山下良道法話:「自分というなまの現実」(1 of 2)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2011年1月23日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=652
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

(途中まで略)

 皆さんもご存知のように、私と、いわゆるの伝統的な先生たちの話のしかたというのは、かなり違っていて、それでまあ面食らう人もいるし、あるいは、それだから一法庵に来る人・一法庵のポッドキャストを聴いてくださる人もいるかと思うんですけども、いったいどこがどう違うのか。[要点は]そこらへんなんだけども……(中略)。

 例えば、伝統的な先生たちというのは、どういう話し方をするかというと――内容そのものについてではなく、そのもうひとつ前の[、話し方]として――、例えば皆さんが、あらゆることを質問するわけですよ……「自分はどうしても瞑想に集中できない」とか、あるいは「こういうネガティブな感情がつきまとうので、どうしたらいいか」とか、あるいは「怒りとか、嫉妬だとか、不安だとか、執着だとか、そういうものがあるんだけれども、どうしたらいいか」とか。まあ、そういう質問をするわけですね。そのときに、その先生たちというのは普通は――まあだいたい、パターンとしてはお分かりのように――、いちおう経典からまず引用するわけなんですよ。「マッジマ・ニカーヤの何ページに、こう書いてある」とか、あるいは「サンユッタ・ニカーヤの何ページに、こう書いてある」とか。まあそれはテラヴァーダの先生の場合だけど、テラヴァーダの先生じゃなくたって、大乗の先生でもね、経典がパーリ経典から大乗経典になるだけの話で。まあそういうふうに話をしていくわけね。
 その話を誰が聞いたって、そこに別に何の落ち度もないし、それは非常に伝統に則ったやり方で素晴らしいことだし、それによってテラヴァーダ仏教なり大乗仏教なりチベット仏教なりが理解できて、それはそれで素晴らしいじゃないですか。
 そうなんだけれども……例えばね、五蓋という、瞑想を邪魔する五つのものがあって、それについての説明となると、どこかの経典にちゃんと書いてあるから、それを引いてきて「こういうもの[=五蓋]があって、これが[瞑想の]邪魔をするんですよ。それを直すものとしては、こういうものがありますよ」というのも経典から引いてきて、説明をする。だから、そういう回答をやっていること自体は間違っているわけがないし、皆さんの頭の中が非常にきれいに整理されるし、どこにも問題点は無いんですよ。
 そうなんだけれども……瞑想を邪魔するものを、それ[=上記のような受け答え]によって克服することがなかなかできないということがあるわけね。それはいったい、どういうことなのかなあと昨日もいろいろ話し合ったんだけども……(中略)結局、自分の問題ですね。「生々しい自分」というのかな。それがどれほど[関心]に入っているかどうかという問題が、どうもある。というような問題意識から、今日は主に『正法眼蔵随聞記』と、現代的な文章の両方を読んでいきたいと思います。『正法眼蔵随聞記』の第二の一四を読みますけども、現代文のほうは内田樹先生のブログがあるので、それについて触れながら話を進めていきたいと思います。
 というのはね、内田先生が問題にしていることと、道元禅師が問題にしていることと、「ダルマがうまくはたらかない」ということとが、全部結局おなじ問題だということが、だんだんと見えてきて。そしてそれと、今ここで我々が何をしようとしているのかというあたりのことがようやく繋がってきたかなあという気がしているんですよ。

 内田樹さんがある講演をして、そのタイトルが「日本の人文科学に明日はあるか」というものだったんですよ。なぜそういう講演をしたかというと、日本の人文科学には明日がないんじゃないかという危機感の裏返しとして……「明日はあるのか。明日が危ういとしたら、なぜ危ういのか。そして、その危うさをどうやったら乗り越えられるのか」という、そういう危機感からそのようなタイトルが付けられているんだけれども、その危機感は、私がいま抱いている危機感とまったくダブってきて……「日本の仏教、日本の瞑想に明日はあるか」とかいうようなあたりとだいたいダブってしまうんですよ。

 先週も言いましたけども、あることを続けるのは……状況がそれを許すときは、いくらでも続くんですよ。“momentum”(惰性、勢い)というものが効くから。だけども、状況が変化したときに、そこに本当の中身がないと、[継続は]非常に難しくなる、というね。

 これは何回も言ってきたから、また繰り返しになるんだけども……仏教というのはインドで生まれたもので、インドで非常に栄えたものじゃないですか。そうなんだけれども、13世紀・14世紀に入ってイスラムが入ってきて、仏教が滅ぼされたということに一応なっているわけね。これはもう高校の世界史のレベルでも、いちおう共通認識としてあるわけじゃないですか。「ムスリムの人たちがインドに入ってきて、仏教の寺院をどんどん壊していって、仏教を敵対視して、建物も壊されて、お坊さんも全部、殺されるか衣を脱がされるかされて、仏教というのはイスラムによって徹底的に弾圧されたんだなあ」と思うじゃないですか。それはそうなんだけども、そのときに仏教だけがそういう目に遭ったのかというと、そうじゃないんですよ。ムスリムというのは、インドにあったすべての宗教を徹底的に壊したわけね。だからそれは仏教だけじゃなくてヒンドゥー教も壊したし、ジャイナ教も壊していったし。
 日本ではジャイナ教というのはあまりピンとこないと思うんだけども、インドにおいてはジャイナ教というのは、存在としては非常に大きいんですね。マハーヴィーラという人がジャイナ教を始めた人ですけども、その人がお釈迦様とほとんど対等みたいなかたちでインドの人には認識されているという面もあるんですよ。(中略)とにかく、ヒンドゥー教にしろジャイナ教にしろ、それはインドにおいて今でも生きているわけです。ということは、いったん潰されかかったんだけども、また蘇ったわけね。仏教というのは、いったん潰されかかって、そのまま消えちゃったんですよ。まあもちろんね、いま、仏教復興運動が起こっているというのはそのとおりで、私自身が深くそれに関わっているのはそのとおりなんだけども、だけどこの700年かそこらの間に、いちおう、仏教はインドの地からほぼ消えた――完全には消えてなくて、所々に残り火みたいに残っていたんだけれども、ほぼ消えた――というのは歴史的事実としてはそうです。じゃあなぜ、ヒンドゥー教ジャイナ教仏教とに、そこまでの違いがあったのか。
 だから、いったん何もかも潰されたあとで、それをもう一回復興しようと思うときは、それは、どうしてもそれを復興したいという非常に強い熱意と熱情がなかったら、復興なんかできないじゃないですか。それが、ヒンドゥー教ジャイナ教にはあった。だから彼らは、完全に潰されたんだけどももう一回、寺院を復興して、もう一回、伝統を立て直した。(中略)だけども、どういうわけか仏教だけは復興しなかった。みごとに潰されてしまった。なぜなの? なぜそれだけの「仏教をもう一回復興しようよ」という熱情が700年前に起こらなかったのか、という問題なんですよ。
 だから要するに、いったん何かコトがあったときに、そのあとでもう一回それをゼロから犠牲を払って復興しようという熱情がどうしても仏教の場合には無かったという、非常に重たい現実があるわけね。[危機が]何もなかったらね……例えばムスリムというものが進入してこなかったら、[インドの仏教は]今でも続いていたかもしれない。だけども、いったん何かが起こって潰されたときに、それをもう一回作り直したいというほどの意味を・価値を、皆が仏教のなかに見出していなかったという、どうしようもない現実があるわけね。
 だから、私が今いちばん心配しているのは、もし我々がやっていることが形式だけにすぎないんだったら、いったん何かがあったときに……その形式そのものが潰されたときに、それをもう一回復興しようよという熱情なんか起こるわけがない、というところなんですよ。ということは、そんな情けないようなものだったらば、いま生きている人にとっても全然役に立ってないという話になっちゃうじゃないですか。

(中略)

 だから、仏教というのは、歴史上そういう敗北をした経験があるわけね。だからこそ、そこをもう一回問い直さなければいけないというところがあって、それでもって「いま、仏教の瞑想には明日があるのか」という非常に強い危機感がそこから生まれてくるわけね。つまり、形式だけをやっていくのは簡単なんだけども、もしその形式に本当に中身が伴っていなかったならば……平和なときだったらその形式はたぶん続くでしょう。だけども、いったん何かがあったときに、形式だけがあって中身がないものというのは完全に潰されちゃうんですよ。それで、潰された後で復興なんかしないんですよ。ということは、そんなものだったらば、「有ったって無くったって同じなんだから、無くったっていい」という話になってしまってね。だから、[今日のテーマは、]そこいらへんをもうちょっと真剣に考えてみませんか? という、そういう話ですね。

 それで、その危機感を……人文科学というものの将来というものに対して内田先生が非常に強い不安を抱いているというのが、これから引用する内田先生のブログの記事に書かれていることで、それがどうしてそうなのかというと……

(中略)

これまでも何度も書いたことだが、自然科学の先端的な研究に従事している学者たちとお話するのはほんとうに面白い。
この数年のあいだに話をきいてどきどきした学者はほとんど全員「理系の人」である。
養老孟司名越康文、池上六朗、福岡伸一茂木健一郎三砂ちづる春日武彦池谷裕二、仲野徹、岩田健太郎・・・
文系の学者で「話を聴いているうちに頬が紅潮するほど知的に高揚した」という人は、残念ながら一人もいない。

特殊な能力について(内田樹の研究室)

 この挙げられた人たちの名前とかはどうでもよくて、[要点は、こういう人たちと話すのが面白いことの]理由なんですよ。ここいらへんから、だんだんと我々の問題になってくるんだけども。なぜ理科系の研究者[と話すのが面白い]のかというと、ここで「なまもの」という言葉を使っているのね……

