NHKラジオ第2 宗教の時間「神父の私が実践している仏教の瞑想法」(イエズス会霊性センター「せせらぎ」所長 柳田敏洋)

ナレーション:宗教の時間です。今日は、「神父の私が実践している仏教の瞑想法」と題して、イエズス会霊性センター「せせらぎ」所長、柳田敏洋さんにお話を伺います。柳田さんは、1952年のお生まれ。京都大学大学院工学研究科の修士課程を修了後、民間企業に技術研究員として勤務した後、1983年にカトリックイエズス会に入会。改めて上智大学大学院哲学専攻課程と神学専攻課程で学ばれました。1991年にカトリック司祭となり、アメリカとカナダでイエズス会の瞑想法「霊操」の指導コース研修を受けて、帰国後、瞑想指導に当たってこられました。聞き手は鈴木健次ディレクターです。

鈴木:柳田さんが所長をしていらっしゃるイエズス会霊性センター「せせらぎ」というところは、どういうお仕事なんですか?

柳田:これはですね、私、イエズス会の司祭ですので、イエズス会霊性に基づく修練や祈りを指導するところなんです。修道者や信徒、そしてシスターたちのための8日間のコースというのが主なんですけども、それ以外にも、30日間するものとか、あるいは日帰りとか、1泊、2泊、3泊といったものも、いろいろプログラムに入れています。

鈴木:では、プロのためでもあり、求道者のためでもあると。

柳田:そうですね。今頃は一般の方、つまりキリスト教の施設として作られたものですけども、一般の方とか、最近は仏教の方とかも、おいでになっておられますね。

鈴木イエズス会の瞑想というとですね、我々の日常から遠いような感じも無いわけではないんですけれども、柳田さんはもともと京都大学の大学院の工学研究科という理科系の学問を修められて、普通の民間会社で技術研究員として働いておられたということですが、どうしてそんな人生の大転換を決心されたんでしょうか?

柳田:私の祖母がもともとカトリックでして、私、3代目の信者ということで、カトリックの場合は幼児洗礼というのがありますので、生まれて2ヶ月目に洗礼を受けまして、そしてカトリックの信徒として大きくなってきて、それで、大学、大学院を出て、民間会社に勤めるようになったんですが、やっぱり働き始めて3年目ぐらいからですね、自分の人生1回限りなので、できたら終わりが近づいた時に悔いのない生き方をしたいというふうに強く感じるようになって、じゃあその悔いのない生き方とはどういう生き方か、というようなところを見ていたときに、「あ、私は信仰なしに生きることができない。そして、信仰を中途半端にするんじゃなくて、本当に徹底して究めるような人生を生きたい」と感じるようになって、これがきっかけになって、たまたま私は山口県で働いていたんですが、その時に相談した神父様がイエズス会の神父様で、「イエズス会いいなあ」というふうに魅力を感じて、ということなんです。

鈴木:山口は、もともとザビエルの行ったところでもあり、イエズス会と関係が深いですね。

柳田:そうですね。ずーっと歴史的に見ても、大内氏が主導権を握っていたときに、ザビエルが訪れて、そして布教の許可を貰ったという、やっぱりすごく歴史的にも由緒ある地というところで、私がイエズス会への道を感じたというのは、今振り返るとですね、何かこれもご縁かなというふうに思っていますけれども。

鈴木:私はあの、若い時にフランス文学をやりましてね。フランス語でイエズス会士のことをジェズイット(Jésuites)といいますね。そうすると、イエズス会士という訳は、2番目は「偽善者」と書いてあるんです。

柳田:ははは(笑)。はい、そうですね。

鈴木モリエールの劇なんかではイメージが良くないですけれども。30代の中頃、ローマのイエズス会本部へ行って。宗教団体ですけれども、機能的でですね、そして人によっては平服ですね、企業の人のような形で仕事をしていらっしゃるんで、びっくりしたことがあります。

柳田:あ、なるほど。もともと、イエズス会創立者がスペイン人のロヨラのイグナチオという人で、まあいわゆる貴族出身で、騎士のような道を歩んでいたんですが、その途中で戦争で足を負傷した時に、キリストに仕えたいというふうにして、まったく180度変わっちゃったんですね。その時に、人々の魂を救いたいというふうに熱い思いに駆られて、人々の魂を救うためだったら、どんな仕事でも、あるいはそういう人々に近づくために必要だったら、普通の人が着るような服も含めて、人々に近づくことができるような生活とかですね、あるいは修道院のスタイルとかというようなことを考えて、まあこれが今もまだ続いているということですね。ですからそういったところは、非常にイエズス会のある種の魅力かなと思っていますけれども。

鈴木ロヨラという人は、日本語にも訳されておりますけれども『霊操』という瞑想の指導書――手引書というんでしょうか――を書かれていますが、イエズス会のかた、皆さんその『霊操』に従って瞑想的な修行というのをされるわけですか?

柳田:そうですね。ですから、元々この創立者ロヨラのイグナチオの霊的な体験を、自分と同じように働く人が同じ心を持って働いてもらいたいという、ロヨラのイグナチオのこの考えから、彼自身が『黙想指南書』というものを編み出して、これをいま私たちは「霊操」、つまり霊魂を調えるという……

鈴木:「そう」は、車の操縦なんかの「操」という字ですね?

柳田:そうですね。体操の「操」という字と考えていただいてもいいかと思いますが、魂を調える道というふうな、そういうふうなもので、これを30日間で行うという、そういうふうな修行の体系を彼が編み出して。それはもうイエズス会に入ってくる人が必ず行わなければいけない霊的修行というふうな位置づけになっています。そしてその中味はですね、1日に5回、1回1時間祈っていくというふうなことで、4つの週というふうに分かれていまして、第1の週では、自分の罪深さを認め、神の愛によって清めて頂く。そして清められた私が、イエス・キリストに従う道を聖書を通して祈っていく。そういうふうなところから、さらにイエスは十字架でご自分を捧げて死なれて、というふうな、そういうふうなことなので、自分も覚悟を持ってイエスに徹底して最後まで従うということで、第3週ではイエスの受難と死を祈り、そして聖書では3日後にイエスは蘇ったという復活を信じていますから、第4週というのがあって、最後に覚悟を決めてイエスとともに自我に死んだ私が、神の命に再び目覚めて、復活のキリストと共に世に出て働くという、そういうふうなですね、すごく霊的にダイナミックなプロセスを経させるというのが、30日間の霊操というものなんですね。

鈴木:柳田さんは、特にイエズス会の中でも霊操の指導者というのが神父としての主なお仕事で、これまで過ごしてらした、というふうに言ってもいいんでしょうかね?

柳田:そうですね。養成が終わった後、アメリカやカナダで勉強させてもらったんですが、その時に「あなたは、イエズス会に入会する人たちに授ける30日間の霊操を指導する人になりなさい」ということで、戻ってきて、およそ11年間ですね、まあいわゆる小僧の雲水修行[のよう]なものになるんですが、イエズス会の修練院という、そういうところで働いていて、イエズス会の門を叩いてくる若い人たちに30日間の霊操というのを授けていました。

鈴木:イグナチウス・デ・ロヨラの作ったメソッド、霊操というのは、いろんな執着とか、心のこだわりというものを消していってですね、物事にとらわれない心を養うというのが大きな目標かと思うんですけれども、口でいうと簡単ですが、なかなか人間そう簡単にですね、執着心を捨てる、エゴを捨てるなんていうことはですね、できないんではないかと、俗人である私は思うんですが。

柳田:いや、まあ実は、俗人でない修道者司祭でも同じような問題を抱えるということにだんだんと私も気づくようになっていったということですね。仰られたように、霊操というのは、自分の魂を見つめて、乱れた愛着から離れて神の御旨を知り、そして自分を調えていく道。こんなふうにも言うことができます。これを、乱れた愛着から離れて、自分の心を離脱させていくというのは、「不偏心」という言葉で言い表したりするんですが、

鈴木:「へん」は「偏る」、「偏り」の「へん」ですね?

