南直哉・茂木健一郎対談:「脳と癒し」(3 of 5)

※話者:南直哉(みなみじきさい/恐山菩提寺院代)、茂木健一郎

※とき・ところ:2005年6月3日 朝日カルチャーセンター(東京・新宿)

※出典:[full]南直哉さんとの対談〜茂木健一郎の講義 - YouTube
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

2 of 5からの続きです。先頭はこちら。)

茂木:業(ごう)っていう概念についてもうちょっと聞きたいんですが……自分でコントロールできないもの・自分でどうすることもできないものを業と謂うってさっき仰ったんですが、

(中略)

茂木:業は科学主義における概念にはどうにもマッピングしようがないんですよ。それがどうしてかというと、根本的なところで物的世界観じゃなくて事的世界観というか関係性みたいなものを含んだ意味で業ということがあるからだと思うんです。そういうものって科学主義のなかには無いので。要素還元主義ですから。
 業っていうのは自分の陥っている状況でもあるんだけど、他人との関係性のなかで生じたものでもあるわけですよね? それで、縁起というものと業というものの関係性を仏教ではどう考えているんですか?

:因果の教え――「物事は然るべき原因と然るべき条件があって成立する」――っていうのがあるでしょう。それで、業の教えというのは「自分や世界の現在の有り様の原因は、過去の自分の行為である」と考えるんです。業(ごう)というのは元々はカルマ(行為)という意味です。過去の行為が今の自分を成立させていると考えるんですね。行為主義なんです。
 僕はその概念を拡張して考えています。だから例えば縁起の「縁」――関係――を二点間の直線関係みたいに考えているわけではない。人の関係というのは、人の行為ですわ。
 これ[=コップ]がコップとしてここにあるのは、私がこれで水を飲むからであって、「私がこれで水を飲む」という行為がこれをコップにしているんですね。それと同時に、私がいまこれで水を飲めば、私という存在は漠然と「水を飲む私」としてしか存在しないんです。だから道元禅師は作法って言うんです。

(中略)

:行いの有り様が人の有り様を決めるんです。古い教説で「田を耕す人が百姓だ。ものを売る人が商人だ」っていうんです。つまり、行いが人を決める。立派な行いをする人がブッダなんだというんです。つまり、或るものが「或るものである」のは、その人の過去の行いなり今の行いでそうなっているのだと考えるんです。
 つまり業(ごう)というのはいわば実存で、実存とは行為的人間――行為によって実存するもの――と言い換えてもいいと思う。私は業の概念を、伝統的な教説よりも拡張して考えるんですね。
 だから、「個人というものが何の前提とも条件とも関係なく居て、実体として存在するその個人がいろいろなことをする」というふうには仏教は見ないんです。或るやり方で或る行為をする人の行為の有り様が、その人が誰であるかを決めるんです。そういうふうに考えるんです。そうするとこれは、その時の行為の有り様もあれば、過去の行為の有り様がその人の今を決めるというふうにも勿論言えると思う。
 ブッダは「自分は業論者である。行為論者である。人は業であり人は行為である。私はそのように人を見る」と言うんですね。この考え方は、人を見るうえで非常に「なるほどな」と私は思いましたね。
 業に関しては色々な考え方がある。私は今そう思っているんですね。

茂木:最近ちょっと不謹慎なことを考えましてね……キリストが「私は天なる神の子である」って言ったでしょう? あれは、母親であるマリアの相手が誰だか分からなかったというところからくる父親探しなんじゃないかという気が最近していて、――そういうことを言うとキリスト教徒の人は怒るかもしれないけど、誰か父親が居たにきまっているんだから。[父は]ジョセフじゃないわけでしょう?――自分の父親が誰であるかということについて精神的な葛藤を抱えていて、それで「自分の父親は天の神である」という話を捏造したというような直観をもったことがあるんですが、ブッダの生涯については色々なことがいわれてますよね……四門出遊とか色々と。ブッダの人生のどんな要素が、彼をしてあのような覚醒に向かわせたと南さんは思われますか?

