、そっちが現実だとみなされるようになった後の話なんです。そうなると、最初に言ったような、永井均さんという人が持っている固有の性質や条件がすなわち私を構成する、という新奇な世界像が生まれて、〈私〉はそっちに乗っ取られていきます。

この引用文で「特徴」、「中身」、「内容」などと呼ばれているのが、永井氏が32頁以降で言うところの「本質」であろう。

次に38頁4行目から39頁冒頭までにあるのは、「私には本質がなく、実存だけがある」ということの存在論的な説明。いわく、「本質」(性質、属性)において自分と全く同じ人(コピー、複製)が作られたとしても、だからといってその人が私になるわけではない。つまり、私が存在するということは、ある特定の本質、特定の性質、特定の内容を持った人が存在しているということではなくて、そういう内容(本質、性質、属性)とは全く関係なく、なぜか端的に感じられる、端的に〈これ〉である生き物が一つだけあるということ。

このような認識論的な説明と存在論的な説明を承けて、永井氏は「私であるということは、その人の中身と関係なく、なぜかそいつが端的に私であるだけです。(中略)私はその成立において端的に無我なんです。本質がなく、もちろん実体もありません。『何であるか』がないのです」と述べる(39頁)。これは「私とは何か?」という問いに対する永井氏の答えを概要的に示したものと見ることができよう(答えの全体とは言えないと思うし、後述するように説明が簡素でもある)。また、この「無我」はもちろん35-39頁に述べられている認識論的・存在論的な思考に基づいて永井氏が規定した「無我」であるから、仏教の教義における「無我」と同義ではない。そして永井氏が同じくこの35-39頁で「本質がなく、実体がなく、実存だけがある」としている〈私〉というのはテーラワーダ(18頁)大乗仏教が教義で想定している「主体」そのものを指しているわけでは勿論ない。仏教や〈仏教3.0〉と永井氏の哲学を突き合わせること(vi頁)の最初の事例がこれである。

39頁半ばから40頁までは、人間が複数居る場合であっても、「現に私であるというきわめて特殊なあり方」をしたやつが一人だけ居るという特殊性(これが114頁や117頁で言われる独在性であろう)がなぜ・どのように成り立っているのかという問題を研究する方法(普通の意味での学問的な方法のことであろう)は無く、研究もなされていないと述べられる。脳や神経に関する科学的知見も説明たり得ない(39頁)。

永井氏は坐禅や瞑想を長く実践してきたそうであるが(vi頁)、永井氏によれば、それらを実践する際に捨てなければならないとされる「雑念」や「煩悩」というのは、32-39頁で言うところの「本質」や「内容」にあたるのであり、永井氏はそういうものは自分ではないと昔から思っていたから簡単に捨てられるという。それで残ったものが32-39頁で言うところの「実存」であり、永井氏はそれにすぐに「なれちゃう」という(41頁)。永井氏が、32-39頁のように自身の思考に基づいて規定した「無我」(私には本質がなく実存だけがあるということ)を「仏教的なことでもありうる」(32-35頁)と述べることができるのは、このように永井氏自身の仏教瞑想や坐禅の実践経験と結びついているからであろう。ここで永井氏の言う「雑念」や「煩悩」をヴィパッサナーの観察対象という意味に取れば、それらは「本質」にあたるものだから〈私〉の成立には関係がない(35-39頁)と述べられていることになる。

この32-39頁の辺りの〈私〉に関する議論は、本書の参考文献に挙げられている永井氏の『存在と時間――哲学探求1』(文藝春秋、2016年)や『哲おじさんと学くん』(日本経済新聞出版社、2014年)に比べるとかなり簡素な論述になっていると思う。永井氏も277頁で、哲学的議論の精確な理解のためには本書のみに頼るなと述べているので、この参考文献は併読したほうがよいと思う。

このことを踏まえて永井氏は、山下氏の言う「私の本質は青空だ」という命題は「私にはただ実存だけがあって本質はない」と言い換えられるとしている(41頁)。たしかに本書以前の山下氏は「私には実存だけがある」とか「青空には実存だけがある」という主張をしてはいなかったと思う。だから「私の本質は青空だ」という命題は、私の「本質」を語る本質論として受け取られるのもやむを得ない言葉遣いだっただろう。だからそれが仏教の教説の「無我」と正面衝突しているように見えるのではないか。しかし山下氏の言うところの「本質は青空だ」というのが「実存しかないのだ」という意味であるなら、ここで永井氏が行った言い換えは成り立つように思われるし、「本質や実体がなくて実存だけがある(39頁)」のなら仏教の教説の「無我」と矛盾しない可能性が開かれるのではないか。

ここまでのページでは永井氏は「私には中身(本質、性質、属性など)がない」と述べてきていたが42頁では若干変わり、「中身はあることはあるんだけど、関係ない」・「中身が関係ないやつが一人だけいる」・「内容はただの作り物というか付属品でたいしたものじゃない」とも述べている。中身が「ない」と言い切ったほうが説明としてクリアになるのは確かだが、「全くない」とは言い切れず、ただし有っても〈私〉の成立には関係ない、ということなのだろう。

藤田氏は永井氏のこの説明を受けて、上述のように実存との対比において「本質」にカテゴライズされるものとしての「煩悩」や「悩み」を実存と区別して切り離すという哲学的な思惟のワーク(思考の整理)を、坐禅や瞑想の実践をする前に予めやっておけば、坐禅や瞑想に楽に入れるはずであると述べている。八正道の最初にある正見と正思というのは、坐禅に相応する形に思惟をスッキリ整理することを指しているのではないかと藤田氏は考えている(42-43頁)。

前反省的自己意識について(43-49頁)

永井氏によれば、「本質」的な自分(内容的な自分)をとらえる時には自己自身を反省的自己意識によってとらえる。「反省」というのは自己自身を「何であるか?」ととらえること*2。反省的自己意識は、世界というものを志向的に構成する。これに対して、前反省的自己意識(非反省的自己意識)で自己自身をとらえるときには、実存としての自分をとらえることができる。実存している自己というものを直接的に把握するのが前反省的自己意識。前反省的自己意識は志向性を止めて、〈ここにあるこれだけ〉という方へ、端的に存在しているだけの私の方へ連れ戻す(44-46頁)。

山下氏は著書などで「映画」というメタファーをよく用いる。このメタファーが何を指しているのか、という説明は、本書なら48頁にあるが、あまり詳細な説明にはなっていない。「映画」というメタファーについての詳しい説明は、山下氏の著書なら例えば『本当の自分とつながる瞑想入門』(筑摩書房、2015年)の40-53頁に載っており、要するに頭の中で過去を思い出したり未来を思い描いたりすることを、映写機がスクリーンに映像を映し出すことになぞらえて「映画」と喩えたものである。山下氏によれば、このような「映画」は、それがまるで現実そのものであるかのように感情を揺さぶる力がある。この「映画」は、たいていは人に怖れや不安を抱かせるものであり、我々は同じストーリーの「映画」を自分で繰り返し「再上映」している(同書41頁)。山下氏によれば、このような「映画」には特徴が3つある。1つめは、「映画」が我々の現実の行動に影響することによって行動の仕方が変わり、それによって本人の現実の立場や状態が変わること。2つめは、「映画」は勝手に「暴走」し、他人や自分自身を傷つけること。一定の時間が過ぎても「映画」の上映が終わらずエンドレスに続いていくこともある。3つめは、我々の見る(上映する)「映画」はその大半がネガティブなものであり、たとえポジティブな「映画」を見ることができてもそれはいつの間にかネガティブな「映画」にすり替わること(同書43-53頁)。山下氏は、このような「映画」は我々の心が作り出した幻想に過ぎないとしている(同書41頁)。山下氏の言う「映画」の性質や事例などについては、予め『本当の自分と〜』などで読んでおいたほうが、自分のこととして身に迫って理解できると思う。

永井氏によれば、山下氏の言う「映画」という比喩が指すのは、44-46頁で上述のように述べられている反省的自己意識が「志向的に構成したもの」に該当するという。永井氏によれば、そのような「映画」からの出方には2種類あり、その1つめはカントの『実践理性批判』で言われるごとく人間が自由意志によって道徳法則にしたがうこと。これは慈悲の瞑想の有効性と関係するという。もう1つは、実存に戻ることによって映画の外に出ること。こちらは道徳と関係がない。永井氏は後者の出方のほうが本質的な出方だと思うと述べている(45頁)。