柳田:そうですね。ですから、偏らない心。じゃあ、偏るのは何かというと、「神のみ」というふうなことですね。ですから、具体的にはイグナチオも、この『霊操』という本の中で、「長く生きることにも、短くしか生きないことにも、健康にも病気にも、富にも貧しさにも、名誉にも不名誉にも偏らない。その心が不偏心、偏らない心だ」というふうに言っていて、「本当にエゴを超えた完全な離脱の心で神の御旨を生きる。ここに本当に自分の魂を調える道がある」というふうに考えていて、それは本当に素晴らしいと思うんですが、でも30日間この霊操というのをしていたら、非常に心が深まって、そういうふうに離脱したかのように感じるんですけれども。実感としてですね。でも、それが終わって、現実の生活とかに戻っていくと、あるいは自分が任されている仕事に戻っていく中でですね、だんだんだんだんですね、消え去っていたはずのエゴがまた頭をムクムクともたげてくる。こういうふうな問題に気づくようになって。

そしてイエズス会の場合は、30日間の霊操をするんですが、その後は毎年8日間の霊操の短縮版というのをするということが義務としてなされていて、それも毎年やっていくんですが、その時にその8日間の中で心は深まるんですけれども、でもやっぱり、そこから普段の生活や自分の与えられている教会での仕事とか、あるいは学校での教える仕事とかをしていく中でですね、やっぱりまたエゴが頭をもたげてくるというふうなことを痛感するようになって、これはどうしたもんかというふうなことが、すごく私にとって悩みになっていたということなんです、実は。

鈴木:実際にですね、瞑想の生活をされた中で、逆にそういう疑問を深められたというお話を――非常に正直なお話でですね――興味深く今うかがっていたんですが。これはしかし、そう簡単に解決できないと思うんですが、今もそういうお仕事をずっと続けていらっしゃるということは、一つの突破口を得られたというふうに考えてよろしいんでしょうかね?

柳田:そうですね。まあ実は、なかなか「どうしたもんか」というふうに悩んでいたところ、2002年から隔年でインドのイエズス会修道院に滞在をする、そういうふうなイベントが始まってですね、そこで若い日本人のイエズス会の修道者を連れて1ヶ月間共同生活をインドのイエズス会修道院でするということを始めるようになってですね。

毎朝5時に起きて、5時半から30分間、ヨーガをしていたんですね。このヨーガが私にとって、また突破するための入り口になったということですね。向こうのインド人の修道者と一緒にこのヨーガをしていたら、だんだんとですね、「あ、これは体による祈りだ」というふうに気づくようになったんですね。まあ、体操と似ているところもあるんですが、一定のポーズをとって静止する……それが静止運動という形でヨーガの特徴でもあるんですが、こういうふうにして一つの形をとって、そして自分の体を見つめていると、自分の体の営みというものが、頭を超えて私を全く無条件に受け入れて支えてくれているという、こういうふうな実感を持つようになってですね。

実はキリスト教の場合は、イエスが教えた「無償・無条件の愛」――これをギリシア語で「アガペ」といいますが――、その愛を生きるような人になっていくということ、これがすごく目指すところなんですね。それを阻んでいるのが実は「エゴ」。ということで、それを悩みの種としていたんですけども、でもふと気がつくとですね、体にはエゴが無い。どんなに怠け者でも、どんなに立派な人でも、どんなに不埒な考えを持つ人でも、どんなに徳の高い考えを持っている人でも、全く関係なく、体はその人を無条件に生かそうと努めてくれている。無言のうちに。こういうふうな気づきを、ヨーガをしている中で気づいてですね。つまり、心や頭は神を求めてやまないのに、体はすでに神をさとっている。こういうふうな感覚を持つようになったんですね。これが突破のきっかけということになったかと、振り返って思いますね。

鈴木:よく日本語でですね、「体で覚える」なんて言いますね。

柳田:はい。

鈴木:今のお話で、心と頭でそれまでの霊操を続けてこられて、もう一つ体で覚えるというか、体の姿勢というようなものを重視して霊操をするというようなことの大切さに気づかれたというふうにいってもいいんでしょうか?

柳田:そうですね。本当にその通りですね。心では何か「エゴが出てきている、自我が出てきている」というふうに気づいて、「じゃあ、自我を抑えなければ、取り払わなければ」と思っても、でも結局、自我を抑えなければ・取り払わなければと思っているのが、またエゴになってきますから、結局、堂々巡りですね。ところが、そういうふうな堂々巡りで悩んでいる私の心[を]、体は全く無言のうちに支えてくれている。静かに。そういうふうなところに気づくと、「あ、もっと体から学ぶ必要がある。実はここにすごく大切な祈りの道、霊性の道がある」というふうに気づくようになったということなんですね。

鈴木:ヨーガというのはもともと、宗教的なものから出ているんですか?

柳田:そうですね。非常にヨーガも古くて、バラモン教、あるいはヒンドゥー教の中で出てきた精神修行ですね。つまり、心はついフラフラしがちなので、心と体を結ぶ道……これをもともと「ユッジュ」という言葉で言っていたのが、「ヨーガ」というふうなサンスクリット語で言うようになって。それが、いわゆる精神修行の一つの体系としてまとめられていってという、そういうふうな形で、非常に深いスピリチュアルなものを含んでいますね。

鈴木:ということはですね、今やっていらっしゃる霊性センターの「せせらぎ」では、ロヨラの霊操法にヨーガのメソッドを入れていらっしゃるということですか?

柳田:実は今は入れてないんですけども、インドに行くようになって、インド人のイエズス会の神父さんからですね、「仏教由来だけれども、ヴィパッサナー瞑想というのがあって、このヴィパッサナー瞑想がすごく良いから、ぜひ一度あずかりなさい」……こういうふうに勧められていて、日本に戻ってからも調べたら、「これはイグナチオ・デ・ロヨラが編み出した霊操が本当に目指す偏らない心、不偏心を育むのに、とても効果的な方法ではないか」というようなことを少し予感をしまして、実際に体験するチャンスを覗っていったところなんですね。そうしたら、修練院で働く仕事が11年目で終わって、2007年にですね、半年間休暇を貰って――まあいわゆる「リフレッシュしてきなさい」という、そういうようなことなんですが――、その時に、これはいいチャンスだということでインドに再び行って、そこで8日間のヴィパッサナー瞑想というのに与った。これ、なかなか大変だったんですが、でも非常に深い、私にとっては体験となって、このエゴをどう乗り越えていったらいいのかの突破口を見出したという、こういうふうな私にとっての非常に大きな体験となったんですね。

鈴木:具体的にどんな体験をされたんですか?

柳田:10日間まるまるということなんですけれども、この大変さというのはですね、「徹底している」というところですね。例えば、「完全に沈黙をする」というようなこと……これは英語でNoble Silenceというふうに言ったりしていましたけれども。「聖なる沈黙」と日本語で言われたりしますが。それを完全に外的にも内的にも心を沈黙させるというので、それを実行していくために余計なものを一切預けてから瞑想に入るということが求められます。例えば余計な物というと、筆記用具とか書籍とか、パスポートとか財布とか、携帯電話とか。常備薬以外は全て――もちろんアルコール類も含めて――ということで、一切預けてからでないと瞑想に与ることができない。こういうふうな仕組みになっていて、私が与ったときには、インドで一番大きなセンターで男性250人ぐらい、女性250人ぐらいですが、完全に男女は分かれていてですね、男性だけのグループでやっていたんですが。

そしてそのような厳しさの中で、1日10時間ですね、坐禅のような形で大きなホールで瞑想をしていく。これが一番大変だったところなんですね。朝4時に起きて、4時半から朝食前までに2時間。そして朝食を摂って午前中3時間。昼食を軽く摂って、午後に4時間。そして夕食もまた軽く摂って、夜に1時間半ぐらい。あと、そこで講話もあるというような、合わせて10時間以上ですね、坐って瞑想するということで、これがもう身体的に極限まで体験するというような、そういうようなこととして本当に大変でした。

鈴木:カリキュラムはちゃんと決まっているわけですか?

