NHKラジオ第2 宗教の時間「神父の私が実践している仏教の瞑想法」(イエズス会霊性センター「せせらぎ」所長 柳田敏洋)

ナレーション:宗教の時間です。今日は、「神父の私が実践している仏教の瞑想法」と題して、イエズス会霊性センター「せせらぎ」所長、柳田敏洋さんにお話を伺います。柳田さんは、1952年のお生まれ。京都大学大学院工学研究科の修士課程を修了後、民間企業に技術研究員として勤務した後、1983年にカトリックイエズス会に入会。改めて上智大学大学院哲学専攻課程と神学専攻課程で学ばれました。1991年にカトリック司祭となり、アメリカとカナダでイエズス会の瞑想法「霊操」の指導コース研修を受けて、帰国後、瞑想指導に当たってこられました。聞き手は鈴木健次ディレクターです。

鈴木:柳田さんが所長をしていらっしゃるイエズス会霊性センター「せせらぎ」というところは、どういうお仕事なんですか?

柳田:これはですね、私、イエズス会の司祭ですので、イエズス会霊性に基づく修練や祈りを指導するところなんです。修道者や信徒、そしてシスターたちのための8日間のコースというのが主なんですけども、それ以外にも、30日間するものとか、あるいは日帰りとか、1泊、2泊、3泊といったものも、いろいろプログラムに入れています。

鈴木:では、プロのためでもあり、求道者のためでもあると。

柳田:そうですね。今頃は一般の方、つまりキリスト教の施設として作られたものですけども、一般の方とか、最近は仏教の方とかも、おいでになっておられますね。

鈴木イエズス会の瞑想というとですね、我々の日常から遠いような感じも無いわけではないんですけれども、柳田さんはもともと京都大学の大学院の工学研究科という理科系の学問を修められて、普通の民間会社で技術研究員として働いておられたということですが、どうしてそんな人生の大転換を決心されたんでしょうか?

柳田:私の祖母がもともとカトリックでして、私、3代目の信者ということで、カトリックの場合は幼児洗礼というのがありますので、生まれて2ヶ月目に洗礼を受けまして、そしてカトリックの信徒として大きくなってきて、それで、大学、大学院を出て、民間会社に勤めるようになったんですが、やっぱり働き始めて3年目ぐらいからですね、自分の人生1回限りなので、できたら終わりが近づいた時に悔いのない生き方をしたいというふうに強く感じるようになって、じゃあその悔いのない生き方とはどういう生き方か、というようなところを見ていたときに、「あ、私は信仰なしに生きることができない。そして、信仰を中途半端にするんじゃなくて、本当に徹底して究めるような人生を生きたい」と感じるようになって、これがきっかけになって、たまたま私は山口県で働いていたんですが、その時に相談した神父様がイエズス会の神父様で、「イエズス会いいなあ」というふうに魅力を感じて、ということなんです。

鈴木:山口は、もともとザビエルの行ったところでもあり、イエズス会と関係が深いですね。

柳田:そうですね。ずーっと歴史的に見ても、大内氏が主導権を握っていたときに、ザビエルが訪れて、そして布教の許可を貰ったという、やっぱりすごく歴史的にも由緒ある地というところで、私がイエズス会への道を感じたというのは、今振り返るとですね、何かこれもご縁かなというふうに思っていますけれども。

鈴木:私はあの、若い時にフランス文学をやりましてね。フランス語でイエズス会士のことをジェズイット(Jésuites)といいますね。そうすると、イエズス会士という訳は、2番目は「偽善者」と書いてあるんです。

柳田:ははは(笑)。はい、そうですね。

鈴木モリエールの劇なんかではイメージが良くないですけれども。30代の中頃、ローマのイエズス会本部へ行って。宗教団体ですけれども、機能的でですね、そして人によっては平服ですね、企業の人のような形で仕事をしていらっしゃるんで、びっくりしたことがあります。

柳田:あ、なるほど。もともと、イエズス会創立者がスペイン人のロヨラのイグナチオという人で、まあいわゆる貴族出身で、騎士のような道を歩んでいたんですが、その途中で戦争で足を負傷した時に、キリストに仕えたいというふうにして、まったく180度変わっちゃったんですね。その時に、人々の魂を救いたいというふうに熱い思いに駆られて、人々の魂を救うためだったら、どんな仕事でも、あるいはそういう人々に近づくために必要だったら、普通の人が着るような服も含めて、人々に近づくことができるような生活とかですね、あるいは修道院のスタイルとかというようなことを考えて、まあこれが今もまだ続いているということですね。ですからそういったところは、非常にイエズス会のある種の魅力かなと思っていますけれども。

鈴木ロヨラという人は、日本語にも訳されておりますけれども『霊操』という瞑想の指導書――手引書というんでしょうか――を書かれていますが、イエズス会のかた、皆さんその『霊操』に従って瞑想的な修行というのをされるわけですか?

柳田:そうですね。ですから、元々この創立者ロヨラのイグナチオの霊的な体験を、自分と同じように働く人が同じ心を持って働いてもらいたいという、ロヨラのイグナチオのこの考えから、彼自身が『黙想指南書』というものを編み出して、これをいま私たちは「霊操」、つまり霊魂を調えるという……

鈴木:「そう」は、車の操縦なんかの「操」という字ですね?