前反省的自己意識という名前にある「前」というのは、反省的自己意識が働く前という意味。反省的自己意識が働くことで「映画」が始まるので、反省的自己意識が働く前にそれをとらえるのがヴィパッサナーであると永井氏は位置付けているようである(46頁)。本書より半年前に出版された永井氏の著書『存在と時間――哲学探求1』の102-103頁では、よりはっきりと次のように述べられている(ただしこの引用文の文脈が本書の文脈と厳密に一致しているわけではない可能性があることには留意すべきである。なお、引用文の下線付きの部分は原文では傍点付き。2段落目の末尾は原文では「なる」となっている版があるが、これは「ある」の誤字。3段落目は原文では注である。冒頭に出てくる「香山リカ氏との対談」は、香山リカ『マインドフルネス最前線』に所収されている)。

 私は香山リカ氏との対談「ヴィパッサナー瞑想を哲学する」で上座部仏教ヴィパッサナー瞑想について論じたが、ここまでの叙述との連関でいえば、前反省的自己意識の視点から反省的自己意識のはたらきを把握するのが、ヴィパッサナー瞑想の本質であることになる。呼吸や体の感覚や意味のない音のような明らかに前反省的な(「私」の統一を作り出すはたらきと関係ない)意識の存在に気づいて、そこに身を置くことが前反省的自己意識の水準に立つことの訓練になる。この視点から、実在的連関を構成してしまった後の、あるいはいま構成しつつある(ふつうなら反省的にしか気づけない)心的状態に、前反省的な水準から(実在的連関を構成する構成作用をはたらかせずに)気づくのが、ヴィパッサナー瞑想における「気づき(サティ、マインドフルネス)」の真の意味であることになる。
 この場合、この「前反省的な水準」を、サルトルのように単に反省意識がはたらく以前の意識のあり方と取るか、私のように実在的意味連関とは独立の現実的実存と取るか、その違いこそが決定的である。先ほど九五頁の注で、第一基準のポイントは、それが感じるとか聞こえるといった感覚であることにあるのではなく、中身の如何にかかわらず「あくまでも現実性にある」と言ったが、この区別の観点から言うと、「気づき(サティ)」の本質は、中身の如何にかかわらず、ただ現実に存在していること(すなわち実存)に気づくことにあることになる。
(中略)
 ✽ ただし、実在的意味連関と独立の現実的実在(「私」の統一が作り出される以前の〈私〉の現存在)が問題である以上、仏教の「無我」ヒンドゥー教の「真我」がともにこの同じ事態を(別の観点から)指していることは明白であろう。

永井氏によれば、前反省的自己意識を「無心」であるという言い方ができるという(46頁)。とすれば、その「無心」において「無い」とされるものは、上述の引用文の文脈でいえば「実在的連関を構成する構成作用」や反省的自己意識の働き(あるいはその存在そのもの)であることになる。それが無い(働かせない)ことを「無心」と呼ぶことができるという意味で「前反省的自己意識を無心と呼べる」と永井氏は46頁で述べているのだと思われる。また、このような意味での「無心」における気づき(サティ、マインドフルネス)は「実在的連関を構成する構成作用」とは独立に働くことができるということになる。「マインドフルなのに無心」(32頁)と言うときの「無」が否定している「心」とはそういう意味であることになる。そしてこの文脈において「有心」とは、「無心」と反対にそれらが有ることを指すことになる。「有心のマインドフルネス」の意味も、ここから概ね明らかであろう*3

上述のような意味で「無心」と呼び得る内実を備えたマインドフルネスならば、たとえテーラワーダのメソッドによるマインドフルネスであっても、論理的にはこの「無心のマインドフルネス」に該当することになる。19-20頁に述べられている〈仏教2.0〉の理論の不備が何であるかという問題は、このような「無心」との関係から顧みることが可能だろう。

山下氏は、「映画」を作ることだけでなく「映画」をリアルな現実だと信じ込むことまで含めて問題視している。「映画」を作ることと、その「映画」をリアルだと信じ込むことの両方を併せたものが「実在的連関を構成すること」であるというのが山下氏の考えである(48,55頁。山下氏がここで言う「実在的連関を構成」というのは上述の引用文中の同じフレーズを指したものであることが47頁と『存在と時間――哲学探求1』の102-106頁付近から推測できる)*4。山下氏によれば、「映画=リアルな現実」という図式(映画をリアルだと信じ込むこと)は錯誤であって、その錯誤(思い込み)から出ることが前反省的自己意識なのであり、「映画」の非リアル性を観ることが「気づき」であるという(48頁)。

山下氏によれば、そういう「気づき」の対象とすべきは映画の内容物よりも、映画のリアル性を信じてしまう自分の心の動き(84頁)だという。永井氏も上述の引用文の文脈では、「実在的連関を構成してしまった後の、あるいはいま構成しつつある(中略)心的状態に(中略)気づく」のがヴィパッサナー瞑想における「気づき(サティ、マインドフルネス)」の真の意味であることになると述べている。この「信じてしまう自分の心」は反省的自己意識をも指すだろうか。46頁や上述の引用文における永井氏の叙述に則れば、指すことになるだろう。「リアルだと信じる」という働きは、反省的自己意識の「反省」つまり本質をとらえること(43頁)によるものであろうと思われるからである。

山下氏が上述のように48頁や84頁で言うところの「気づき」は、永井氏が46頁で「無心」と言っている前反省的自己意識による気づき(あるいはそれにおける気づき)だということなのだから、それを「無心のマインドフルネス」(20-31頁)と呼ぶことが可能であるし、「有心のマインドフルネス」と区別するうえではそう呼ばなければならないだろう。瞑想の主体として「普段の私」しか想定しない「有心のマインドフルネス」(〈仏教2.0〉のマインドフルネス)のときには、その「普段の私」を起ち上げる反省的自己意識が働いているのであろうから、そうであればその時には「映画」も起ち上がっているので、そもそも「映画」が始まる前にそれをとらえるという前反省的自己意識(永井氏によればそれが『無心』でありヴィパッサナー)や、「映画=リアルな現実」という図式の錯誤性に気づくという前反省的自己意識(山下氏によればそれが『気づき』)は十全には機能しない、もしくはまったく機能しない、ということなのであろう。

永井氏はヴィパッサナーを、46頁や上述の引用文にあるように「反省的自己意識が働く前に(あるいは働きつつある時に)、前反省的自己意識がそれをとらえること」と位置付けているようだが、ヴィパッサナーの実践者たる山下氏もその位置付けを否定せず、48頁にあるように「映画」からの脱却が行われる際の態様の説明に「反省的自己意識のはたらく前」としての前反省的自己意識を用いているのだから、山下氏のヴィパッサナー瞑想経験からみても永井氏によるヴィパッサナーの位置付け(46頁)が的を射ていると山下氏が評価していることがここからうかがわれる。ただし「働きつつある時に」というのは上述の引用文に書いてあることであり、本書に書いてあるのは「働く前に」のみである。

46-48頁の記述を、引用文も含めてまとめておく。前反省的自己意識の水準から、反省的自己意識のはたらきを、実在的連関を構成する構成作用(山下氏の言う『映画』を作る作用)をはたらかせずに把握する(気づく)のが、ヴィパッサナー瞑想における「気づき(サティ、マインドフルネス)」の真の意味であるというのが永井氏の位置付けである。永井氏によれば、この前反省的自己意識を「無心」と呼ぶことができる。山下氏・藤田氏も、この位置付けに異議を唱えている様子はない。従って、「ヴィパッサナーとは何か?」・「無心とは何か?」・「無心のマインドフルネスとは何か?」(20-31頁)という問題に対するこの3氏の回答は、哲学的な言葉遣いとしてはこのような内容となっていると見てよいのではないか。そして、このようなヴィパッサナーを行う主体とは何か、という論点が、これ以降の47-95頁の中心テーマである。また、このような哲学的な位置付けを、「神」という「伝統的形象」と関係づけて宗教的な言葉遣いに翻案したような表現が47頁(後述)に引用されている。