柳田:ええ、そうですね。実はこれは、もう世界中に広がっている、サティア・ナラヤン・ゴエンカさんというインド人の方がミャンマーで学ばれたそういうふうなスタイルなんですが。今、世界中にこのセンターがあって、どこでも同じプログラムで、ということですね。

ですから、ここらへんはすごくメソッドとして確立していると思うんですが、その中味ですね……最初に私が取り組んで――皆さんもそうだったんですが――鼻の出入口での呼吸に伴う皮膚感覚に気づく。これに徹底するということですね。ですから、鼻の出入口で普通に呼吸を、自然な呼吸でしているとき、そんなに感じられないので、そこで意識を集中させて息の流れに伴う微妙な皮膚の感覚――例えば、息を少し吸うと冷たく感じるとか、そういったもの――で、だんだんと気づきを深めていくことができるんですが。ここでですね、意識の集中力を養うということがあるんですが、いざやってみると、もう20秒経たないうちに、どこかに考えが行っちゃって、「いけない、いけない」ということで、また鼻の出入口へ戻して。これをもう本当に繰り返してやっていく。

それだけじゃなくて、じーっと坐っているとですね、もうすごく足が痺れてくるとか、もう痛みが生じてくるということで、自分なりにですね、「あ、もうこれ以上耐えられないな」というふうに思うと、右脚を左脚の上に置き替えたりとか、あるいはそれまで胡坐で瞑想していたのを正座型に切り替えるとかですね、いわゆる20分に一回ぐらい、自分の体の状態を見ながら、これを進めていくというふうなことはしていきました。ですから、それなりに覚悟を決めて、1日10時間取り組むということをしていて。脚を組み替えるとか、そこらへんは結構自由だったんですが。

まあ最初の3日間は、鼻の出入口での呼吸に伴う皮膚感覚に徹底して気づくというようなことをしていて、それで集中力を養った後、4日目から体の全体に意識を……それぞれ頭のてっぺんから足先まで四十五カ所に意識を向けていって、そして皮膚の感覚にあるがままに気づくという修行が始まったんですね。その中で4日目から始まったのが相当また私にとって大変で。それは、この1時間はどんなことがあっても、最初に取った体の姿勢を一切崩しちゃいけません、変えちゃいけません。そしてこれは目を閉じて意識の集中を図るというふうな瞑想法なんですが、「一旦閉じた目を、一時間どんなことがあっても目を開けちゃいけません」というふうなことが入ってきて、これが大変だったんです。今までは痛みが募ってきたら20分に1回ぐらい姿勢を変えるということでなんとかしていくことができたんですが、それができないとですね、痛みがどんどんどんどん強くなってきて。それで、それに対して必死で我慢するとか。その時にですね、腹式呼吸をすると助けになるよというふうに言われて、[それを]やっていてもまた痛みはどんどん募ってきますから、もう額から脂汗が出てくるとか、もう必死に耐えるというような形でなんとか1時間をこなすことができたんですね。で、「あ、なんとかこなせた」と思ったんですが、もう、すぐ恐怖が襲ってきたのが、「えっ? これを毎日これから1日3回もするのか」という、そういうふうな怖ろしさですね。

でも、その都度その都度、覚悟を決めてやっていくとですね、できるということがだんだんと自分なりにも実感できるようになりました。そして、その時にアドバイスされたのが、「痛みに巻き込まれるな。痛みと自分を一つにするな。穏やかな心で痛みを観察せよ、観察せよ」。[「観察せよ」は]英語でobserveという、そういうような言葉で励ましを受けたんですね。でもそんなふうにして励まされても、痛いものは痛いので、もう我慢するしかないという、耐え難い痛みというようなことをやっぱり毎日体験をしていたんですが、六日目の午後なんですね、同じように「この1時間、体を動かしちゃいけません。目を一切開けちゃいけません、この1時間は」……そういうふうな瞑想修行の中で、耐え難い脚の痛みがまた感じられたんですが、ふと気がつくと、脚に耐え難い痛みがあるのに、心は全く穏やかに、痛みという脚の状態を静かに見続けている。こういうふうな境地を体験しました。それをして――非常に不思議な境地だったんですが、――、その時に私が感じたのは、「え? 意識というのはこんなにも自由なのか。実際にすごい激しい痛みが脚にあるのに、私の心は巻き込まれずに、ただ静かに見つめている」。こういう境地を体験して、意識の、人間のこのすごさ、自由の深さというふうなものに気づいたということなんですね。

そういうふうなところから、自分が最初の方にですね、「たいへんだ、たいへんだ」というふうに思って脂汗を出していた、こういうふうな体験を振り返ると、痛みが限界に達してくると、いろんな妄想が湧いてきたりする。つまり、「これ以上痛みが強くなって、自分の脚がやられたらどうしよう」とかですね、「いつまでこの痛みに耐えなければければいけないのか」……こういうふうなことを考えた瞬間にですね、痛みが心理的に2倍にも3倍にもなっちゃうということなんですね。

そこでだんだんと分かってきたのは、この瞑想は、「今この瞬間のあるがままの自分の感覚にのみ意識を留めて、静かに気づけ。巻き込まれずに心の距離をとって気づけ」。こういうふうにしていくと、意識は巻き込まれずに離脱できる。こういうふうな境地を、私は体験することができて、それからですね、痛みが同じように襲ってくるということがあっても、同じように心を、ただ静かに見つめるという方にもっていくと対応できるようになっていった。これが、その後の私のキリスト教の瞑想法というふうなものと結びつけて取り組めるようになっていったターニングポイントというような体験だったんですね。

鈴木:お話を伺っているだけでも、こちらの脚が痛くなるような感じですが(笑)。それを客観視できるかどうかというのは、実際やらないと体得できないようなところがあるんだと思いますが。今のお話を伺っていると、仏教の中から生まれたヴィパッサナーの瞑想法というのを一つの手段としてキリスト教的な信仰を深めるために活用されている、というふうに言ってもいいんでしょうか?

柳田:そうですね。実はその、痛みというのはすごくネガティブなもので、私たちは普通、排除したいと思っていますけれども、イエス・キリストは「隣人愛」ということを教えていて、その隣人の中に「敵をも愛しなさい。自分を迫害する者のためにも祈りなさい」……こういうふうに言っていて、そして「それは、父なる神が善人にも悪人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせておられるからだ」。こういうふうな説明をして、イエス・キリストが伝える神は「全くその人の善さ、問題、悪さというものを超えて、その存在を無条件に慈しみ受け止められる方だ」。こういうふうなことを教えて、そのような神の愛をギリシア語でアガペというふうに言っているんですが、「そのアガペの神を信じて、あなたもアガペの愛――無償・無条件の愛――を生きなさいよ」……これがキリスト教のエッセンス、中心的な教えということなんですけども。でも、それができないので私が困っていて、それを阻んでいるのがエゴだった、ということなんですが。

このヴィパッサナー瞑想というのは、「自分の中に生じてくるネガティブな痛みというものも巻き込まれずに、心の距離をとって、あるがままに認め、その存在を受け止めよ」。こういうふうな瞑想法だということが分かって、「あ、これはイエスが言っているアガペと同じことじゃないか」ということですね。つまり自分の中に生じてくるどんな厄介なもの、ひどいもの、取り除く必要があるもの、こういうふうに思えるネガティブなものであっても、それをあるがままに認めよ。こういうふうなイエスのアガペの愛の教えと全く重なってくる。こういうふうな瞑想修行だということが分かって。

あと、それをですね、感覚をそういうふうに見ていくというところから始めて、だんだんと自分の内面に意識を向けて、例えば自分の中に生じてくる怒りのような感情とか、あるいは相手を決めつけるような考えに対しても、同じように巻き込まれずに、心の距離をとって、その存在を無条件に認め受け止めていく。こういうふうな修行法だ、ということが分かって、「あ、これ本当に、イエスが教えている無償・無条件の愛――アガペ――を心に育むのにすごく効果的な瞑想法だ」ということを、私、実感するようになったということなんですね。で、私はこれを「キリスト教ヴィパッサナー瞑想」という言い方で、キリスト教の枠の中で、これを特にキリスト教の信者さんたちを中心に手ほどきをして、とても喜ばれているというふうに感じています。

鈴木:大変興味深いお話をありがとうございました。

柳田:あ、いえいえ。

(終わり)

関連文献

「柳田敏洋神父インタビュー アガペーの人となるキリスト教ヴィパッサナー瞑想とは何か」『サンガジャパンVol.30』(サンガ、2018年8月)に所収。

柳田敏洋神父の講話『私たちはどこへ向かうのか?』(1 of 2)

昨年の4月に、山下良道さんと松田神父様の、ここでの1泊2日の青空リトリートがあって、その時に初めて直接に良道さんとお会いをして、そして、私も以前から「キリスト教ヴィパッサナー瞑想」と勝手に自分で名前を付けておこなっていたんですが、そういうふうな背景からお話をしていると、結構ですね、馬が合うというんですか、気が合うというんですか、同じ問題に直面して、どうこれに立ち向かっていったらいいのか、乗り越えていったらいいのか、という、まあこういうふうな問題意識とか方向性がですね、とても重なっているということを感じて、それ以来、メールのやりとりとかを含めてですね、かなり密な関係ができてきたかなと思います。その1つの結実が――この中にもご参加してくださった方があるかと思いますが――、2月の3日に新宿の朝日カルチャーセンターでやった、良道さんとの対談ということになりました。たくさんの方が詰めかけて下さって、非常に実りの多い、そのような対談になったんじゃないかなと思います。