柳田:そうですね。体操の「操」という字と考えていただいてもいいかと思いますが、魂を調える道というふうな、そういうふうなもので、これを30日間で行うという、そういうふうな修行の体系を彼が編み出して。それはもうイエズス会に入ってくる人が必ず行わなければいけない霊的修行というふうな位置づけになっています。そしてその中味はですね、1日に5回、1回1時間祈っていくというふうなことで、4つの週というふうに分かれていまして、第1の週では、自分の罪深さを認め、神の愛によって清めて頂く。そして清められた私が、イエス・キリストに従う道を聖書を通して祈っていく。そういうふうなところから、さらにイエスは十字架でご自分を捧げて死なれて、というふうな、そういうふうなことなので、自分も覚悟を持ってイエスに徹底して最後まで従うということで、第3週ではイエスの受難と死を祈り、そして聖書では3日後にイエスは蘇ったという復活を信じていますから、第4週というのがあって、最後に覚悟を決めてイエスとともに自我に死んだ私が、神の命に再び目覚めて、復活のキリストと共に世に出て働くという、そういうふうなですね、すごく霊的にダイナミックなプロセスを経させるというのが、30日間の霊操というものなんですね。

鈴木:柳田さんは、特にイエズス会の中でも霊操の指導者というのが神父としての主なお仕事で、これまで過ごしてらした、というふうに言ってもいいんでしょうかね?

柳田:そうですね。養成が終わった後、アメリカやカナダで勉強させてもらったんですが、その時に「あなたは、イエズス会に入会する人たちに授ける30日間の霊操を指導する人になりなさい」ということで、戻ってきて、およそ11年間ですね、まあいわゆる小僧の雲水修行[のよう]なものになるんですが、イエズス会の修練院という、そういうところで働いていて、イエズス会の門を叩いてくる若い人たちに30日間の霊操というのを授けていました。

鈴木:イグナチウス・デ・ロヨラの作ったメソッド、霊操というのは、いろんな執着とか、心のこだわりというものを消していってですね、物事にとらわれない心を養うというのが大きな目標かと思うんですけれども、口でいうと簡単ですが、なかなか人間そう簡単にですね、執着心を捨てる、エゴを捨てるなんていうことはですね、できないんではないかと、俗人である私は思うんですが。

柳田:いや、まあ実は、俗人でない修道者司祭でも同じような問題を抱えるということにだんだんと私も気づくようになっていったということですね。仰られたように、霊操というのは、自分の魂を見つめて、乱れた愛着から離れて神の御旨を知り、そして自分を調えていく道。こんなふうにも言うことができます。これを、乱れた愛着から離れて、自分の心を離脱させていくというのは、「不偏心」という言葉で言い表したりするんですが、

鈴木:「へん」は「偏る」、「偏り」の「へん」ですね?

柳田:そうですね。ですから、偏らない心。じゃあ、偏るのは何かというと、「神のみ」というふうなことですね。ですから、具体的にはイグナチオも、この『霊操』という本の中で、「長く生きることにも、短くしか生きないことにも、健康にも病気にも、富にも貧しさにも、名誉にも不名誉にも偏らない。その心が不偏心、偏らない心だ」というふうに言っていて、「本当にエゴを超えた完全な離脱の心で神の御旨を生きる。ここに本当に自分の魂を調える道がある」というふうに考えていて、それは本当に素晴らしいと思うんですが、でも30日間この霊操というのをしていたら、非常に心が深まって、そういうふうに離脱したかのように感じるんですけれども。実感としてですね。でも、それが終わって、現実の生活とかに戻っていくと、あるいは自分が任されている仕事に戻っていく中でですね、だんだんだんだんですね、消え去っていたはずのエゴがまた頭をムクムクともたげてくる。こういうふうな問題に気づくようになって。

そしてイエズス会の場合は、30日間の霊操をするんですが、その後は毎年8日間の霊操の短縮版というのをするということが義務としてなされていて、それも毎年やっていくんですが、その時にその8日間の中で心は深まるんですけれども、でもやっぱり、そこから普段の生活や自分の与えられている教会での仕事とか、あるいは学校での教える仕事とかをしていく中でですね、やっぱりまたエゴが頭をもたげてくるというふうなことを痛感するようになって、これはどうしたもんかというふうなことが、すごく私にとって悩みになっていたということなんです、実は。

鈴木:実際にですね、瞑想の生活をされた中で、逆にそういう疑問を深められたというお話を――非常に正直なお話でですね――興味深く今うかがっていたんですが。これはしかし、そう簡単に解決できないと思うんですが、今もそういうお仕事をずっと続けていらっしゃるということは、一つの突破口を得られたというふうに考えてよろしいんでしょうかね?