46頁では、前反省的自己意識がとらえる対象は「実存としての自己」のみしか書かれていないが、質疑応答(90頁)では永井氏が「本質もまたただ実存する」とか、実存はすべてをただ映す場として実存するといってもいい、と述べているから、前反省的自己意識がとらえる対象には、「実存している本質」というか「実存としての本質」も含まれるのかもしれない。山下氏も同頁で、実存だけがあって同時に意識がある、という言い方をしており、それは前反省的自己意識または実存の「とらえる/映す」はたらきを肯定したものと読むことができよう。ちなみに、ここに「映す」という「映画」の比喩と似た動詞が出てくるのは面白い。

なお、永井氏が46頁までに述べてきた意味での〈私〉(本質がなく実体がなく実存だけがあり(32-39頁)成立するためには『中身』は関係がなく(39頁)、反省的自己意識ではなく前反省的自己意識でとらえる(46頁)、といったような意味の〈私〉)の存在を「神の顕現の場」と考えて、その意味での〈私〉は「神と世界の接点」であるとする議論が、やはり永井氏の『存在と時間――哲学探求1』の105-106頁に載っており、ヴィパッサナー瞑想とも関係しているので、やや長いが下記に引用しておく。文中の「〈私〉の唯一性」というのが、39頁の「一人だけ現に私であるというきわめて特殊なあり方をしたやつがいる」ということを指しているようである(46頁)。この引用文の後半部分は本書の47頁にも引用されている。

 中田考「お返事有難うございます。今の〈私〉と過去の〈私〉、そして有り得ざるべき「〈私〉たち」との間に有り得ざるべきコミュニケーションが成立しているとすれば、唯一の〈私〉の神は「〈私〉たち」とそれらの「世界」の唯一の神でもなければならないのではないでしょうか。」
 永井均「なるほど。「有り得ざるべき」ことが(なのに)現に有るということが発条(ばね)になって「世界」の唯一の神になるわけですね。それは(私には)よく理解できる道筋ではあります。」
 中田「はい。〈私〉の唯一性という奇跡が神の唯一性の証明であり、〈私〉の唯一性とは神の唯一性の顕現に他ならず、〈私〉は神と世界の接点であり、それゆえ世界開闢の場となるのだと思っております。」
 永井「むしろ、こちらが先ですね? 次に「有り得ざるべきコミュニケーション」が成立しているので〈私〉たちとそれらの「世界」の唯一の神にもなるという順番。よく理解できますが(私などが心配しても仕方ないけど)この二つに神概念が分裂してしまわないかが心配です。」
 中田「この二つの神を一つと見做す(信ずる)のが、アブラハム的(啓示的)一神教の信仰の精髄かと思います。」
 永井「ああ、そこで信仰が成立するのですか! ひじょうによく分かりました。」
 ここには色々な問題が含まれているが(中略)今回は当面必要な点だけ確認しておこう。すなわち、中田氏の言われる「〈私〉の唯一性とは神の唯一性の顕現に他ならず、〈私〉は神と世界の接点であり、……」という点である。中田氏が最後に提示する「アブラハム的」な、つまり事象内容を持った「信仰」を度外視するなら、これは私がここで論じてきた現実性という存在論的事実を「神」という伝統的形象を使って表現した発言であることになる。そう取ることができるならば、先に述べた仏教的な気づき(サティ)が成立する場とアブラハム一神教における神の顕現の場とは一致する。ヴィパッサナーとは、この神の顕現の場に立って人工的加工によって神が隠されている場を観ることである、ということになる。仏教・ヒンドゥー教アブラハム一神教もその根源は同一であることになるだろう。

ちなみにこの「人工的加工によって〜」は「普段は人工的加工によって神が隠されている」という意味(『〈仏教3.0〉を哲学する』47-48頁)。山下氏はこの「人工的加工」を、「実在的連関を構成すること(映画を作ってそれをリアルだと信じ込むこと)」の一部あるいはそれと同義と考えているようである(48頁)。永井氏による「人工的加工」の説明は44-45頁の記述を指しているようであり(48頁)、要約すればそれは「反省的自己意識が世界を志向的に構成すること」を意味しているようである。

この引用文に出てくる〈私〉の唯一性というのは、歎異抄の中の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」の「一人」と関係していたりしないだろうか、などと思ったのだが、どうだろう。この引用文で言われるような「神」を阿弥陀仏と呼んでよければ、「サティ」が成立する場(前反省的自己意識の水準)が阿弥陀仏の「顕現の場」であることになる。ただ「一人」の〈私〉としての親鸞は、「よくよく案じ」てそのことを理解した、という可能性はないだろうか。なお、この引用文の内容は第二章の「自己ぎりの自己」同士が繋がるという論点とも関係があると思うので、そちらにも引用してある。ヴィパッサナーの行われる場所が「神の顕現の場」であるというこの議論をカトリックの祈りや念仏などと関係づけた記述は63-65頁にもある。

瞑想の主体とはなにか(49-59頁)

山下氏は、自身が過去の著作などで用いてきた「ピーカンの青空」という喩えを今回の永井氏の議論と繋げるとより正確に深く理解して貰えるのでその線で説明すると述べる(52-53頁)。山下氏によれば、普通の世界観において「気づく」というのは、複数居る人間のうちの一人としての「私」が他の人や物事に気づく(観察する)ことを指す。この形式(仕組み)は、テーラワーダの瞑想においても同じである。テーラワーダの瞑想においては「気づきの対象」が細かくなっているけれども、「私が対象を見ている」という形式は同じである(53頁)。山下氏は、テーラワーダの瞑想メソッドの最終段階では、

部屋がエンプティー(空)になるんですよ。誰もいなくなる。その時、山下良道もいなくなるんですよ。山下良道もいなくなるし、皆さんもいなくなる。そういうエンプティーな部屋が出現します。これは瞑想メソッドの階段を登っていって、最終段階として、誰にでも経験できます。

と述べる。「山下良道もいなくなる」というのは、上述の「普通の世界観」において対象に気づく主体としての「私」がいなくなるということであり、「皆さんもいなくなる」というのは、「瞑想者(山下)の気づく対象がなくなる」ということであろう。山下氏によればこの時、この「空なる部屋」そのものは見えるといい、それは当たり前であるという(54頁)。その理由を山下氏は、

さっきの永井さん的に言えば、本質が消えて、人工的加工が消えて、空なる実存だけが見えてきたということですね。なぜそんなものが見えてしまうのかというと、このというのは百分の一の私ではないから。そして、いま私だけ僧衣姿で変な格好をしていますけど、私が変な格好をしているとかは一切関係なくして、というのは、そういう私を超えた存在なのですね。

と述べる(54頁)。この引用文中には2種類の“私”が出てきているが、原文では表記で区別されていないので、下線の有無で区別を示しておく。下線の無い“私”が、上述の「普通の世界観」において対象に気づく「私」である。「百分の一の私」というのは、人間が百人居る場合の、そのうちの一人としての「私」であることを指している。それらの「私」とは別の「主体」が、下線の有るほうの“私”であるということになろう。

山下氏によれば、このことが意味するのは、「瞑想の主体というものは、百分の一の山下良道ではなかったということ」であるという。瞑想の「正当な主体」は「百分の一の私」ではないという意味であろう。山下氏によれば、瞑想の主体がそのような「私」ではないということが、瞑想メソッドの最終段階になって初めて成り立つのではなくて、瞑想メソッドの最初の段階から成り立つのであるという。瞑想の主体が瞑想メソッドの最終段階で変わったわけではなく、瞑想メソッドの最終段階において瞑想の主体(瞑想の、正当な主体)が「初めて正体を現わした」ということなのであるという(54頁)。

54頁の後ろから二行目の「その空間」というのはどこのことを指しているのか原文では必ずしも明らかでないが、これは、瞑想の正当な主体は「百分の一の私」ではないということを理解したうえで瞑想している状態(かつ瞑想メソッドの最終段階未満)のことを指しているのであろう。山下氏によれば、その空間のなかでも「百分の一の私」は存在しており、その空間のなかの「良いもの、悪いもの」に対する好き嫌いという煩悩が自然と起こってくるが、とはいえその時には“私”(瞑想の主体、あるいは自己)は「その空間そのもの」だから、それらの煩悩は「もういまは関係ない」のだという。ここで言われる「好き嫌いという煩悩」が起こることが、永井氏の言う「実在的連関を構成」ということにあたるのであり、それは山下氏の言葉では「映画の世界が出現した」ということにあたると山下氏は考えているようである。山下氏は、「そういう映画が構成される前に、その部屋が完全にエンプティーになっている時に、私の『実存』が現れてくるということです」と述べる(54-55頁)。