そういうかたちを受けて、今回また4月に青空リトリートがここで行われることになったんですが、今回はもう少し日数を増やして、より本格的にというような形で、いま私たちが行っているというところです。それは、私たちが既に、良道さんが言っておられるこの二重構造に目覚めて、エゴの私を見つめているもう一人の私に目覚めて、「現実世界が『映画』の世界である」、そういうふうに見抜いていく。こういうために取り組んでいるのだということですね。こういう点、私は以前から「エゴの私が祈っても祈っても、結局エゴに留まっている限りは、そのエゴの世界を突破した祈りの世界に入れない」……こういったことを強く感じていましたので、そういう点で言葉遣いが違うとかですね、アプローチの仕方が違うとか、解き明かすための何か見取り図が違うとか、そういうところがあっても、丁寧に話していくと、中身としては本当に重なってくるところが多いかなというふうなことを感じました。

そこで、今からの時間は、私なりに「私たちはどこへ向かうのか」……こういうテーマでお話することができたらと思います。

(中略)

良道さんのこの法話の中で、たびたび「謎のX(エックス)」という言葉が出ていますけれども、やっぱり私たちにとって、「謎のX」とは一体何か? それはキリスト教のなかでも、大きなものだと思います。私たちは、さしあたってそれを「神」とか「キリスト」とか、そういうふうにキリスト教の枠の中で言っていますし、私はキリスト教カトリックの神父ですから、そのような立場から「謎のX」に向かって自分なりの歩みを続けていく。こういうふうな取り組みです。そのような取り組みの中で、私なりに気づけてきていることとか、そういったことをお話ししていきたいと思いますし……。一概に「仏教とキリスト教」というふうに言うとですね、良道さんにまた叱られるかも分かんないんですが、まあ一応私はキリスト教の枠の中で……。

キリスト教の人――まあ日本は少ないんですが、世界全体を見たら非常に多いんですが――、やっぱり多くの人が「映画世界」とか、あるいは「劇場世界」の中でキリスト教を生きている。やっぱりそれは非常に残念なことではないか、という、そういったことが強く感じられていますので、まあ方向性と言うんですか、キリスト教がいったい何を目指すのか、どこに向かおうとしているのか……そういったところを含めて、このマインドフルネス瞑想をですね、どんなふうに私たちが取り組んでいったらいいのか? といったふうなところで、お話ができたら、ということです。

仏教とキリスト教というところでいきますと、ある意味でキリスト教は、方向性が非常にはっきりしている。これは相対的なものだとは思いますけども、[そのように]言うことができるかなということです。それはご存じのように、神を信じていて、またその神は、父・子・聖霊という三位一体の神という特別な神をキリスト教は信じている。そこに非常に大きな枠としてのストラクチャーがあるということですね。

で、私たちは、本当に一言で言うならば、私たちの人生って何ですかというと、「神に向かう人生だ」……こういうふうに言うことができます。「じゃあ、その向かうべき神とは一体何ですか? どのような存在ですか?」ということについて、今日、手元に聖書を持ってきていますけれども、聖書の中の新約聖書の「ヨハネの第一の手紙」というのがありますが、その4章16節に「神は愛である」[とあります]。ギリシャ語が原文なんですけれども、そのギリシャ語では、「神はアガペである」。こういうふうな言い方があります。つまり、キリスト教徒にとって「神」というふうな言い方は色々ありますけれども、最終的にイエス・キリストが伝えようとした神とは、アガペである。こういうところにキリスト教の神は基づいていると思います。

じゃあ、アガペって何[かというと]……皆さんもどこかでお聞きになったことがおありかと思いますが、ギリシャ語で「愛」を表す言葉は色々あるんですが、大まかには4つあるというふうに言われています。皆さんが一番よく聞かれるのは、「エロス」というふうな、「性愛」と訳されたりするものですが、「なにか自分がフィーリングで好ましいと思うものに魅力を感じてひかれていく」。こういうふうな愛ですね。それを「エロス」とギリシャ語で言います。あるいは、「友愛」と訳されるんですけれども、同じ価値観を共有する者同士の深い結びつき。これはフィリアというふうな言葉で言います。そして、さらには、お母さんの子供に対する深い愛情。これを表す言葉にストルゲーという言葉があります。

こういったエロスとかフィリアとかストルゲーとか、そういうふうな、「愛」を表す言葉がある中で、「アガペ」という、愛についての言葉がある。そして、このアガペというのは、簡単に日本語で言うならば、「無償・無条件の、存在の受容」。こういうふうな意味のものだ。

「無償・無条件に」というのは、私たちは「愛」というふうに言っちゃうと、日本語では、やはり自然に「好ましい。魅力的な。私にとって」というような、そういうニュアンスがあるんですが――これも、ギリシャ語のアガペを日本語に訳す時に、聖書の専門家が「愛」という日本語を当てちゃったので、もうこれ以上仕方がないんですけれども――、実際のギリシャ語のアガペというのは、やっぱり[日本語の「愛」とは]ちょっと違うということですね。

全く無償・無条件に、その存在を受容する。あるいは肯定する。例えばその典型が、「あなたの敵を愛しなさい」……こういうふうな言葉になる。だけど、「あなたの敵を愛しなさい」というふうにしちゃうと、もともと敵というのは「嫌な、嫌いな、フィーリングで好かない人」というふうなことになっちゃいますから、それを「あなたの敵を愛しなさい」というふうな日本語に訳しちゃうと、もう、すごい人間性を捻じ曲げるような……。つまり無理矢理に、好きでもない人を好きであるかのように自分を捻じ曲げちゃわないかぎり、[敵を「愛する」ことは]できないということですね。

こういうところにやはり、「経典を、どう相応しい言葉に訳すか」というふうな、いつも起こってくる課題があります。ですから、もう私は――最近は言葉としても割と知られてきているので――アガペというふうなギリシャ語をそのまま使う方がですね、ずっと誤解がないというふうに思っていて、そういうふうに使っています。

アガペという言葉で、イエスは神の愛を示すのですけれども。例えば、「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」。こういうふうな言葉で、天の父・神とはどういうお方か、というふうなことを説明しています。

エスが生きたのは、今から2000年前のパレスチナ地方なんですけれども、その当時はユダヤ教であって、そしてユダヤ教はどちらかというと、因果応報の神。つまり、神との契約を人間が交わす。それが旧約聖書の歴史の中にあるんですが、その神との間に人間が交わした契約を、できるだけ忠実に守る人には沢山のご褒美が与えられる。例えば聖書にはですね、忠実な義人たちは何百歳も生きたとかですね、あるいは子宝に恵まれるとか、あるいは自分が持っている土地が豊作であるとか、飼っている家畜がどんどん子供を増やしていくとか。それが、神に忠実な「見える印」。だから逆にですね、子供が産めない奥さんとか、あるいは早死にする人[は]神に呪われている……こういうふうな理解があったということですね。こういったところ、やっぱり私たちも、歴史の中で表れてきた神理解というふうに見ていく必要があるかと思いますが。

こういったふうな、どちらかというと因果応報の神を信じているユダヤ教の只中に生まれ育ったイエスは、「神とは無償・無条件の愛のお方である」……こういうふうに伝えている。非常に具体的な言葉で。その中で、「敵をもアガペしなさい」ということですね。つまり、「どのような敵であったとしても、その敵の存在を無条件に受容しなさい。肯定しなさい。好きとか嫌いとかそういうレベルの事ではない」ということですね。こういったところにイエスは、真の神のあり方というのを見ていって、私たちに伝えようとした。つまりそこにはですね、「一所懸命、信仰を持ってがんばる人だから、神様が沢山の恵みを与える。そういう神様だ」[というものではない神理解がある]。それは、基本的に「がんばる人が報われる」[という]社会通念だったら、まあそれはそれで非常に公平な神様ということになるんですが、そのような私たち人間世界での公平とかっていうものを超える神をイエスは伝えようとしたということです。

それが、「神はアガペである」。無償・無条件の、存在の肯定……こういう恵みを、その人が善人であろうと悪人であろうと、全く関係なく与えられるということですね。ですから、取り引きの神ではないということですね。ここは非常に大事なところです。「『あなたのような神を信じます』というふうに私たちが神を信じたら、『よしよし。お前はよろしい。私の無償・無条件の愛をあげよう』という取り引きをする神」ではない。信じようと信じまいと、神を呪おうと、神なんて居るはずがないと思う人にも、この神の無償・無条件のアガペ、存在の受容というものは与えられているということですね。