柳田:そうですね。まあ実は、なかなか「どうしたもんか」というふうに悩んでいたところ、2002年から隔年でインドのイエズス会修道院に滞在をする、そういうふうなイベントが始まってですね、そこで若い日本人のイエズス会の修道者を連れて1ヶ月間共同生活をインドのイエズス会修道院でするということを始めるようになってですね。

毎朝5時に起きて、5時半から30分間、ヨーガをしていたんですね。このヨーガが私にとって、また突破するための入り口になったということですね。向こうのインド人の修道者と一緒にこのヨーガをしていたら、だんだんとですね、「あ、これは体による祈りだ」というふうに気づくようになったんですね。まあ、体操と似ているところもあるんですが、一定のポーズをとって静止する……それが静止運動という形でヨーガの特徴でもあるんですが、こういうふうにして一つの形をとって、そして自分の体を見つめていると、自分の体の営みというものが、頭を超えて私を全く無条件に受け入れて支えてくれているという、こういうふうな実感を持つようになってですね。

実はキリスト教の場合は、イエスが教えた「無償・無条件の愛」――これをギリシア語で「アガペ」といいますが――、その愛を生きるような人になっていくということ、これがすごく目指すところなんですね。それを阻んでいるのが実は「エゴ」。ということで、それを悩みの種としていたんですけども、でもふと気がつくとですね、体にはエゴが無い。どんなに怠け者でも、どんなに立派な人でも、どんなに不埒な考えを持つ人でも、どんなに徳の高い考えを持っている人でも、全く関係なく、体はその人を無条件に生かそうと努めてくれている。無言のうちに。こういうふうな気づきを、ヨーガをしている中で気づいてですね。つまり、心や頭は神を求めてやまないのに、体はすでに神をさとっている。こういうふうな感覚を持つようになったんですね。これが突破のきっかけということになったかと、振り返って思いますね。

鈴木:よく日本語でですね、「体で覚える」なんて言いますね。

柳田:はい。

鈴木:今のお話で、心と頭でそれまでの霊操を続けてこられて、もう一つ体で覚えるというか、体の姿勢というようなものを重視して霊操をするというようなことの大切さに気づかれたというふうにいってもいいんでしょうか?

柳田:そうですね。本当にその通りですね。心では何か「エゴが出てきている、自我が出てきている」というふうに気づいて、「じゃあ、自我を抑えなければ、取り払わなければ」と思っても、でも結局、自我を抑えなければ・取り払わなければと思っているのが、またエゴになってきますから、結局、堂々巡りですね。ところが、そういうふうな堂々巡りで悩んでいる私の心[を]、体は全く無言のうちに支えてくれている。静かに。そういうふうなところに気づくと、「あ、もっと体から学ぶ必要がある。実はここにすごく大切な祈りの道、霊性の道がある」というふうに気づくようになったということなんですね。

鈴木:ヨーガというのはもともと、宗教的なものから出ているんですか?

柳田:そうですね。非常にヨーガも古くて、バラモン教、あるいはヒンドゥー教の中で出てきた精神修行ですね。つまり、心はついフラフラしがちなので、心と体を結ぶ道……これをもともと「ユッジュ」という言葉で言っていたのが、「ヨーガ」というふうなサンスクリット語で言うようになって。それが、いわゆる精神修行の一つの体系としてまとめられていってという、そういうふうな形で、非常に深いスピリチュアルなものを含んでいますね。

鈴木:ということはですね、今やっていらっしゃる霊性センターの「せせらぎ」では、ロヨラの霊操法にヨーガのメソッドを入れていらっしゃるということですか?

柳田:実は今は入れてないんですけども、インドに行くようになって、インド人のイエズス会の神父さんからですね、「仏教由来だけれども、ヴィパッサナー瞑想というのがあって、このヴィパッサナー瞑想がすごく良いから、ぜひ一度与りなさい」……こういうふうに勧められていて、日本に戻ってからも調べたら、「これはイグナチオ・デ・ロヨラが編み出した霊操が本当に目指す偏らない心、不偏心を育むのに、とても効果的な方法ではないか」というようなことを少し予感をしまして、実際に体験するチャンスを覗っていったところなんですね。そうしたら、修練院で働く仕事が11年目で終わって、2007年にですね、半年間休暇を貰って――まあいわゆる「リフレッシュしてきなさい」という、そういうようなことなんですが――、その時に、これはいいチャンスだということでインドに再び行って、そこで8日間のヴィパッサナー瞑想というのに与った。これ、なかなか大変だったんですが、でも非常に深い、私にとっては体験となって、このエゴをどう乗り越えていったらいいのかの突破口を見出したという、こういうふうな私にとっての非常に大きな体験となったんですね。

鈴木:具体的にどんな体験をされたんですか?

柳田:10日間まるまるということなんですけれども、この大変さというのはですね、「徹底している」というところですね。例えば、「完全に沈黙をする」というようなこと……これは英語でNoble Silenceというふうに言ったりしていましたけれども。「聖なる沈黙」と日本語で言われたりしますが。それを完全に外的にも内的にも心を沈黙させるというので、それを実行していくために余計なものを一切預けてから瞑想に入るということが求められます。例えば余計な物というと、筆記用具とか書籍とか、パスポートとか財布とか、携帯電話とか。常備薬以外は全て――もちろんアルコール類も含めて――ということで、一切預けてからでないと瞑想に与ることができない。こういうふうな仕組みになっていて、私が与ったときには、インドで一番大きなセンターで男性250人ぐらい、女性250人ぐらいですが、完全に男女は分かれていてですね、男性だけのグループでやっていたんですが。

そしてそのような厳しさの中で、1日10時間ですね、坐禅のような形で大きなホールで瞑想をしていく。これが一番大変だったところなんですね。朝4時に起きて、4時半から朝食前までに2時間。そして朝食を摂って午前中3時間。昼食を軽く摂って、午後に4時間。そして夕食もまた軽く摂って、夜に1時間半ぐらい。あと、そこで講話もあるというような、合わせて10時間以上ですね、坐って瞑想するということで、これがもう身体的に極限まで体験するというような、そういうようなこととして本当に大変でした。

鈴木:カリキュラムはちゃんと決まっているわけですか?

