『〈仏教3.0〉を哲学する』第二章の読書ノートとコメント

f:id:logues:20161105130540j:plain:w300:left 藤田一照永井均山下良道の3氏による共著『〈仏教3.0〉を哲学する』(春秋社、2016年)の第二章の読書ノートとコメントです。読み進むにつれて随時加筆していきます(最新の更新は2016/12/9)。この本の目次や、著者による内容紹介、関連情報などはこちらをご参照ください。

この記事の目次

第二章 「自己ぎりの自己」と〈私〉

第二章は二部構成で、98-144頁が第一部、144-168頁が第二部となっている。第一部は、内山興正の「自己」のとらえ方について永井氏がプレゼンし、それを受けて3人のやりとりが行われる。第二部は、「青空としてのわたし」と「雲としてのわたし」というメタファーについての最近の展開を山下氏がプレゼンし、それを受けた3人のやりとりが行われる(98頁)。

「ぶっつづき」と「断絶」――内山興正老師のこと(98-107頁)

内山興正の「自己」のとらえ方についての永井氏のプレゼンは、テキストとして内山興正の『坐禅の意味と実際』(大法輪閣)と『進みと安らい――自己の世界』(柏樹社、1969年)を用いる。前者の第四章「坐禅人の自己」の「一、尽一切自己」と「三、覚めて生きる」の二つを主として検討し、その後で後者の第四章「自己の構造」との関係について考える(98頁)。『坐禅の意味と実際』は1971年に柏樹社から出版された内山の『生命の実物――坐禅の実際』を大法輪閣が再刊した本であり、『進みと安らい――自己の世界』は1969年の出版なので、後者のほうが出版年は若干早い*1。『坐禅の意味と実際』は2003年の版と2015年の新装版があるが、この記事では新装版を用いる。

まず99頁に『坐禅の意味と実際』第四章の94-96頁からの引用(カボチャの寓話)があるが、引用元の本においてこのカボチャの寓話が出てくる文脈はどういうものなのか、という説明が本書では省かれているので、ここでそれを補足しておきたい。引用元においては、このカボチャの寓話は、下記のように「坐禅する人にとっての自己および自他関係とは何か?」を問う文脈の下で出てくるものである。

*1:『生命の実物――坐禅の実際』(柏樹社、1971年)と『坐禅の意味と実際』(大法輪閣、2003年または2015年)との内容の差異や、再刊の経緯などについては、『坐禅の意味と実際』の158-162頁参照。

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『〈仏教3.0〉を哲学する』第一章の読書ノートとコメント

f:id:logues:20161105130541j:plain:w300:left 藤田一照永井均山下良道の3氏による共著『〈仏教3.0〉を哲学する』(春秋社、2016年)の第一章の読書ノートとコメントです。読み進むにつれて随時加筆していきます(最新の更新は2016/11/20)。この本の目次や、著者による内容紹介、関連情報などはこちらをご参照ください。

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鼎談の前に

本書の出版の3年前にあたる2013年に出版された藤田氏と山下氏の共著『アップデートする仏教』(幻冬舎、2013年)では、藤田氏と山下氏が出家から約30年の間に経験した仏教のあり方を〈仏教1.0〉および〈仏教2.0〉の二つに分類し、そのどちらとも違う仏教のあり方、両氏が構想し形を与えようとしている仏教のあり方を〈仏教3.0〉と仮に呼ぶことにしたという。〈仏教1.0〉と〈仏教2.0〉はそれぞれに問題があるという立場に立って、仏教の教義や実践を根本的に見直そうという藤田氏・山下氏の立場を同書ではとりあえず〈仏教3.0〉と呼ぶことにしたが、藤田氏によれば、同書ではまだ〈仏教3.0〉を素描したにとどまり、それを行として血肉化し立体化する道筋は明確になっていなかった(本書i〜vii頁)。
一方、永井氏は坐禅や瞑想をかなり以前から実践しており、藤田氏・山下氏の〈仏教3.0〉論に関心を持っていたという。藤田氏も、かなり前から永井氏の哲学するスタンスに非常な魅力を感じており、永井氏の展開している哲学を仏教にぶつければ、「平板で平凡な形に凝り固まった仏教を面白く揺さぶってくれるのではないかという漠とした予感」を持っていた(i〜vii頁)。
本書に結実した鼎談は、この3氏による「〈仏教3.0〉を哲学する」鼎談であり、いずれの回も〈仏教3.0〉の特徴が浮き彫りになるような特定のテーマが取り上げられ、それをめぐって〈仏教3.0〉と永井氏の哲学を突き合わせるという形で話が進められた(i〜vii頁)。