ですから、この神を信じるというのは、すでに私が信じようと信じまいと、その前から、私がこの世に生まれ落ちた時から、この恵みは既に私と共にあったということを発見する。これが「信じる」ということです。「信じてなんぼ」とか、そういうことではありません。非常にそれ[=“信じてなんぼ”的な信仰]は、エゴの宗教観の中で出てくる信仰理解と言っていいかと思います。

そういう中で、やっぱり私たちは、丁寧に丁寧に、イエスが伝えようとした真の神、そしてその神の恵みについて目覚めていくということが大切になってきます。

私は今から11年前に、インドでゴエンカ式の10日間のヴィパッサナー瞑想あずかって、やはり本当にこの瞑想の素晴らしさというのを体感して、そしてこれが、私たちキリスト教を信じている者にとっても、非常にその信仰を本物にしていく……こういうふうな優れた修行、瞑想法だというふうなことを感じて、私なりにキリスト教の要素をいろいろ付け加えたりして、今ここで「キリスト教ヴィパッサナー瞑想」として皆さんにご紹介をしているということです。

さて、その「神に向かって」というふうなことなんですが、もう一つ大切なのが、「私たち人間とは何者か」ということを聖書がどう言っているかということです。一法庵関係の皆さんも、大体はご存知の方が多いのではないかなと思いますが、創世記の最初に天地創造の話があって、その最後に、神様が人間をお造りになるという話があります。その中で、神が「我々に似せ、我々に象って、人を造ろう」……こういうふうに仰って、そして土の塵を人の形にして、その人の形の鼻に息を吹き入れると、アダム、最初の人間になった。こういうふうな出来事があります。

つまり、私たち人間とは、もともと、神の似姿として造られたということですね。神に似たものとして人間は造られている。これがキリスト教の人間理解です。ですから、私たちがどこに向かっていくのか?……こういう点で見ていくならば、それは「私たちがもともと、神の似姿として造られた一人一人である。そのことを知って、そして、その神の似姿として造られた自分自身を完成に向けて自分を鍛えていく、成長させていく、歩ませていく」。こういうふうなことが分かってくるということですね。

じゃあ、その「神の似姿の完成」というのは何ですか? 「神はアガペである。神は、無償・無条件の存在肯定のお方である」というふうに見ていくならば、神の似姿[については]――まあ、この「似姿」をどう解釈するか、というふうなことが色々あるんですが――、私はやはり、「ヨハネの第一の手紙」の4章16節に書かれているところ、とても大切にしたいなと思っています。

「神とはアガペである」。ですから、神の似姿として造られた私たちも、アガペの似姿として造られている。つまり、私たちは最終的にアガペを本当の意味で生きる人間になっていくようにと、最初から神によって造られている。つまり、一人一人はその可能性を秘めているということですね。

でも、ここにまた現実が立ちはだかっています。つまり、もうすでに私たち、何度も良道さんを通じて聞かされていて、私たち自身も感じていることですけれども、どれほど「アガペの愛を生きましょうね」と教会の中で言われてもですね、そのアガペを生きることができない。どれだけ人に親切にしてもですね、「私、こんなに一所懸命に、あの人のためにやっているのに、無視されている。なんてひどい人!」というふうにですね、相手を無意識のうちに評価したり裁いたりしちゃっている。

つまり、本人は無償・無条件の愛で誠実に相手に関わっているつもりが、その奥にはですね、条件付きの愛を生きちゃっているところがあるということですね。「こんなに頑張っている私を、もっと分かって欲しい」というね。つまり私たちの中には、どんなに善いことをしていたとしても、どんなに親切をしていたとしても、どこかで、気づかない形で、見返りを求めるとか、感謝を求めるとか、条件付きにしちゃってる。「こんなに私がしてあげているのだから、あなたもちゃんとしてね」というふうな「裏のメッセージ」を込めてですね、相手に親切にするとか。こういったことが、やはり私たちの中に、キリストを信じている者にとっても日常茶飯事のようにある。

つまり、やっぱり私たちにとって、この「無償・無条件の、存在肯定」というアガペを生きるのを阻んでいるのはエゴだということです。これは、えらい厄介なものなんです。全く簡単ではないっていう……それはもう良道さんが仰っておられる通りだと思います。つまりですね、どこに問題があるかというと、「もう、ついつい、条件付きで『無償・無条件の愛』を生きてしまう自分」。ここに、何とかしないといけない問題がある。

じゃあ、「この条件付きについついなってしまう私をもっと整えよう。条件なしに生きられる私に。無償で愛を生きられる私に」……でもそれは、力づくでやっちゃうから、どういうことになるかというと、「こんな、見返りや条件付きが求められる状況の中でも、私は無条件に愛を施せる私だ」という、こういうまた新しいエゴがですね、もう無意識のうちに出てきちゃう。もうこれは、無限に続くんですね。つまり、一所懸命に立派になればなるほど、「立派に生きられている私だ」というふうに周りと自分を比べるエゴが、無意識の世界から出てきます。

つまりここに、ものすごい大きな問題があるということですね。イエスは「こんなふうに神が一人一人を無条件に愛して下さっているのだから、あなたがたもその神の愛に応えて、隣人を自分のように愛しなさい」……こうふうに言って、「これが、多くの掟の中で第一の掟である」というふうにイエスは私たちに聖書を通して教えてくれたんですけれども。でも、結局そこにいつも問題がある。「隣人を自分のように愛しなさい」というふうな、この「愛」というのはアガペの愛ということなんですが、それを一番阻んでいるのが「私のエゴ」だということですね。

こういうところを、本当に、繰り返し繰り返し、いくら頑張っても突破することができない厄介なエゴというふうにして悩んでいたところで、11年前にインドに行って、そしてゴエンカさんの10日間のヴィパッサナー瞑想に与ったときに、一つのその突破のきっかけになったということですね。

柳田敏洋神父の講話『私たちはどこへ向かうのか?』(2 of 2)へ続く)

柳田敏洋神父の講話『私たちはどこへ向かうのか?』(2 of 2)

柳田敏洋神父の講話『私たちはどこへ向かうのか?』(1 of 2)からの続き)

今回も、この青空リトリートが初めての方は結構、「もう疲れる」、「しんどい」、「脚が痛くてたまらないのに、まだどれだけ我慢しなければいけないの?」とかですね、そういうふうな実感を持っておられる方があるかと思います。私も11年前にインドで初めて[ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想の]10日間の体験をした時に、やっぱり同じように感じました。「わざわざ航空運賃を払って来たのに、こんな所でくじけちゃ元も子もない」というような打算的な思いもあったので。

最初はどうするかというと、「頑張る、我慢する、我慢する、耐える、耐える、耐えぬく」ということですね。チーンという鐘が鳴るのが待ち遠しくてたまらない。こういう感じですね。で、まあ、それで何とか何とか乗り切っていくのですが。でも、山下良道さんが、ヴィパッサナ―、マインドフルネス瞑想のポイントとしてお話し下さっているように、アドバイスは常にですね、「どのような痛みが来ても『観察せよ、観察せよ』。“observe, observe”」。そういうふうな言葉をですね、アドバイスとして何度も話されました。

ですから、我慢というのは、「痛くて苦しくてたまらない」ということですよね。やはりここにまた、エゴのからくりがあると思うんですが。まあエゴは、好ましいものを自分に引き寄せて、それと一つになって、うっとりとした満足感に浸りたい。[そして、エゴにとって]好ましくないものは、常に避けて自分から遠ざけようとする厄介なもの。というふうなことですね。

長く座っていると痛みが湧いてきて、その痛みはとんでもない苦しみを私に与えることになります。そうなるとですね、「もう痛い、痛い」というふうな感じになってくると、痛みというネガティブな感覚と自分を一つにしちゃう。このエゴの本質というのは「同化」……自分と何かを、ついつい一つにしちゃう。これは英語でassimilationと言ったりしますが。やっぱりここに、私たちの厄介なエゴの本質があるんじゃないかということですね。