山下氏の言う「青空としてのわたし」は、修行の果てに獲得したり到達するものではなく、修行しようがしまいが実際に最初から在ると山下氏は考えているようである(55頁)。「青空としてのわたし」と対立するのが上述の「百分の一の私」であろう。自分を「百分の一の私」であると思うことは誤解であり、その誤解(錯覚)をしている時には「青空としてのわたし」は見えないという(55頁)。ヴィパッサナーや坐禅がうまくいかない根本原因はこの誤解にあると山下氏は考えている(55-56頁)。生きるのが苦しいのも、誤解に基づいているからであるという(55頁)。

山下氏は56頁において「世界観が変わる」という表現を用いている。これは上述のように“私”という言葉の意味が「百分の一の私」から「青空としての私」(永井氏の言い方で言えば本質がなく実存だけがある〈私〉)へと転換することを指しているのであろう。山下氏によれば、世界観が変わらなければ「そもそも瞑想にはならない」し、世界観さえ変われば、後はどんな瞑想テクニックを使ってもかまわないという。山下氏によれば、この「世界観が変わる」ということは〈仏教2.0〉のインストラクションの中では語られないという(57頁, 13-16頁)。

藤田氏によれば、坐禅の基本的手引書と言われている道元の『普勧坐禅儀』の最初にある「たずぬるにそれ、道本円通、争か修証を仮らん」の「たずぬるにそれ」という書き出しが、山下氏の言うような「世界観」や「前提」に関わっているという。この「たずぬるにそれ、道本円通」というのは「そもそもの原点に返ってみれば、全てがまどかに完全にそなわっていて、何の妨げもなく道が自在に流通している」という意味であり、それが坐禅の前提であると藤田氏は考えているようである(57頁)。このような前提は、「我々の現状には欠けているものがあるから、それを補うために修行する」という常識的な前提とは違う(57頁)。常識的な前提で坐禅をすると常識的なことしか見えないので、その時には、「道本円通」は単なるおとぎ話になってしまっているのではないかと藤田氏は考えている(58頁)。

山下氏は「道本円通」の意味を、前述の「エンプティーな部屋」と結びつけて次のように述べる(58頁)。

普勧坐禅儀の一番最初にある「道本円通」というのはどういう意味かというと、道というのはもともと完璧であるということですね。それは当たり前ですよね。私というのは、百分の一の私ではなくて、このエンプティーな部屋そのものなんだ。だから完璧であり、どこにでも通じている。それを「道本円通」と表現したわけです。

山下氏によれば、〈仏教1.0〉と〈仏教3.0〉は世界観は同じであり、〈仏教1.0〉がこれまで主張してきたことは世界観としては正しいという。「道本円通」という言葉もその一例であろう。ただし、〈仏教1.0〉にはその正しさを実感する方法がなかった。これまで言葉としてはあったけれども実感できなかったことを、〈仏教3.0〉でようやく実感できるようになったという(58-59頁)。

仏教をアップデートするために(59-65頁)

59頁で永井氏は、「私が言っていることは、通常は独我論的にとらえられるわけです」と述べる。この「私が言っていること」というのは、〈私〉に関する永井氏の哲学のことを指すのであろう。だから、本書のここまでの頁で永井氏によって述べられた内容もそこにほぼ含まれる。それが「通常は独我論的に」受容されているという意味であろう。永井氏によれば、普通は、独我論は無我論(これは仏教の教義に基づく無我論であろう)とは正反対の考え方だと理解されているという。だからその理解に従えば、そもそも「独我論の一例」と世人に見なされている永井氏の哲学は無我論と対立するものだと位置づけられるので、無我論の立場からすれば、永井氏の主張してきたような「独我論的な世界解釈」こそが否定されなければならないものとなる。仏教に詳しい宮崎哲弥氏が、いったん「比類なき私」を大事なものとして提示しておいて、その「比類なき私」をさらに否定するのが仏教のすごいところであるという趣旨の主張を『知的唯仏論』(サンガ、2012年)などで行っているのも。*5、そのような「無我論の立場で独我論を否定する」という論述の例であると永井氏は解釈しているようである(59-60頁)。

永井氏自身による自論の位置づけは、「独我論は無我論と対立する」というものではない。59頁半ばで永井氏は「私は(中略)独我論と無我論は同じものだと思っていますけど、これは特殊な解釈なんで」と述べる。この「特殊な解釈」というのは、「独我論は無我論と同じものだ」というこの命題に出てくる「独我論」と「無我論」の各々が「特殊な解釈」を施されているという意味であろう。つまり、前者は「現に私であるというきわめて特殊なあり方をしたやつが一人だけ居るということ」を独我論と呼ぶという「特殊な解釈」であり、後者は、「本質がなく実体がなく実存だけがある」というあり方を無我と呼ぶという「特殊な解釈」である。このような意味での独我論と無我論とが「同じことだ」というのが、永井氏による自論の位置づけであろう(59頁)。つまり普通の意味での「独我論」と「無我論」の意味内容を、永井氏の哲学によって「永井流の意味」に置き換えたうえで、両者が「同じことだ」と永井氏は位置づけているわけであろう*6。永井氏によれば、永井氏の言う意味での「比類なき私」(これは〈私〉のことであろう)と、仏教の無我は同じことであるから、永井氏の言う意味での「比類なき私」を否定するプロセスは不要であるという。これを宮崎氏の主張と対照させると、ある意味では真逆になるので、山下氏・藤田氏がこれに賛同してしまってよいのか、と永井氏は問う(60頁)。仏教者が賛同してかまわないのか、という趣旨であろう。

ちなみに、60頁で永井氏が「私の意味での『比類なき私』と、仏教の無我は同じことなんだ」と述べているが、この文に出てきている「無我」はやはり、意味を永井流に置き換えられた「無我」だから、「永井の言う意味での『仏教の無我』」と読むべきだろう。

永井氏のこの問いかけに対して、山下氏は賛同を示す(60頁)。山下氏は「無我」の意味を「百分の一の山下良道というのはいない、中身は空っぽ」というふうに解釈しているといい、その意味で無我である「エンプティーになった部屋」そのものが「青空としてのわたし」であるというふうに思っているという。永井氏の言う「比類なき私」は、山下氏の言葉では「青空としてのわたし」であるという。山下氏によれば、「だから、まったく構造的には永井さんと同じ」であるという。「青空としてのわたし」というときの「わたし」は、このような意味で無我である「比類なき私」であると山下氏は考えているようである。山下氏は、それを仏教の「我」と一緒にしてもらっては困ると述べる(60頁)。上述の永井氏の言い方(59頁)になぞらえて言えば、「『青空としてのわたし』と仏教の無我は同じことなんだ」という言い方も可能だろう。このときの「わたし」が特殊な意味であることを読み取れないと、それが「我のようなもの」と受け取られてしまうということであろう。

藤田氏は、永井氏による「私」と〈私〉の厳密な区別という観点を仏教に入れたら、仏教がもっと立体的になるとか「飛躍的にアップデートする」のではないかと考えてきたという。藤田氏は永井氏の上述の問いかけに対してここで率直な回答を返しているようには読めないが、「永井さんが仏教の方に近寄って来てくれてとても嬉しい」と述べている(61-62頁)。

藤田氏は、内山興正の言う「自己ぎりの自己」や「今ぎりの今」は「比類なき私」や「比類なき今」と意味的にかなり近いものであり、内山興正の目線はそういうところにあったから永井氏と内山興正は相当近いところに来ていると考えているという。永井氏も「私もそう思います」とそれに同意している(63頁)。

「慈悲の瞑想」について(66-81頁)

66-67頁の内容は、この節よりも次の節(81-87頁)との関係が深いので、後述する。

永井氏は、慈悲の瞑想以外の瞑想は「言語を捨てて」おこなうのに対して、慈悲の瞑想だけは言語を用いておこなうということに注目し、慈悲の瞑想は「言語をいわば逆用するというか、わざと使って、通常のあり方と違う方向に持っていくために逆用して、自他をあえてひっくり返すみたいに、そういう言葉遣い」でおこなうと述べ、このやり方は「使えるのは間違いない」と述べる(68-69頁)。

