NHK教育テレビ「こころの時代 〜宗教・人生〜」:南直哉インタビュー「仏の教えをたずねて」(1 of 3)

※話者:南直哉(みなみじきさい/恐山菩提寺院代)、金光寿郎(ききて)
※放送日:2008年12月7日
※放送内容についての南氏ご本人のコメント:メディアの言葉 - 恐山あれこれ日記
※《 》内は南氏の著書または道元正法眼蔵』からの引用分。[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

ナレーション:本州の最北端・津軽海峡に突き出た津軽半島の中央に広がる青森県むつ市。今日は、市の中心部から西北へおよそ15kmの道を登ったところにある恐山菩提寺に、院代の南直哉さんをお訪ねして、お話を伺います。
 夏の大祭や秋の祭りには大勢の参拝者で賑わう恐山も、山を閉める直前の今の季節には静まりかえって、河口湖である宇曽利湖の向こう岸に、菩提寺の建物が見えています。
 この岸に寺院ができたのは平安時代9世紀のことで、慈覚大師円仁が地蔵菩薩を本尊とする寺院を建立したことに始まると伝えられています。
 恐山は昔から、この地方の人々に「死んだ人が行く山」と信じられていた山で、100ヶ所を超えるガスの吹き出し口があり、火山特有の硫黄の臭いが立ちこめる八大地獄や様々な地獄、賽の河原などがあって、死者を呼び出すことのできる霊能者イタコが集まる山として知られていますが、イタコが集まるようになったのは大正時代になってからとのことですから、意外に最近になってからのことでした。地獄の風景の向こうには、極楽浜と呼ばれる宇曽利湖の浜辺が見えます。
 これからお訪ねする南直哉さんは、昭和33年のお生まれ。永平寺僧堂で20年修行し、5年前からここ菩提寺の院代を務めている方です。

金光:今日は「仏の教えをたずねて」ということで、南さんがこれまで仏教あるいは仏道を探求してこられたお立場からのお話を伺いたいと思っているのですが……。

:ありがとうございます。

金光:この前ラジオでお会いした時のお話とか、それからご著書を拝見していましてね……仏教の色々なお話を伺ってきたわけでございますけれども、昔の仏教の言葉というのはどうももうひとつ噛み砕きにくいというところがございましてですね……。

:はい(笑)。

金光:食べ物に例えると、今までは冷凍していたものをそのまま噛むから堅すぎて食べにくかったのが、南さんのご著書だと日常生活のなかの言葉で話していらっしゃってですね、「常温に戻して自分で噛み砕いて美味しいよ」と仰っているようでして、今日はそのへんのことを伺いたいと思ってお邪魔しているわけでございます。

:よろしくお願いします。

金光:もともとお寺のご出身じゃなくて出家されたということですが、――ひと言では言えないかもしれませんが――その一番の大きな出発点はどういうことでございますか?

:たしかによく訊かれるんですが、成り行きとしか言いようがない。今、出発点と仰いましたが、それで言うならば、ごく小さい頃から私はどうしても分からないことが2つあるんですね。1つは、「人がなぜ死んじゃうか」ということなんですね。そしてそれは、死んだらどこへ行くかという話とちょっと違うんですね。要するになぜ死というものがあるのか……。

金光:「自分が[なぜ死んじゃうか?]」ということですね?

:そうです。他の人の死は、はっきり言うとどうでもよかったんです。
 つまり、なぜこの世に死というものがあって……そもそも、[死は]生まれて生きることの条件じゃないですか。生きることの条件のなかに、「それが失われる」ということがなぜ最初から入っているのかっていう疑問――あとで考えればそういう表現になるような不安というか疑問――が、小さい頃からあるわけです。
 もう1つは、なぜ自分が他の人ではないのかっていうことですね。僕は病弱なところがあったものですから、「なぜ他の子のように丈夫でないのか?」っていう疑問があるわけです。そうすると、「自分で自分を始めたわけではないのになぜ自分のままなのか?」みたいなつまらんこと(笑)をずうっと考えていたんですね。
 それで、そういうものは普通だったらどこかで消えていくものなんでしょうけれども、僕の場合はそれがこびりつくように染みついてしまってですね……消えていかなかったんですね。

金光:これは考えても解決はつかないでしょう?