なぜか。
理由はいろいろあると思う。
一つは、理系の先端研究者は「なまもの」を扱っているということ。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 ここいらへんから、いよいよ我々の問題になってくるんだけども……。それで、養老孟司さんがこういうことを言われているのね。

養老先生は以前「情報」と「情報化」の違いについて教えてくださったことがある。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 「情報」と「情報化」という、似たようだけど徹底的に違う2つのものがあって……それがどういうことかというと、

「情報」というのはすでにパッケージされ、その意味や有用性が周知されているもののこと。
「情報化」とは、「なまの現実」を切り出し、かたちを整えて、「情報」にパックする作業のことである。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 情報化というのはつまり、「一方では『なまの現実』というものに触れていながら、それをなんとかしてまとめて・パッケージ化しよう、それを理解しよう」という知的な作業のことですね。その結果としてパッケージされちゃったものは、「情報」というものになる。
 ということは、どういうことですか? つまり、情報化をしようとする人たちは、一方では「なまの現実」に触れている。もう一方[=情報化を担わない人]は、なまの現実には触れないで、すでに出来あがったパッケージのものを扱っている。

文系の学者たちは、情報の操作には長けているが、「なまの現実」を情報化するという作業にはあまり関心がないように見える。
「なまの現実」というのは、端的に言えば、「生き死ににかかわること」である。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 「生きることと死ぬこと」となったらば、それは医学の現場がまさにそうですよね。[医学の現場なら、]すでにたくさんのパッケージ化された情報とかいうのが当然あるに決まっているんだけれども、だけどもいかんせん、病院なら病院というところに「なまの現実」がもう生々しくあるわけじゃないですか。そしてその「なまの現場」を生きている人はどういうふうに生きているかというと、

例えば、医療の現場では、そこに疾病や傷害という「なまの現実」がある。
それを手持ちの医療資源を使い回して「どうにかする」しかない。
「こんな病気は存在するはずがない」とか「こんな病気の治療法は学校では習わなかった」という理由で診療を拒むことは許されない。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 ……ということなんだけども、こうやって書かれると「そんなの当たり前じゃないか」と思うかもしれないけども、ここは非常に微妙なところです。「なまの現実」があるわけでしょう? でも、その「なまの現実」に接しないで、自分の頭の世界だけ――まあ我々の言葉で言えば“thinking mind”の世界だけ――で生きている人は、[本人]の抱え持っているthinking mindの世界をはみ出るものに対しては、それは存在しないことにしちゃう。あるいは、「それは教わっていないから、存在も認めることができない」[というような態度をとってしまう]。

 つまり、「なまの現実」から情報を取り出して、情報のパッケージ化をして、それがthinking mindによって整えられているわけじゃないですか。だから、本当にいちばん大事なのは「なまの現実」なんだけども、そこで非常に不思議な転倒が起こって、このパッケージ化された世界に住んじゃうと、この「なまの現実」のほうが見えなくなってしまうというようなことが起こるんですよ。これは、仏教の場合はとんでもないものを生み出すということを後で言いますからね。

 とにかくね、このパッケージ化された情報の世界に生きるのではなくて、「なまの現実」のほうに向きあう人たちはどうするかというと、「とにかく、何がなんでもいいから、この『なまの現実』をなんとかする」という[態度をとるわけ]ですね。ここらへんが非常に面白くて、

池上六朗先生は患者が来たら「何かする」のが治療者である、とおっしゃったことがある。
「正しい治療」をするのではない。
「何かする」のである。
治療は「結果オーライ」だからである。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 ……これ、分かりますかね? これは、本当に現実の世界を生きている人なら分かるはずです。というのはなぜかといったら、現実の世界では、「何が正しいか」なんて、そんなにハッキリとはしてないから。
 だけど、この「なまの現実」に触れないで、パッケージ化された・thinking mindで作り上げられた世界だけに生きている人にとっては、[適否や正邪というのは]「ハイ、これが正しいこと。ハイ、これが間違っていること」というふうに非常にきれいに整理され[ているように見える]んですよ。だから、何が正しくて何が間違っているのかが簡単に分かるように思えちゃうんだけども、本当に「なまの現実」に接している人たち[からしてみると]、そんなことは何も言えない。だって、いま目の前で患者さんが苦しんでいて、「ハイ、こういう病気です。ハイ、これが正しい治療です」なんて[いうことは]、ある程度は言えるけども、そんなのはどこまで正しいかなんて分かるわけがないし。だからとにかく、この「なまの現実」を扱うという以外にはもう無いわけね。

(中略)

人間の身体のような「なまもの」は「正しい治療」をすればさくさくと治癒するというものではない。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 ……これはもう、[この法話のテーマに合わせて、次のように]言葉を変えましょう。「人間の心というような『なまもの』は、『正しい瞑想』をすればさくさくと瞑想がうまくいくというものではない」。私なら、この言葉をそう変えちゃうけども。
 つまりね、何が言いたいかというと……いま繰り返し言っているのは「なまもの」・「なまの現実」ということなのね。それに対して、「パッケージ化された情報」というものがあるわけ。そして普通は我々は、パッケージ化された情報の世界のなかを生きていて、その世界のなかでは、「何が正しくて、何が間違っているか」が結構ハッキリしているわけ。だから、自分の心すらもそういうふうに簡単にできちゃう[=扱える]ような気がしちゃうんですよ。それで、瞑想というものを「治療法とか瞑想テクニックとか何かが分かりさえすれば、すぐにサクサクとうまくいく」と思っちゃうわけね。[実際は]そんなわけがないじゃないですか。「そういうわけがない」ということを、瞑想をやっている人間――すくなくとも、この2011年を生きている、瞑想をしている人間――だったら分かっているはずだから。だって、[瞑想が]うまくいかなかったんだから。だから、それをあっさりと認めようよ、ということをまあ私は言っているわけね。
 それでね、「正しい治療法、正しくない治療法」というものがそんなにすっきりとはしていなくて[=判定できるわけではなくて]、

「正しくない治療」をしても、治療者が確信をもって行い、患者がその効果を信じていれば、身体的不調が治癒することがある。
新薬の認可がなかなか下りないのは、「画期的な新薬」を投与したグループと「これは画期的な新薬です」と言って「偽薬(プラシーボ)」を投与したグループのどちらの患者も治ってしまうので、薬効のエビデンスが得られないからである。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 だから、本当に「なまの現実」に向い合って、なまの患者さんを診ている人だったらば、[治療法が]正しいも正しくないもハッキリ分からないところで、何かをやる。それが例えば、空中で十字を切ってみたり、何かマントラみたいなのを唱えちゃったりとか、「とにかく何でもいいからやってみる」。つまり、ここで何を言いたいかというと……本当の「なまの現実」に出会ったときに、そこではそんなにハッキリとしたものなんかあるはずがない。だから、ハッキリとしたものがあるはずがないところで、とにかく何かをやっていくという、そういうことなんですよ。
 ここいらへんからいよいよ、瞑想・我々[の関心]と重なってくるんだけども、

「なまもの」相手のときは、マニュアルもガイドラインもない。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 ……これは私が繰り返し繰り返し言ってきたように、瞑想のマニュアルとか瞑想のガイドラインというものは「或る程度まで」の存在であって、「ハイ、これ[=瞑想のマニュアル・瞑想のテクニック]を手に入れたら、すぐに[瞑想が]できます」というようなことではないということを私は繰り返し繰り返し言ってきました。これは皆さんの現実からいっても「そのとおり」なんだけども、皆それをなかなか認めないんですよ。なぜか? だって、めんどくさいじゃないですか(笑)……みんな色々な問題を抱えていて、それを解決するために瞑想センターにやってきて、それで「先生から何か瞑想テクニックを教われば、ハイ、それですぐに問題は解決する」というような話だったら、はるかにスッキリするじゃないですか。だけども、いかんせん、そうはなっていないという現実があるわけじゃないですか。

 これは先週も言いましたけども、瞑想センターというところはだいたい環境が整っているから――お喋りしないとか、静かな山の中だとか――、そこにはインターネットも電話もテレビも何もなくてね、(中略)朝早く、3時か4時か5時には起きて、非常に健康的な食べ物――精進料理――を食べて生活しているから、心は非常に静かになっていって、「ああ非常に良いなあ」と思うんだけども、その瞑想リトリートが終わって現実に戻ったときに、「全部がもとに戻ってしまう」というね(笑)。もとに戻るから、また次のリトリートに行かざるを得なくなっちゃって。またリトリートに入っちゃえば、なんとかやる……うまくいく。「そういうふうなことをやっていけば、そのうちなんとかなるんだろうな」と思って皆なんとかやってきたんだけども、だけども10年経っても結局おなじだったというね……10年経っても、リトリート中は良いんだけどもリトリートが終わったら全部ガタガタになってしまうというんだったらば、「これ、なんかちょっとおかしいよね」というようなことを今ほんとうに多くの人が感じつつあって、「どうしてなの?」というところから先週と今週の法話が始まっているんだけれども。問題は、だいたいここいらへんからなんですよ。
 つまり……もう一回言いますよ、「なまもの」相手のときは、マニュアルもガイドラインも存在しない。

「なまもの」相手のときは、マニュアルもガイドラインもない。
「なまもの相手」というのは、要するに「こういう場合にはこうすればいいという先行事例がない」ということだからである。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 つまり、すでに同じようなことが過去に起こっていて、それに対して「こうすればよかった」ということがハッキリ分かっているのならば、その過去の例に従って同じことをやればいいわけじゃないですか。だけども、そうはうまくいかなくて、だから、