そのうえで永井氏は、慈悲の瞑想に対する藤田氏と山下氏の認識の違いが『アップデートする仏教』の149-152頁付近に見られると述べる。永井氏はその箇所から、「瞑想、坐禅とは何をするものなのか」ということについて藤田氏と山下氏には「根本的に違うもの」があるはずであるという読解を得ているようである(68-70頁)。永井氏はその違いについて、藤田氏と山下氏に訊ねている(70頁)。なお、山下氏による「慈悲の瞑想」の解説は『本当の自分とつながる瞑想入門』の145-158頁などが詳しい。

この問いに応えて山下氏は、心理学の分析対象になるような抽象的な「心」ではなく、「もっと生々しい我々のこの『心』」をダイレクトに何とかしたいという思いがあると述べる(71頁)。山下氏によれば、慈悲の瞑想は「ある意味非常に人工的」だが「非常に効果がある」という(72頁)。効果があるというのは、71頁で言われるような「心を何とかしたい」という改善を達成するのに効果があるということであろう。山下氏によれば、〈仏教1.0〉は「そこに全然手をつけない」という。これは、〈仏教1.0〉では修行者自身の「生々しい心」を改善しようという取り組みは行われない、というような意味であろう。山下氏によれば、この「肝腎なところ」に手を付けないで只管打坐といっても、最後になって自分自身の心によってしっぺ返しをくらっちゃうというところがあるという(72-73頁)。山下氏は、慈悲の瞑想のような具体的なテクニックを〈仏教3.0〉の文脈の中で使っているという(75頁)。藤田氏も、〈仏教1.0〉がその「肝腎なところ」に手をつけないという山下氏の指摘には同意し(72頁)、長く修行していても個人的な問題がノータッチで人間として何も成長していない例があることを認めている(73頁)。慈悲の瞑想に効果があることも、藤田氏は否定しない(72頁)。藤田氏は、我々が他人や自分を傷つけたりするような感情の波風をそのまま放っておいてよいとは考えていないが、慈悲の瞑想のような仕方とは別のアプローチの仕方があるのではないかと考えている(72頁)。この問題についての藤田氏の基本的な態度は、心の状態は「お天気」みたいなものであり、それは刻々に変わるものだから、こちらで何とかしようとするよりも、自然に変わるのを待っている、というものである(71頁)。山下氏のようにメソッドとして慈悲の瞑想のようなことをわざわざやるのは「ちょっと手を出し過ぎじゃないかな」と藤田氏は述べている(71頁)。藤田氏は、個人的な問題にタッチするために、慈悲の瞑想のような方法でない別の形を見つけたいと述べる(74頁)。

山下氏は、ヴィパッサナーが成り立つ場所(気づきの場所)が「慈悲の場所」でもあると述べる。山下氏によれば、その場所を探り当てるためのポインターとして慈悲を用いることができるという。慈悲と気づきの両方がある「正しい場所」に立って初めて、本当に心から慈悲の言葉を言えるという。そのときの慈悲の言葉は、人工的でもなく嘘くさくもなく偽善にも聞こえないという(76-77頁)。

山下氏は、瞑想あるいは仏教を「薬」や「医療」としてとらえている(79頁)。山下氏の過去の著書でもこの比喩は何度も用いられており、それが何に対する「薬・医療」かといえば、例えば『アップデートする仏教』28-29頁では「思い中毒」(思いに対する中毒)を指し、『青空としてのわたし』(幻冬舎、2014年)の18-29頁では「心の悩みや苦しみ」を指すようである。藤田氏は、そのような「病気を治す」というニュアンスの喩えは殆ど使わないという(77頁)。永井氏はこのような山下氏・藤田氏各々の認識に対して次のような疑問を提示している(77-78頁)。まず、(1)坐禅や瞑想が「病気を治すもの」であるとすれば、瞑想でない治療方法がもしも存在すればそちらを用いてもよいことになるのではないか。次に、(2)坐禅や瞑想以外の「治療方法」があろうとなかろうと、坐禅や瞑想にはそれ自体に価値があるのだということであるならば、その場合の坐禅・瞑想は「治療」のためのものではないことになる。では、そのときの坐禅や瞑想は、何をやっていることになるのか。

藤田氏はまず (2)の「治療のためのものではないことになるのではないか?」という点に応えて「(坐禅や瞑想は)何かを目指してやるものではない」としている(77頁)。同じく (2)の「治療のためでないとしたら、何をしていることになるのか?」という点に応えて藤田氏は、「ぶっちゃけて言うと、坐禅は無為、つまり何もしてないってことになります。人間的にはまったく意味がない」としている(77-78頁)。藤田氏は病気と健康を対立的には見ないと述べ、病気は健康に至るための過程の一部であると見ているという。この意味で藤田氏は、病気はあってもよいと考えているようである(78頁)。この位置づけにおいて藤田氏は、坐禅や瞑想(あるいは仏教)を東洋医学医食同源における食事(毎日摂る食べ物が薬になるということ)になぞらえているようである(77-78頁)。藤田氏はその意味で「食べたいものを食べていたら、知らないうちに治っちゃったという治り方」の方が良いと考えているように読める(78頁)。藤田氏は「薬で治すのではない」とも述べている(78頁)。

対して山下氏は、「我々はやはり病気だから」と述べ、「このあたりの現実認識が(藤田氏とは)やはり違うのかなあ」と述べている(79頁)。山下氏は、上述のような意味での「病気」の症状が出ることの根本原因は「世界観の間違い」であると考えているようであり(80頁)、山下氏の最終目的は「病気」を治すことではなくて、「正しい世界観」のもとで生きていくことであるという(80頁)。山下氏は、坐禅や瞑想は「治療」を終えた後の生活において再び「病気」にならないようにするためにも用いるべきだと考えているようであり(79-80頁)、その意味で藤田氏の言う「毎日の食事」としても機能すると山下氏は考えているようである。従って、ここまでのページを読む限りでは、先述の永井氏による2つの疑問のうち(1)に対しては山下氏は「他の治療方法でもよいか否か」という点に対しては回答していない。同じく(2)に対しては山下氏は、「治療方法でないものとしての坐禅・瞑想に価値があるかないか」という点については「病気予防」としての価値があると回答していることになり(79-80頁)、「治療方法でないものとしての坐禅・瞑想は、何をしていることになるのか」という点についてもやはり「病気予防である」と回答していることなる(79-80頁)。

だから、病気治療でもなく病気予防でもないもの(目的をもたないもの)としての坐禅や瞑想が何をしていることになるのか、という問いにここで率直に答えているのは藤田氏のみであろう。いわく、「坐禅は無為、つまり何もしてないってことになります」(77-78頁)。この答えは、「山下氏の言う意味での『正しい世界観』が成立していることそのものは、何をしていることになるのか?」という問いの答えとしても成り立つのではないか。「正しい世界観」という呼び方は「間違った世界観」との比較でそう呼ばれているのだから、「正しい世界観」と「それ以外」との比較をやめたときには、「正しい」という形容が外れて、ニュートラルな「ただそれだけのもの」になるはずだからである。それが、本質をもたない「実存」としてのあり方なのであるということなのかもしれない。そもそも「何をしているのか?」という問いは「本質」を問う問いなのだろうから、実存が本質をもたないならば、実存そのものがこれに回答することはありえまい。

なお、マインドフルネスを「無心に至る道筋」であるとする位置づけ(25-27頁)や、マインドフルネスを「映画を信じ込む放逸状態から脱する方法」であるとする位置づけ(66-67頁)に照らしてみると、坐禅や瞑想を「治療のための方法」としてとらえる考え方のほうが、これらの位置づけに対しては親和的であると思う。これはつまり、坐禅や瞑想そのものと、マインドフルネスとの違いに対応しているのだろう。

「小乗的」か「大乗的」か(81-87頁)

山下氏の言う「映画」を見てそれを信じ込んでいる状態を永井氏は66頁で放逸状態と呼ぶ。永井氏はマインドフルネスを、その放逸状態から脱する方法であると位置づけ、ブッダはその意味でのマインドフルネス(映画から脱する方法)を編み出したと永井氏は考えているようである(66頁)。永井氏は、〈仏教2.0〉がこのマインドフルネスを継承したとし、また〈仏教1.0〉は「本来は(映画を)脱している」とだけ言うと述べ、この〈仏教2.0〉と〈仏教1.0〉を結合するのが〈仏教3.0〉であると位置づける(66-67頁)。この位置づけに藤田氏も同意し、「(映画を)本来脱しているという立場から、映画から脱する方法を提案するという結合の仕方」であると述べる(67頁)。山下氏も同様の認識であろう。

