茂木健一郎講義:「他人と接して生きる実感を得る」

※話者:茂木健一郎
※とき・ところ:2008年10月24日 朝日カルチャーセンター
※出典:他人と接して生きる実感を得る - もぎけんPodcast
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

 人間というのは何歳になっても自分の人生のことはよく分からないもので……きのう私は南直哉(みなみじきさい)という人に会っていまして、自分の人生についてたいへん反省させられたんですよね。
 なぜ人は他人を必要とするのかということの答えを僕は昨日みつけたような気がしています。南さんという人はドスを呑んでいるような人で、たいへん厳しい問いを私に突きつけてくるわけなんですけれども……「茂木さんは最初、クオリアと言っていた。そのあと、仮想と言っていた。そのあと最近は偶有性って言っている。この〈クオリア、仮想、偶有性〉というのは論理的に発展してきたものか?」と私に問いかけたわけです。
 それで僕は「そうではない」と。「クオリアというのは、今を去ること13年前、2月に電車に乗っていて、ガタンゴトンという音がクオリアとして――質感として――聞こえてきたことがきっかけだった」と。「仮想というのは、博多から朝一番の飛行機で帰ってきて、朝ご飯食べてなかったからカレーライス食べてたら隣で5歳の女の子が妹に『ねぇ、サンタさんって居ると思う? 私はこう思うんだ』と言うのを聞いていながら、サンタクロースっていう仮想が大事なんだということに気づいた」と。「偶有性っていうのは、九州大学で講演をしていて、講演が終わった後パネルディスカッションで会場の人一人一人を見ていて、『この人と私が入れ替わったらどうだろう?』っていうことを考えていたときに、『どんな人と入れ替わっても、その人の人生を幸せなかたちで生きてみせる』と思ったのが偶有性を考えるきっかけだったんですよ」と。
 「そうですか茂木さん。茂木さんは――もう『終わってますね』というか(笑)――大変な人ですね。雲水のようなことをやってるんですね。茂木さんはもう科学をやっているわけではないですね」と。新潮クラブというところでそういう対談をしてたんですよ。
 それで僕はそのとき思った。「なるほど。生きるっていうことはこういうことか」と。今日の講座をそのことから説き起こしたいわけです。
 みなさんね、例えば「生きるって何なのか」、「目的は何なのか」って考えたときに……僕が先ほど「〈クオリア、仮想、偶有性〉っていうものをこの順番で論理的な道筋で辿ったのではないかと思っていたんだけれど、僕は実際にはそうではなくて、自分ではよく分からないものに突き動かされてそういうものにただ出会っただけであって、『何がそのとき起こっているのか分からない』、『そのときに起こっていることの正体が分からない』というのが実際なんですよ」と言ったときに南直哉が「茂木さんはもう科学者ではないんですね」と言った。
 それでね、もちろん僕は科学者でもあるんですよ。普通の脳科学のこともやってるんですけども、南直哉が言うところの「雲水のような人」、つまり「空を行く雲の如く、流れる水の如く生きる」っていうのはどういう意味かというと、「自分の人生を何らかの目的で規定しない」っていうことなんですよ。
 それで、そのこと[=自分の人生を何らかの目的で規定すること]を南直哉は「質入れする」という言い方をしていた。
 色んな事を言ってくる人がいるでしょう? 「人生の目的はこれなんですよ」、「これをやると幸せになれますよ」、「このプロジェクトを成功させたら君は幸せになれますよ」とか。じゃあ例えば「今年の4月から9月までは、このプロジェクトを成功させるために生きよう」というのが南直哉が言う「人生を質入れする」っていうことですね。自分の人生を質入れして、その代わりにお金とか報酬をもらうという。
 科学者っていうのは、ある意味でそうかもしれない。自分の人生を質入れして何かやっていると科学的な真実が得られる。ひょっとしたらノーベル賞なんか貰えるかもしれない。
 それで、南直哉説によると、「生きるということは或る特定の目的には回収され得ないことなんだということを徹底的に追求した人がブッダなんだ」っていうわけですよ。
 結局こういうことなんだな。例えばブッダが「悟った」っていいますよね。悟って、「人生の目的とはこれである」、「こうやっていれば人生は幸福である」という状態というのは、つまり南直哉の言う「人生を質入れしている」状態なわけですね……「こういう目的……こうやれば人生は平穏――ニルヴァーナ――が得られる」。
 南さんは昨日しつこく言っていたんだけれども、ブッダは「ニルヴァーナ(涅槃)とは何なのか、何なのか」と訊かれてずっと答えないで、最後に死んでみせたっていうわけ。要するに「ニルヴァーナというのは死なないと得られない」と。つまり、生きるっていうことは悩みとか苦しみとか浮き沈みとかが必ずある。実はすごく苦しいことなんだ。それで、「人生の目的はこれである」というようなどんな論説も、生きるっていうことの間尺に合ってないんですよ……つまり、きめ細やかじゃないんです。
 例えば「茂木さんの人生の目的は何ですか?」と訊かれて「クオリアの問題を解いてノーベル賞を取ることです。ノーベル賞なんて小っちぇ小っちぇ。百年後、二百年後にも記憶されるような大知識人になります」って俺が言ったとするじゃないですか。俺そんな馬鹿なこと言わないけど(笑)。そう言ったとするでしょう? それは人生という間尺に合ってないわけですよ。だって例えばさっき無性に缶コーヒーが飲みたくなったわけ。じゃあその「缶コーヒーが飲みたい」っていうことと「クオリアの問題を解いてノーベル賞を取って、大知識人として記憶されることです」っていうこととがどういう関係にあるのかっていっても、関係無いですよね。では「缶コーヒーを飲みたい」っていうことが人生の間尺のなかに入ってないかというと、入ってるでしょう?
 例えば誰かにメールをして、なかなか返事が来ないとするでしょう。その「何で返事が来ないんだろう」って悩んでいる状態とかって、必ず人生の間尺に入ってますよね? それでつまり、人生っていうのはもっと苦しいこともありますよね。失業しちゃったとか失恋しちゃったとか。そういう苦しいことって、全部含めて人生じゃあないですか。
 それで南直哉は、――これは南直哉の言葉じゃないんだけど僕はそう解釈したんだけど――「ブッダは究極の凡人になった」っていう言い方をしたんだと思う。つまり、色んなものが自分を守ってくれるでしょう? 「俺はこういう仕事をしている」とか「俺はこういう関係性をこの人と持っている」とか。でも我々が生を実感するときってそういうときなんですかね? 生きているということを痛々しいほど実感するときっていうのは、そういうありとあらゆるものが自分を守ってくれなくなったときじゃないですか?
 ブッダは三十何歳で悟ったわけだけど、それから八十歳まで生きたわけ。ひょっとしたらブッダはその間ずっと、五歳の幼子のように――そういうときもあるだろうね。五歳の幼子の瞬間。まあ五歳の幼子が特にそういうことに優れているっていうわけじゃないだろうけれども、年をとるとだんだんそういうことを失っていく人が多いことも事実なんだけれども――自分が生きているっていうことの息苦しさとか生々しさっていうことに向き合う人生だったんじゃないか。「逆」なんだろう。普通はなんか、「悟っちゃうともう人生は全部OK」っていうふうに思いがちだけど、そうじゃなくてブッダは逆の方向に行ったんじゃないか。全部脱ぐ方向に。なんというか、この世で我々が地上に居ることの目的ってそこにしかないんじゃないか。
 それで僕はたしかにクオリアや仮想や偶有性の問題を解きたいんです。心脳問題を解きたいんですけど、例えば心と脳の関係が分かったって、自分がいま生きているということや時間が経ってしまっているっていうこと……時間の流れということの絶対性ということは支えきれないじゃない? つまりそれはどういうことかというと、どんな立派な哲学ができてもどんな科学ができても、一番大事なことは自分が生きている現場にしかないっていうことになるわけですよ。
 そうだよね? だって「こんな立派なことをやるために私の人生を捧げています」っていうのはまさに何かを「質入れ」しちゃっている状態だから。質入れしないでナマの自分を見ているというのは、まさに裸の状態なんですよね。というようなことを僕はきのう南直哉と喋っていて……南直哉もそういうことを考えていると言っていましたね。
 南さんと話していて、なぜ僕はテレビの仕事をしたりとかカルチャーセンターとか色々やっているのかというと、生きるっていう現場の充実というものを僕はきっとどこかで重視しているんだなということが分かって……。

