山下良道法話:「『喪に服す』ことで開かれる地平」(1 of 2)
※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2011年4月10日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=674
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。
(途中まで略)
今回、福島第一原発にとんでもないことが起こって……それは、もともと準備していなかったところに予想以上の津波がやってきたことで、とんでもないことになってしまったということじゃないですか。だけどその、津波に襲われたのは、単に三陸海岸とか或いは福島第一原発とか女川原発とかだけではなくて、もう「日本全体」だったわけですよ。それで、その襲われることで福島第一原発の非常に脆弱な部分があからさまに現れちゃって、それでとんでもないことになっていますけども。
だけどその脆弱な部分というのは、それは単に福島第一原発だけじゃなくて、日本の我々[=日本人]自身の脆弱さでもあった。そのために――脆弱だったので――、その後のいろんなことがうまくいっていない。だけどそれは単に「被災者支援がうまくいっていない」とか「政治の指導がちょっとおかしい」とか「情報を隠蔽している」とかそういうレベルの話ではなくて、(中略)そういうことのもうひとつ前にね、「どうも私らにとっていちばん致命的な弱点があって、[震災に]その致命的な弱点を見事に突かれた。その結果、その弱点が見事に出てしまっている」というのが現状だと思います。そしてその弱点というのは、政治的な指導力が弱いとか福島第一原発のバックアップの電源装置が弱かったとかいう、そういうレベルの話じゃなくて、(中略)我々にとって非常に弱い部分があったということ。
それはどういうことかといったら、――これはメールにも書いたですけども――我々の文明の、何とも言えない表面的な浅さというのかな……それがもう出ちゃって。その結果、どうも我々は非常に大事なことを忘れてしまっている・やっていない[ということが明らかになった]。あるいは、それをやるという文脈が無い。その「やらなければいけないこと」というのは何かといったら、それが「喪に服する」ことなんだけども。
「喪に服す」をウィキペディアで調べたんだけども、[そこに書いてある内容の薄さは]悲惨なものですよ。「喪に服す」でGoogle検索してみてください……出てくるのは、せいぜい「誰かが亡くなったあと、何日ぐらい喪に服さなければいけないですか?」とか「喪に服すときの服装はどうしたらいいんですか?」とか「年賀状を出さないで、喪中の葉書を出す」とか……要するに、マナー[についての情報]なんですよ。(中略)そういうことぐらいの説明なら、まあ有るんですよ。だけど、それ以上は無いし。
それで、「喪に服す」という日本語自体が、旧い……というよりか、ふだん使われない。使われないということは、その人の発想のなかに「喪に服す」ということが入ってないということですね。だから、その代わりに出てきた言葉が何だったかというと、要するに「自粛」ということなんですよ。
(中略)
「自粛」ということと「自粛しちゃだめだ」ということには、それぞれの理屈があって、それはそれなりに筋は通っている。私も両方の言い分をかなり丁寧に見たんだけども……だけどね、(中略)普通に社会人として生きている人の考えの幅・思考の幅・物事の処理の中に、「喪に服す」ということは入ってこないのね。
そして、3.11(東日本大震災)で起こった出来事というのは、普通に社会生活をしている人の今までの情報処理のパターンの中には入りようがない。だから、もう「自粛」と「反・自粛」ということを言ってお互いに論争し合うという非常に不毛なことになって。それで、その人たち[の論争]に何が無いのかといったら、結局、「喪に服す」ということが全然入らないんですよ。というのは当たり前で、喪に服すということの本当の意味[が理解されていないから]。さっきも言ったように、今、「喪に服す」でGoogle検索すれば、まあ恐ろしく表面的な情報しか出てこないんですよ。(中略)マナーぐらいのレベルでしか[言及が]なくて。現代の日本人の、普段の精神活動と、それに基づいた言論活動のなかには、「喪に服す」ということが入り込む余地は無いんです。これは無いです。この1ヶ月間、私もかなり集中的に色んなものを読んでますけど――新聞・雑誌から、色んなものをチェックしてますけども――、そのなかには見事に無いですね。それはなぜかといったらば、それはもうその人たちが普段やってきた社会生活、あるいは精神生活では処理できないことが3.11で起こっちゃったわけですよ。だから、今までの処理能力ではこの3.11で起こったことを処理しきれなくて……だからこれが処理しきれないままに放ったらかしになっちゃっている。