つまり、「本当は自分ではないもの」と自分が、無意識のうちに一つになることで、それを私だと思い込んじゃう。ですから、うっとりするような良いものだったら……「本当に待ち遠しくてたまらなかったルイ・ヴィトンの春物バッグを手に入れた!」……こういうふうな、恍惚感。それは別に、ルイ・ヴィトンのバッグは「私」ではないんだけれど、[それを]手に入れた「私」は、このルイ・ヴィトンの春物最新流行のバッグは「私の存在の一部」のように心理的に感じちゃうと思うんですね。そうなると、うっとりするんですけども、でもそれは全く一時的な儚いものだということですね。

まあ、ポジティブなほうはまだ良いかもしれないんですけど、ネガティブなものは、やっぱり凄く厄介ということですね。その一つが痛みというふうに言っていいと思うのですが。そういったものと、ついつい、エゴは一つになっちゃう。そうしたら、「もう大変だ!」ということになると、エゴは力でそれをやっつけようとします。[その]一つがですね、避けることができないものだったら我慢するとか、別のことを考えて蓋をするとか。こういうふうな形になります。でも結局、痛い厄介なものは残ったままですから、いつまで経っても、真の問題は解決されないということです。

それに対して、「観察しなさい、観察しなさい」……つまり、「ついつい巻き込まれそうになるんだけれども、できるだけ心を穏やかにして、その痛みと、感じられる感覚を現象として見つめなさい。現象として見つめなさい」……こういうふうなアドバイスがあって。まあもちろん、そんな簡単にはできないんですけれども。私の場合は6日目だったんですが、結構激しい脚の痛みがあるのに、ふと気がつくと、心が巻き込まれずに、心臓もバクバクしたりせずに、全く穏やかな心で、自分の痛みを見つめている。こういうふうな境地を体験致しました。

その時に感じたのが、「私の意識というのはこんなにも自由なのか」ということですね。それまではとにかく「我慢、我慢。早く鐘が鳴らないか」……そればっかりを考えるとか、「この痛みがもっと強くなっていったらどうしよう」とか、「医者に[かからなければいけなくなったら]どうしよう」とか、ネガティブな発想がどんどん膨らんで、それが私の痛みを、また心理的に大きくするとか、まあこういったカラクリだったということが後で分かるようになったんですが。やっぱりその6日目の午後の体験、自分の身体の一部の脚に、実際の身体的な痛みがあるのに、心は穏やかにそれを見つめている。こういうふうな境地ですね。ですから、こういった体験をして、そして「本当の私の意識というのは、もっともっと実は自由なんだ」というふうなことを知るようになって、これが私の、一つの乗り越えるきっかけになったと思います。

つまり、そこでですね、私は今までは、「自分はエゴだ」というふうに思っていたけれど、「エゴではないもう一人の私がいる」という気づきですね。つまり、もう一人の私というのは、「痛い、痛い、痛い。大変だ。何とかしなければ。早く終わらないかな。どんなふうにして我慢できるだろうか」とかというふうに右往左往している、そのようなエゴから離れて、静かにその右往左往しているエゴと身体的な強い痛みを見つめている。そういう意識が確かに現れるということですね。そして、そこにこそ本当のこの私があるんじゃないかということですね。これを、まあ私なりに整理をしていって、「根源意識」というふうな名前で、今は呼んでいます。つまり――この「根源意識」というのは、勝手に私が名づけているものですけれども――、あらゆるものに対して巻き込まれない心で、穏やかにその現象を見つめられる。感覚にしても、感情にしても、あるいは思考にしても、ということですね。

私たちが巻き込まれやすいものの一つが、ネガティブな感情だと思いますけれども。誰かの一言でカチンと来て怒りが湧いてくるという時に、ついつい私たちは、エゴの傾向だったら、怒りと自分を一つにして、怒りの雲に自分が飲み込まれて、怒りの中に自分を見失っちゃう。こういったことが時々あったりします。いわゆる、キレるということですね。そうなると、怒りの雲がですね、大きくなって爆発しちゃう。大変なことを起こしちゃうということですね。

それに対して、怒りの雲から離れて、それを静かに「青空」から観る。これが良道さんの「本当の私は青空だ」というふうなところと繋がってくる、というふうなことかなと思いますけれども。「相手の一言で怒りが湧いてきてる」とか、あるいは考えにしてもですね、「あの人は私のことを見下している」というふうに、何か相手に対するレッテルを貼っちゃって、そのレッテルが強いものになると、その「相手は私を見下している」という考えが、「私」のアイデンティティの一部になっちゃう。これはもう、恐ろしいことですね。どんなに相手が優しい言葉をかけてきても、「何か裏があるに違いない」とかですね、もう常にネガティブなフィルターを通した解釈しかできなくなっちゃう。これがまた苦しみを生むということかなと思います。

それに対して、痛みの場合と同じように、「あ、相手の一言で、今、怒りが私の心に沸いてきている。相手の今言ったことで、『あの人は私を見下している』と今思った」というふうに気づく。そして、「価値観を入れないで」ということですから、怒りを裁かない。やっつけようとしない。「厄介なものだ」というふうなネガティブな判断も持ち込まない。相手にレッテルを貼る考えに対しても。こういうふうなところを見ていくとですね、「あ、これはイエスが言っている『存在の無条件の肯定』と全く同じだ」。

つまり、私の心に沸いてくる怒りに対しても、あるいは、相手をネガティブに決めつけるレッテル貼りの考えを持っても、「それを取り除こう」と今まではエゴがしていた。でも、そうではない。イエスが教えているアガペとは、どんなにネガティブなものが私の心に現れてきても、あるがままの存在、心に表れた存在の一つとして、それを認め、その存在を受けとめていくということ。ここに、イエスが教える本当の大切なアガペの中味があるということに、だんだんだんだんと気づき始めました。

そうして、そのように、あらゆるネガティブな心の状態をも、あるがままに、巻き込まれない形で気づいて、そしてその存在を認めていくというあり方がアガペであって、そのような気づきが出来るところにこそ、本当の私がある。ということが、だんだんと分かってきました。そして、このような無償・無条件の気づきの営みを「根源意識」というふうに名づけているのですが、この根源意識の場こそ本当の私の場だ。瞑想は、この根源意識と名付けた「本当の私」という場所に目覚めて、そこに本当の自分を見出していくという、こういうふうな営みではないか、というふうに感じるようになりました。

そこで、また私にとって非常に大切なのは、これが神とどう関係するかということですね。まあ、聖書の中にもいろいろあるんですが、いわゆるキリスト教の神様というのは天におられるとかですね……例えば子供向きのキリスト教についての絵本とかだったら、神様は「雲の上から、白いひげを生やしたおじいさんが地上を眺めている」とかですね、そういうふうに「外なる神」だというふうにイメージしやすいのですが、本当はそうではなくて、例えばパウロという人は「あなた方は知らないのですか。あなたがたは、神の神殿であることを。神は、私たちの内に住まわれる」とか、あるいはイエスの教えや生涯について書き記した[4つの]福音書というものがあるんですが、その中の1つの「ヨハネ福音書」では「父と私はあなた方のところに行って住む」……こういうふうな、非常に深い言葉があります。

つまり、神とは私の中に住まわれる神だ。そして、特に聖霊の働きということが、キリスト教では人間との関わりで強調されるんですが、この内なる聖霊の働きが、私の意識の根源に及んでいるから、私は自分の気づきとして、自分の心に沸いてくるネガティブな感覚や感情や思考を、全くあるがままに、一切価値判断を入れず、裁いたりせずに、存在肯定し、存在を受けとめていくことができる。

キリスト教の中での大きな問題に「人間の自由と、その神の恵みをどう調和させるか」というふうなことがあるんですが、それが全くすんなりとストンと落ちるということです。つまり、私が確かに自分で気づいている。私の力によって。でも同時に、それは私の意識の根源に働く愛の神の働きに協力する形での、私の営みだ。

そうしたら、ここには、何でもかんでも自力でこの世の問題を解決していこうとする人間万能中心主義でもないし、また、宗教の中にもおかしなこととしてあるのが「あらゆるものを全く神に丸投げ……『もう私には何もできません。あなただけが頼りです』」という丸投げ型に、神に頼っちゃう。これもやっぱりおかしなこと。ということです。

ですから、ここには非常に深い――「神秘的」というふうに言えるかも分かりませんが――人間の神に対する協力ということの中に、本当の宗教心というふうなものがあると思いますし、その一つの現れが――キリスト教の枠の中で[の表現]ということになりますが――ヴィパッサナーをしている時の私を、このように営ませてくれているのは、神の恵みの働きが確かに私の意識の根底に働いているから。こういうふうに理解をすることができるということですね。そして、こういうふうなところでこそ、神との出会いの場があるということですね。そして、そこにこそ本当の私の場がある。