どうしていいかわからない。
どうしていいかわからないときにでも、「とりあえず『これ』をしてみよう」とふっと思いつく人がいる。
そういう人だけが「なまもの相手」の現場に踏みとどまることができる。
どうしていいかわからないときにも、どうしていいかわかる。
それが「現場の人」の唯一の条件だと私は思う。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 ……これを瞑想[についての表現に]置き換えます。私らの心というものは、「なまもの」でしょう? 「なまもの」だから、そこには「ハイ、こうすればこうなりますよ」というマニュアルとかガイドラインも、或る程度までしか存在しない。まったく存在しないと言っているわけじゃないですよ……だって、瞑想テクニックと瞑想マニュアルというのは一応あるから。だけども、瞑想マニュアルとか瞑想テクニックというのは、皆さんが思うほどには「ハイ、こうすればこうなりますよ」というようなものではないということね。だから、それはあくまでも「或る程度まで」の存在にしかすぎないということ。だから、結局はどういうことかというと、その「或る程度まで」の存在にしかすぎない「瞑想マニュアル」とか「瞑想テクニック」とか「瞑想ガイドライン」とかいうものを或る程度まで参考にしたうえで、自分の心という「なまもの」を相手にしなくちゃいけなくて、この自分の心という「なまもの」にはもう、「こうすればこうなる」ということはないです。それはあり得ない。だから本当を言うと、「自分のなまの心をどうしていいか分からない」というのが……これが、どうしようもない現実ですね。
 だけど、ここで終わっていたら話にはならなくて(笑)。この自分のなまの心を目の前にしたときに、一切の瞑想テクニックも瞑想ガイドラインもほとんど役に立たなくて、だから自分のなまの心をどうしていいのか本当は分からなくて……だけども、

どうしていいかわからないときにでも、「とりあえず『これ』をしてみよう」とふっと思いつく人がいる。
そういう人だけが「なまもの相手」の現場に踏みとどまることができる。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 ……ということは、これを瞑想に当てはめれば、「この、なまの心を取り扱う我々は、どうしていいか分からない」。それが本当です。だって、「怒りが湧いてきた」といったって……怒りといったって、仏教の本に書いてあるようなかたちでなんか湧いてこないじゃないですか。もっと生々しく湧いてくるわけだし。心配というものだって[同様だし]、仏教のアビダンマに書いてあるようなきれいなかたちで、執着とかなにかが皆さんの心に湧いてくるわけがないじゃないですか。もっと生々しいかたちで・そして毎回毎回ちがったかたちで・ナマなかたちで我々の心にワッといきなりそういうものが湧いてきちゃって。だからそのときに、我々が単に本だけで勉強したことというのは、ある程度は役に立つけども、ほとんど役に立たない。だから、自分の心のなかに湧いてきた非常に強い怒りとか、非常に強い嫉妬とか、非常に強い心配とかに関しては、はっきり言って、「どうしていいかよく分からない」わけですよ。それが、「なまの現実」ね。そうなんだけれども、その「どうしていいか分からない」ときでも「まあ、とりあえずこれをやってみようか」ということをフッと思いつく人がいる。結局、ここいらへんが、我々の瞑想が本当の意味で「なまな現実」のなかでうまくいくかいかないかの分かれ目になります。

 なぜ私がこんな話をするかというと、(中略)[瞑想センターで瞑想がうまくいっている人は居るが、]それはあくまでも「瞑想はうまくいっている」ということなんですよ。「瞑想はうまくいっている」ということと、人生の問題が解決するということとは、また全然別の話で……と言ったらまた「ガックリ」[させてしまう]んだけど(笑)。
 あのね、皆さんの前提条件[=瞑想に取り組む者が自ら想定している前提条件]としては……「人生の問題」が有るわけね。それと、「その治療法としての瞑想」が有るわけね。ということは、理論上、「瞑想がうまくいく」ということは「人生の問題が、そのまま解決する」という話[=そういう図式]になるはずじゃないですか。それだからこそ、皆が瞑想を一所懸命がんばって、瞑想がうまくいかなくてガッカリして……とかになるわけね。
 だけど、私が見ているかぎり、「瞑想だけはうまくいく」ということもあるんですよ。「瞑想だけは、なんか自然と、集中できちゃう」とかね。だけど、それと、本当の人生の問題の解決というのは――無関係とは言わないですよ。無関係とは言わないけど――、そこからもう一歩進めなきゃいけない問題なんですよ。
 ということはつまり……我々が人生の問題を抱えていて瞑想をするでしょう? そして最初の段階としては、瞑想が全然うまくいかないということもあるわけ。それで、瞑想が全然うまくいかないときは、人生の問題も全然うまくいっていません。それで、そこから半歩だけ進んで、「瞑想はうまくいく」というのもあるんですよ(笑)……「瞑想はうまくいく。だけど、人生の問題は、まだぜんぜん解決がつかない」というのがあるわけね。そして最終的に、「瞑想がうまくいったうえで、それからもう一歩も二歩も三歩も進んで、ようやく人生の問題が解決する」ということになるわけ。だから、瞑想がうまくいくことと人生の問題が解決するということとは、普通の人が考えるほどに「そのままイコール」ではないですね……私が見ているかぎりは。というのは……「瞑想はうまくいくんだけれども、人生の問題がまだまだ解決していない」ような人は山ほど居るし。瞑想がうまくいっていない人は、もう数え切れないぐらい居て。

 ということはね、結局どういうことかというと、瞑想がうまくいくというのは、やっぱりあくまでも或るパッケージ化されたなかでの出来事という意味合いもあるんですよ。だけど、我々の人生というのはその「パッケージ化」なんかできるわけがなくて、あくまでも「なまもの」じゃないですか。その「なまもの」に対して、じゃあどうしたらいいか? という話しが出てくる。本当の「なまもの」だったらば、それは「こうしたらいいよ」というガイドラインなんか存在するわけがない。だから「どうしていいか分からない」というのが本当のところです。それで、「どうしていいか分からないんだけれども、まあとりあえず、こういうことをやってみようか」とフッと思いつく[人が居る]。その人たちだけが、「なまもの相手」の現場に踏みとどまることができる。ということは、自分の心の生々しい現実に対して、瞑想テクニックとか瞑想ガイドラインなんていうのはほとんど役に立たなくて、圧倒されて「もう私、どうしていいか分からない」といったときに「ああ、こうしてみようか」というようなことを思いつく人間だけが、「自分のなまの心をどうにかする」という現場に踏みとどまることができる。そうすることによって、「瞑想はうまくいくけれども、人生の問題がまだ解決していない」という人が、いよいよ人生の問題を解決するというところに入ってゆける。そういうのが本当だと思います。

(中略)

 一切のマニュアルや、一切のガイドラインや、一切のテクニックが通用しない、生々しい現場・現実……皆さんはそういうところで生きているじゃないですか。そのときに、「単なるガイドラインなんか役に立たないから、どうしていいか分からない。だけども、まあちょっと、これをしてみようか」とフッと思いつくことができる。そういう人だけが「なまもの相手」の現場に踏みとどまることができる。そして、内田先生は次のように言われているのね、

どうしていいかわからないときにも、どうしていいかわかる。
それが「現場の人」の唯一の条件だと私は思う。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 この「どうしていいかわかる」というのは、もうガイドラインとも関係ないし、マニュアルとも関係ないし、「どこかに、[手引きのようなもの]が既にあったから、それを参考にしてやれば分かる」とかあるいは「グーグルで検索すれば分かる」とかいう話では全然なくて、「そういうものが一切なんにも通用しないところなんだけれども、だけどもなんか、分かっちゃう」というところなんですね。「それが「現場の人」の唯一の条件だと私は思う。」それで、私がなろうとしている・あるいは皆さんに、なってほしいと思っているのは、まあこの「現場の人」ですね。

 それで、内田先生が会ったこの「理科系の人たち」(上記引用文を参照)――つまり、話していればウワーッと思うぐらい興奮してくるような素晴らしい人たち――というのは皆どういう人かというと、

私が知り合った「理系の人たち」はどなたもそういう「なまの現場」に立っている方たちである。
現場にとどまり続けるためには「わからないはずなのだが、なんか、わかる」という特殊な能力が必要である。
そのことを先端研究にいる人たちはみんな熟知している。
だから、その「特殊な能力」をどうやって高いレベルに維持するか、そのことに腐心する。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

(中略)

 整理するとね……我々がいま取り扱っている「心」というのはもう、ものすごく生々しいものじゃないですか。その生々しいものに対して、単なるほんの小手先のガイドラインとかマニュアルとか瞑想テクニックとかは、もうはっきり言って屁の役にも立ちません。本当です。役に立たないですよ……この現場の生々しさ[を相手にするならば]。だから、この現場の生々しさに向かい合ったときに、私らは「いったい、どうしていいのか分からない」というのが正直なところです。そうなんだけれども、「なんかフッと分かっちゃう」[人も居る]。つまり、「どこをどう考えたってガイドラインなんか屁の役にも立たないような現場のなかにあって、それでもなんか、分かっちゃう」ような能力……それを「特殊な能力」と言っているんだけども。この「特殊な能力」というものがあって、「どうやってそれに磨きをかけていくのか。あるいは、どうやって維持していくのか。それをどうやって、さらに深いものにしていくのか」だけが、勝負のしどころになっている。これはまあ、こういう先端研究の人の問題ではなくて、我々の問題[=我々が取り組むべき問題]です。我々――瞑想をやっている・瞑想をやろうとしている人間――にとっても、やっぱりこの「特殊な能力」だけが勝負のしどころになってくるのね。