そして、ここ1ヶ月間で我々がやってきたことは……結局みんな、「今までの延長上」をやってきたじゃないですか。皆、今までの延長上で、自分なりの3.11を処理してきたというのが本当のところだと思います。だけど、今までの我々[=日本人一般]の処理能力――それしか持ってないからね――でこの1ヶ月をやってきたんだけども、我々の処理能力を遥かに超えちゃった何かとんでもないものがあって、これを我々はほとんど手つかずのままにしている。これは手付かずだから、新聞やメディアが扱うということは無いんですよ、実を言うと。いま私が言っているのは……福島第一原発のことを言っているんじゃないですよ。(中略)原発のとてつもないエネルギーを制御できるだけの技術もマインドセットも無かったというのはそのとおりだけども、そこがこの話のポイントでもない。(中略)この話のポイントは……ブログを書いている人にしてもメディアにしても、その人たちが扱ってこなかったものがあってね……それは何かといったら、数万人の亡くなった人です。
(中略)
[福島第一原発の動向や、避難所の状況、復興への取り組みなどについてはメディア等でも扱われるが、その一方で、]もう還ってこないものがあるわけね。もう取り返しがつかないものがあるわけで。そして、取り返しがつかないもののことを……それを本当に……それに寄り添うという報道というのは、私が知る限り、ほとんど無いんですよ。日本語の報道なり何なり[を見るかぎりでは、ほとんど無い]。
(中略)
[その一方、アルジャジーラは、東日本大震災についても]非常に良い番組をたくさん作っています。これはみんな、アルジャジーラの英語のサイトにあって、ぜんぶ観れるようになっています。(中略)アルジャジーラに“People and Power”というシリーズがあって、それの1つの番組として宮古市を取り上げています。(中略)それは宮古市の今の現状を伝えていて、そのなかの何人かにフォーカスを当てて番組をやっていました。メインのフォーカスは或るおじいさんに当てていて、そのおじいさんの一家は津波から逃げることができたんだけども、残念なことにおばあさんだけが未だに行方不明で……(下記の動画を参照)。
"People & Power - Aftermath of a disaster"(Al Jazeera English)
(中略)
あの番組を観て、皆さん分かったと思いますけども……アルジャジーラというのはもちろん日本だけじゃなくてあらゆるところを取材してきているんだけども、彼らの基本的なスタンスというのは非常に簡単で、苦しんでいる人の側に立つというのが彼らのスタンスなんですよ。だからといってそれは、いきなりの「アンチ政府」でもないし。とにかく、あそこ[=番組内容]で分かったと思うけども、番組は、別に誰かを批判しているわけではないんですよ……「菅直人が悪い」なんていう、そんなことは言ってないんですよ。あそこではただ、自分の60年連れ添った奥さんを亡くした或る日本の老人に寄り添うという、それだけのことしかやってないんですよ。
私があれを観て非常に新鮮だったのは……そういうことをやっている番組は他にないんですよね、考えてみたら。日本だと、たいていは政府批判――「政府が情報を隠蔽している」とか――か、あるいは何か奇跡で助かった話とか……それはたくさんあるんだけども、「いちばん大切なものをなくしてしまった人に、ただそこに寄り添う」ということをやっていなくて。(中略)いま生き残った人たちも、「自分があれをしなかったから」或いは「あれをしたから」[誰々を救えなかった]、という自責の念で堪らない思いをしている人はとてつもなく多いわけですよ。だからそういうふうに自責の念で苦しんでいる人も居るし、あるいは、なくしてしまったことを「もう取り返しがつかない」という[思い]に圧倒されちゃっている人が居て。その人たちに寄り添うということをやってないじゃないですか、我々は。それをやったのが、アルジャジーラという、中東のカタールを中心としているアラブの報道番組だったということで。[要点は]そこいらへんなんですよ。
(中略)
[さいきんTwitterでフォローし始めた藤原敏史さんに、アルジャジーラの番組を紹介したら]すぐに返事が来て……下記のように返事が来ましたね。
なぜアラブ人の方が日本人のTVよりもずっと丁寧な番組を作れるのでしょうね。
(http://twitter.com/toshi_fujiwara/status/56233456090357760)
……まあ彼は映画作家だから、日本のテレビの実状からアルジャジーラの実状から全部分かったうえで[こう仰っている]。プロの意見ですねこれは。そして、[アラブ人の方が日本人のTVよりもずっと丁寧な番組を作るということの]理由として、
生と死と喪失という概念を、日本の都市が見失っているということなのかもしれません。
(http://twitter.com/toshi_fujiwara/status/56233456090357760)
……という、いきなり本質的なことを投げかけてきたのでね……。これは私もずっと気になっていたことで……。