柳田:ええ、そうですね。実はこれは、もう世界中に広がっている、サティア・ナラヤン・ゴエンカさんというインド人の方がミャンマーで学ばれたそういうふうなスタイルなんですが。今、世界中にこのセンターがあって、どこでも同じプログラムで、ということですね。

ですから、ここらへんはすごくメソッドとして確立していると思うんですが、その中味ですね……最初に私が取り組んで――皆さんもそうだったんですが――鼻の出入口での呼吸に伴う皮膚感覚に気づく。これに徹底するということですね。ですから、鼻の出入口で普通に呼吸を、自然な呼吸でしているとき、そんなに感じられないので、そこで意識を集中させて息の流れに伴う微妙な皮膚の感覚――例えば、息を少し吸うと冷たく感じるとか、そういったもの――で、だんだんと気づきを深めていくことができるんですが。ここでですね、意識の集中力を養うということがあるんですが、いざやってみると、もう20秒経たないうちに、どこかに考えが行っちゃって、「いけない、いけない」ということで、また鼻の出入口へ戻して。これをもう本当に繰り返してやっていく。

それだけじゃなくて、じーっと坐っているとですね、もうすごく足が痺れてくるとか、もう痛みが生じてくるということで、自分なりにですね、「あ、もうこれ以上耐えられないな」というふうに思うと、右脚を左脚の上に置き替えたりとか、あるいはそれまで胡坐で瞑想していたのを正座型に切り替えるとかですね、いわゆる20分に一回ぐらい、自分の体の状態を見ながら、これを進めていくというふうなことはしていきました。ですから、それなりに覚悟を決めて、1日10時間取り組むということをしていて。脚を組み替えるとか、そこらへんは結構自由だったんですが。

まあ最初の3日間は、鼻の出入口での呼吸に伴う皮膚感覚に徹底して気づくというようなことをしていて、それで集中力を養った後、4日目から体の全体に意識を……それぞれ頭のてっぺんから足先まで四十五カ所に意識を向けていって、そして皮膚の感覚にあるがままに気づくという修行が始まったんですね。その中で4日目から始まったのが相当また私にとって大変で。それは、この1時間はどんなことがあっても、最初に取った体の姿勢を一切崩しちゃいけません、変えちゃいけません。そしてこれは目を閉じて意識の集中を図るというふうな瞑想法なんですが、「一旦閉じた目を、一時間どんなことがあっても目を開けちゃいけません」というふうなことが入ってきて、これが大変だったんです。今までは痛みが募ってきたら20分に1回ぐらい姿勢を変えるということでなんとかしていくことができたんですが、それができないとですね、痛みがどんどんどんどん強くなってきて。それで、それに対して必死で我慢するとか。その時にですね、腹式呼吸をすると助けになるよというふうに言われて、[それを]やっていてもまた痛みはどんどん募ってきますから、もう額から脂汗が出てくるとか、もう必死に耐えるというような形でなんとか1時間をこなすことができたんですね。で、「あ、なんとかこなせた」と思ったんですが、もう、すぐ恐怖が襲ってきたのが、「えっ? これを毎日これから1日3回もするのか」という、そういうふうな怖ろしさですね。

でも、その都度その都度、覚悟を決めてやっていくとですね、できるということがだんだんと自分なりにも実感できるようになりました。そして、その時にアドバイスされたのが、「痛みに巻き込まれるな。痛みと自分を一つにするな。穏やかな心で痛みを観察せよ、観察せよ」。[「観察せよ」は]英語でobserveという、そういうような言葉で励ましを受けたんですね。でもそんなふうにして励まされても、痛いものは痛いので、もう我慢するしかないという、耐え難い痛みというようなことをやっぱり毎日体験をしていたんですが、六日目の午後なんですね、同じように「この1時間、体を動かしちゃいけません。目を一切開けちゃいけません、この1時間は」……そういうふうな瞑想修行の中で、耐え難い脚の痛みがまた感じられたんですが、ふと気がつくと、脚に耐え難い痛みがあるのに、心は全く穏やかに、痛みという脚の状態を静かに見続けている。こういうふうな境地を体験しました。それをして――非常に不思議な境地だったんですが、――、その時に私が感じたのは、「え? 意識というのはこんなにも自由なのか。実際にすごい激しい痛みが脚にあるのに、私の心は巻き込まれずに、ただ静かに見つめている」。こういう境地を体験して、意識の、人間のこのすごさ、自由の深さというふうなものに気づいたということなんですね。

そういうふうなところから、自分が最初の方にですね、「たいへんだ、たいへんだ」というふうに思って脂汗を出していた、こういうふうな体験を振り返ると、痛みが限界に達してくると、いろんな妄想が湧いてきたりする。つまり、「これ以上痛みが強くなって、自分の脚がやられたらどうしよう」とかですね、「いつまでこの痛みに耐えなければければいけないのか」……こういうふうなことを考えた瞬間にですね、痛みが心理的に2倍にも3倍にもなっちゃうということなんですね。

そこでだんだんと分かってきたのは、この瞑想は、「今この瞬間のあるがままの自分の感覚にのみ意識を留めて、静かに気づけ。巻き込まれずに心の距離をとって気づけ」。こういうふうにしていくと、意識は巻き込まれずに離脱できる。こういうふうな境地を、私は体験することができて、それからですね、痛みが同じように襲ってくるということがあっても、同じように心を、ただ静かに見つめるという方にもっていくと対応できるようになっていった。これが、その後の私のキリスト教の瞑想法というふうなものと結びつけて取り組めるようになっていったターニングポイントというような体験だったんですね。

鈴木:お話を伺っているだけでも、こちらの脚が痛くなるような感じですが(笑)。それを客観視できるかどうかというのは、実際やらないと体得できないようなところがあるんだと思いますが。今のお話を伺っていると、仏教の中から生まれたヴィパッサナーの瞑想法というのを一つの手段としてキリスト教的な信仰を深めるために活用されている、というふうに言ってもいいんでしょうか?