つまり、この瞑想、本当にキリスト教にとっても素晴らしいなあと思うのは――やはりキリスト教の人も「本当の私」というふうなことについて求め、そしてエゴの中に彷徨っているというふうなことかと思いますが――、真の私とは、私が神と出会う場である。そしてそれは、まさに「無償・無条件の存在肯定」というイエスが示したアガペを生きる場にある。全部重なってくるということですね。ここ、すごく大切な点かなあというふうに思います。

そこでですね、それを教えてくれるのが、身体なんですね。で、これ本当にヴィパッサナーの素晴らしいところ、あるいは禅もそうだと思いますけれども、東洋の瞑想というのは身体を大切にします。身体から瞑想に入っていきます。

キリスト教の伝統[の中に、身体を扱うことが]無いことはないんですが、[キリスト教では]基本的には心と知性で祈る、神に向かう。そういうふうなパターンで、身体は二の次とかですね……。やっぱりここに、歴史的に見るならば――皆さんも聞かれた事があるかと思いますが――ギリシャの哲学を始めた人と言われているプラトンというのは、「肉体は魂の牢獄である。人間の救済とは、その魂が、牢獄になっている肉体から解放されることだ」というふうに考えていて、これがキリスト教の教えの中にも相当浸透していました。ですから、やはりキリスト教の中でですね、身体は二の次とかですね、肉欲とかいう言う方があったりするんですよ。本当は心と頭の問題なのに、あたかも身体自身が勝手に欲するとかですね、欲望を持つとか、まあそういうふうなイメージを、キリスト教の人間観の中に植え付けたところがあります。

でも、そうではない。全く逆ですね。一切、身体には欲が無いということですね。これも、瞑想を通して学んでいきました。実は[ヴィパッサナー瞑想を実践するより]前に、インドでヨーガに出会ってですね、ヨーガの素晴らしさというようなことを私は感じるようになったんですが、やっぱりそれはですね、身体の素晴らしさに開眼することができたということです。

つまり、キリスト教の枠の中で言っていきますとですね、「頭と心が求めてやまない神を、すでに身体は発見し、生きている」ということ。神と結び合って生きているという現実を「神の国」というふうにキリスト教で言ったりしますが、身体は既に「神の国」を生きているということですね。つまり、「身体の一つ一つの部分はアガペを生きている。無償・無条件の愛、無償・無条件の存在肯定を生きている」……こんなふうに言うことができるのじゃないか。

例えば、心臓。心臓は血液を体中に送り込むというポンプの役割を果たしますが、それを通して酸素というエネルギーを身体の隅々にまで送ります。それで私が生きるということですよね。でも、心臓は全くそれを無償・無条件で行っているということです。心臓は私たちがこの世に生まれ落ちた時から働き続けています。私たちは今晩、瞑想した後、部屋で寝ると思いますけど、心臓は寝ません。[心臓が]「私も休ませてもらいます」と言ったら、私の朝の目覚めは無しというふうになるんで(笑)。私たちが疲れて休んでいる時にも、心臓は働いている、働いている、働いている。つまり、この世をおさらばする時まで、心臓は休みなく働き続ける。 でも、こんなにずっと、私が生まれ落ちてきてから働き続けている心臓なんだけども、じゃあ「はい、一年にこれだけ血液を送ったから、リッターいくらで請求します」とか、そういったことを心臓は要求しない。あるいは、「こんなに頑張っている私を認めて、感謝の一言ぐらい言って欲しい」とか、こういうふうなことも一切言わないということですね。あるいは、全く無条件というのはですね、「こんな酷い人じゃなくて、もっと立派な人の心臓になりたかった」[というような]選り好みを心臓はしない。

全く無条件で、その人がどんなエゴにまみれている人であろうと、どんな立派な人であろうと、その人を無条件に受けとめて、その人を生かそう、生かそうとする。そして、このアガペの愛のシンボルである心臓の素晴らしさにだんだんと気づくようになったんですが、真の愛は自らを隠すんです。つまり、正常であって調子が良ければ良いほど、その姿に私たちは気づかない。その営みに気づかない。問題が起こった時にだけ気づくんです。病気とか、何かの欠陥がある[というふうに]。ですから、それは心臓だけじゃなくて、あらゆる部分について言うことが出来ます。肺、胃、腸、肝臓、腎臓、あるいは筋肉。あらゆるものがアガペなんです。無償・無条件の愛を生きている。そして、それが正常であればあるほど、自らを隠すということですね。

例えば、イエスは偽善者の施しについて批判をしながら、「あなた方は、右手がすることを左手に知らせてはならない」……こんなふうな言葉をイエスは言っています。右手のすることを左手も知らないというのは、全くの、自らを隠す。つまり、「わたくし」が無いんです。真のアガペには「わたくし」が無い。そして、丁寧に見ていくならば、心臓には「わたくし」はありません。肺にも「わたくし」はありません。これが私たちの身体だ。

そしてさらに、このような心臓や肺、そして胃、腸、あるいは筋肉を構成しているものは、いわゆる細胞ですね。今から5年前に、人間の大人の細胞がどれぐらいかというのが、かなり正確に推測できるようになって、その結果によるならば、私たち一人一人は約37兆の細胞を持っているということですね。そしてその殆どは、一年間で入れ替わるということですね。そして皆さんご存知のように、一つ一つの細胞は、DNAという私たち一人一人の設計図、遺伝子の設計図を全部持っているんだけれども、でも例えば、私の人差し指のこの細胞が、新しい細胞に入れ替わる時に、その人差し指のところとしてだけ働く。あるいは、目の細胞が入れ替わる時にも、目の働きの部分だけが現れてくる。それ以外は一切現れない。つまり、現れる部分に対して、全く自分を調和させて働いて、そして働き終わると、全く人知れず気づかれず、自ら退しりぞいていく。無の内に表れて、ふさわしい役目を果たし、無の内に退く。誰も何も気づかないうちに。これこそがアガペ。

ですから、だんだんと分かってくるのは、本当の愛を生きている人は知られない。隠されているんです。そして、知られることを望むというのは、もう既にエゴがあるということ。無理があるということ。真のアガペを生きるときには、知られる・知られないは何の関係もない、何の関心もない。ここに私たちは召されている。アガペの人になるというのは、そういうふうにですね、全く自分というものを無にして、そして相応しい働きをしていく。こういうふうなところに、アガペというふうな場がある。そしてまさに、根源意識というのを見ていったらですね、こういうふうな働きをする場が、根源意識と名付けられているところではないか。そしてここに、私たちにとって本当に大切な真の私の場があるというふうにですね、見ていくことができるのではないかということです。

そこで――またキリスト教の話ばかりになってしまうんですが――、こういうふうな私たちが、神の似姿として造られて、その似姿とは神のアガペである。じゃあ、アガペに似たものとしてアガペを生きるということであるならば、私たちの人間としての完成は、アガペの人になること。つまり、掛け値なしに無償・無条件の愛を生きる人になっていく。無償・無条件の存在肯定を生きる人になっていく。じゃあ、それ、誰ができているんですか? 「イエス・キリストだ」。こういうふうに私たちは信じている。そしてイエス・キリストの中に、この神の似姿を完成された人を見て、そしてその人を手本にして、私たちも歩んでいこう。

じゃあ、このアガペの究極って何ですか? 私たちキリスト教は、3月の末と4月の初めに、キリスト教の暦で一番大切なイースターを迎えました。イエス・キリストの十字架上の死――十字架がここにも架かっていますけれども――と、その三日後の蘇り……これを、一番大きなキリスト教の出来事として私たちは今年も祝いました。つまり、それに何を見ていくか。まあいわゆる、この十字架というふうなものは、ローマがその当時編み出した見せしめ刑ですね。政治犯にだけ適用された処罰刑であって、できるだけ苦しみが長く続くように……つまり、両手足に釘を打ちこんで、そしてその十字架に磔にすることで、すぐには死なないです。苦しみが長く長く続く。というふうなことで、「ローマに逆らうと、こんな酷い苦しみをお前たちは受けることになるんだぞ」というね、見せしめ刑ですね。ですから、まあ私たちが普通に見た時には、まあ特に日本人には、十字架のキリストというのはなかなか馴染めないところがあるというのは、そういう残酷さそのものを見える形で表す、そういうふうなものだから。でも、キリスト教はこれをアガペの愛のシンボルとして見ていきます。