:つまりその、考えれば分かるだろうと思っていた時期があるわけですね。ところが或るところで「これはだめだろう」ということをむしろ仏教に教わったというのが正直なところです。

金光:ああ、なるほど。

:[出家の]きっかけというか出発点はそこだと思います。

金光:しかしそこで仏教へ行くか、あるいは「疑問が自然には消えなくて悩んで悩んで、頭が混乱してしまって」という人もいると思うんですが、「仏教へ」ということには何かきっかけがあったんですか?

:例えば他の哲学とか思想なんかだと、そういう悩みに対して「これが解答だ」みたいなものがスパーンと綺麗に出るケースが多いわけですよ。
 ところが、初めて思春期に出会った、ブッダの言葉と言われる「諸行無常」とか、高校時代に出会った道元禅師の「自己を忘れる」っていう言葉は僕にとっては、自分の疑問とか不安それ自体を言い表してくれるような言葉に聞こえたんですよ。

金光:うん。うん。

:よく分からないのにいきなり解答を投げられるよりも、自分の不安とか疑問を掬い取ってくれる言葉に見えたんですよ。つまり、[それらの不安や疑問は]ひょっとしたら他人と喋ったり他人に話したりしてもいいことなんだと思ったですね。そのへんから仏教にはやっぱり傾斜したですね。

金光:なるほど。
 学校を出られて、社会人としてサラリーマン生活を送っていらっしゃったのが、「禅堂に入ろう」という決心に繋がったわけですか?

:決心というほどおおげさなものではないですけどね。[学生生活やサラリーマン生活を]やっていても、どこかに[不安や疑問が]残っているわけですね。私は学生生活が嫌だったわけでもないし就職するのが嫌だったわけでもないんですけれども、頭の中心あたりに[不安や疑問が]あるわけですよ。そうすると、感覚とかものの考え方が基本的にずれちゃうんですね。
 企業に入れば利益を上げなければいけない。しかし、それを生きがいにして生きられるほどは割り切れないんですね。そうすると、何かを選択する節目、節目において、普通に就職した人が進むのとはどうも別の方向にずれちゃうんです。

金光:要するに、人生の根本問題がずうっと引っかかっているわけですね。

:そうです。根本問題かどうかは分からなかったですけれども、消えないんですね。ですから或る段階で、「これ以上やっているとどっちつかずで、社会人としても駄目になるだろう」と言ってくれた人もいますからね。
 [出家をしたのは]「博打を打つ」みたいなもんですね。

金光:一種の賭けみたいなものですね。

:そうです。

金光:それで、僧堂に入られていま四半世紀――25年――ちかく経つわけですが、そのなかでの修行の結果としての今のお考えを伺いたいと思うんですが……「自己を習うというは自己をわするるなり」という有名な道元さまの言葉があります。その言葉を手がかりにしながらお話を伺いたいんですが、ちょっと[フリップを]用意してきました。

仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己をわするるなり。自己をわするるというは万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の心身および他己の心身をして脱落(とつらく)せしむるなり。》

道元正法眼蔵』)

 まず、この前半の方の《仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己をわするるなり。》ですが、最近でも「自分探し」とかいう言葉があるようですけれども、自己を習うというのはどういうことなのか?
 もうひとつ、「自己を習うというは自己をわするるなり」という道元さまの言葉があるわけですけれども、ここでその言葉を解説して頂く前段階として、さきほど仰った有名な「諸行無常」・「諸法無我」というところから南さん流の説明を伺いたいんですが、ご本の中から引用させて頂くとですね、

《「無常」「無我」という、言わば否定的観念を肯定的な観念にひっくり返せば「縁起」である。》

(南直哉 著作より)

「無常」「無我」というと、どうしても日本的なさびしい話――「すべてはうつろう」――というような感じが強いんですけれども、それをひっくり返すと「縁起」であるというわけですね。これを説明して頂くと、どういうことなんですか?