柳田:そうですね。実はその、痛みというのはすごくネガティブなもので、私たちは普通、排除したいと思っていますけれども、イエス・キリストは「隣人愛」ということを教えていて、その隣人の中に「敵をも愛しなさい。自分を迫害する者のためにも祈りなさい」……こういうふうに言っていて、そして「それは、父なる神が善人にも悪人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせておられるからだ」。こういうふうな説明をして、イエス・キリストが伝える神は「全くその人の善さ、問題、悪さというものを超えて、その存在を無条件に慈しみ受け止められる方だ」。こういうふうなことを教えて、そのような神の愛をギリシア語でアガペというふうに言っているんですが、「そのアガペの神を信じて、あなたもアガペの愛――無償・無条件の愛――を生きなさいよ」……これがキリスト教のエッセンス、中心的な教えということなんですけども。でも、それができないので私が困っていて、それを阻んでいるのがエゴだった、ということなんですが。

このヴィパッサナー瞑想というのは、「自分の中に生じてくるネガティブな痛みというものも巻き込まれずに、心の距離をとって、あるがままに認め、その存在を受け止めよ」。こういうふうな瞑想法だということが分かって、「あ、これはイエスが言っているアガペと同じことじゃないか」ということですね。つまり自分の中に生じてくるどんな厄介なもの、ひどいもの、取り除く必要があるもの、こういうふうに思えるネガティブなものであっても、それをあるがままに認めよ。こういうふうなイエスのアガペの愛の教えと全く重なってくる。こういうふうな瞑想修行だということが分かって。

あと、それをですね、感覚をそういうふうに見ていくというところから始めて、だんだんと自分の内面に意識を向けて、例えば自分の中に生じてくる怒りのような感情とか、あるいは相手を決めつけるような考えに対しても、同じように巻き込まれずに、心の距離をとって、その存在を無条件に認め受け止めていく。こういうふうな修行法だ、ということが分かって、「あ、これ本当に、イエスが教えている無償・無条件の愛――アガペ――を心に育むのにすごく効果的な瞑想法だ」ということを、私、実感するようになったということなんですね。で、私はこれを「キリスト教ヴィパッサナー瞑想」という言い方で、キリスト教の枠の中で、これを特にキリスト教の信者さんたちを中心に手ほどきをして、とても喜ばれているというふうに感じています。

鈴木:大変興味深いお話をありがとうございました。

柳田:あ、いえいえ。

(終わり)

関連文献

「柳田敏洋神父インタビュー アガペーの人となるキリスト教ヴィパッサナー瞑想とは何か」『サンガジャパンVol.30』(サンガ、2018年8月)に所収。

柳田敏洋神父の講話『私たちはどこへ向かうのか?』(1 of 2)

昨年の4月に、良道さん松田神父様の、ここでの1泊2日の青空リトリートがあって、その時に初めて直接に良道さんとお会いをして、そして、私も以前から「キリスト教ヴィパッサナー瞑想」と勝手に自分で名前を付けておこなっていたんですが、そういうふうな背景からお話をしていると、結構ですね、馬が合うというんですか、気が合うというんですか、同じ問題に直面して、どうこれに立ち向かっていったらいいのか、乗り越えていったらいいのか、という、まあこういうふうな問題意識とか方向性がですね、とても重なっているということを感じて、それ以来、メールのやりとりとかを含めてですね、かなり密な関係ができてきたかなと思います。その1つの結実が――この中にもご参加してくださった方があるかと思いますが――、2月の3日に新宿の朝日カルチャーセンターでやった、良道さんとの対談ということになりました。たくさんの方が詰めかけて下さって、非常に実りの多い、そのような対談になったんじゃないかなと思います。

そういうかたちを受けて、今回また4月に青空リトリートがここで行われることになったんですが、今回はもう少し日数を増やして、より本格的にというような形で、いま私たちが行っているというところです。それは、私たちが既に、良道さんが言っておられるこの二重構造に目覚めて、エゴの私を見つめているもう一人の私に目覚めて、「現実世界が『映画』の世界である」、そういうふうに見抜いていく。こういうために取り組んでいるのだということですね。こういう点、私は以前から「エゴの私が祈っても祈っても、結局エゴに留まっている限りは、そのエゴの世界を突破した祈りの世界に入れない」……こういったことを強く感じていましたので、そういう点で言葉遣いが違うとかですね、アプローチの仕方が違うとか、解き明かすための何か見取り図が違うとか、そういうところがあっても、丁寧に話していくと、中身としては本当に重なってくるところが多いかなというふうなことを感じました。