藤田氏は、ブッダ自身には「隠れた形で3.0の萌芽があった」と考えており、「僕らは信仰としてはそう思っている」という(67頁)。「僕ら」というのは藤田氏と山下氏のことであろう。「出発点」は3.0にあったけれども、時代を経るに従って、立場的に1.0になったり2.0になったりしたのであり、3.0に還そうとする人もでてきたというのが仏教の歴史であったと藤田氏は考えている(67頁)。

永井氏は67-68頁で、〈仏教2.0〉と〈仏教1.0〉が上述のように分かれてしまうことは当然なのではないか、と述べる。「分かれるのが当然」と言える理由は、まず〈仏教1.0〉ならば「青空」に本当になってしまえば「雲」(気づくべき対象)がなくなるのでヴィパッサナーやサティが不要(気づきの方向が不要)になり、「青空になりきるだけでよい」となってしまうから。〈仏教2.0〉ならば、「雲」(気づきの対象)に気づくだけでその周りに「輪郭だけの青空」ができ、それだけでも意味はあるから。だから、〈仏教1.0〉と〈仏教2.0〉が合体(結合)することは「本来のあり方」ではあるかもしれないけれど大変なんじゃないか(難しいのではないか)と永井氏は述べる(67-68頁)。この「〈仏教1.0〉と〈仏教2.0〉が分かれるのは当然である」とか「結合させるのは難しいのではないか」というのは、81頁によれば永井氏自身の考えではなくて、「『分かれるのが当然だ』とか『結合は難しい』と考える人がいてもおかしくない」という意味。

「雲」と「青空」の位置関係について山下氏は、〈仏教2.0〉と〈仏教3.0〉では両者の位置関係が違うと述べ、これを受けて永井氏は、「青空」から「雲」を見るのは〈仏教3.0〉であり、〈仏教2.0〉的には「中に入っちゃっているから『雲』は見えない。それをあえて(引用者注:「あえて」に傍点)頑張って見ることによって、見るということは輪郭を作るということなので、『雲』の周りが『青空』になるってことですよね。そういうことをちまちまやっていくっていうのが、2.0的なやり方だと思うんですよね」と位置づけている。

この「中に入っちゃっている」というのは、瞑想において「気づき」を行う主体(あるいは「気づき」がなされる位置)が、山下氏の言う意味での「映画」の中に入ってしまっているという意味であろうと思う。「映画」の内部においては、そこに在るものを「このような形の雲がある」と見て取る視点(それは雲の外にしかないだろう)が確保されないので、「『雲』は見えない」(82頁)という意味なのであろう。それは、飛行機が雲の中に入って視界が真っ白になったときに、その雲の輪郭が見えないのと類比的な状態のことを指しているのだろう。それは「雲の中で雲を見る(見ようとする)」というような事態であろう。それに対して〈仏教3.0〉は「『青空』から『雲』を見る」(82頁)というわけだが、永井氏は43頁以降において、山下氏の言う意味での「映画」は反省的自己意識が志向的に構成したものであり、「反省的自己意識が働く前」としての前反省的自己意識の水準から反省的自己意識の働きを把握するのがヴィパッサナーの本質であるとしているから、この「反省的自己意識が働く前」というのは「映画」の外を意味することになり、それはすなわち「雲」の外でもあることになる。「『青空』から『雲』を見るのは〈仏教3.0〉」(82頁)というのは、哲学的にはそういう意味であろう。

永井氏は、上述のように1.0と2.0にはそれぞれの固有の価値があると言う人もいるだろうから、3.0が重要であることの理由が説明されなければならないと述べる(82頁)。

藤田氏は、「雲」に相当する観察対象を「出ちゃいけないもの」としてモグラ叩きのモグラのように扱うのは2.0的であると考えているようである(82頁)。その一方で藤田氏は、3.0的なあり方においては「モグラ」はいずれ勝手に引っ込むので、「私が叩いて引っ込めた」という実感は無いとしている(82頁)。藤田氏によれば、仏教には「空観」が2つあり、その1つは、諸法をその構成要素に分析してその一つ一つを空じていく「析空観」で、もう1つは、一挙に空と直観する「体空観」であるという。藤田氏によれば、3.0は体空観的であり、大乗の空観も体空観であるという(83頁)。藤田氏は、一つ一つの観察対象を「しらみつぶし」に観ていくことを「2.0的」または析空観と考えているようであり、「しらみつぶしではなく一挙に」観ていくことを「3.0的」または体空観的と考えているようである(83頁)。藤田氏は、体空観でも「個々のものをよく観る」ということはやるけれども、マインドフルネスにも「析空観的マインドフルネス」と「大乗的マインドフルネス」があるのではないかと考えている(83頁)。

山下氏は、「映画」の中の一つ一つのものに「しらみつぶし」に気づく必要はないが、「映画」をリアルだと思い込んでしまう自分の心の動きの一つ一つにはちゃんと気づいていかなければならないとしている。そのような自分の心の動きを観ていなければ、「青空」は抽象的なものにとどまるという。「映画」に騙されている自分自身の心を無視して、いきなり「全てが青空だ」としたのが1.0の落ちた罠であったと山下氏は考えている。「映画」の非リアル性に気づけば 、その時にはすでに「映画」の中の問題は無いという(84頁)。山下氏は、上述の「しらみつぶしか、それとも一挙か」という論点(82-83頁)について、その両者は「対立するのではなくて、同時ですね」と84頁で述べている。この「同時」の意味は原文ではあまり明確でないが、これはおそらく、「映画の外」という視点に立つことが「一挙」を指しており、「映画の外」から「映画の作られ方」を「しらみつぶしに観る」という意味で「しらみつぶしと一挙が同時」と山下氏は述べているのだと思われる。

藤田氏は85-87頁において、ゴリラを観察する生態学者が護身用の銃を持たずにゴリラに接近したことでゴリラの自然な振る舞いを観察できた事例になぞらえて、坐禅や瞑想において呼吸や感情や思考などを観察する際にも、「ゴリラに対する銃」に相当するものとしての「瞑想に取り組む態度の問題」があるのではないかと述べる。ゴリラをよく知り愛情を持ってゴリラに接しようとする生態学者のような態度が瞑想においても必要だと藤田氏は考えているようである。瞑想法のマニュアルには書いていない「根本のところでの取り組む態度」が非常に大事であり、そのような態度のあり方は、瞑想の実践によって起きてくる出来事の決定的な要因になると藤田氏は考えている。具体的な実践を云々する以前に、そこを問題にしないといけないと藤田氏は述べている。

◎質疑応答(88-95頁)

88-90頁に質問が2つある。1つめの質問の大意は「前反省的自己意識や青空には『気づく』はたらきがあるということだが、永井氏の言う実存としての〈私〉は『ただあるだけのもの』であって何者でもなく、そこには『気づく』といったようなはたらき(のようなもの)があってはならないように思われる。前者と後者のあり方に矛盾を感じる。前者と後者の関係はどうなっているのか」。ちなみにこの質問者は、〈私〉には内容的なものがあってはならないと考えているようだが、前述の42頁では永井氏は、〈私〉には内容的なものが全くないとはいえないという意味のことも述べている。

この質問に対して山下氏は、この質問者の言う「矛盾」というのは「無心」と「マインドフルネス」が互いに矛盾するように見えるという〈仏教1.0〉的な視座(これはアメリカ滞在時代の禅僧としての山下氏自身のマインドフルネス観とおそらく同じであろう)を意味していると解釈しているようである(89頁)。そして、

ところが、いま非常に不思議な光景が見えてきて、無心なんだけど、同時に気づいている。それは普通の意識からすると非常に矛盾するように聞こえるけれども、これは普通の意識について話しているわけじゃなくて、別の意識と言ったら変だけども、その話なんです。それを、普通の意識の観点から矛盾と言われても困る、ということしか答えようがないですね。