:私としては、最初に仏教に衝撃を受けたのは、「ああ、この人[=ブッダ]は僕と同じことを考えているのかな」と思ったときですね。それは、自分が生きていることや生存していることには大した根拠がないっていう感じですな。宗教者のなかには――キリストの話でも父探しだと言われましたが――「存在根拠が欠けている」っていう感じが必ずあると思うんですよ。
 私が最初に衝撃を受けたのは、ブッダが若い頃にこう思ったというんですね……「愚かな凡夫は、老人を見て『ああ、嫌だな老いるのは』と思う。自分もいつかは老いるのに。だけど考えてみれば、自分[=出家前のブッダ]も老人を見て『ああ、嫌だな老いるのは』と思う。自分もいつかは老いるのに。これは愚かだ」。「老いる人・死ぬ人・病の人を見ると、みんなそれを嫌がる。自分もまたそうなるのに」と[ブッダが]思ったというんですね。
 私はこれを読んだときに、ブッダは、人が誰でも切ないと思ったことをそのまんま見た人なんだと思ったですね。その「嫌さ」と「嫌だと思う自分」と「その愚かさ」というものに衝撃を受けた人なんだと思うんです。
 ブッダという人は、老いることが嫌だというよりも、老いることを嫌がる自分の無知というか自分のものの考え方が駄目だなと思ったと私は思うんです。
 老いたり病気になったり死んでいくのが結局なぜ嫌かといえば、いつまでも今のままでありたいという気持ちがあるからでしょう。
 では、いつまでも今のままである自分とは一体何なのか。もっと言えば、自分――そのまんまありつづける自分――とは何なのか。ブッダはおそらく、それ[=老人・死人・病人]を見たときに、いつまでもそのまんまありつづける自分というのは、でかい錯覚だと思ったに違いない。
 キリストは神というものを見つけて自分の根拠にもってきたでしょう。しかしブッダは、「根拠は無い」と言ってそのことを引き受けた人なんです。
 だから、絶対神をもっていれば、世の中の様々な矛盾を「神の摂理だ」と言って納得させるでしょう。しかしブッダの場合だったら、矛盾を完全に解消するような一発回答が出せないんですよ。だから「神の摂理」の代わりに因果の教えをもってきて、因果――或るものがこのようにある事実はどういう因果関係にあるか――を「あきらめろ」(明らかに見よ)と言っているんですよ。
 それで、これは無限なんですわ。因果関係というのは無限でしょ? 答えが出ない。答えが出ないけれども問い続ける。そして或る段階で「あきらめる」。断念する。そしてその時点で教えとして分かった最も真っ当な道に向かって駆けていくというやり方しか、たぶん残らないと思うんですね。
 ブッダが言っていることはそういうことであって、存在の根拠が欠けているならば、それをでっち上げたりしないですよ。欠けているなら欠けているで、ではどのように生きていくかを考えたほうがマシだ、と。
 そのとき、――さっきの「行為」じゃないですけれども――自分は他人との関係で存在すると考えるんです。自分のなかには根拠がない。他人とのつながりのなかに根拠がある。というふうに思います。

茂木:そうすると、「基本的に救いは無いんだ、あきらめるしかない」といったときに、解脱という概念はどういう位置づけになるんですか?

:私の場合、解脱というのは「自分に対する断念」だと思うんです。
 つまり、自分の存在というものは大したことじゃない――自分それ自体としては、大した意味とか価値とかは存在しない――という断念をすべきだろうと思うんです。
 それは、欲望とは何かという問題とも結びつく。人の欲望というのは……「喉が渇いた」、「腹が減った」などということは大したことじゃないんですよ。食べれば治るんですから。人間の最大の苦しみは「認められたい」っていうことです。なぜか? 根拠無しで生まれてきたからですよ。
 そうでしょう? お母さんに辛うじて抱き取ってもらったから何とかなったんです。だから、誰かに認められないと、自分であり得ないんです。
 それを忘れて、自分には根拠があると思うならば、例えば所有物をかき集めて羨ましがらせることで何とかしようとしたり、地位を獲得することで他人の視線を集めようとするわけです。しかしそんなものはでっち上げですから、無くなったときには……。官僚になった私の親戚が言ってましたよ、「辞めた途端にお中元も何も来なくなった」。そんなものですわ。
 人に認められたいっていう欲望は、ただの欲望ではなくて我々の根底にあるんです。それは、我々が「他人との関係」だから。この「関係」――人間関係――は自分で作っていかないとどうしようもないんです。関係はモノではないんですから。これが薄くなってしまうと、自分の価値なんか誰も信じない。
 あの「監禁王子」なんてその例ですね。まともな関係を誰とも作っていないから、自分の価値なんかまるっきり信じていないでしょう。だから「王子、王子」と強弁しなきゃならないんです。金を持たなきゃならないんです。それで相手を奴隷のように扱う。
 彼は認めてほしいんです。無力な自分を。彼は自分が無力であるということをまともに見ないし、自分が無力であるということで自分を断念する力がない。シャボン玉のように膨らんだ自我――脆い自我――に執着するんです。そうなれば、他人を奴隷のように扱うことによってしか自分の存在価値が分からないんでしょう。

(中略)

:彼は自分の無力は感じている。しかし見ていない。これじゃあ絶対に解脱できないでしょうな。
 解脱というのは厳しい教えで、「人間というのはそれ自体、駄目なんだ」というのがないといけないんです。だから解脱して○○[=1語聞き取れない]になろうっていうんですから。「人間であることそれ自体は、最終的には駄目だ」という教えなんです。口当たりのいい話ではないんですよ。仏教はたいてい口当たりのいい話にしてしまいますが、そうではないんです。仏教人間主義ではない。と思います。しかし、救いがあるとすればこの覚悟以外にはないんです。

茂木:だんだん分かってきたんだけど、南さんの定義による「解脱」というのは分かりました。僕はすごく納得のいくものかもしれない。
 それで――いくつか質問があるんですけど――まず、ブッダ自身が「自分は解脱した」と言ったのか?

