藤田一照・永井均・山下良道の3氏による共著『〈仏教3.0〉を哲学する』(春秋社、2016年)の第二章の読書ノートとコメントです。読み進むにつれて随時加筆していきます(最新の更新は2016/12/9)。この本の目次や、著者による内容紹介、関連情報などはこちらをご参照ください。
この記事の目次
第二章 「自己ぎりの自己」と〈私〉
第二章は二部構成で、98-144頁が第一部、144-168頁が第二部となっている。第一部は、内山興正の「自己」のとらえ方について永井氏がプレゼンし、それを受けて3人のやりとりが行われる。第二部は、「青空としてのわたし」と「雲としてのわたし」というメタファーについての最近の展開を山下氏がプレゼンし、それを受けた3人のやりとりが行われる(98頁)。
「ぶっつづき」と「断絶」――内山興正老師のこと(98-107頁)
内山興正の「自己」のとらえ方についての永井氏のプレゼンは、テキストとして内山興正の『坐禅の意味と実際』(大法輪閣)と『進みと安らい――自己の世界』(柏樹社、1969年)を用いる。前者の第四章「坐禅人の自己」の「一、尽一切自己」と「三、覚めて生きる」の二つを主として検討し、その後で後者の第四章「自己の構造」との関係について考える(98頁)。『坐禅の意味と実際』は1971年に柏樹社から出版された内山の『生命の実物――坐禅の実際』を大法輪閣が再刊した本であり、『進みと安らい――自己の世界』は1969年の出版なので、後者のほうが出版年は若干早い*1。『坐禅の意味と実際』は2003年の版と2015年の新装版があるが、この記事では新装版を用いる。
まず99頁に『坐禅の意味と実際』第四章の94-96頁からの引用(カボチャの寓話)があるが、引用元の本においてこのカボチャの寓話が出てくる文脈はどういうものなのか、という説明が本書では省かれているので、ここでそれを補足しておきたい。引用元においては、このカボチャの寓話は、下記のように「坐禅する人にとっての自己および自他関係とは何か?」を問う文脈の下で出てくるものである。
*1:『生命の実物――坐禅の実際』(柏樹社、1971年)と『坐禅の意味と実際』(大法輪閣、2003年または2015年)との内容の差異や、再刊の経緯などについては、『坐禅の意味と実際』の158-162頁参照。