茂木健一郎講演:「思い出せない記憶の意味について考える」(3 of 3)

※話者:茂木健一郎

※とき・ところ:2005年7月22日 「第14回 三木成夫記念シンポジウム」(東京藝術大学
※出典:第14回 三木成夫記念シンポジウム - もぎけんPodcast
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した語句です。

(2 of 3)からの続き)

質疑応答

(途中まで略)

質問者1:[茂木]先生のように記憶というものを大きく定義されると混乱が出てくるような気がするんですけれども……。

茂木三木成夫シンポジウムだから折角だから[言ってるんです]。科学主義の中で記憶がどう扱われているかなんてことは重々知っているわけで、そんな話をここでしてもしょうがないじゃないですか。面白くないじゃないですかそんな話。

質問者1:そういう話はたしかに面白くないかもしれないけれども、「DNAに記憶がある」とかいう話は……。

茂木:そういう下らないことを言ってるんじゃなくて……そこがだから科学者の駄目なところなんですよ(笑)。僕は経験主義科学なんてさんざん知っているわけ。そんなことさんざん知ってたうえで、「我々の意識の表象のなかに現れている現象的な属性をよく冷静に見てみましょう」っていうことですよ。普通の意味での経験主義科学をやっている人は、そのトレーニングはおそらく受けていないんですよ。
 だって三木成夫シンポジウムなんだから、そういう話をしないとつまんないじゃないですか。だから俺、そういうご質問が来るのがすごい意外なんですけど。
 そりゃ当たり前の話ですよ、だってそんなの。

質問者1:「当たり前の話」なんだから、今までやってきた・DNAのなかに入ってきた遺伝情報というものが、実際に現時点で人間の脳の中で行われているものにどういうふうにはたらいているのかっていう方向で……。

茂木:それはだからempiricalにやればいいわけですよね。empiricalというか普通にやっていけばいいわけですよね。だから、そういう話をここでしてもつまらないじゃない。
 僕はこの文脈を誤解しているのかもしれないけれども、べつに三木成夫先生の名前を借りてごく普通の科学の話を皆でして「ああ、面白いですね」っていう会だとは思ってこなかったので。
 僕にとっては三木成夫先生の話を1回聞いたっていうのはすごく大切な話で……べつに普通の話をするんだったら普通に学会でやればいいじゃないですか。だから、アウェアネスというか意識を広げるようなことを言わないと面白くもなんともないと思うんですよね。
 それで、少なくとも科学って今はっきり言って評判悪いんですよ。つまんなことばっかりやっているから。だって、世界観自体を変えるようなことはやってないじゃん、科学者っていうのは。だから、世界観自体を広げるようなことを探索する場は在っていいわけですよね。違います?

質問者1:世界観自体は広がると思うんですけれども、そのDNAのなかに入っていたものが実際にいま生きている……[話が中断]。それ自体が世界観を変えることにつながると思うんですけどね。

茂木:いや、だからそれはそれでやればいいことだけど、また別の文脈でここではお話しさせて頂いたっていうだけの話です。

質問者2:[発音が不明瞭で聞き取れない]

茂木:分かるんですけど、皆さんと私の大前提の違いというのはおそらく、「現象学的なレイヤーをどれだけ真剣に考えているか」っていう点だと思うんですね。
 私が普段やっているのは「脳の神経活動からどうやって意識が生まれるか」っていう話で、それは日本のカルチャーのなかではおそらく全く問題にされてないんだけど、もともと西洋の近代の哲学的な伝統のなかではそれ以外には大問題は無いわけですよ、はっきり言えば。物質と精神のカップリングがどうなっているかということ。
 それで、その精神というレイヤーを真剣に捉え始めた途端に、例えば「DNAが[数語聞き取れず]で、二次伝達系がどうのこうの……」とかいう話だけしてても解けない問題が在るっていうことは認めざるを得ないわけですよね。僕はそういうレイヤーで今日の話をしているわけで、そこでいきなり何か分子生物学的な文脈に限定した話をされても、「そういう話をしたかったのではない」ということですよ単に。それはだってさんざん知っている話だから、あんまり面白くないっていうか……それだけの話をしてもね。