さっきも言ったように、3.11にはとてつもないことが起こったわけ。3.11以前にも我々は生きてきて、そこには色んな情報の処理の仕方とかがあったわけ。だけど、3.11以前の我々の情報処理のしかた・情報処理の能力では、あの3.11に起こったことを、とても処理できない。我々の能力を遥かに超えちゃったことが起こったわけじゃないですか。だから、メディアも処理できなかった。インテリたちも処理できなかった。だから、この3.11で起こった途轍もないことの大部分が、ぜんぜん処理されないまま残っている。その処理されないまま残っていることとは何なのかといったら、それはもちろん「生と死と喪失」のことですね。これを、我々はぜんぜん処理できてないです。3.11以降、日本のメディアも我々も。藤原敏史さんみたいに海外の事情もよく分かっていて日本のメディアもよく分かっている人がアルジャジーラのあの番組を観ればね、まさにそうなんだということが分かるわけですよ。
だから、この3.11でとてつもないことが起こって、それを我々はぜんぜん処理できなくて、あるいは受け止めることもできなくて、そのままになっちゃっている。なぜ我々がそれを受け止めることができなかったのかといったらば、それは生と死にまつわる問題だからなんですよ。そして、生と死の問題というのは、3.11以前のあの薄っぺらな日本社会のなかでは「存在してなかった」問題なんですよ。そうじゃないですか。だから、3.11以前の薄っぺらな日本社会のなかでは、生と死の問題について考える文脈というのが無かったから……そして3.11にとてつもない量の「生と死の問題」が生じてきちゃった場合にね、これはもう「処理できない」んですよ……3.11以前の世界を表面的に生きてきた我々には。
だけどアルジャジーラというのは、世界中のいちばん苦しいところを取材している連中だから、彼らは本当に……少なくとも人間の苦しみというのは分かっているわけね。だから、もちろん通訳とかをいろいろ通してでしょうけども、60年連れ添った奥さんを亡くしたあの老人の痛み・苦しみを彼らは分かるわけよ。だから何も主張しないで、あの人にただ思いを喋らせている。もう「それだけでいい」わけね。いきなり「菅直人がけしからん」なんていう番組内容にはならないんですよ。そうではなくて――この場面においては、菅直人首相なんか関係ないんですよ――、[思いを語る人に]寄り添う。それはなぜかといったら、彼らはこの「生と死の問題が世界のあらゆるところで起こってきて、それを受け止める」ということを少なくともやってきたから。その人たちが宮古市に行けば、そこではまったく同じ問題が起こっているということは当然分かるし。そしてそれを、[現地の被災者に]フォーカスを当てて語らせている……というか、感じ取っている。これを我々は3.11以後にやってきていないということを私もメールにも書いたけども、「なんかおかしいよね。なんか、我々はやるべきことをやってないよね」と思っていたんだけど、その[やるべきことが何なのか]がずっと分からなくて。それで結局、我々がやってきてなかったのは……「放射能のことばかり気になっちゃって」とか或いは「被災者に援助を送らなければいけない」とかももちろん大事なことなんだけども、そういうことのもっと前に、我々がやっておかなければいけないことがあったはずなんですよ。そしてそれはもちろん、3.11でとてつもないものをなくしてしまった人のことを、とにかく感じとること。そして結局、それが「喪に服す」ということです。
日本の歴史のなかでも、あるいは世界のどこだって、自分の親しい人間が亡くなったときは喪に服すというのをやっていたわけですよ。しかし、さっきも言ったように、いま「喪に服す」という言葉を日本語でGoogle検索しても、ろくな情報が出てこない。せいぜい、「年賀状を出さない」とかそんなレベルの[、あくまでもマナーについての]情報しか出てこない。ということは、なぜかというと、喪に服すということが、現代のなかではもう無いからなんですよ……喪に服すということの意味が[理解されていないから]。喪に服すということが意味をもたないから、喪に服すということを当然だれも考えないし、それがせいぜいマナーのレベルにとどまっちゃっている。
だから、私と藤原敏史さんとがここで共通に理解したことはね――彼も映画作家だから、そこは痛烈に感じているんでしょうけれども――、なんか「我々は結局、[やるべきことを]やってこなかった」。そしてもちろん、3.11以後にも我々はとてつもなくたくさんのことをやったわけですよ。とてつもなくたくさんの言論が生まれたし。とてつもない量のツイートが飛び交って、Facebookの書き込みが飛び交っていたわけ。それらの書き込みを主に分けると、「がんばれ日本」と「放射能が怖い」というこの2つなんですよ。この2つに関しては、とてつもない量の情報が飛び交ったわけだけども、この2つが飛び交うことによって、その前にやらなきゃいけなかったことが見事に隠蔽されてしまったというか、見えなくなってしまった。それはたぶん、意図的[な隠蔽]もあるし、あるいは無意識のうちに「このとてつもない難しい問題を取り扱えないから、『がんばれ日本』と『放射能が怖い』のほうにだけ意識を集中させた」とも言えるし。あるいは、この問題があるということすらも見えなくなっちゃっている。あるいは、見たくないから見ないという。
それを我々はやってこなかったんだけども、それをやらなかったために――あるいは、[「がんばれ日本」と「放射能が怖い」の2つだけをやったきたために]――もう本当におかしなことになっちゃっている。
それで、ここからようやく、私らの瞑想と仏教とに[話を]繋げていきますね。
(2 of 2へ続く)