:仏教の言葉で私が心がけているというか、気をつけなきゃいけないのは、その言葉が「自分の経験とか体験の何処に刺さるか」っていうことだと思うんですよ。
 無常とか無我っていう大きな言葉は特にそうで、辞書を引けばいくらでも書いてあるんです。しかしそれを読んでもたぶん分からないです。分からないと役に立たないです。

金光:立たないです。

:前にも言いましたが、「なぜ自分が自分であって、自分であり続けるのか」っていうことに関して言うならば、それは根拠が欠けているんじゃないかと思うんですね。というのは、私は自分になりたくてなったわけではないわけですよ。そうすると私に言わせればそれは、「自分であることを誰かから課せられた」としか言いようがないわけですね。私はいま南直哉(みなみじきさい)で、出家する前は南直哉(みなみなおや)でしたが、その名前は両親から付けられて、社会的存在としては他人から課せられたものですからね。そうすると、私が私であることの根拠――もっと言えば、「本当の自分」――というものを設定すること自体が最初から間違いではないかと思うんですよ。[無常・無我という言葉は]それを言ってるんだと思うんですよ。
 つまり、「常に同一で変わらない何かが在るという思いこみは違うんじゃないか」っていうこと[が無常・無我の意味]だと思うんです。このことは、自分が小さい頃から思っていたこととぴったり合うんです。だから、初めて読んだときに非常に強い衝撃を受けたんです。
 「なぜ僕が僕であるのか」というと、「僕が僕であることを認めたり要求する人がいて、なおかつ僕がそれに応えるから僕である」ということがあり得るのではないか。

金光:それは肯定ということですか?

:そうですね。というよりも、――肯定もなにも――そうでないと、この世界では人間として存在できないということだと思うんですよ。つまり、自己の存在は他者との関係のなかでしかあり得ないとするならば、そのことが「縁起」だろうと思うんです。
 つまり、自己が自己であることには根拠が無い。にもかかわらず自己であり続けるということは、無常で無我であって縁起しているからだと思うんですね。「縁」というのは「関係」という意味で、「起」というのは「起こる」っていうことじゃないですか。「関係から起こる」という考え方を自分の存在に適用して考えれば、[自分は]それ以外のものとの関係のなかから起こってくるとしか言いようがないと思いましたね。

金光:なるほど。
 それで、今日の本題で正法眼蔵の冒頭にある《仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己をわするるなり。》についての南さんなりの説明を伺いたいのですが、この「自己を習う」という言葉は現代の日常ではほとんど使われない言葉でして、これについて上手い具合に説明して頂いていると思った南さんの著書の一部をまず読ませて頂きますとですね、

道元禅師が「自己」を「ならう」と言うとき、その「自己」は、意志し、反省し、決断する、主体としての様式のことである。したがって、「自己」を知る対象として考えてはならない。「知る」ものとしては「わすれ」なければならないのである。》

(南直哉 著作より)

というご説明になるわけですけれども、「自己を追求する」というように自己を「知る対象」としてはならないというのは矛盾しているように聞こえないこともないんですが、これはどういうことなんですか?

:最近はあまり流行らなくなりましたが、「自分探し」っていう言葉があるじゃないですか。それとか、ひと頃流行った「自己開発セミナー」みたいな「本当の自分を知ろう」とか「真の自己を……」とかっていうのがあるじゃないですか。

金光:今でもありますね。

:そういうことを私も、思春期あたりから考えるわけですよ。それで、[本当の自分が]「あるはずだ」と思うわけですよ。やっぱりそう思うわけですよ。それで、思春期の幼い頭で必死になって考えるわけです。
 そうすると、その考え方の枠組みは、「自分の中をずうっと見つめていったり学んだりすると、どこか自分の真ん中に『核』みたいなものがあって、自分であることをこれが支えているんだろう」、つまり「これが本当の自分なんだろう」という発想になるわけじゃないですか。

金光:現に自分が居るわけですからね。

:ええ。それで、学校で友達に合わせて愉快にやっていて、家に帰ってきたら親の言うことを聞いていてっていうふうにその場その場で自分を使い分けているようであっても、そういうものを使い分けている自分が居る以上はここ[=自分の中心、核]に何かがあると思うわけですよ。

金光:そうですね、はい。

:それで、それをさんざん探したんです。「あるはずだ」と思ってですね。ところが、どうしようもなく分からない。

金光:或るところまで行けるんだけれども、そこから先には……。

:あのねえ、穴が空いているみたいな感じなんです。要するに、さんざんやった後でふっと思ったのは、これ[=自分の中心、核]は台風の眼かドーナツみたいに空いてるんじゃないのかと思ったんです。