 つまり、「瞑想テクニックも瞑想ガイドラインも結局、何の役にも立たなかった」ということが分かったうえで、「何が何だか分からなくて、もうお手上げ」になるかというと、「もうほとんどお手上げなんだけれども、なんか分かっちゃう」というね……そういう「分からないはずなのに、なにかが分かる。そういう特殊な能力」。これがなぜ「特殊」かというと、それはもうすでにthinking mindが考えられる範囲を超えちゃっているからね。そしてそのthinking mindが考えられる範囲を超えたところにある「特殊な能力」を使わないかぎり、瞑想なんかうまくいくわけがない、という話になってきます。

(中略)

 「[上記のような]『屁の役にも立たない』ものを手放したうえで・諦めたうえで、どうしていいのかが分かってしまう」その特殊な能力というのは、いったいどこから来るの? という話になるでしょう? この特殊な能力を持っている人たち――[内田樹氏がブログに書いているのは]最先端の研究者のことだけれども――から、我々……瞑想をする人間も同じことを学ばなければいけないから、今日取り上げているんですよ。

先に名前を挙げた方たちのふるまいをみていると共通点がある。
それは「やりたくないことは、やらない」ということである。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 ……「やりたくないことは、やらない」。これ、ピンと来ますかね? これがほんとに、分かれ目ね……勝負の分かれ目。「そんなの、わがままじゃないか」と言うような人だったらば、ちょっと、瞑想をやめたほうがいいと思う。「やりたくないことは、やらない」というのでピンと来るようなセンスの持ち主じゃないと、たぶん瞑想をやっても絶対うまくいかない、ですね。なぜかといったらば、――なんて言うかな――「やりたくないことは、やらない」というのが、どれほどの覚悟が要るのか。どれほどの決意が要るのか。それはもう「わがまま」というのとはまったく正反対のものなんだということが分かっているはずだから。「やりたくないことは、やらない」というのが単にわがままにしか聞こえないとしたらば、その人はただ単に頭の……thinking mindがこしらえた世界のなかに生きていて、「こうすればこうなる」というマニュアルとかガイドラインだけが頼りで、それさえやっていけば――無理無理やっていけば――なんとかなるというようなことを思っているからなんですよ。だけども、[そういう目論見は成り立たない]。なぜかというと、この自分の心というのは生々しい現実だから。生々しい現実には、そんな小手先のガイドラインなんかまったく役に立たなくて。
 そのときに、まったくわけのわからないものをどうにかするには、どうしても「特殊な能力」が必要で、この特殊な能力を磨いていくためには・レベルアップするためには・維持するためには、どうしてもやらなきゃいけないことがあって、それが「やりたくないことは、やらない」ということだ……ということなんだけれども。それはどういうことかというと、

やりたくないことを我慢してやっていると、「わからないはずのことが、わかる」というその特殊な能力が劣化するからである。
どうしてだか知らないけれど、そうなのである。
だから、自分に負託された使命が切迫している人ほど「特殊能力の維持」のために、さまざまなパーソナルな工夫を凝らすようになる。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 ……だから、「やりたくないことは、やらない」かわりに、非常に特殊なことをする。例えば、ある人は旅をしたりとかね、ある人は何か、水に潜ったりとか。ある人は、何か不思議なファッションを着たりとか。

池上先生が水に潜ったり、三砂先生が着物を着たり、池谷さんがワインとクラシックにこだわったり、茂木さんが旅したりするのは、それぞれのしかたで「そうすると、自分の特殊な能力が上がる」ことがわかっているからである。
別に趣味でなさっているわけではないのである。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 それで、「やりたくないことは、やらない」というのは単なるワガママではなくて、ワガママとは正反対の非常に厳しい自律だということが本当に分かっている人は、「いつも上機嫌である」

「やりたくないことは、やらない」という厳しい自律のうちにある人たちは、だから総じていつも上機嫌である。
上機嫌であることが知性のアクティヴィティを(「おめざ」のあんこものと同じくらいに)向上させることを彼らは知っているから、「決然として上機嫌」なのである。
オープンマインドとハイ・スピリット。
これが知的にアクティヴな人の条件である。
不機嫌な人や、威圧的な人や、心の狭い人や、臆病な人や、卑屈な人がマジョリティを占めているような学術領域は「先がない」。
特殊な能力について(内田樹の研究室)

 ……だから、[『知的にアクティヴな人』]の反対が「不機嫌で、威圧的で、心が狭くて、臆病で、卑屈」で、それが「特殊な能力」の正反対ですね。

(中略)

 今まで読んできたのは内田先生のブログであって仏典じゃないんで、今から仏典を読みながら、この問題について考えていきますね。

2 of 2へ続く)

山下良道法話:「自分というなまの現実」(2 of 2)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2011年1月23日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=652
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

1 of 2からの続き)

 ここまでに扱ったことで分かったと思うけども、例えば私が皆さんから質問を受けたとして、「あの経典の何ページに○○と書いてありますよ。だから、その質問への答えは○○なんですよ」というような答えのしかたは一切してこなかった。その「してこなかった」理由というのはもちろん、ここまでで述べたようなことであって。結局ね、皆さんの質問というのは、皆さんの「なまな心をどうするか」ということじゃないですか。その「なまな心をどうするか」ということはつまり、「なまの現実のなかで・どうしていいか分からないような状況のなかで、どうにかしなきゃいけない」というような問題じゃないですか。それに対して、どこかの本の中にあらかじめ答えが載っているなんていうことはあり得るはずがない。その感覚なんですよ。
 そういう「なまな質問」に対して「××という経典の何ページに、こういう答えが載っていますよ。これが、ブッダの仰る正しい答えですよ」と[回答できる、という]ような発想にどうしてなってしまうのかというと、それは簡単な話で、その人はやっぱり「なまな現実」に接していないんですよ……その人自身がね。じゃあ、その人はどういう世界を生きているのかというと、やっぱり結局、thinking mindが作り上げた世界のなかだけで生きていて……thinking mindが作り上げた世界のなかでは、「答え」というのはまあ何となく出ているわけね。だから、どんな質問をされたとしても、そのthinking mindが作り上げた世界のなかにある「正しいこと」について答えていればいい、という話になっちゃうじゃないですか。それは、皆さん自身が皆さん自身の「なまな心」を問題にしないで、皆さん自身も何か仏教に関する知識が何となく増えていけばそれでいいやというレベルでやっているんだったらば、両者[=質問者と回答者]の利害関係は見事に一致して(笑)、皆さんの納得いくような答えがそこから貰えますね。だけど、そういう「××という経典の何ページに、こういう答えが出てますよ」というようなレベルでの答えを皆さんがいくら貰ったところで、――それは仏教に関する皆さんの知識が増えることは増えるかもしれないし、物知りになるかもしれないんだけれども――結局それによって皆さんの「なまな問題」が解決するということはあり得ない。それはあり得ません。その「あり得ない」ということは、もう皆さんも分かっているはずです。なぜかというと、皆さん自身の非常に苦い現実によってね。
 どうしてそういうことになっているのかというと、皆さんの問題というのは「なまな問題」だからね。“thinking mind”の世界のなかでの何かの答えを求めているのではなくて、「この生々しい現実をどうしたらいいか」という[問い]だから。

(中略)

 例えばね、瞑想のインストラクションということ一つにしても、いまの瞑想のインストラクションがどうしてうまくいかないのかというと、「なまの現実」のなかでの瞑想のインストラクションというものを、もう一回吟味していないから、何か「ヴィスッディ・マッガ(清浄道論)とかそういうところに書いてあるものを与えてしまえば、それですべてがうまくいく」というようなことじゃないですか。だけどそれはうまくいくはずがなくて。なぜかといったら、瞑想は生々しい人間がやっているわけだからね。
 「呼吸を観る」ということにしても……「私が居て、呼吸があって、その私が一所懸命に呼吸を観ます」なんていう話であるわけがなくて。だから、「今、自分が息を吸っていることに気がついている。今、自分が息を吐いていることに気がついている」ということだって、そんなに単純なことであるわけがない。「なまな人間」が「なまな現実」を生きているかぎりは、それが分かるはずなんですよ。だけども、それをしていないから……皆がthinking mindの世界に閉じこもっちゃっているから、[例えば]「アナパナというのは、集中して、息を吸っていることに気がついて、吐いていることに気がつくことだけですよ」という5分間の説明で終わっちゃうんですよ。そういう5分間の説明をいくら聞いて、いくらやってみたところで、誰も埒があかないのね。
 それで、「やりたくないことは、やらない」というのはどういうことかというと、それは、いま言ったように(1 of 2を参照)、わがままではない。それは、自分たちのエゴが「これはやりたくない」と言っているんではないんですよ。もうちょっと別なところのものが「それはやりたくない」と言っているのね。

 これは内田先生がしょっちゅう言うことだし、どんなスピリチュアルの先生も言うことなんだけども……つまり、仏教の場合ね、智慧ということをさんざん言ってきたわけじゃないですか。だけども、智慧というのは「単なるthinking mindがclever(利口な、賢い)になることではない」ということもさんざん言ってきていて。thinking mindがいくら速く回ったところで、それは智慧にはならないんだということね。そして、智慧というのは全然別なところからくるんだということを、私もさんざん言ってきたじゃないですか。ということはね、thinking mindに分かるようなこと・thinking mindによってすぐに見つかっちゃうような答えでは、この生々しい現実には太刀打ちができないという話でしょう? ということは、thinking mindがその限界に達しちゃって、「thinking mindでは、もうこれ以上乗り越えることができない」というところまで追い込まれたところで、そのときになって初めて「まったくどうしていいか分からないんだけれども、どうしていいか分かる」。その「どうしていいか分かる」のはthinking mindかというと、thinking mindじゃないんですよ。それはもっと深いところから・もっと高いところから来ていて、さっき言っていた「『特殊な能力』を養う」ということ(1 of 2を参照)は、その「もっと深いところ・もっと高いところ」に対する感受性をどう養っていくか、という話になるわけね。ということは、「やりたくないことは、やらない」ということは、自分のその「もっと深いところ」が命じていることに関して「それに反することは、もうやらない」という、そういう感覚なんですよ。だからそれは、わがままであるわけがない。「自分がいちばん大事なものを大切にして、このいちばん大事なものに反するものを、一切やらない」という話なわけね。じゃあその一番大事なものに反することとは何かといったら、それは「マニュアル」です。[マニュアルというのは]要するに、「こうやればこうなるから、こうすればこうなる」というね。