(中略)

 それで僕は、なぜ我々は他者というものを必要とするのかというと、他人というものは、生きている実感のどうしようもなさをまさに感じさせる存在だということなんだろうと思うわけです。

(中略)

 他人と目が合ったときに脳の中で何が起こっているのかというと、単純に「あめ玉をなめて甘い」というような報酬構造が起こっているのではない。では何が起こっているのかというと、そこに偶有性があるからなんですよね。つまり我々はそこに、自分の心が容易には把握し得ないものというか得体の知れないものを見るからドキドキするわけでしょう? そのときに初めて、生きていることを実感するわけでしょう?
 つまりですね、われわれ人が一人として生きている場合でも「人生に何が起こるかわからない」という偶有性はあるわけだから、生きる実感を持つ機会はいくらでもあるはずなんだけど、我々は生きている間に知識や経験を得て「人生とはこういうものだろう」、「一日のうちで起こることはこういうものだろう」と分かった気になってしまう。そうすると人生から偶有性は失われる。ではどうやって偶有性は回復されるのかというと、誰か他者に会うことですよ。他者に会うことによって、自分の心がかつて持っていた「世界についての知識」を持っていない状態になる。未分離の状態っていうかな。それに出会えるわけじゃないですか。やっぱり他者問題っていうのは、自分の人生を生き生きと保つために不可欠なものである。だから、『三四郎』で美禰子に会わなければならない理由はそこにあるわけですよね。恋愛問題が古来、文学のテーマになってきた理由はそこにある。他人というものがあってはじめて人生の偶有性は完結するということなんです。

(以下略)