金光:はい。

:穴としてはあるわけですよ。あるでしょう? 穴。

金光:ありますあります。

:じゃあ、「穴を出してみろ」と言われたら出せないですよ。

金光:出せないです、はい。

:「台風の眼」と言うから「眼」があるわけじゃない。穴ですから。ですから、穴としてはあるが物としては無いわけです。「ひょっとしたら、[自分の中心、核というものは]そういうものかなあ」と思った頃に、「自己を習う」とか「自己を忘れる」とかいう衝撃的な言葉を読んだわけです。
 それで、最後までつらつら考えていたときに、「これ[=自分の中心、核]は分かるはずがない」と思ったんですよ。つまり、「本当の自分」というものが分からないから探すわけです。もしそうだとすれば、「会ったことのない人を探す」っていうことはどだい無理ですからね。これは、ものの考え方がなにか基本的に違うんじゃないかと思ったんですね。
 それからもう一つは、「自分を探そうとして本当の自分に出会う」ということになれば、「その『本当の自分』が本当に『本当の自分』かどうかを判断するのは誰なのか?」という話になりますよね。

金光:そうですね。

:そうすると、常に割れるわけです。「自分を探す自分」と「探される自分」とに。しかも、[或る時に見つけたものが]「本当の自分」であるかないかを、それまで「本当の自分」でなかった人間が判断するわけにもいかないんです。
 つまりこれは、問題の立て方が基本的に違っていて……つまり「本当の自分は誰か?」みたいな問いに対して「かくかくしかじかで、これが本当の自分です」みたいなやり方で「自分を知る」ということは多分できないだろうということですね。これ[=正法眼蔵の冒頭:《仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己をわするるなり。》]はそれを言っているんだろうと思うんです。だからこれは「習う」とは言うものの「知る」とは言わないわけです。

金光:はい、はい。

:そうすると、自己というものはひょっとすると、縁起する関係の中から織り出されてくる何かのスタイルだろう。あるいは、人間という生き物が存在するためにどうしても必要な一種のスタイル――様式――だろうと思ったんですね。
 だとすると、問いの形は「なぜ自分なのか」とか「自分とは何か」という形ではなくて、「私であるということはどういうことなのか」とか「どのように在るのが善いことなのか」という形へ変えなきゃいけないと思うんですね。それが様式っていうことであって……従って、「自分を知る」あるいは「自分とは何か」という問いの答えとして「本当の自分を知る」という言い方の問いでは駄目だから、そういう問いかけと答えの出し方は「忘れる」べきだという意味だろうと僕は[正法眼蔵の冒頭部分を]解釈したんです。

金光:なるほど。それで、その同じ説明の続きにこういうご説明がありますね、

《「他者」との関わりの中で、これからどうしようというのか、これまでどうしたのか、今どうするのかを、刻々考え・決断し・実行する運動が「自己」という営みであり、そのときの「私」「自分」は、この営みの様式についた呼称である。》

(南直哉 著作より)

ということですね。

:そう思います。

金光:これは確かに、仰るように「刻々考え・決断し・実行する」自己というものはあるわけですね。

:ですからそういった具体的な行為のなかでしか、自分のリアリティというものは保てないと思うんですよ。
 それで、「他者」っていうのは人に限らないわけですわ。「他者」って言ったときに私にとって一番の問題は、「他である」ということは「本当はどういうものか分からない」っていうものを抱えている存在だということですね。
 人間は相手のことの全部なんか決して分からないんですよ。分かったような振りをしながらやっていくだけで、決して分からない部分が残る。それはたぶん「死」だってそうだし、この世にある「自然」だってそうだと思うんですよ。つまり、人間の意思や思考に決して捉えきれない何かを抱えているものが「他者」だと思うんですよ。
 そうすると、その「他者」に自分がどうやって対応していくか?……しかも、好むと好まざるとに関わらず、そうやって生きていかざるを得ないと思うんですね。他者との関係のなかから他者にどうやって対応していくかというところから呼び出されるものが自己だと僕は思うんですね。

金光:それでそのお話に関連して、「自己を習う」ということについてもう一つ文章を引用させて頂きますと、

道元禅師の言葉の意味は、「自我」に保証された「知る」対象としての「自分」(「真実の自己」であろうと何であろうと、知ったり探したりする対象になるのは、所詮「自我」である)を、「仏道を習う自己」という営みとしての「自分」に作り直せ、ということなのだ。》

(南直哉 著作より)