 これはもう去年ぐらいからずっと言ってきましたけども、瞑想マニュアルとか瞑想ガイドラインとか瞑想テクニックというものがもつ根本的な矛盾というのは、そこにあるんですよ。瞑想にマニュアルなんか存在するわけがない。瞑想にテクニックなんか存在するわけがない。しちゃいけないんですよ。なぜかといえば、マニュアル化して・テクニック化したら、もう瞑想はそのとき死んでるのね。死んだじゃないですか。誰もうまくいかなかったじゃないですか。じゃあ、だれが殺したの? 我々が殺しちゃったんですよ、瞑想を。マニュアル化することによって・テクニック化することによって[殺してしまった]。なぜかというと、マニュアルとかテクニックというのは、すべてthinking mindの領域であって、瞑想というのはthinking mindを超えることなんだから。

(中略)

 これは現代の問題なのかというと、そうでもなくて、道元禅師のころからの問題でもあるんですよ。(中略)ある人が[道元禅師に]質問してきたのね。[それは、この法話で扱ったことと]まったく同じ質問なんですよ。いわく、「自分はもう長いこと坐禅をしてきた」。あるいは「仏道をしてきた」。何年間とは書いていないけど、まあ10年、20年、30年になるんでしょうけどもね。だけど、「いまだ省悟の分あらず」……「まだ何も悟っていない。『何かが本当に分かった』ということが、ピンとこない」。そして、「仏道というのは頭の良し悪しで[決まる]のではない[と昔からいわれている]から、『自分は劣った器だから、どうせ自分は駄目なんだ』と思う必要もないと思うんだけども……何かヒントがあったら教えてください」という質問なんですよ。それに対する道元禅師の答えは、「たしかに、頭がいいからといって仏道がうまくいくということではないんだけれども、だからといって『馬鹿になれ』という話でもない」という、まあ当たり前のことを仰ったあとで、

誠の道はやすかるべきなり。然あれども大宋国の叢林にも、一師の会下の数百千人の中に、まことの得道得法の人はわづかに一人二人なり。
(『正法眼蔵随聞記』第二の一四)

 ……つまり、道元禅師も中国へ行かれたんだけれども――宋の時代ですね――、そこでは一人の師匠のもとで数千人が修行しているわけですよ。この数千人というのは、これはお坊さんたちですよ。24時間フルタイムのお坊さんたちだからね。そういうフルタイムで何十年も修行されている、ある立派な先生のもとで修行している人のなかでも、「まことの得道得法の人」……「本当に道が分かった人・ダルマが分かった人」は、「わづかに一人二人」だというのね。「然あれば故実用心もあるべきなり。」……「そうであるから、気をつけなきゃいけない点も今、あるはずなんだ」。
 つまり、「これをやったら全ての人が悟るよ」というような話だったら簡単なんだけれども、でも実際・リアリティとしては全然そうじゃなくて、[うまくいっている人は]まあ非常に少ない。ということは、なにか非常に「ここをミスしてはいけない」というポイントがあるはずだということなんですよ。じゃあ、その答え[=ポイント]とは何かといったらば……『正法眼蔵随聞記』で書かれている下記のことは非常にオーソドックスな答えなんだけども、

今ま是を案ずるに志の至と至らざるとなり。真実の志しを発して随分に参学する人、得ずと云ふことなきなり。
(『正法眼蔵随聞記』第二の一四)

 ……つまり、「志というものが本当に何かに達したのか、あるいは達していないのか。その違いだけなんだ」というね。つまり「本当の志をもったのか、あるいはもたなかったのか」。そこだけが違いで、本当の志をもった人は「得ずと云ふことなきなり」……「悟りを得ないということはない」。ということは、「本当の志をもつ」ということと「悟りを得る」ということはもう、イコールなんだということ。それで、問題の焦点は「悟りをどうやって得るか」じゃなくて「本当の志を、どうやってもつか」という話になってきますね。なぜかって、本当の志をもてば、それはイコール、本当の悟りを得ることになるから。
 じゃあそのときに、何を気をつけなきゃいけないかというと、「先づ只欣求の志しの切なるべきなり」……「何かを求める志が、本当に身に迫ったものでなければいけない」ということですね。
 それで、

此の如く道を求る志し切になりなば、或は只管打坐の時、或は古人の公案に向はん時、若は知識に逢はん時、実の志しを以て行ずる時、高くとも射つべく深くとも釣りぬべし。是れほどの心ろ発らずして、仏道の一念に生死の輪廻をきる大事をば如何んが成ぜん。若し此の心あらん人は、下智劣根をも云はず、愚痴悪人をも論ぜず、必ず悟りを得べきなり。

(『正法眼蔵随聞記』第二の一四)

 ……「色んな修行をするんだけども――坐禅をしたり、あるいは勉強をしたり、公案を練ったり、あるいは先生に会ったり――、どんなことをするときでも、本当の志をもって、それぞれの・一つ一つのことをするならば、必ずその目的に達することができる。だけども、それほどの心が起こらなかったならば、仏道をすることによって輪廻から脱することは、どこをどう考えても、できない」ということですね。
 その……「志」というと、なんかまたボヤッとしちゃうじゃないですか。じゃあ、その「志」というのはいったい、どういうことなの? あるいは、志を起こすためにはどうしたらいいの? ということになると、それに対する道元禅師の答えは次のようになっているのね。

亦此の志しをおこす事は切に世間の無常を思ふべきなり。
(『正法眼蔵随聞記』第二の一四)

……「世間の無常――“impermanence”――について、本当に真剣に思うことなんだ」。[それを聞くと、多くの人は]「『無常』というのは『アニッチャ』*1だから、まあ、いつもどおりのことか」という[反応をする]じゃないですか。[いちばんの問題は]、ここいらへんなんですよ。
 この『正法眼蔵随聞記』というのは、いわゆるの経典(スートラ)じゃなくて、道元禅師が日々にふれて話されたことを、懐奘さんというお弟子さんが書き留めた本なんですよ。だから、(中略)非常にドキュメンタリー的な[描写]で、いちばん生き生きとした会話を記録しているわけね。それはもう普段の会話だから、「こういう経典にこう書いてある」という[内容ではないし、また]、非常にアカデミカルな内容とも違うわけですよ。そうなんだけれども、これを非常につまらなく読もうと思ったら、それもできるわけ。[つまらない読み方というのは、どういう読み方かというと、例えば]「世間の無常」という言葉が出てくるじゃないですか。[『無常』は、パーリ語で]「アニッチャ」じゃないですか。そうすると「ああ、はいはい、『無常』ね」と言って、「もう分かった気になっちゃう」のね(笑)。そして、「アニッチャ? ああ、もう知ってる知ってる。長老からの話でさんざん聞いたから」とか[いう反応に]なっちゃって。だけど、[問題なのは]まさにそこなのね。

 「無常」という言葉は仏教にとっていちばん基本の言葉――イロハのイ――じゃないですか。イロハのイなんだけども、この「無常」という言葉を聞いて「『アニッチャ』でしょう? はいはい、分かった分かった」となったらば、もうそれで終わり[=つまずいた]なんだよ、という話なんですよ……ここでは。今日話してきたこともみんなそうであって、「アニッチャ」と聞いてすぐ「分かったような気になる」のは、まさにあなたが、結局はthinking mindの世界から出てないということ。養老孟司さん的に言えば、「情報」と「情報化」のうちの「情報」のほう――なまの現実ではなくて、パッケージ化された情報のほう。なまの現実をパッケージ化して、きれいに整えられた情報としての仏教の「無常」――[を勉強しただけだ、ということになる]。そうであるかぎり、それは、本当の「なまの現実」にぶつかっていないということなんですよ(中略)。

 だから、「無常」――すべてのものが変化していくこと――というのはたしかに「アニッチャ・ドゥッカ・アナッター」*2で、仏教の三法印のいちばん基本的な教えの一つで、それはそのとおりであって、それは確かに仏教というもののパッケージのなかに存在しているんだけども、だけどその「無常」というものがパッケージ化される以前の生々しい現実があるわけね。それで、この道元禅師が仰っているのは、「無常」というパッケージ化される前の、この生々しい現実のほうの無常を観じなきゃだめなんだよという話なんですよ。いいですか?
 [そうであるにもかかわらず、]仏教をほんのちょっとだけ勉強した人間[の関心]はすぐに、この生々しい現実の無常ではなくて「仏教の三法印の一つとしてのアニッチャ」のほうになっちゃうわけね。ということは結局、パッケージ化された情報のなかにまた戻ってしまって、この生々しい現実からは遠ざかってしまうということなんですよ。そこいらへんのことを次のように仰っているの。

(中略)