そこで、今からの時間は、私なりに「私たちはどこへ向かうのか」……こういうテーマでお話することができたらと思います。

(中略)

良道さんのこの法話の中で、たびたび「謎のX(エックス)」という言葉が出ていますけれども、やっぱり私たちにとって、「謎のX」とは一体何か? それはキリスト教のなかでも、大きなものだと思います。私たちは、さしあたってそれを「神」とか「キリスト」とか、そういうふうにキリスト教の枠の中で言っていますし、私はキリスト教カトリックの神父ですから、そのような立場から「謎のX」に向かって自分なりの歩みを続けていく。こういうふうな取り組みです。そのような取り組みの中で、私なりに気づけてきていることとか、そういったことをお話ししていきたいと思いますし……。一概に「仏教とキリスト教」というふうに言うとですね、良道さんにまた叱られるかも分かんないんですが、まあ一応私はキリスト教の枠の中で……。

キリスト教の人――まあ日本は少ないんですが、世界全体を見たら非常に多いんですが――、やっぱり多くの人が「映画世界」とか、あるいは「劇場世界」の中でキリスト教を生きている。やっぱりそれは非常に残念なことではないか、という、そういったことが強く感じられていますので、まあ方向性と言うんですか、キリスト教がいったい何を目指すのか、どこに向かおうとしているのか……そういったところを含めて、このマインドフルネス瞑想をですね、どんなふうに私たちが取り組んでいったらいいのか? といったふうなところで、お話ができたら、ということです。

仏教とキリスト教というところでいきますと、ある意味でキリスト教は、方向性が非常にはっきりしている。これは相対的なものだとは思いますけども、[そのように]言うことができるかなということです。それはご存じのように、神を信じていて、またその神は、父・子・聖霊という三位一体の神という特別な神をキリスト教は信じている。そこに非常に大きな枠としてのストラクチャーがあるということですね。

で、私たちは、本当に一言で言うならば、私たちの人生って何ですかというと、「神に向かう人生だ」……こういうふうに言うことができます。「じゃあ、その向かうべき神とは一体何ですか? どのような存在ですか?」ということについて、今日、手元に聖書を持ってきていますけれども、聖書の中の新約聖書の「ヨハネの第一の手紙」というのがありますが、その4章16節に「神は愛である」[とあります]。ギリシャ語が原文なんですけれども、そのギリシャ語では、「神はアガペである」。こういうふうな言い方があります。つまり、キリスト教徒にとって「神」というふうな言い方は色々ありますけれども、最終的にイエス・キリストが伝えようとした神とは、アガペである。こういうところにキリスト教の神は基づいていると思います。

じゃあ、アガペって何[かというと]……皆さんもどこかでお聞きになったことがおありかと思いますが、ギリシャ語で「愛」を表す言葉は色々あるんですが、大まかには4つあるというふうに言われています。皆さんが一番よく聞かれるのは、「エロス」というふうな、「性愛」と訳されたりするものですが、「なにか自分がフィーリングで好ましいと思うものに魅力を感じてひかれていく」。こういうふうな愛ですね。それを「エロス」とギリシャ語で言います。あるいは、「友愛」と訳されるんですけれども、同じ価値観を共有する者同士の深い結びつき。これはフィリアというふうな言葉で言います。そして、さらには、お母さんの子供に対する深い愛情。これを表す言葉にストルゲーという言葉があります。

こういったエロスとかフィリアとかストルゲーとか、そういうふうな、「愛」を表す言葉がある中で、「アガペ」という、愛についての言葉がある。そして、このアガペというのは、簡単に日本語で言うならば、「無償・無条件の、存在の受容」。こういうふうな意味のものだ。

「無償・無条件に」というのは、私たちは「愛」というふうに言っちゃうと、日本語では、やはり自然に「好ましい。魅力的な。私にとって」というような、そういうニュアンスがあるんですが――これも、ギリシャ語のアガペを日本語に訳す時に、聖書の専門家が「愛」という日本語を当てちゃったので、もうこれ以上仕方がないんですけれども――、実際のギリシャ語のアガペというのは、やっぱり[日本語の「愛」とは]ちょっと違うということですね。

全く無償・無条件に、その存在を受容する。あるいは肯定する。例えばその典型が、「あなたの敵を愛しなさい」……こういうふうな言葉になる。だけど、「あなたの敵を愛しなさい」というふうにしちゃうと、もともと敵というのは「嫌な、嫌いな、フィーリングで好かない人」というふうなことになっちゃいますから、それを「あなたの敵を愛しなさい」というふうな日本語に訳しちゃうと、もう、すごい人間性を捻じ曲げるような……。つまり無理矢理に、好きでもない人を好きであるかのように自分を捻じ曲げちゃわないかぎり、[敵を「愛する」ことは]できないということですね。

こういうところにやはり、「経典を、どう相応しい言葉に訳すか」というふうな、いつも起こってくる課題があります。ですから、もう私は――最近は言葉としても割と知られてきているので――アガペというふうなギリシャ語をそのまま使う方がですね、ずっと誤解がないというふうに思っていて、そういうふうに使っています。

アガペという言葉で、イエスは神の愛を示すのですけれども。例えば、「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」。こういうふうな言葉で、天の父・神とはどういうお方か、というふうなことを説明しています。

