柳田敏洋神父の講話『私たちはどこへ向かうのか?』(1 of 2)

昨年の4月に、山下良道さんと松田神父様の、ここでの1泊2日の青空リトリートがあって、その時に初めて直接に良道さんとお会いをして、そして、私も以前から「キリスト教ヴィパッサナー瞑想」と勝手に自分で名前を付けておこなっていたんですが、そういうふうな背景からお話をしていると、結構ですね、馬が合うというんですか、気が合うというんですか、同じ問題に直面して、どうこれに立ち向かっていったらいいのか、乗り越えていったらいいのか、という、まあこういうふうな問題意識とか方向性がですね、とても重なっているということを感じて、それ以来、メールのやりとりとかを含めてですね、かなり密な関係ができてきたかなと思います。その1つの結実が――この中にもご参加してくださった方があるかと思いますが――、2月の3日に新宿の朝日カルチャーセンターでやった、良道さんとの対談ということになりました。たくさんの方が詰めかけて下さって、非常に実りの多い、そのような対談になったんじゃないかなと思います。

そういうかたちを受けて、今回また4月に青空リトリートがここで行われることになったんですが、今回はもう少し日数を増やして、より本格的にというような形で、いま私たちが行っているというところです。それは、私たちが既に、良道さんが言っておられるこの二重構造に目覚めて、エゴの私を見つめているもう一人の私に目覚めて、「現実世界が『映画』の世界である」、そういうふうに見抜いていく。こういうために取り組んでいるのだということですね。こういう点、私は以前から「エゴの私が祈っても祈っても、結局エゴに留まっている限りは、そのエゴの世界を突破した祈りの世界に入れない」……こういったことを強く感じていましたので、そういう点で言葉遣いが違うとかですね、アプローチの仕方が違うとか、解き明かすための何か見取り図が違うとか、そういうところがあっても、丁寧に話していくと、中身としては本当に重なってくるところが多いかなというふうなことを感じました。

そこで、今からの時間は、私なりに「私たちはどこへ向かうのか」……こういうテーマでお話することができたらと思います。

(中略)

良道さんのこの法話の中で、たびたび「謎のX(エックス)」という言葉が出ていますけれども、やっぱり私たちにとって、「謎のX」とは一体何か? それはキリスト教のなかでも、大きなものだと思います。私たちは、さしあたってそれを「神」とか「キリスト」とか、そういうふうにキリスト教の枠の中で言っていますし、私はキリスト教カトリックの神父ですから、そのような立場から「謎のX」に向かって自分なりの歩みを続けていく。こういうふうな取り組みです。そのような取り組みの中で、私なりに気づけてきていることとか、そういったことをお話ししていきたいと思いますし……。一概に「仏教とキリスト教」というふうに言うとですね、良道さんにまた叱られるかも分かんないんですが、まあ一応私はキリスト教の枠の中で……。

キリスト教の人――まあ日本は少ないんですが、世界全体を見たら非常に多いんですが――、やっぱり多くの人が「映画世界」とか、あるいは「劇場世界」の中でキリスト教を生きている。やっぱりそれは非常に残念なことではないか、という、そういったことが強く感じられていますので、まあ方向性と言うんですか、キリスト教がいったい何を目指すのか、どこに向かおうとしているのか……そういったところを含めて、このマインドフルネス瞑想をですね、どんなふうに私たちが取り組んでいったらいいのか? といったふうなところで、お話ができたら、ということです。

仏教とキリスト教というところでいきますと、ある意味でキリスト教は、方向性が非常にはっきりしている。これは相対的なものだとは思いますけども、[そのように]言うことができるかなということです。それはご存じのように、神を信じていて、またその神は、父・子・聖霊という三位一体の神という特別な神をキリスト教は信じている。そこに非常に大きな枠としてのストラクチャーがあるということですね。