此の事は亦只仮令の観法なんどにすべきことにあらず。亦無きことをつくりて思ふべきことにもあらず。真実に現前の道理なり。人のおしへ、聖教の文、証道の理を待つべからず。朝に生じて夕ふべに死し、昨日みし人今日はなきこと、眼に遮ぎり耳にちかし。是は他のうへにて見聞することなり。我が身にひきあてて道理を思ふに、たとひ七旬八旬に命を期すべくとも、終に死ぬべき道理に依て死す。其の間の憂へ楽しみ、恩愛怨敵等を思ひとげばいかにでもすごしてん。只仏道を信じて涅槃の真楽を求むべし。況や年長大せる人、半ばに過ぬる人は、余年幾く計りなれば学道ゆるくすべきや。此の道理も猶のびたる事なり。真実には、今日今時こそかくのごとく世間の事をも仏道の事をも思へ、(…)
(『正法眼蔵随聞記』第二の一四)

 ……この引用文の最後のほう[で述べられていること]は、もう「なまな現実」ね……「無常」というのは、仏教の三法印の一つ[というだけの意味]なんかじゃなくて、「いま、目の前でどんどん人が死んでいくじゃないか。そして、この私自身だって、いつ死ぬか分からないじゃないか」……それはもう、生々しい現実じゃないですか。その生々しい現実とは別に、パッケージ化された情報のほうの「無常」のほうに[関心が]行ってしまう[場合もある]。例えばそこで[本来とるべき態度は]、「仮令の観法」……「何か非常に人工的に『ああ、これが無常でーす』とかいうふうに見ること」[ではないし]、 あるいは「亦無きことをつくりて思ふべきことにもあらず」……「目の前の生々しい無常ではなくて、生々しさを除けたところで何か人工的にむりやり作って『ああ、これが無常ですね』なんていうことでもない」。(中略)あるいは、聖教の文、証道の理を待つべからず」……「『どこかの経典にこういうことが書いてありましたよ』とか『○○○という理由で、無常なんですよ』とかいうことじゃないんだよ」という話なんですよ。つまり、「どこかの経典に、こういうことが書いてありましたよ」とか、「仏教の理論としては、無常というのはこういうことですよ」というのはあくまでも、パッケージ化された情報のなかでの話なんですよ。それに対して、この引用文で道元禅師が仰っている無常というのは、もっと生々しい、なまな現実のなかでの無常を言っているわけね。この「生々しい現実」というのは、人がどんどん死んでいってしまうこと。そして自分のこの肉体も、いつどうなるか分からないということ。(中略)結局、問題は……なまな現実のほうに戻らなきゃいけないということ……なまな現実のなかでの無常を観じるということなんですよ。

 今日の『正法眼蔵随聞記』のポイントは……道元禅師の頃ですら、何百人・何千人いる人のなかでも本当に仏道が分かった人はほんの少ししか居なくて。なぜそうなの? といったらば、「志がやっぱり、ちゃんとしていないからなんだ」、志をもつにはどうしたらいいの? といったら、「志をもつには、無常を本当に思わなければいけない・観じなければいけない」。ここでまた分かれ目があって、[分かれ目の一方は、]無常というものを単なる「仏教の三法印の一つ」・「仏教の教学の一つ」としてとらえてしまうこと。あるいは、「○○の経典のなかに、こう書いてありました」とか「○○○という理由によって、無常なんですよ」とか(中略)……そういうとらえ方ですね。そういうのは全部、パッケージ化された情報の世界の話であって、生々しい現実ではないということね。道元禅師が仰る「志をもつこと。そのために無常を観じなきゃいけない」ということにおける無常というのは、そんなパッケージ化された無常ではなくて、生々しい現実としての無常なんですよ。だから、今日の内田先生の話(1 of 2を参照)とまったくシンクロしてくると思いますけども。

(中略)

 人間というのは中途半端に頭がいいと、情報処理が非常にうまくなってくるわけですよ。そうなってくると、いつの間にか、「情報処理がすべて」になっちゃうのね。そして、「その情報処理のなかに、仏教もある」・「情報処理のなかに、仏教瞑想もある」・「無常」といっても、単なる「仏教の三法印の一つにすぎない」・「どこかの経典のなかに、こう書いてあります」・「○○○という理由で無常なんです」とか[いう類の理解に]なってしまう。そうであるかぎりは、ぜんぜんどうしようもなくて。だから、本当の意味での現実に触れなきゃいけないという話ですね。

 パッケージ化された情報を処理するのがうまい人というのは、そのパッケージ化された情報について沢山の知識があって、それをまあ巧く処理するんだけども、それは決して「なまの現実」に触れてないということじゃないですか。だけど、我々というのは「なまの現実」なんですよ(笑)……人間としては。人間としては「なまの現実」で――結局ここに根本的な矛盾があって――、なまの人間としての私[=本人]が、なまの現実に触れていない。それでいつの間にか、パッケージ化された仏教の知識のなかに閉じこもっちゃっている。だから、何ひとつとして起こらない。何かが起こるというのは、なまの現実のなかで起こることだから。だから、何かリトリートとかいう人工的なところで何か人工的な瞑想をやれば、その間はなんとなく結果が出ているようにみえるんだけれども、実は本当の意味では結果が出ていないというのは、リトリートが終わった時点ではっきりしちゃうわけじゃないですか……リトリートが終わって、なまの現実に戻ったときに、何ひとつ変わってない自分というものを発見して。なぜそうなのか? といったらば結局、なまの現実のところで勝負をしてないからだという話になるわけね。

 今日の内田先生のブログ道元禅師も、まったく同じことを言っていて……つまり「なまの現実」に触れたときに、自分のthinking mindではどうしても分かりようもない何かがそこで生じてきて、どうしていいかが分かる。そして、それをするためには……内田先生はそれを「特殊な能力」と言われていて(1 of 2を参照)、道元禅師はまあ「志」とか「得道」とかそういうオーソドックスな仏教の言葉を使われているけども。(中略)それを磨くためには、なまの現実に触れ続けなきゃいけない。そして、それを阻害するようなことは「やりたくないこととして、やらない」というね。それが、わがままとは正反対の生き方であって、それをすることによってその「特殊な能力」をずっと保ち続ける。ということは、仏教の文脈で言うと、「志を持ち続けて、そうすることによって道、ダルマを得る」という、そういう話になってきますね。

(以下略、終わり)

*1:「アニッチャ」は、パーリ語で「無常」のこと。

*2:「アニッチャ・ドゥッカ・アナッター」は、それぞれパーリ語で「無常・苦・無我」のこと。

山下良道法話:「ウォーキング・メディテーション入門」(1 of 2)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2010年4月11日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=581
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

(途中まで略)

 今日はね、ウォーキング・メディテーション(“walking meditation”/歩く瞑想)の非常に有名な本を読みます。これはティク・ナット・ハンさんの本なんだけど――非常に小さな本なんだけど――“The Long Road Turns to Joy: A Guide to Walking Meditation”……「長い道のりが喜びへと変わっていく」という[意味の書名の本]ね。これね、小さな本なんだけど非常に影響力のある本で。ティク・ナット・ハンさんというのは、何百人でリトリートをする方でね、リトリートは色んなことをするみたいですけども、その大きなメニューの1つがウォーキング・メディテーションで。でも、歩く瞑想といっても、いわゆる日本の禅宗の経行(きんひん)とかテラヴァーダのいわゆるのウォーキング・メディテーション――「右足、左足、上げる、はこぶ、おろす」――のとはちょっと微妙に違って、この人たちは外を歩くんですよ。外の、森の中とか公園とか。それも、本当にすごい人数でね。それも、ゆっくりじゃなくて本当に普通のスピードで歩くんですね。だから、他人から見たらウォーキング・メディテーションしているとは気づかれないような様子で――ただ、多少ゆっくりめですけどね――ゆっくりめに歩くことをしているんですけども、これがどういうことなのか。今日はそこをちょっとみていきたいと思います。

 私もこの一法庵では、ウォーキング・メディテーションを一応2つ[のやり方で]とらえていて、基本線から言うとね、ここは接心とかあるいは日曜日とかだったら、座る瞑想があって、その2つの座る瞑想の中間に歩く瞑想を入れています。それは、ほとんどテラヴァーダ的なやり方をしている。つまり、ある直線のところを行ったり来たりする。まあこれはマハシの系列のところがどこでもやっているやり方ですけども。それもかなりゆっくりめでね、自分の歩くステップと呼吸とかに対してマインドフルである・サティを向けていくということで、非常にゆっくりめの歩く瞑想――歩行瞑想――ですね。(中略)ですから一法庵ではそういう非常にゆっくりとした歩行瞑想を、接心なら接心の座る瞑想(“sitting meditation”/坐禅)の合間、合間に入れていく。それが1つですね。
 もう1つのやり方の歩く瞑想――ウォーキング・メディテーション――も教えていて……これは外でやってもらっていて、あまり詳しくは教えてないんだけど、今日ちょっと、はっきりとしたことをお教えしますので。これはね、本当に外で歩く……公園とか道路とか海岸とかをまあ普通のスピードで歩く。だから、どこでもできるわけですよこれはね。だから皆さんが休みの日に近くの気持ちのいい公園があったら、そこを静かに歩く。べつに一直線を行ったり来たりじゃなくて、公園の周りをただ歩くだけでもいいですし。