エスが生きたのは、今から2000年前のパレスチナ地方なんですけれども、その当時はユダヤ教であって、そしてユダヤ教はどちらかというと、因果応報の神。つまり、神との契約を人間が交わす。それが旧約聖書の歴史の中にあるんですが、その神との間に人間が交わした契約を、できるだけ忠実に守る人には沢山のご褒美が与えられる。例えば聖書にはですね、忠実な義人たちは何百歳も生きたとかですね、あるいは子宝に恵まれるとか、あるいは自分が持っている土地が豊作であるとか、飼っている家畜がどんどん子供を増やしていくとか。それが、神に忠実な「見える印」。だから逆にですね、子供が産めない奥さんとか、あるいは早死にする人[は]神に呪われている……こういうふうな理解があったということですね。こういったところ、やっぱり私たちも、歴史の中で表れてきた神理解というふうに見ていく必要があるかと思いますが。

こういったふうな、どちらかというと因果応報の神を信じているユダヤ教の只中に生まれ育ったイエスは、「神とは無償・無条件の愛のお方である」……こういうふうに伝えている。非常に具体的な言葉で。その中で、「敵をもアガペしなさい」ということですね。つまり、「どのような敵であったとしても、その敵の存在を無条件に受容しなさい。肯定しなさい。好きとか嫌いとかそういうレベルの事ではない」ということですね。こういったところにイエスは、真の神のあり方というのを見ていって、私たちに伝えようとした。つまりそこにはですね、「一所懸命、信仰を持ってがんばる人だから、神様が沢山の恵みを与える。そういう神様だ」[というものではない神理解がある]。それは、基本的に「がんばる人が報われる」[という]社会通念だったら、まあそれはそれで非常に公平な神様ということになるんですが、そのような私たち人間世界での公平とかっていうものを超える神をイエスは伝えようとしたということです。

それが、「神はアガペである」。無償・無条件の、存在の肯定……こういう恵みを、その人が善人であろうと悪人であろうと、全く関係なく与えられるということですね。ですから、取り引きの神ではないということですね。ここは非常に大事なところです。「『あなたのような神を信じます』というふうに私たちが神を信じたら、『よしよし。お前はよろしい。私の無償・無条件の愛をあげよう』という取り引きをする神」ではない。信じようと信じまいと、神を呪おうと、神なんて居るはずがないと思う人にも、この神の無償・無条件のアガペ、存在の受容というものは与えられているということですね。

ですから、この神を信じるというのは、すでに私が信じようと信じまいと、その前から、私がこの世に生まれ落ちた時から、この恵みは既に私と共にあったということを発見する。これが「信じる」ということです。「信じてなんぼ」とか、そういうことではありません。非常にそれ[=“信じてなんぼ”的な信仰]は、エゴの宗教観の中で出てくる信仰理解と言っていいかと思います。

そういう中で、やっぱり私たちは、丁寧に丁寧に、イエスが伝えようとした真の神、そしてその神の恵みについて目覚めていくということが大切になってきます。

私は今から11年前に、インドでゴエンカ式の10日間のヴィパッサナー瞑想に与って、やはり本当にこの瞑想の素晴らしさというのを体感して、そしてこれが、私たちキリスト教を信じている者にとっても、非常にその信仰を本物にしていく……こういうふうな優れた修行、瞑想法だというふうなことを感じて、私なりにキリスト教の要素をいろいろ付け加えたりして、今ここで「キリスト教ヴィパッサナー瞑想」として皆さんにご紹介をしているということです。

さて、その「神に向かって」というふうなことなんですが、もう一つ大切なのが、「私たち人間とは何者か」ということを聖書がどう言っているかということです。一法庵関係の皆さんも、大体はご存知の方が多いのではないかなと思いますが、創世記の最初に天地創造の話があって、その最後に、神様が人間をお造りになるという話があります。その中で、神が「我々に似せ、我々に象って、人を造ろう」……こういうふうに仰って、そして土の塵を人の形にして、その人の形の鼻に息を吹き入れると、アダム、最初の人間になった。こういうふうな出来事があります。

つまり、私たち人間とは、もともと、神の似姿として造られたということですね。神に似たものとして人間は造られている。これがキリスト教の人間理解です。ですから、私たちがどこに向かっていくのか?……こういう点で見ていくならば、それは「私たちがもともと、神の似姿として造られた一人一人である。そのことを知って、そして、その神の似姿として造られた自分自身を完成に向けて自分を鍛えていく、成長させていく、歩ませていく」。こういうふうなことが分かってくるということですね。

じゃあ、その「神の似姿の完成」というのは何ですか? 「神はアガペである。神は、無償・無条件の存在肯定のお方である」というふうに見ていくならば、神の似姿[については]――まあ、この「似姿」をどう解釈するか、というふうなことが色々あるんですが――、私はやはり、「ヨハネの第一の手紙」の4章16節に書かれているところ、とても大切にしたいなと思っています。

「神とはアガペである」。ですから、神の似姿として造られた私たちも、アガペの似姿として造られている。つまり、私たちは最終的にアガペを本当の意味で生きる人間になっていくようにと、最初から神によって造られている。つまり、一人一人はその可能性を秘めているということですね。

でも、ここにまた現実が立ちはだかっています。つまり、もうすでに私たち、何度も良道さんを通じて聞かされていて、私たち自身も感じていることですけれども、どれほど「アガペの愛を生きましょうね」と教会の中で言われてもですね、そのアガペを生きることができない。どれだけ人に親切にしてもですね、「私、こんなに一所懸命に、あの人のためにやっているのに、無視されている。なんてひどい人!」というふうにですね、相手を無意識のうちに評価したり裁いたりしちゃっている。