と89頁で述べている。「無心であり、かつ気づいている」というのは山下氏の実体験としてそうだったのであるという。そして、「無心であり、かつ気づいている」というのは我々において普段から成り立っていることであるという(89頁)。瞑想をしていない時でもそれが成り立っている、という意味であろう。

「ただ実存だけがある〈私〉」といっても、だからといってそこに他の何か(気づくはたらきのことであろう)があってはならぬということにはならない、と山下氏は90頁で述べる。山下氏は、

だって、もうすでに皆さんも実存だけがある。皆さんとしてもう存在していて、同時にはっきり意識があるじゃないですか。その意識は絶対に、百分の一の皆さんとして、残りの九十九の意識を認識しているわけではないです。それは絶対にないです。あり得ない。

と述べている(90頁)。「百分の一の皆さん」というのは、人間が百人居る場合の、そのうちの一人であるということを指していて、「残りの九十九」というのは、百人居る人間たちのうちの「自分以外の九十九人」という意味である。

山下氏のこの答えを承けて藤田氏は永井氏に「だから、この実存には映す働きがあると言ってもいいわけですか?」と問い、永井氏はこれに答えて、

もう単純に、何であってもいいんです。それらが実存する、ということですから。そうであるということがある。と付け加えれば全部肯定されます。本質もまたただ実存するということです。それらが「がある」という形で終わらせればいい。

と述べ(90頁。下線付きの部分は原文では傍点付き)、藤田氏の「基本的には、実存にはものを映す働き、あるいは気づく働きはある?」という問いに対して永井氏は、

そういうふうに実存するといってもいいです。すべてをただ映す場として。

と答えている(90頁)。この「本質もまたただ実存する」という永井氏の答えの補足になりそうな記述が、永井氏と香山リカ氏の対談に収録されているので、下記に引用しておく。この対談は、香山リカ『マインドフルネス最前線』に所収されているようだが、同書は手元にないので、初出本である「サンガジャパン Vol.17」の149-156頁から引用する。

永井 (引用者注:永井氏がヴィパッサナー瞑想から学んだのは)つまり、次々と起こってくる想念連鎖を、起こってくるままに、ただ気づいて、ただ観ていく。そのことで、いわばその働きを、つまりエモーティブな、人を動かす力を、自ずと取り去ることができる。画期的なのは、日常生活でもそれと同じことができるようになる、ということです。
(中略)
永井 ヨガも同じだと思うけど、呼吸に気づくというのは、身体感覚に気づく場合もそう思うけど、何がポイントかというと、結局、いつも実は存在しているけどふだんは決して気づかない、そういうものに気づく、あるいは、気づいても意味はない 、しかしたしかに存在はしている、そういうものに気づく、ということなんじゃないかと思うんですよ。そこから、意味のあるものの意味の連関を取り外して、ただそれが存在していることだけにむき出しで気づく、ということもできるようになるわけで。
 我々はいろんなものに気づいていて、たとえば、ここにこの本があると気づく、ゴミが落ちていると気づくとか(中略)。いろいろ気づくわけだけど、それはみんな意味がある。ゴミだったら、お客さんが来る前に拾わなきゃ、とかね。ふつうに気づくものって、全部、そういうふうに、なんらかの意味連関があって、その連関の中で気づくんですね。それに気づいたら、だからこうしなければならない、こうしたほうがいい、というつながりが必ずあって、つながりがあることにしか気づかない。あるいは、気づいたときには必ずつながりが作られて、行為連関、意味連関が構成されることになる。
 ヴィパッサナー瞑想で気づくということのポイントは、そうではなくて、たとえば息を吸っていることに気づくとすれば、それはもうそういう意味連関の中にはない、ただそういうことが起こっているというだけのことに気づく。そうやって、何か、そうした生活や人生の中での意味のあるつながりとは関係ない、そこには普通は入ってこないけど実際にはいつも存在している、そういうことに気づく。(中略)あえてそれに気づくことで、ふだんとは違った、ただ存在しているだけという側面に気づく、そういう力が養われるのだろうと思います。
(中略)
永井 ある意味ではいつも身体の感覚はあるはずだけど、ふつうそれに気づいてはいない。いつもずっとそれに気づいていられれば、ふつうの人生で意味のある事柄に気づいて、それに振り回されて生きる人生とは違う実存の次元が、開かれることになる。そうなれば、いつも頭の中で暴走している、感情をともなった想念の反復にかんしても、同じような扱い方ができるようになる、ということなんじゃないでしょうか。
(中略)
香山 身体に注意を向けるというのは、日常的な意味連関から解き放たれるためのプロセスの一つということなんですね。
永井 そうなんですけど、いちばん最初の話とつなげて、哲学的に考えると、それにはちょっと段階があるはずだと思うんです。
 質料形相論で説明するとわかりやすいと思うんですが。古代ギリシアアリストテレスからはじまってヨーロッパ中世哲学に受け継がれていく質料形相論というのがありますね。あらゆるものは、質料つまり素材と、それによって作られた形相つまり形から成り立っているという考えですけど、我々はふだんは形相のほうしか見ていないんですよ。質料なんかどうでもいいから。見ること、気づくことで、形相になってしまう、と言ってもいい。ものについてだけでなく、心についても、同じですね。感覚的な質料から、いろいろな心的な形相が作られているわけですが、我々はそもそも形相のほうしか認知していない。絵画の比喩でいうと、カンバスに塗られた絵の具のことなんか通り越して、描かれた風景とか人物とか、つまり描かれている絵の内容そのものを直接見てしまうわけです。絵の具なんてどうでもいいから。
 質料そのもの、素材そのもの、フッサール現象学では「実的」な成分というような言い方をしますけど、そっちのほうの感覚的な実質それ自体を直接にとらえることができると、意味ぬきで、ただそれがあるだけというところを、とらえることができるわけです。ところが、ただあるだけというところは、今度は、形相に対する質料ではなくて、本質に対する実存です。こちらは、やはりアリストテレスからはじまって中世哲学に伝えられた概念だとはいわれるけど、実はユダヤキリスト教系統のヘブライズムの考え方、あるいはむしろイスラム哲学に由来するものなんですね。「なんであるか」が「本質」であるのに対して、「ただある」のが「実存」です。
 それで、〈質料ー形相〉の対比と〈実存ー本質〉の対比、この二つの対比がどういう関係にあるのか、ということが西洋古典哲学の最も重要な問題で、実をいえば現代哲学でさえ、たとえばクオリアの逆転の問題とか哲学的ゾンビの可能性の問題とか、結局はその問題の哲学的な反復なんです。で、私が思うには、瞑想にも、というか煎じ詰めれば仏教にも、ということですけど、その問題が隠れていると思うんです。つまり、最初は身体感覚のような質料に着目することによって、それを経路として本質ぬきの実存に気づかせるわけですが、それができてみれば、形相だってただ実存しているという側面からとらえることができるわけですよ。そしたら、もう質料に還元する必要はなくなる。そう見るのが宗教的な見方なんで、西洋ではヘブライズムの方から出てくる問題なんですね。つまり、神が「あれ!」と言ってくれたおかげで、なんと現実に存在している!という存在驚愕の観点から世界を見る見方ですね。この、質料化を経由しないで、ダイレクトに形相だってただ実存しているだけ、と見る見方は、仏教の中にもあると思うんだけど、それはテーラワーダ仏教というよりは、むしろ大乗仏教になるのかもしれません。だとすると、僕自身はむしろそっちから入ったともいえそうです。日常的な意味連関から脱するといっても、そのやり方にはかなり根本的な違いがあるわけです。

この引用文中の「形相だってただ実存しているだけ」というフレーズの「形相」を「本質」に置き換えると、90頁の「本質もまたただ実存する」というフレーズと同じになる。88頁からの文脈で言えば、「気づく」という働きや「ものを映す」という働きも「本質」や「形相」の一例であって、それらも「ただ実存する」と理解することができる視座というか水準があると言われていることになるだろう。それらの実存は〈私〉の実存とどう違うのか(違わないのか)は、本文からは定かではない。最後の文にある「根本的な違い」というのは大乗仏教テーラワーダの違いのことを指しているが、〈仏教2.0〉またはテーラワーダには「形相(または本質)だってただ実存しているだけ」という視点はあるのだろうか、と思ったが、永井氏の2014年のツイートのまとめを読むと、永井氏はテーラワーダの瞑想論は〈実存ー本質〉の問題を〈質料ー形相〉の問題に「落としてしまう」のであると認識しているように思われる。