質問者2:実証的なそういう……。

茂木:いや、だから、実証的にやるのは当然じゃないですかそれは。だから、「『実証的』ということの意味を、普通の意味でナイーブに捉えてるだけだと面白くないんじゃないのか?」っていうことです。それは単に我々が過去の巨人の肩に乗って考えているだけの話で、三木先生はおそらくそんな巨人の肩に乗って予定調和的なことをやるだけで満足されている先生だとは僕らには見えなかったんですよね。
 だってさ、そんなこと言ったらさ、三木先生が胎児の写真を見せて「ここで上陸した」とかそういうのって全部トンデモな話になっちゃうじゃん。べつにそんな話はしなくてもいいっていうことになるじゃないですか。べつに、なんか発生の過程を単にmolecularでdescriptionすればそれで済んでる話だったら、三木先生が言ったようなことの精神性って全く意味無いことになりませんか?
 なんでそんな質問が出てくるのか全然分からないんだけど。

質問者3:私は彫刻をやっておりまして……(中略)先ほど仰っていた「クリエイティビティを合理的に捉えていきたい」っていう考え方に非常に共感を持ちまして……美術とかそういうのをやっていると、いつもかなりオカルト的な方向で「わけが分からないけれども思いついちゃった」とかそういう風にとらえられちゃうんですね。トンデモ系にいつも扱われてしまって、一所懸命に説明しても信じてもらえないというか、自分が感覚していることが他人にうまく伝わらないことが多いんですけれども、先ほど仰っていた科学の世界でそれに説明がつく可能性っていうのはかなり難しいのかどうか?

茂木:そんなことないです。だって、ぜんぶ物理法則で動いている物質であることは間違いないんですから……そこはもう大前提ですよだから。
 今日、脳の細かい――fMRIとかの――画像とかを見せたら、empiricalなスタディしてる先生方は満足して帰ったわけですよね。でもそれではまったく……要するに芸術家が何かちょっとデンパ系のことを言ってるときだって、それはその芸術家の脳の中では何かが具体的に物質的な過程で起こっているわけですから、それを科学的に解明できるというのはこれは当たり前なんですよ。ただしそこで問題なのは、芸術家が主観的に感じている何か色んな「見えているもの」がありますよね? それが、どういう存在論的な或いは認識論的な位置にあるかということは未解決なんですよ。それは分子生物学をいくらやったって分かるはずないんですよ。だってそれは、我々がまったくナイーブな物質観のなかに居るわけで……それね、本当に笑っちゃうんだけど、例えば現代物理学なんかが描いている宇宙論・宇宙観がいかに凄い・ぶっ飛んだものかということを、生物系の先生方はおそらく知らないんですよ。だから要するに無限だとかいうものがいかに普遍的なかたちで宇宙の構造とかそういうものの数式のなかに入ってくるかっていうことを知っていれば、ナイーブな現実観というのは持てないわけですよね。ですから、アーティストというものが何か作っているときに何かとんでもないぶっ飛んだものを見てしまっているというときに、一方ではそれは単に物質としての脳の動作であるということを言うことはできて、それはおそらく間違いない事実なんだけれども、それだけでは、アーティストが見ているビジョンというものを説明したことにはまったくならなくて、それは例えば「無限級数が有限の過程であるにも関わらずなぜ無限というものを、あるいは無限小というものを表現できるのか」とかいうような数学基礎論とかそういうものに抵触するような何か「妙なこと」がないかぎり、アーティストが持っているそういう主観的な表象というのは説明できないですよね。
 だから、せいぜいmolecular biologyで使っているような、超微分方程式で書けるような、あるいは偏微分方程式で書けるようなそういう世界観の外にあるものが、世の中には実際にあふれているわけですよね。だから藝大の学生はそこでもう自信をもってやっていていいと思うんですよね。
 この前、ピート・ハットっていうプリンストン高等研究所の人が来てトークしてたんだけど、「西暦2,600年の科学の教科書はどうなっているかを想像してみよう」って話をしていてすごく面白かったんだけど……。ピートによると西暦2,600年ぐらいの科学の教科書はおそらく「我々は20世紀に分子生物学とかを作って、21世紀初頭には現代の科学のことはほとんど分かっていると思っていたんだけど、ところがそこに残されていたのはメンタリティーの問題で、それについては経験科学は何も言えなかったんだけど、23世紀ぐらいに大発見があって宇宙観とか世界観がそれで全部変わって、いま仰っていたような彫刻家の方がなにかちょっとオカルト的な直観でやられているようなことも、26世紀ぐらいにはちゃんと認識論的・存在論的な位置を与えられているだろう」ということをピート・ハットは言っていてね。
 ですからおそらくそういうかたちで、――現在我々が持っている世界像のなかにマッピングできることかどうかは分からないけれども――何らかの厳密な論理的記述が出来るだろうということは多くの人が信じていて、そうなると、この東京藝術大学でやっていることというのは、抽象数学の学部がやっていることとその頃には同じになると思うんです。そうならないと、数学というか科学の本当に面白い発展というのは無いわけですよね。

(以下略、終わり)