と、ここで具体的な行為としての自分というものが出てくるわけですね。

:うん。だから、最初から何か「本当の自分」みたいなものが在るというふうに考えないほうがいいだろうと思うんですね。つまりもっと言うと、それほど自分を大切にしなくてもいいのではないかと思うんですよ。
 つまり、この世で人間といわれる存在がどうしてもそういうスタイルで生きざるを得ないということなんだから、そのときにより善い生き方を目指すならば、そのスタイルを変えなきゃいけないと思うんですね。それは具体的に言えば目標の設定であり反省であり決断でしょうけれども、仏教で言えばそれは誓願と言いますし、反省のことは懺悔(さんげ)と言うでしょう。決断ということは言い換えれば発心です。そういった行為様式に変えていくことだろうと思うんですね。

金光:はい、はい。
 まあここではやっぱり、お坊さんとしては南さんの場合はお釈迦さんの敷かれた道を進むということが「自己を作り直す」ということになってくるわけですね?

:大げさに言えばそうですわね(笑)。

金光:大げさに言えばそうですか(笑)。
 それで、そういうことになってくると[正法眼蔵の冒頭部分の]後半の文章になってくるわけですが、この部分は言葉の説明というよりも実際にそういう体験をされた方の説明ということで、実際に体験をされた方でないと分かりにくいと思うのですけれども、

《自己をわするるというは万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の心身および他己の心身をして脱落(とつらく)せしむるなり。》

道元正法眼蔵』)

 これは、自分というものを「知る対象」から外してしまうと何もなくなるかというとそうではなくて――さっきの台風の例で言いますと台風の眼があって周囲の動きというものはあるわけですけれども、――その周囲の動きを全部含めて「自分」ということになるとも言えるのかなとも思うのですけれども、そのへんはどうなんでしょう? 「万法」というのはどういう意味でしょうか?

:あのね、――私はよく老僧から「お前は道元禅師の話を俗にしてイカン」といって怒られるんですけれども、敢えて言わせて頂ければ――「自分らしさ」っていう言葉があるでしょう? 「自分らしくやりなさい」あるいは「個性的に生きるべきだ」みたいなことがよく言われるわけですわ。そうすると、「そうでなきゃいけないな」っていうふうな考えになるととにかく「自分らしさ」を探したり「個性を無理に作らなきゃいけない」みたいな風潮になるじゃないですか。そうすると、「じゃあ自分らしくやれない人間はもう価値がないのか」みたいな強迫観念にまで行く人が現に居るんですよ。そういう若い人を何人も見ているし相談も受けたんですよ。
 そのときに私は思ったんですけどね、これは発想が違うだろうと思ったんですね。自分自身のことがそんなにはっきりとは分からないうちから「自分らしさ」なんて言われたって無理ですよ。それで、個性っていうのは「Aの人とBの人が同じことをやってみたら、Aの人はこういうやり方をして、Bの人はこういうやり方をする。ああ、(結果的に)Aの人とBの人はやり方が違うんだねえ」みたいにして結果的に分かってくることじゃないですか。俳優じゃないんですからね。「初めからキャラクターが決まっていて、キャラクターの割り振りがあって、自分の個性はこれだ」みたいな話とは違うと思うんですよ。
 そうするとね、――若い人も、ある程度の歳の人もそうですが――「個性」と「自分らしさ」っていう言葉で混乱しているというか振り回されている人が居るんですよ。そうすると、私は思うんですけど、そんなことを考えないでむしろ「自分は何をやったら人の役に立つのかな」とか「自分にとって大切な人は誰かな」とかって考えながらものをやっていくうちに自然に「ああ、自分はこういう人を大切にするんだな、自分はこういうことが大切なんだな」ということが実感として分かってくるうちに自分の輪郭がおのずから感じられるようになると思うんですよ。

金光:はい、はい。

:そうするとね、――これはそれこそ老僧に怒られる解釈かもしれませんが――「万法に証せられる」っていうのは「自分の中を見つめていたって自分なんか分からない」ということと同じことではないかと思うんですね。
 つまり、「自分の中に何かがあって、自分の存在には根拠がある」という発想から一回外れないと自己の有り様は見えないんだろうということを仏道の発想もやっぱり言っていると思いますね。

金光:僧堂に20年いらっしゃったそうですけれども、僧堂というのは朝から晩までスケジュールが決まっていて、同じようなことをするわけですよね? それでいながら、皆さんが同じ型にはまるかというと、そうじゃなくなりますね?