 それで今、たくさんの人がウォーキング――ウォーキング・メディテーションじゃなくて、ただのウォーキング――をやっていると思うんですよ。実際に街を……公園とか見てもね、たくさんの人が歩いてるしね。ジョギングだけじゃなくて。それはいいんだけども……何て言うかな、iPodを聴きながらやっている人もいるけども、「ちょっとそれもね……」と思うんですよ。ですから、何が言いたいかっていうと、いま実際に、メディテーション[=瞑想]と関係なしにウォーキングしている人はたくさん居るし、あるいはウォーキングというほど大げさじゃなくても散歩だったら皆しているじゃないですか。あるいは、散歩とまでいかなくても皆さんどうせ毎日駅まで歩いてるんだし、一生懸命いろいろ歩いているんだし、なんやかやと日常生活のなかで歩いているわけで。その、普段やっている「ただ普通に歩いている」のでも、あるいはいわゆるの散歩、あるいはもうちょっと運動的なウォーキングでも何でもいいんだけども、とにかく歩いているわけで。そのために毎日、何十分、何時間を使っているはずですよ、どんな人でもね。(中略)ですから、その時間をメディテーションの時間に変えましょうということですね。それは、実際もう歩いているわけだから、もうわざわざ別の時間を新しく設ける必要はなくて、今まで1時間歩いている人だったら、その1時間の時間を歩く瞑想の時間に変える。どう変えるかは後で言いますけども。それはもう本当に心の持ち方だけで……今までただセカセカセカセカ歩いていたのが、歩くということは同じなんだけどもね――あるAという地点からBという地点へ動くという意味では同じなんだけども――心の持ち方次第で、それが単なるウォーキングじゃなくてウォーキング・メディテーションに変わります。

 そこをどう変えていったらいいのかということを今日はお話ししたいと思います。(中略)だから、ここではウォーキング・メディテーションを、ゆっくりなやり方と普通のスピードでのやり方との2つをやっていて、今日はその普通のスピード――人が普通に歩くスピード――でやるウォーキング・メディテーションについて、このティク・ナット・ハンさんの本を使いながらお話をしたいと思います。
 そうなんだけども、ちょっとその前にね、先週の続きを終わらせておきます。というのは、先週は「カルナー・セラピー」なんて言っていながら、「カルナー・セラピー」の説明をほとんどできていなかったんだけども。
 まあ先週はね、“resistance”(=レジスタンス。抵抗すること)を、どう落としていくかということがテーマでした。それで、例えば仏教を勉強したときにね、どうしても「安らぎを求める」。それは、いかにも当たり前なことですよ。だけど、安らぎを求めるということ自体がもう、すぐに色んな問題を引き起こしてしまうという、どうしようもない矛盾を我々は持っていて。だから、仏教を修行するということが、我々が考えていた以上に非常にちょっと或る意味で難しくて。なぜかというと、その非常に微妙な複雑な点をクリアーしないと、実際には仏道修行にならない。だから、非常に表面的に何か「今、自分はイライラしていて、不安で、アレだから、仏教の修行をして安らぎを得たい。“peaceful”(=静かな、平穏な、平和的な)な心を持ちたい」というのを[多くの人は]当然やるんだけども、まさにそれをやることによって安らぎが遠ざかっていってしまうという、どうしようもない矛盾ですね。それで、それがどうしてそういうことになってしまうかについては、先週にちょっとお話しして。

 それでね、(中略)……一法庵でやっていることがなかなか理解してもらえない時期がかなり長かったんですけども、典型的な誤解というのが……今まさに私が言ったように「仏教というのは、安らぎを得るための、いわゆるの手段――メソッド――である。だから、何かのそういうメソッド・テクニックをとにかく教えてください」というような[ものだった。そういう]文脈で私に求められても、まあそれはちょっとできないということをずっと言ってきたわけですよ。なぜかといったら、――これは先週も言いましたけども――まさに、そういうふうにして「今、自分は苦しくて、イライラしていて、辛くて、だから安らぎが欲しい。安らぎのためには、こういう何かメソッドとか何かテクニックを知れば――それをやっていれば――、やがてはそういう安らぎが得られる」というような考え方そのものがまさに、我々の苦しみを生んできたという、非常にその、何とも言えぬ複雑な点があるわけで。私がずっと喋ってきたのも……まさにその点をずっと喋ってきたから。

 だから、例えば或る瞑想会の主催者が「とにかくテクニックを教えてください。ビルマで習ったメソッドを教えてください」というようなことを私に要求したとしたら、それだと話は違うから、そういう瞑想会とかは全部お断りしてきたんだけどもね。もちろんね、少数の人には何年も前から理解してもらっていたんだけども、それはやっぱりあくまでも少数だったんですけども、でも去年ぐらい――去年の後半ぐらい――から本当に、かなりの数の人たちが……理解してくれる人が増えてきたかなあという気がしています。
 それで、今日はウォーキング・メディテーションについて具体的にみていきますけども、その前に先週からのつながりをつけておかないと、何がなんだか分からなくなってしまうので、先週からのつながりをつけます。
 先週は「カルナー・セラピー」ということを言いました。「カルナー」というのは、慈悲の4つ[=慈・悲・喜・捨]のうちの2番目ですけども、同時に、慈悲全体を指すこともありますね。“compassion”といった場合に、4つに分かれたうちの1つを指す場合もあるし、4つ全部[=慈・悲・喜・捨]を指すこともありますから。だからまあ私の場合、単に4つのうちの1つというよりか、慈悲全体を代表して「カルナー」と使ったんですけども。それでもって[、カルナーという言葉に続けて]「セラピー」ですね。

 「セラピー」っていう言葉をわざわざ使い始めた1つの理由は……いま宗教というのはあまりにもおかしな状況になっていて、それは歴史的な理由があってそうなっているわけですよ。その歴史的な理由について喋ったらきりがないし……。それでただ、「宗教」という言葉を今の日本社会のなかで使ったとたんに、ありとあらゆる誤解を避けることはまず無理なんですよ。「それはあなたの誤解なんだよ。宗教というのはそういうものじゃないんだよ」ということは私自身もまあ言ってきたんだけど、それだとあまりにも多くの無駄な時間とエネルギーを使わなきゃいけないんでね(笑)。だから私も、宗教という言葉はあんまり使いたくはないんですよ。というのは、宗教という言葉をめぐって、あまりにも分厚い・どうしようもない誤解とか何とかがあってね。だからまた変に身構える人も居ますしね……何か「勧誘されるんじゃないか」とかね(笑)。だからまあ、私らが今ここでやっていることにたぶん一番近いのは、まあ「セラピー」……セラピーという言葉は[それはそれで]誤解もありますけどね。ただ、「セラピー」という言葉と「宗教」という言葉を2つ比べて、どっちが誤解されているかというと、圧倒的に「宗教」[のほうが誤解されている]わけですよね。「宗教」という言葉に対する誤解はとてつもない数で・とてつもない量で。それに比べたら「セラピー」のほうが、まだ誤解の量は少ないんじゃないかなと思って、そういう言葉をちょっと使っています。

 ただ、「セラピー」という言葉にも大きな誤解があるに決まっていて……どういう誤解かというと、要するに「セラピーというのは、ある特殊な人にだけ意味があって、一般の・すべての人には意味がない」という誤解があるじゃないですか。「私はべつに、そんな心の問題は抱えてないですから。セラピーは要らないですよ」と、普通の人たちはどうせ言うに決まっているし。そうなんだけど、私がいま「セラピー」と使っているのはそんな意味じゃなくて、もうちょっと本当に一番広い意味で使っていますけども。

 それでね、この「カルナー・セラピー」――慈悲のセラピー――がなぜ本当に大事なのかといったらば、それは結局、次のようなことなんですよ……。こないだの最後のほう[=1週前の法話を指すと思われる]で言ったように、「安らぎを求める」というのは、いかにもそれが仏教であるかのように皆は普通は思っているわけですよ。だけど、そこにどうしようもない落とし穴がある。それはなぜなのか? ということですね。

 それはつまり、本人は本人で「今、どうしようもなく不安で、恐怖があって、心配があって、イライラしていて、怒っていて、恨みがあって……」[というような心の状態が]あるわけですよ。嫌じゃないですか。気持ち悪いじゃないですか。ね? 気持ち悪いわけですよ……自分のなかの、このなんとも言えない不安感とかイライラ感とか、どうしようもなさ加減とか、絶望感とか。そういうものは嫌じゃないですか。そういうものが嫌で、「仏教を勉強すれば、瞑想すれば、リトリートに参加すれば、座禅会へ行けば、安らぎが得られる」[という予想は]、なんか非常に尤もそうなんだけども、そこに、どうしようもない落とし穴があって。それはなぜか? それは先週も説明したけども、今、自分が抱えている心のあり方――それが不安に満ちていようが、心配に満ちていようが、怒りに満ちていようが――をもう「嫌だ」というふうにして、それに対して抵抗することが苦しみを生んでしまうんだという[落とし穴である]。その「嫌だ」という抵抗をして、それを何かの瞑想メソッドに頼ってやっちゃうとね……「なんとかして、吸っている息に気がつくぞ! 吐いている息に気がつくぞ! 右足に気がつくぞ! 左足に気がつくぞ! 怒りなら、怒りということに気づくぞ! 『自分は怒っている』と気づくぞ!」として、そういう瞑想メソッドのテクニックを駆使するんだけども、その瞑想メソッド・テクニックを駆使する根本的なモチベーションというのが、「なんとかして、その怒りを抑えつけてやるぞ」というんだったら、やっぱりこれは「抵抗」なわけですよ。それで、――皆さんは嫌というほどやったから分かると思うんだけども――いくらそういうことをやっても、どうにもならなかったわけですよ、我々はね。「自分は怒りが湧いてきた。怒りは良くないから……これは三毒のうちの1つだから……怒り、怒り、怒り……怒りだ。怒りがあります。怒りがあります。怒りがあります」といくら言ったって――怒りがあるということにいくら気づいていても――、どうにもならなかったんですよ。なぜ、どうにもならなかったか。それは簡単な話で、やっぱり皆さん――我々――は「下心」があったからなわけね(笑)。「下心」があったわけですよ。ただ純粋に「怒りがあります」・「はい、ベルがあります」なんていうように純粋に気づいたわけじゃなくて、「気づくことによって、なんとかしてこの怒りを抑えつけてやろう」というね……それはやっぱり「下心」ですよ。本当に「下心」という日本語がいいと思うんだけども、要するに「下にある心」じゃないですか。
 結局、皆さんが「怒り」というものに対してヴィパッサナーをしたじゃないですか……色んな先生方から聞いて。それで結局、どうにもならなかったじゃないですか……と勝手に決めてるんだけど(笑)。「どうにかなったぞ」という人も居るかもしれないけど、まあだいたいは、どうにもならないんですよ。それで、それはなぜか? 「自分は怒りがあるということに気づいていますよ。ヴィパッサナーしてますよ、○○先生に教わったとおりに」[と本人は自認しているだろう。]だけど、どうにもならなかった。なぜ、どうにもならないか。それは、やっぱり我々は純粋にヴィパッサナーなんかしてなかった[ためである]。「怒りがある」と気づくことによって――「怒りだ、怒りだ、怒りだ」と気づくんだけれども――、やっぱりその「下心」としては「それ[=怒りなど]を、なんとか抑えよう」というね……「なんとかして、怒りから逃げたい」という気持ちがあって、そのために、どうにもならなかった。その「嫌だ」って何ですか? 「嫌だ」って、怒りなんですよ実はね。実に単純、当たり前のことで。だから、「怒っている」ということに対して「嫌だ」という怒りが生じているから、どんなに「怒り、怒り、怒り」とヴィパッサナーしてみたところで、それと同時に「怒りは嫌だ」という怒りを生じているから、怒りから解放されるということは全然無かった。だから、どうしたらいいの? となったら、もう我々に唯一残された手段は「それをもう、ただ受け入れる」……もう「怒りを嫌だ」とはしないで、もう、ただ、「それはどうしようもないものだ」と受け入れる。だけどもそれは――絶対に間違えてほしくないのは――、「どうしようもないものだからといって、怒りのままにもう何か滅茶苦茶する」ということでもない。