また、永井氏の2016年11月の下記のような連続ツイートもこの件に関係があるだろう(最初のツイートはアルボムッレ・スマナサーラ氏の言葉に対する永井氏の応答で、その後のツイートを2個省略してある。省略なしで読む際はこちらを参照)。

「私」とは、肉体のことではないのです。心があるから、「私」なのです。その心は、瞬間で死ぬのです。ですから、本当は、私たちは瞬間、瞬間で別人になっているのですね。

スマナサーラ長老の言葉(非公認)

心が瞬間で死に、私たちが瞬間瞬間で別人になっているなら、このように時間の中で文を作り出すことはできない。そして私たちは本質的に、一繫がりの文を時間の経過の中で組み立てるような存在なのだ。悟りを開いても解脱しても、もしその人が言葉を話すなら、そのとき、この「本当」は実現していない。

永井均(@hitoshinagai1)|Twitter

また、一纏まりの発話意図を口から文として言うのにも数秒はかかるが、言わなくてもわれわれは(言語化可能な)意図(およびその意図の記憶)に基づいて生きており、それは数秒どころか一生を貫くことさえ稀ではない。これは真に驚くべきことだ。 永井均(@hitoshinagai1)|Twitter

これらすべてにもかかわらず、最初のスマナサーラさんの言っていることが間違っているわけではない。ただ、まずはむしろ逆に、心が瞬間のその死を超えて生き続け、瞬間瞬間「同じ私」を作り続ける(そのことによってこそこの世界が初めて成立している)その仕組みのほうに驚くべきだ、とは言いたい。 永井均(@hitoshinagai1)|Twitter

がついでにいえば、悟りを開いたり解脱したりしても、なお一貫した意図を持ち続け、発話意図を実際の(時間のかかる)発言として実現し続けるには、形相の質料への解体という方向は諦め、本質の実存への解体という方向を目指すほかはない、とは思っている(あくまでも理論上のこと)。終わり。 永井均(@hitoshinagai1)|Twitter

このツイートに対する山下氏の応答も下記のようになされた(原文の「質量」は「質料」の誤字のため修正済)。

@hitoshinagai1 「質料への解体」と「実存への解体」では、方向性が全く逆というか、違うというか。同じ仏教瞑想という名の下に、お互い全く違うことやっていたのだなと、愕然としています。この違いを、多くの方々が、今や認識し始めてる。ここが現在の日本の凄さ。 山下良道(@sudhammacara)|Twitter

@hitoshinagai1 今頃になってかつて自分自身がやっていたのは、「質料への解体」で、これをいくらやってもラチがあかないと気づき、「実存への解体」を目指すようになったとも言えます。十分やったので、もう未練はないので、「実存への解体」だけです。 山下良道(@sudhammacara)|Twitter

@hitoshinagai1 で、驚くべきことに、こういうこと一切意識も認識することなく、「いきなり実存への解体」が、その身に起きてしまう人が、どうもかなりいる。当然、自分に何が起こったかわからず、大混乱おこしますが、意味がわかればもう大丈夫。既に知ってる実存へ、さっと入れる。 山下良道(@sudhammacara)|Twitter

さらに別のかたからの質問と永井氏の応答。

@hitoshinagai1 唐突ですが、実存への解体が成功した暁には、私秘性と公共性との対立はそれでもまだ残るのでしょうか?(別に残ると困るというわけでもないとは思いますが、ちょっと気になったのでお尋ねしました。)

The Third Man(@tritosanthropos|Twitter)

もはやそういう対立地平ではなく、残るのは独在性だけ、と言いたいところですね。それを私秘性と誤認すると、実存が質料に戻ってしまうのだ、と。しかし、この話は(事柄としては超簡単なことのに)通じにくそう。。。

永井均(@hitoshinagai1)|Twitter

88-90頁にある2つ目の質問の大意は、「『自己ぎりの自己』は、世界が自己のうちにあるような自己であり、経験ぐるみの自己であるとのことだが、そのような自己ぎりの自己にとって他者はどこに位置づけられるのか? 特に仏教の視点から見るとどうなるのか?」というもの。これに対しては藤田氏は、「禅なんかははっきりしていない」と答えている。永井氏は、哲学的な説明に関しては時間内には答えきれないと判断したようであり、自身の哲学の授業に出るか『哲おじさんと学くん』を読んでほしいと答えているが(90-91頁)、自己ぎりの自己にとっての他者を仏教の観点も絡めて扱った本書の第二章は、この質問に対する回答にもなっていると思う。

最後の質問は93-94頁にあり、大意は「青空や前反省的自己意識や涅槃の境地は『ただあるだけ』で価値判断がなされないように思えるが、そこからどのようにして『慈』や『悲』といったような仏教的な道徳観が出てくるのか?」というもの。これに対して山下氏は、「慈悲」は「青空」からしか出て来ないと述べ、「青空」以外のところに立ったときには慈悲を持てない理由を、

なぜ私らが「慈悲」に立てないかって言ったら、百分の一の私を自分だと思うからであって。だって、百分の一の私に過ぎないんだったら、誰かの幸せを願うことも、誰かの苦しみからの解放を願うことも絶対無理ですよ。

と説明することでこの質問に対する回答としている(94頁)。「百分の一の私」というのは、人間が百人居る場合の、そのうちの一人であるということを指している。「誰か」というニュートラルな代名詞がここには使われているが、その人に対する慈悲を持つことが「絶対無理」と強い言葉で否定されていることから、この「誰か」というのは特に自分と親しくない人や自分が嫌っている人のことを指していると読めば腑に落ちるものである。山下氏によれば、「私の嫌いな人も幸せになりますように」と言える場所があり、そこが「本当の意味での気づきの場所」でもあるという(94頁)。自分にとって嫌いな人や親しくない相手であっても、「その幸せを願い、苦しみからの解放を願う」ということが本当にできなければそれは慈悲の名に値しないということなのであろう。これに関連する記述が76-77頁にもある。この質問者は「なぜそこから慈悲が出てくるのか」というふうに「慈悲が出てくる理由」を訊ねているようにも読めるのだが、だとすれば、この回答は「他所からは出てこないから」という事実描写で応えているわけだから、厳密に言えばこれは「理由」の説明にはなっていない。もしも原理的に理由が無いならば、それは仕方ないことではあろうけれど。

藤田氏はこれを受けて、智慧から自然に慈悲が生まれると言われることがあるけれども、智慧は「一」の平等の世界であるのに対して慈悲は「個別」や「多」、「差別(しゃべつ)」の世界だから、両者は全然違う次元(または違った世界)の話なので、智慧から自動的に慈悲が生まれるというのはどうなのかな、と疑問を呈している。あえて慈悲を専門に育てていく瞑想ができたのは、智慧の獲得とは別にやる必要があるからではないか、と藤田氏は仮説を述べ、それを今後の討論課題として置いておきたいとしている(94-95頁)。

(第一章おわり。第二章に続く)

*1:開明」は「解明」の誤字だろう。

*2:反省的自己意識についてのより詳しい説明は、永井均存在と時間――哲学探求1』の100頁付近にあるが、そちらは本書とは別個の文脈も加味されており、本書との関連性をここでまとめるのはまだ難しい。

*3:例えば身体感覚や感情などに言葉でラベリングする瞑想メソッドがしばしばうまくいかないとされるのは、そのときの「気づき」が「実在的連関を構成する構成作用」を伴ってしまうからだろう、という説明が可能だろう。プラユキ・ナラテボー氏と魚川祐司氏の共著『悟らなくたって、いいじゃないか』(幻冬舎、2016年)の138-144頁に、ラベリング瞑想がうまくいかない理由をプラユキ・ナラテボー氏が説明する記述があるが、それはこの「実在的連関を構成する構成作用」の議論と関係していると思われる。

*4:実在的連関や構成、構成作用といった用語は永井氏の著者『存在と時間――哲学探求1』にある用語で、『〈仏教3.0〉を哲学する』では詳しく説明されていないと思う。

*5:『知的唯仏論』において宮崎氏のそのような主張がみられるのは128-130頁、180-181頁、240頁。独我論については220-228頁。

*6:「独我的」と「無我的」をイコールで繋いだありかたとしての自己についての記述は、第二章の113頁にもある。