で、私たちは、本当に一言で言うならば、私たちの人生って何ですかというと、「神に向かう人生だ」……こういうふうに言うことができます。「じゃあ、その向かうべき神とは一体何ですか? どのような存在ですか?」ということについて、今日、手元に聖書を持ってきていますけれども、聖書の中の新約聖書の「ヨハネの第一の手紙」というのがありますが、その4章16節に「神は愛である」[とあります]。ギリシャ語が原文なんですけれども、そのギリシャ語では、「神はアガペである」。こういうふうな言い方があります。つまり、キリスト教徒にとって「神」というふうな言い方は色々ありますけれども、最終的にイエス・キリストが伝えようとした神とは、アガペである。こういうところにキリスト教の神は基づいていると思います。

じゃあ、アガペって何[かというと]……皆さんもどこかでお聞きになったことがおありかと思いますが、ギリシャ語で「愛」を表す言葉は色々あるんですが、大まかには4つあるというふうに言われています。皆さんが一番よく聞かれるのは、「エロス」というふうな、「性愛」と訳されたりするものですが、「なにか自分がフィーリングで好ましいと思うものに魅力を感じてひかれていく」。こういうふうな愛ですね。それを「エロス」とギリシャ語で言います。あるいは、「友愛」と訳されるんですけれども、同じ価値観を共有する者同士の深い結びつき。これはフィリアというふうな言葉で言います。そして、さらには、お母さんの子供に対する深い愛情。これを表す言葉にストルゲーという言葉があります。

こういったエロスとかフィリアとかストルゲーとか、そういうふうな、「愛」を表す言葉がある中で、「アガペ」という、愛についての言葉がある。そして、このアガペというのは、簡単に日本語で言うならば、「無償・無条件の、存在の受容」。こういうふうな意味のものだ。

「無償・無条件に」というのは、私たちは「愛」というふうに言っちゃうと、日本語では、やはり自然に「好ましい。魅力的な。私にとって」というような、そういうニュアンスがあるんですが――これも、ギリシャ語のアガペを日本語に訳す時に、聖書の専門家が「愛」という日本語を当てちゃったので、もうこれ以上仕方がないんですけれども――、実際のギリシャ語のアガペというのは、やっぱり[日本語の「愛」とは]ちょっと違うということですね。

全く無償・無条件に、その存在を受容する。あるいは肯定する。例えばその典型が、「あなたの敵を愛しなさい」……こういうふうな言葉になる。だけど、「あなたの敵を愛しなさい」というふうにしちゃうと、もともと敵というのは「嫌な、嫌いな、フィーリングで好かない人」というふうなことになっちゃいますから、それを「あなたの敵を愛しなさい」というふうな日本語に訳しちゃうと、もう、すごい人間性を捻じ曲げるような……。つまり無理矢理に、好きでもない人を好きであるかのように自分を捻じ曲げちゃわないかぎり、[敵を「愛する」ことは]できないということですね。

こういうところにやはり、「経典を、どう相応しい言葉に訳すか」というふうな、いつも起こってくる課題があります。ですから、もう私は――最近は言葉としても割と知られてきているので――アガペというふうなギリシャ語をそのまま使う方がですね、ずっと誤解がないというふうに思っていて、そういうふうに使っています。

アガペという言葉で、イエスは神の愛を示すのですけれども。例えば、「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」。こういうふうな言葉で、天の父・神とはどういうお方か、というふうなことを説明しています。

エスが生きたのは、今から2000年前のパレスチナ地方なんですけれども、その当時はユダヤ教であって、そしてユダヤ教はどちらかというと、因果応報の神。つまり、神との契約を人間が交わす。それが旧約聖書の歴史の中にあるんですが、その神との間に人間が交わした契約を、できるだけ忠実に守る人には沢山のご褒美が与えられる。例えば聖書にはですね、忠実な義人たちは何百歳も生きたとかですね、あるいは子宝に恵まれるとか、あるいは自分が持っている土地が豊作であるとか、飼っている家畜がどんどん子供を増やしていくとか。それが、神に忠実な「見える印」。だから逆にですね、子供が産めない奥さんとか、あるいは早死にする人[は]神に呪われている……こういうふうな理解があったということですね。こういったところ、やっぱり私たちも、歴史の中で表れてきた神理解というふうに見ていく必要があるかと思いますが。