 だから、今まではもう、我々にはたった2つのチョイス(選択)しかなかったわけね。その1つは、要するに「怒りにまかせて色んな暴言を吐く(中略)なり、あるいは政治活動をするなり[色々するというチョイス]」。もう1つのチョイスは、「怒りはもう嫌なんだ」として、「怒りをなんとかして乗り越えるぞ」というふうに、怒りに対して怒っちゃって、何か仏道修行をしようと思ったんだけど全然らちがあかない。この2つのところで我々は悩んできたわけですよ。それで、我々が今やっているのは、この2つではない、もう1つの道ですね。だから、怒りにまかせて何かをするのでもないし、怒りを「嫌だ」といって怒りを抑えつけることによって、怒りに対して怒りを持って、さらにどうしようもなくなっていくというのでもない。この2つを乗り越えるためには、この「嫌だ」という“resistance”(レジスタンス。抵抗すること)を手放すということ。それについて、先週は“forgive”(許す)ということを言いました。要するに、本人が「今、自分が怒っている」ということ――「自分が今、怒りがある」ということ――を許すこと。許したときに、本人はそれまでとはまったく違う“dimension”(次元)に入っていく。

 いまテキストとして読んでいるのは、先週の続きのエックハルト・トールさんの本なんだけど、それにいわく、「それはちょうど、深い湖のようなものだ」。深い湖ってどういうことなのかはだいたい想像がつくと思うけども……湖というのは当然、風があれば表面は波立ったり色々あるにきまっているわけですよ。だけども、ずっと深いところに行けば、そこはもう何もなくて。寒いところにある湖だったら、寒いときはもちろん表面が凍っちゃうこともあるだろうし、風で波が立つこともあるだろうし。それはまあ我々の人生みたいなものじゃないですか。だけど、深いところへ行ったら何もないわけですね。静かな……何にも邪魔されない。だから、我々は普段はもう、その「湖」の表面しか見ていなくて、そこは2つの極端しかなくて。それは、怒りにまかせて[何かを]やるか、あるいは何とかしてそれを抑えつけようとして、さらに何だかわけのわからないことになってしまうか。だけども、「自分が今、怒っている」ということを許したときに我々は、この2つに分かれたものを超えて、「自分自身が、実は『湖』なんだ……波が立ったり色々するのは、あくまでも表面のことであって、そうではない深い深いところでは、波なんかまったく立っていないし、表面のことによって邪魔されない静かなものがある」ということを、我々は感じることができる。これはもう本当に、そう感じられるわけね。本人が「自分が今、怒っている」ということを許したときに。受け入れたときに。そのときに、自分のなかにある「湖」の一番深い部分――「風」にまったく邪魔されない部分――を感じることができて、非常に深い・本当の意味での安らぎ[を感じることができる]。かつての、「怒りを抑えつけることによって、なんとか、安らぎを求める」[というやり方のせいで]何がなんだか全然わけが分からなくなっちゃったのではない、そういうこととは一切関係ない、本当の意味での安らぎを感じることができる。

 そしてだから、その場合の安らぎというのは「表面上の波が立っているのが静まった」というレベルでの安らぎではないわけですよ。だから、「湖」の表面が波立っていようが平面的に凪いでいようが、そういうことは一切関係ないところでの安らぎですね。そういうものを自分のなかで感じることができたらば……だけどもそれでも我々には「湖」の深い部分もあるし、同時に表面的なところも当然あって。それで、この深い部分から表面的なところを観たらば、まあ、あとはもう――何て言うかな――[表面の波立ちを]そんなにシリアスには受け取らないわけです。表面が波立っているか静かかが、以前はあれほど気になって気になってしょうがなかった。だけども、「今はもう、関係ない」わけですよ。

 「今はもう自分の心の表面が怒っていようが静かだろうが、それらはもう、シリアスな問題にはならない」。なぜかといったらば、「湖」の深い深い部分をもう感じているから。そういうふうなことを感じている本人が世間に出ていって、色んな人に会った場合に、ものの見方が今までとは当然ちがうわけですよね。今までは、「あの人が好き」だのとか「あの人が嫌い」だのとか……それで、好きな人を追いかけて、あるいは嫌いな人から逃れて、あるいは嫌いな人と喧嘩して、それでもって何がなんだか分からないことになってきた。だけども今、我々がこの「湖」の深い部分にタッチしながら自分の心を観て、その次に、具体的な他人というものを見ていったときに、以前とはぜんぜん違うふうに見えるわけですね。それはどういうふうに見えるかといったらば……(中略)そういう人が別の「湖」を見れば、「湖」の表面は或る時は波立っていて、ある時は静かだ。だけどもその人は、単に表面だけじゃなくて、その表面の[下の、]ずっと深いところ――「水深100メートル」の部分――も見えるわけですよ。だから、表面はたくさん色々なことがあるかもしれないけども、その表面のことにとらわれないで「湖」全体を見通すことができる。そういうことですね。だからこの他人というものを見たときも、他人には色々あるにきまっていますよ。だけども、その他人が――何て言うかな――怒っていたり、笑っていたりということはあくまでもその「湖」の表面みたいなもので、その表面の底[=下]に、深い部分がある。本人が例えばAさんに会った、Bさんに会った場合に、そういうようにAさんの表面的なことを突き抜けて、[Aさんという「湖」の]底の部分も感じることができる。なぜかといったら、本人はもうすでに自分のなかで、「湖」の深い部分に触れているから。そうしたときに――或る「湖」と「湖」とが出会ったときに――、お互いに深い部分で出会ったらば、(中略)もう表面的なことに煩わされることはないということですね。

 だから、表面的なところではどういうことが起きるかというと、ある人が苦しむことももちろんあるだろうし、ある人が何かわけのわからない状態になっちゃって、怒りにまかせて何かをやるとか、非常に愚かなことをしてしまうとかいうことは当然あるわけですよ。それはちょうど、湖の表面に色んなことが起こるのと同じで。だけどももう、そういうことに悩まされることはなくて、「湖」の表面ではない底の部分――だから、その人の苦しみとか愚かな行為とかという表面を突き抜けた、その人の深いところ――を感じることができる。
 そうなったときに、例えば我々の目の前で非常に愚かなことをしている人に出会ったとしても、その人によって悩まされるということはなくて。ということです。そうすると、そこから“healing”(ヒーリング。何かを本当に癒していく力)ができてきます。そして、「湖」の表面的な部分を突き破ってその「湖」の底の部分まで観る、その視点というかその視線を、慈悲なら慈悲という言葉を使ってもいい[=慈悲と呼んでもいい]ですね。
 それで、エックハルト・トールさんのこの慈悲の定義って非常に面白くて、“Compassin is awareness of a deep bond between yourself and all creatures.”……だから、「あなたと、すべての生きとし生けるものとの間の深い結びつきを気づくことが慈悲なんだ」というね。これはどういうことかというと、「湖」の表面的なものを突き破って、「湖」の底の部分をすべての生き物のなかに観ていくということ。だから、自分の「湖」の表面と、誰か他者の「湖」の表面はたしかに違うけども、その底のところまで行ったらば、すべてが同じであるということですね。それが、慈悲というものがもっている、深い癒す力ですね。

 ここで読んでいるテキストはもうちょっと続くんだけれども、これはちょっときりがないからここまでにして……それで今日は、表面的な波の立っているのを突き抜けて「湖」の深いところを感じる[ということを解説してきた]。それは、今までの内容は慈悲によって[感じるということ]だったけれども、今からお話しするのは、歩く瞑想によって[感じる]ということです。

2 of 2へ続く)