(中略)

茂木:そして、僕は仏教の「現状をありのままに見て『あきらめる』。そして自分の存在の非力さとか駄目さを受け入れて解脱する」というところは非常に理解できるんだけど、出家に象徴されるような構造の持っている――ある種の危険な匂いというか――非常にラディカルなところは、いちばん心を惹かれると同時に思想的に整理がつかないところなんですね。そこについて教えてください。

:良い質問ですな。じゃあ、具体的に。
 まず、ブッダの解脱といったら、端的には輪廻から解脱するということですな。
 インドには、生まれかわり死にかわりという考え方があるんですよ。「行いによって地獄に生まれたり天国に生まれたり。生まれかわり死にかわりを繰り返す」と。昔のインドの教えでは、天国に行くことが良いことで、地獄に堕ちることは駄目だったんです。世界を六つに分けて、――六道――上は「天」、下は「地獄」までぐるぐる廻っていて、そのなかで良い所に行くのが「結構な教え」というふうに普通は考えるんですけど、仏教とかあの時代にできてきた教えというのは――特にブッダの教えは――神様の世界に生まれようとも、「生まれかわっちゃ駄目」だったんです。天国に行っても駄目なんです。この輪廻の輪――生まれかわり死にかわり――から出ろっていう話なんですな。
 普通は天国で「あがり」なんです。しかしそこでも駄目なんです。つまりこれは、我々の想像を超えているんですわ。
 悪いところはともかく、どんな良いところ――神様の世界――に生まれかわったって仏教では「駄目」で、そこからも解脱しなきゃいけない。輪廻から解脱しろというんですよ。こうなると、もう普通の人間の思いとか価値とは違うんですわ。
 だから私がさっき言った「自己を断念する」という話は、ブッダからまんざら外れた教えではない。
 天国に行っても駄目だというんですから。それを超えるとなれば、もう我々としては分からない。「天国に行きたいな」っていうのは気持ちとして分かるでしょう? 普通の人間なら。これ[=天国に行くこと]でも駄目だと言われたらもう想像つかないです。そうするとこれはどうも、人が普通に思うような範疇を超えてしまうんです。「天国に行っても駄目」な世界というのは何なのかということになりますからね。
 ブッダはそう言っています……「輪廻を超える」と。これはお経を読んでもらえば分かる。
 在家の人というか別の人には、まあ「天に生まれろ」みたいなことを言いますが、それは最終的な話ではない。自分[=ブッダ]の弟子に対して言うのは、ニルヴァーナ――涅槃――に入ることで、涅槃に入るということは解脱することで、それは結局「完全に消え去る」っていうことです……天だろうが何だろうが。寂滅するということです。彼は「生存を完全に消滅させる」という言い方をしている。「生存の消滅」って言っていますからね。きつい言葉だなと思ったですけどね。「あらゆるかたちでの生存を消滅させる」というんですよ。それが涅槃、あるいは解脱だという言い方をしています。額面どおりに聞くと厳しすぎてよく分からない。

(中略)

:およそ世の中――娑婆――において、本当に切ない苦しみの元というのは三つしかない。一つは金。もう一つは異性。もう一つは地位・名誉。およそ揉め事はこの三つです。

(中略)

:自分が楽をしていると、他人の苦しみに軽蔑を感じるようになるんですな。「坊主になっちまえばいいじゃないか。そんなに苦しいんだったら永平寺に来りゃいいじゃないか」と、だんだん傲慢になってくる(笑)。危険なのはね……修行は人を傲慢にするときがあるんですよ。

(中略)

:人間と仏との距離――引き裂かれた状態――に戻るのも一興かなと思ったんです。私は出家仏教は絶対大事だと思います。これは何とかして復興したいと思う……自分でね。やりようによってですよ。

(中略)

:[出家仏教は]大事だと思うんですよ。しかし非常に危険なのは、出家というのは楽なんですよ。楽になってくると傲慢になってくるんですよ。これが怖い。
 やはり、或る矛盾のなかを生きるというのが人間の有り様であって、それを忘れてしまうと仏教も成立しないんですね。つまり、「苦しい」ということを具体的に感じる場がどうしても要ると思うんですよ。
 ですから、「出家しなければ仏教は分からない」というのは一面ではあるが、しかし「苦しい」という自分の有り様を厳しく見つめる目を持つ――持つべきなんです――ということが仏教の根底を支えていると思います。
 それで、苦しさを見るとか考えるということは、もっと苦しいことなんです。仏教者の立場としては、それをあえて引き受けるということが必要だし、やっぱりそこに大きい意味があるだろうと思いますけれどね。と、まあ独りよがりにそう思っているんです。

4 of 5へ続く)