つまり、本人は無償・無条件の愛で誠実に相手に関わっているつもりが、その奥にはですね、条件付きの愛を生きちゃっているところがあるということですね。「こんなに頑張っている私を、もっと分かって欲しい」というね。つまり私たちの中には、どんなに善いことをしていたとしても、どんなに親切をしていたとしても、どこかで、気づかない形で、見返りを求めるとか、感謝を求めるとか、条件付きにしちゃってる。「こんなに私がしてあげているのだから、あなたもちゃんとしてね」というふうな「裏のメッセージ」を込めてですね、相手に親切にするとか。こういったことが、やはり私たちの中に、キリストを信じている者にとっても日常茶飯事のようにある。

つまり、やっぱり私たちにとって、この「無償・無条件の、存在肯定」というアガペを生きるのを阻んでいるのはエゴだということです。これは、えらい厄介なものなんです。全く簡単ではないっていう……それはもう良道さんが仰っておられる通りだと思います。つまりですね、どこに問題があるかというと、「もう、ついつい、条件付きで『無償・無条件の愛』を生きてしまう自分」。ここに、何とかしないといけない問題がある。

じゃあ、「この条件付きについついなってしまう私をもっと整えよう。条件なしに生きられる私に。無償で愛を生きられる私に」……でもそれは、力づくでやっちゃうから、どういうことになるかというと、「こんな、見返りや条件付きが求められる状況の中でも、私は無条件に愛を施せる私だ」という、こういうまた新しいエゴがですね、もう無意識のうちに出てきちゃう。もうこれは、無限に続くんですね。つまり、一所懸命に立派になればなるほど、「立派に生きられている私だ」というふうに周りと自分を比べるエゴが、無意識の世界から出てきます。

つまりここに、ものすごい大きな問題があるということですね。イエスは「こんなふうに神が一人一人を無条件に愛して下さっているのだから、あなたがたもその神の愛に応えて、隣人を自分のように愛しなさい」……こうふうに言って、「これが、多くの掟の中で第一の掟である」というふうにイエスは私たちに聖書を通して教えてくれたんですけれども。でも、結局そこにいつも問題がある。「隣人を自分のように愛しなさい」というふうな、この「愛」というのはアガペの愛ということなんですが、それを一番阻んでいるのが「私のエゴ」だということですね。

こういうところを、本当に、繰り返し繰り返し、いくら頑張っても突破することができない厄介なエゴというふうにして悩んでいたところで、11年前にインドに行って、そしてゴエンカさんの10日間のヴィパッサナー瞑想に与ったときに、一つのその突破のきっかけになったということですね。

(柳田敏洋神父の講話『私たちはどこへ向かうのか?』(2 of 2)へ続く)

『〈仏教3.0〉を哲学する』第二章の読書ノートとコメント

f:id:logues:20161105130540j:plain:w300:left 藤田一照永井均山下良道の3氏による共著『〈仏教3.0〉を哲学する』(春秋社、2016年)の第二章の読書ノートとコメントです。読み進むにつれて随時加筆していきます(最新の更新は2016/12/9)。この本の目次や、著者による内容紹介、関連情報などはこちらをご参照ください。

この記事の目次

第二章 「自己ぎりの自己」と〈私〉

第二章は二部構成で、98-144頁が第一部、144-168頁が第二部となっている。第一部は、内山興正の「自己」のとらえ方について永井氏がプレゼンし、それを受けて3人のやりとりが行われる。第二部は、「青空としてのわたし」と「雲としてのわたし」というメタファーについての最近の展開を山下氏がプレゼンし、それを受けた3人のやりとりが行われる(98頁)。

「ぶっつづき」と「断絶」――内山興正老師のこと(98-107頁)

内山興正の「自己」のとらえ方についての永井氏のプレゼンは、テキストとして内山興正の『坐禅の意味と実際』(大法輪閣)と『進みと安らい――自己の世界』(柏樹社、1969年)を用いる。前者の第四章「坐禅人の自己」の「一、尽一切自己」と「三、覚めて生きる」の二つを主として検討し、その後で後者の第四章「自己の構造」との関係について考える(98頁)。『坐禅の意味と実際』は1971年に柏樹社から出版された内山の『生命の実物――坐禅の実際』を大法輪閣が再刊した本であり、『進みと安らい――自己の世界』は1969年の出版なので、後者のほうが出版年は若干早い*1。『坐禅の意味と実際』は2003年の版と2015年の新装版があるが、この記事では新装版を用いる。

まず99頁に『坐禅の意味と実際』第四章の94-96頁からの引用(カボチャの寓話)があるが、引用元の本においてこのカボチャの寓話が出てくる文脈はどういうものなのか、という説明が本書では省かれているので、ここでそれを補足しておきたい。引用元においては、このカボチャの寓話は、下記のように「坐禅する人にとっての自己および自他関係とは何か?」を問う文脈の下で出てくるものである。

*1:『生命の実物――坐禅の実際』(柏樹社、1971年)と『坐禅の意味と実際』(大法輪閣、2003年または2015年)との内容の差異や、再刊の経緯などについては、『坐禅の意味と実際』の158-162頁参照。

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