つまり、イエスは――「ヨハネ福音書」の15章で言っておられるのですが――「友のために自分の命を捨てるほど大きなアガペはない」。ですから、相手の必要に応えて無償・無条件の愛を現す[ことも]もちろんアガペなんですが、最終的に最も大きなものは、自分を、そのアガペのために惜しみなく自分の命を差し出していくというところにある。これを、私たちキリスト教は、この十字架のイエスの中に見ていくということですね。ですから、十字架のイエスは、あのような残酷な殺され方をしたけれども、まったくそれに対してアガペを生き抜かれたということです。

とても興味深いのは、この十字架にイエスが架かった時に、十字架に付けた当局の人たちがですね、「お前がもし本当の救い主なら、今すぐ十字架から降りてみろ。他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ降りてみろ。そうしたら信じてやろう」と嘲笑うんですね。でもイエスは十字架から降りない。十字架から降りるというのは、そこで、エゴが、神のエゴが出ることになる。「お前ら見ておれ。どんな酷いことをしたか思い知らせてやる」……これ、恐ろしい裁きの神です。力の神です。キリスト教が信じているのは、神の救いは決して力ではなく、愛だ。アガペのみが人間を救うことができる。この教えですね。イエスは苦しみのうちに十字架上で亡くなられた。

ここにですね、本当に大きなキリスト教の神秘があって……ということなんですが。ここにですね、すごく大切な点があります。そのように亡くなったキリストをですね、「あの人こそが私たちの救い主だ」というふうに信じるグループが現れて、それがキリスト教に繋がっていく、キリスト教の成立ということになっていくんですが。

「このように私たちに神を示してくださったイエス・キリストとは何者か」ということが、非常に大きな問題になります。これについては、いわゆる「キリストとは何者か」ということで、キリスト論という言葉で言われるようになっているんですが。イエスが亡くなったのは、紀元30年4月7日というふうに言われています。それから6世紀、7世紀くらい、つまり600年、700年かけて、この「キリストとは何者か」というふうなことが論じられて、最終的に一つにまとまっていくのですが、それは「イエス・キリストとは、まことの神であり、まことの人である」[ということ]。つまり「50%神で、50%人である」わけではなく、「100%神であり、かつ100%人[である]」。これがイエス・キリストだ。じゃあ、どんなふうにしてその、イエス・キリストのなかにこの神と人間が居ることができるのか。これがもう、古代の教会の大問題だったんです。でも、ここにですね、私たちがやっている――良道さんも言っている――「二人の私」を解くヒントがあるんですね、はい。つまり、ここでですね、「十字架で苦しんだイエスはどのイエスか?」……こういう問題[が出てくる]。

つまり、100%神なら、神であるイエスが苦しんだのか? あるいは苦しまなかったのか? こういうふうな、非常に、追求していくと大きな問題があるんですけれども。ですから、ここにはですね、最終的に「私というものを構成しているものは一体何か?」という非常に大きな問題が出てきます。実はこの、古代教会の「キリストとは何者か」というふうな、すごい哲学的な、神学的な議論の中にですね、人格という概念が出てくる。

私たちは[人格という言葉を]普通に使っていますけれども。つまり、私は自分のこういうような身体を持っていますけれども、でも私の両手両足がもげても、私は私。外見そとみではないということですね。まだ髪の毛はありますけど、これが全部無くなっても、私は私です。あるいは、自動車事故に遭って車が燃えて、誰が見ても分からな[いほど身体が損傷しても]、私が鏡を見たら「あ、私の身体が丸焦げになって、もうまったくひどい姿になった」と私は気づける。

つまり、そういう「私」というもの[が]、私たち一人一人にはある。他の誰でもないこの「私」。そういうところに「人格」というのを見ていこうとする。「じゃあ、この『人格』って一体なんですか?」というふうな、そういったことが非常に大きな問題になってきて。それをですね、ギリシャ教父と呼ばれる、ギリシャ語で神学を勉強する人たちは「ヒュポスターシス」という、そういうふうなギリシャ語で言い表すようになりました。これがですね、丁寧に見ていくと、「根源意識」とすごく重なってくるんです。

つまり、「ヒュポスターシス」というギリシャ語は、その人のその人たる中心を表すというふうな概念として成立してくるんですが、それは、実は何ものでもない。何もの[かで]あったら、それは対象化されてしまいます。つまり、しんの私というのは、私以外の者を私以外の者だと認める事ができる。そういうふうな私であるならば、「これが私である」というふうに見せることができるとしたら、じゃあ、「これが私であると見せている私は誰ですか? その人は誰ですか?」……こういう問題が出てきます。

というふうに――ちょっと、頭のはたらきということも必要になってくるかも分かりませんが――、こういうふうに見ていくと、真の私が私であるというふうに言い切ることができるものは「無」なんです。そして「無」以外に、私が私であるというところを成り立たせる場はない。これが、神だ。

イエス・キリストは神の子として生まれたというふうに[キリスト教徒は]信じているんですが、それは、肉体を持って人として、神がクリスマスにお生まれになったということを、クリスマスとしてお祝いするんですが、その神の「ヒュポスターシス」――これを位格とか人格とか言ったりするのですが――、その「私性わたしせい」というのを持って、キリストはマリアの胎内からお生まれになったというふうに理解することができるようになりました。

そうして見ていくとですね、この「私性」のところに、神たる所以があるけれども、それ以外は、まったく100%人間だということです。一つの受精卵――まあ、いわゆる処女懐胎ということをキリスト教は信じていますから、[キリストは]特別って言うんですけれど――、まったく人間の細胞としてお生まれになった。でも、その「私性」、つまり「イエス・キリスト性」というのは、神性しんせい、神である。その神が、人間と同じように大きくなっていかれる。

ということで見ていくと(中略)、つまり、本当にこれはヴィパッサナーをしていて分かるようになったんですが、十字架上のイエスの苦しみは、100%人間としての苦しみである。でも、その苦しみから、神としてのキリストは離脱しているという。はい、ものすごい、ちょっと神秘的なところなんですが。

でも、最初のほうに言いました、「自分の激しい脚の痛みであるのに、ふと気がつくと、まったく巻き込まれないで穏やかに、その痛みという現象を自分のこととして受けとめられる」というのは、もう一人の私ですね。あるいは、真の私がそのように気づけていると、その真の私は、私の身体的な痛みに巻き込まれていない。こういうふうな現実が出てくる。

つまり、こういうふうに見ていくならば、「私たちが神の似姿として造られているのは、このイエス・キリストのキリスト性という、無なる神という場に、実は私もあずかる身なんだ。一人ひとりは。というところに、神の似姿として造られた私たちの場がある」と。まあいわゆる、キリスト教の教えの枠の中ですけど、突き詰めていくと、こういう理解に到達することができるんじゃないか。まあ、あくまでも私なりの考えなんですが。でもこれは、こういうふうな瞑想修行とものすごく重なってくるということですね。

そうしていくと、今まで[の]「痛い、痛い。何とかしなければ」というエゴが本当の私ではなく、それを静かに、無償・無条件の存在受容として認めることができる、もう一人の私、真の無なる自己というところに本当の私があり、その無なる自己こそが神との接点になっていく。そこで私は、神の似姿として造られた、その私に目覚めて現実世界を生きることができる。巻き込まれそうになりながらも、静かに見つめる心を持って、全く穏やかな自由な心で。そして、そここそが、全く無理なく自然体で、一切条件を持ち込まずに、アガペの愛を生きられる場です。「無」だからです。そしてその「無」は、神によって満たされているから、それ以上私は何も必要としない。そこに本当の幸せがある。そこに本当の平和もある。こういうことではないかと、だんだんと気づき始めました。

まあこれは、良道さんとのやりとりを通して色々と私なりに、「自分が信じているキリスト教の中心とは何か」というふうな、そういったところも、だんだんと気づかされていく中で、今のところ私が到達した地点だということです。

一応、キリスト教の枠の中でお話しましたけれども、これを少しですね、置き換えると、もう色んな枠でですね、これを私たちはまた自分のこととして見ていくことができるのではないか。そして、丁寧に見ていくならば、本来の私は、もう最初から「もう一人の私」なんです。でもそれに、やっぱり気づかない、目覚めない、という中で生きているから、いわゆる「映画の中の私」として生きちゃってる。でもそうではない。そこに本当の私は無いということですね。

時間が来ましたので、これぐらいで終えたいと思います。一つの参考にして下さればと思います。

(終わり)