こういったふうな、どちらかというと因果応報の神を信じているユダヤ教の只中に生まれ育ったイエスは、「神とは無償・無条件の愛のお方である」……こういうふうに伝えている。非常に具体的な言葉で。その中で、「敵をもアガペしなさい」ということですね。つまり、「どのような敵であったとしても、その敵の存在を無条件に受容しなさい。肯定しなさい。好きとか嫌いとかそういうレベルの事ではない」ということですね。こういったところにイエスは、真の神のあり方というのを見ていって、私たちに伝えようとした。つまりそこにはですね、「一所懸命、信仰を持ってがんばる人だから、神様が沢山の恵みを与える。そういう神様だ」[というものではない神理解がある]。それは、基本的に「がんばる人が報われる」[という]社会通念だったら、まあそれはそれで非常に公平な神様ということになるんですが、そのような私たち人間世界での公平とかっていうものを超える神をイエスは伝えようとしたということです。

それが、「神はアガペである」。無償・無条件の、存在の肯定……こういう恵みを、その人が善人であろうと悪人であろうと、全く関係なく与えられるということですね。ですから、取り引きの神ではないということですね。ここは非常に大事なところです。「『あなたのような神を信じます』というふうに私たちが神を信じたら、『よしよし。お前はよろしい。私の無償・無条件の愛をあげよう』という取り引きをする神」ではない。信じようと信じまいと、神を呪おうと、神なんて居るはずがないと思う人にも、この神の無償・無条件のアガペ、存在の受容というものは与えられているということですね。

ですから、この神を信じるというのは、すでに私が信じようと信じまいと、その前から、私がこの世に生まれ落ちた時から、この恵みは既に私と共にあったということを発見する。これが「信じる」ということです。「信じてなんぼ」とか、そういうことではありません。非常にそれ[=“信じてなんぼ”的な信仰]は、エゴの宗教観の中で出てくる信仰理解と言っていいかと思います。

そういう中で、やっぱり私たちは、丁寧に丁寧に、イエスが伝えようとした真の神、そしてその神の恵みについて目覚めていくということが大切になってきます。

私は今から11年前に、インドでゴエンカ式の10日間のヴィパッサナー瞑想あずかって、やはり本当にこの瞑想の素晴らしさというのを体感して、そしてこれが、私たちキリスト教を信じている者にとっても、非常にその信仰を本物にしていく……こういうふうな優れた修行、瞑想法だというふうなことを感じて、私なりにキリスト教の要素をいろいろ付け加えたりして、今ここで「キリスト教ヴィパッサナー瞑想」として皆さんにご紹介をしているということです。

さて、その「神に向かって」というふうなことなんですが、もう一つ大切なのが、「私たち人間とは何者か」ということを聖書がどう言っているかということです。一法庵関係の皆さんも、大体はご存知の方が多いのではないかなと思いますが、創世記の最初に天地創造の話があって、その最後に、神様が人間をお造りになるという話があります。その中で、神が「我々に似せ、我々に象って、人を造ろう」……こういうふうに仰って、そして土の塵を人の形にして、その人の形の鼻に息を吹き入れると、アダム、最初の人間になった。こういうふうな出来事があります。

つまり、私たち人間とは、もともと、神の似姿として造られたということですね。神に似たものとして人間は造られている。これがキリスト教の人間理解です。ですから、私たちがどこに向かっていくのか?……こういう点で見ていくならば、それは「私たちがもともと、神の似姿として造られた一人一人である。そのことを知って、そして、その神の似姿として造られた自分自身を完成に向けて自分を鍛えていく、成長させていく、歩ませていく」。こういうふうなことが分かってくるということですね。