:すごい個性的になります。前に対談した方が同じようなことを言ってましたが、「日本人で個性的だって言われる人は禅のお坊さんですね」って言った外国人の人が居るそうですからね。私も分からんではないんですよ。つまり、同じことをするのにこの人間とこの人間はなぜこれほど違うのかっていうことを目の当たりにしたり、そういう人間と日常生活を暮らしていると、「ああ、彼はこういう人なんだ」っていうのが分かるわけですよ。その「彼はこういう人なんだ」っていうのが個性で、これはむしろ他者が最初に認識して本人に返してあげることであって、本人は夢中になってやっているから分かりませんよ。

金光:一所懸命にやっているわけですね。

:そうです。ですから、このほうが自然なんですよ。「ああ、君はこういうふうにやるんだね」とか「君ってこういう人なんだね」って言われて「ああ!」って気づくほうがリアルだと私は思います。

金光:最初から「君たち自由に色んなことを・好きなことをやりなさい」と言われると個性が発揮できるかというと……。

:私が思うに、「どうぞお好きなように」って言われたら大抵の人は、誰もがやるようなことを誰もがやるようにやると思います。

金光:むしろ個性が出にくくなるわけですね。

:ええ。「それが個性だ」とは分からないです。
 つまり、自分の個性というものを、そんなにはっきりと最初から自分が分かるわけじゃないんですよ。血液型が流行るのはそれですよ。日本人だけの特色だっていいますからね。たぶん、違う文化の人・違う生活背景の人と幼い頃から一緒に住みながら、自分の意見を言い・他人の意見を聞く……つまり、自己が何者であり他己が何者であるかということを具体的な生活の場で鍛えてきた経験のある人だったらともかく、そうでなければそんなに簡単には[自分の個性は]分からないですよ。

金光:なるほど。
 それで、今の文章[=正法眼蔵の冒頭部分の後半]の中に「他己」というものが出てきましたけれども、南さんのお書きになったものの中では、「自己」に対比して「他己」ではなくて「非己」――己に非ず――という言葉を使っていらっしゃいますが、これは「他己」と似たようなものかなと思って拝読したんですけれども、「非己」というのはどういうふうなイメージの言葉でしょうか?

:僕がこの言葉で言いたかったことは、「自分であれ他人であれ人には『決定的に分からないところ』が残る」っていうことですね。「分からない」っていうことです。つまり、親友であろうが夫婦であろうが親子であろうが、他者のことはすべては決して分からない。それを持っているのが人間の有り様だという意味なんですよ。
 つまりこの「非己」っていうのは他人のことだけではなくて、自分の中にもあるわけですよ。或いは自然の中にもある。というのは、自然は絶対に推測できないですから。思い通りになんか決してならない。それから、決定的に大きいのは「死」ですね。死の最も根本的な定義は「分からない」っていうことですからね。

金光:そうですね、はい。

:ですから、その意味なんです。それを他人の問題で言えば「他者の中には、決して分からない部分が残るはずだ」という意味で使っています。

金光:でも、そのこと――「分からないものだ」ということ――を分かっていて行動するのと、「当然分かるはずだ」と思っているのとの違いっていうのは大きいですよね?

:大きいと思いますよ。よく親御さんが「あなたのためを思っているのよ」って子供を怒るでしょう? それは愛情であるとは思うんですよ。私はその気持ちはよく分かるんですよ。ですがそれは結局、「あなたのことは全部分かっている」という言い方は一種の支配だと思うんですよ。それは愛していることではあるかもしれないが、その人の人格――子供であろうとも、或る人格――に敬意を払っていることにはならないと思うんですよ。そうすると、「あなたのためを思って虐待しているのよ」っていう発想になりかねないんですよ。

金光:なりかねないところがありますね、はい。

:私はそれがとても切ないんですよ。つまり、本人は善かれと思っているのに、子供のほうは非常に苦しい、と。
 そうすると、子供であれ誰であれどんな親しい人であれ「分からないところが残っているんだ」っていう感覚というのは持つべきだと私は思います。人に対する尊重とか敬意の根幹にそれがあると思います。

金光:それが無いと、それこそ型にはまった教育とか、そういう方向へ行くでしょうね。

:あり得ると思います。あのね、善意なんですよ。だから怖いんです。愛情とか善意の下に人を支配することになりかねないんですよ。

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