第一章 瞑想について――〈仏教3.0〉をめぐって

はじめに(4-10頁)

「マインドフルネス/サティ/気づきというものと山下氏の言う『青空』とが結合するのが〈仏教3.0〉である、結合を主張しているのが〈仏教3.0〉である」というのが、第一章の冒頭の時点での永井氏の〈仏教3.0〉に関する「大雑把な理解」である。3.0において「結合」されているこの2つのものが、仏教1.0と2.0においては分かれており、それが3.0において初めて繋がったことは非常に画期的というか本来に還ったと言っていいのではないかと永井氏は述べている(8頁)。

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『〈仏教3.0〉を哲学する』出版のお知らせと関連リンク

一法庵庵主の山下良道師が、永井均氏・藤田一照師との共著を上梓されました。

〈仏教3.0〉を哲学する

〈仏教3.0〉を哲学する

著者による内容紹介

永井均氏による内容紹介のツイート。

その他の関連ツイート。

書評

紀伊國屋じんぶん大賞2017――読者と選ぶ人文書ベスト30」に選出されたそうです。

本書の目次

鼎談の前に(藤田一照)
第一章 瞑想について――〈仏教3.0〉をめぐって・・
はじめに
仏教3.0〉、〈仏教2.0〉、〈仏教1.0〉
「有心のマインドフルネス」と「無心のマインドフルネス」
「子犬=私」の瞑想と「子犬≠私の瞑想
「無我」と本質と実存
前反省的自己意識について
瞑想の主体とはなにか
仏教をアップデートするために
「慈悲の瞑想」について
「小乗的」か「大乗的」か
◎質疑応答
第二章 「自己ぎりの自己」と〈私〉
「ぶっつづき」と「断絶」――内山興正老師のこと
矛盾を解きほぐす
「現在」と「自己」のアナロジー
「青空」と「雲」と「慈悲」と
「断絶」の意味するもの
つながりということ
ニッバーナとナーマ・ルーパ
「無我」とはどういうことか
無明から明へ――パラダイム・シフト
仏教4.0〉へ
◎質疑応答
第三章 死と生をめぐって
心の二相論をめぐって
〈私〉から「私」へ
客観的な世界が実在する?
「色即是空」としての〈私〉
言語というからくり?
〈私〉の死と「私」の死
「死」はない――アキレスと亀
「死んでも死なない命」
「不生不死」をめぐって
一人称の死・二人称の死
◎質疑応答

鼎談の後に(一)(藤田一照)
鼎談の後に(二)(永井均
鼎談の後に(三)(山下良道)
必要最小限の参考文献

当ブログ管理人の読後感

素晴らしい本だし、どこが面白いかを書き始めると書ききれなそうですから、ここではかいつまんで2点だけ。

この本では、「私とは何か?」(または「瞑想の主体は何か?」)という問いが、主として山下さんの発言として繰り返し問われます。
この問いを少し変形して「無我とは何か?」(または「非我とは何か?」)と問うてみたとします。
この二つの問いに対する永井さんの答えの出し方は、これまでの仏教論にはおそらくなかった新しいものです。
答えそのものの新しさだけでなく、答え方の新しさを経験できることが素晴らしい。
そして、この第一の問いの答えと、第二の問いの答えが、イコールで結びつく「次元」というか「水準」がある(これから作るのでなく、すでにある)ことが、主に永井さんの思考と山下さんの瞑想経験によって指し示されます。
この二つの答えの結びつき方の新しさも、旧来の仏教論にはなかった刺激的なものですが、新しいとはいえ、事態としては「いつでもそうでしかありえない」という意味で最も当たり前で、じつは新しいとか古いという評価を超えたものであろうと思います。いつも新しくかつ最も古い、とでも言うような。

詳しい読書ノートとコメントを、別の記事で公開中です。

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