じゃあ、その「神の似姿の完成」というのは何ですか? 「神はアガペである。神は、無償・無条件の存在肯定のお方である」というふうに見ていくならば、神の似姿[については]――まあ、この「似姿」をどう解釈するか、というふうなことが色々あるんですが――、私はやはり、「ヨハネの第一の手紙」の4章16節に書かれているところ、とても大切にしたいなと思っています。

「神とはアガペである」。ですから、神の似姿として造られた私たちも、アガペの似姿として造られている。つまり、私たちは最終的にアガペを本当の意味で生きる人間になっていくようにと、最初から神によって造られている。つまり、一人一人はその可能性を秘めているということですね。

でも、ここにまた現実が立ちはだかっています。つまり、もうすでに私たち、何度も良道さんを通じて聞かされていて、私たち自身も感じていることですけれども、どれほど「アガペの愛を生きましょうね」と教会の中で言われてもですね、そのアガペを生きることができない。どれだけ人に親切にしてもですね、「私、こんなに一所懸命に、あの人のためにやっているのに、無視されている。なんてひどい人!」というふうにですね、相手を無意識のうちに評価したり裁いたりしちゃっている。

つまり、本人は無償・無条件の愛で誠実に相手に関わっているつもりが、その奥にはですね、条件付きの愛を生きちゃっているところがあるということですね。「こんなに頑張っている私を、もっと分かって欲しい」というね。つまり私たちの中には、どんなに善いことをしていたとしても、どんなに親切をしていたとしても、どこかで、気づかない形で、見返りを求めるとか、感謝を求めるとか、条件付きにしちゃってる。「こんなに私がしてあげているのだから、あなたもちゃんとしてね」というふうな「裏のメッセージ」を込めてですね、相手に親切にするとか。こういったことが、やはり私たちの中に、キリストを信じている者にとっても日常茶飯事のようにある。

つまり、やっぱり私たちにとって、この「無償・無条件の、存在肯定」というアガペを生きるのを阻んでいるのはエゴだということです。これは、えらい厄介なものなんです。全く簡単ではないっていう……それはもう良道さんが仰っておられる通りだと思います。つまりですね、どこに問題があるかというと、「もう、ついつい、条件付きで『無償・無条件の愛』を生きてしまう自分」。ここに、何とかしないといけない問題がある。

じゃあ、「この条件付きについついなってしまう私をもっと整えよう。条件なしに生きられる私に。無償で愛を生きられる私に」……でもそれは、力づくでやっちゃうから、どういうことになるかというと、「こんな、見返りや条件付きが求められる状況の中でも、私は無条件に愛を施せる私だ」という、こういうまた新しいエゴがですね、もう無意識のうちに出てきちゃう。もうこれは、無限に続くんですね。つまり、一所懸命に立派になればなるほど、「立派に生きられている私だ」というふうに周りと自分を比べるエゴが、無意識の世界から出てきます。

つまりここに、ものすごい大きな問題があるということですね。イエスは「こんなふうに神が一人一人を無条件に愛して下さっているのだから、あなたがたもその神の愛に応えて、隣人を自分のように愛しなさい」……こうふうに言って、「これが、多くの掟の中で第一の掟である」というふうにイエスは私たちに聖書を通して教えてくれたんですけれども。でも、結局そこにいつも問題がある。「隣人を自分のように愛しなさい」というふうな、この「愛」というのはアガペの愛ということなんですが、それを一番阻んでいるのが「私のエゴ」だということですね。

こういうところを、本当に、繰り返し繰り返し、いくら頑張っても突破することができない厄介なエゴというふうにして悩んでいたところで、11年前にインドに行って、そしてゴエンカさんの10日間のヴィパッサナー瞑想に与ったときに、一つのその突破のきっかけになったということですね。

柳田敏洋神父の講話『私たちはどこへ向かうのか?』(2 of 2)へ続く)