山下良道法話:「からだという大地に根を下ろす ― Inner Body Awareness」(2 of 2)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2008年9月28日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=453
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

1 of 2からの続き)

 それでね、ティク・ナット・ハンさんの本の解説から入っていきましょうね……ティク・ナット・ハンさんの『ティク・ナット・ハンの抱擁』という本。

(中略)

 今日はね、「7月の第一週」のところですね。125ページですね。(中略)まず1行ね、

大地に深く根を張る樹木になりましょう。
(ティク・ナット・ハン『ティク・ナット・ハンの抱擁』)

 まあそれで私、今日の題を「からだという大地」というふうにしたんですけどね。それは今のティク・ナット・ハンさんの書いていることとまったく同じですけどね。

 ただね、これを……これは先週も言いましたけども、ティク・ナット・ハンさんのこういう「大地に深く根を張る樹木になりましょう。」というこれだけだと、どこかの学校の教訓――学校訓――としてありそうじゃないですか……(中略)何か、学校の朝礼で校長先生が言いそうな。もちろんそれはそれでいいんだけども。それは、こういう言葉というのはあらゆるレベルで解釈されるし……中学生なら中学生の分かる範囲での解釈のしかたもあるだろうし、会社員で働いている人なら会社で働いている範囲で理解できる範囲もあるでしょうしね。だけど私がお願いしたいのはね、例えば1つの言葉を今、そういうふうに[=今の自分なりの受け取りかたで]受け取るじゃないですか。だけども、その受け取りかたが「それですべて」とは絶対に思わないでほしい。皆さんの[理解]がどんどん深まるにつれて、同じ言葉がまったく違う意味を持ってくる・まったく違う深さを持ってくるものですから。こういう、下手をすれば「なんとなく平凡な教訓」というのでサーッといっちゃいそうな[=読み流しそうな]言葉でも、やっぱり意味もなく言っているわけはないんですからね、ティク・ナット・ハンさんみたいな人が。だから、それを深く・どれほど深く掘り下げて理解できるか。まさに本当に、根っこを深く深く張ってそこからこういう言葉を理解するということが一番大事ですね。

 それで、まあここはね、「大地に深く根を張る樹木になりましょう。」という、まあ「なんとなく分かる」じゃないですか……「大地に深く根を張って……だから台風が来ても大丈夫。そういうふうにどっしりとした人間になる」っていう理解であってもまあそれでもいいんだけど、じゃあどうやって深く根を張るのか? その根を張っていくその大地というのはどこにあるのか? 大地に根を張っていくということは、具体的にはどうしたらいいのか? という、そういう話にいきなりなるんですよ。それはまあもちろんここでは、人間を木に例えているわけですよ。それで、もしその人間という木の根っこが非常に浅いものだったら、すぐに倒れちゃうじゃないですか。だから、「倒れないように深く根を張りなさい」ということでね。それはまあ私もここ稲村ガ崎という海のすぐそばに住んでいて、まあそこ一帯は稲村の岬とか色々あるけどね……晴れて穏やかな日はいいんだけど、こんな海辺というのは台風が来るとまともに風が当たるし……ものすごい強い風が当たるんですよ。そこの稲村ガ崎のところに行けば、岩に松が本当にガチッと生えていて、台風が来たらそういう松は、台風の風速何十メートルという風をまともに受けるのに、それでもずっと根を張って、ぜんぜん大丈夫。本当に自然というのはすごいなあといつも思うんですけども。

(中略)

 それと人間との関係がどういうことかというと……じゃあ、続きを読んでいきましょうね。今日はね、ティク・ナット・ハンさんのこれをかなり解説していきたいと思います。いつもは1回読むだけですけども。

感情は私たちの一部に過ぎません。
人間は感情以上の存在です。
感情は突然わき上がり、少しの間とどまり、また消えてしまいます。
あらゆる感情は、変化するようになっています。
どんなに激しい感情だとしても変わるのです。
しかし、そのような感情ゆえに、自殺をする人たちもいます。
彼らは感情をどうやって収めればよいのか分からず、
自殺だけが現在の煩悩から抜け出せる
唯一の方法だと考えるのです。
感情はどんどんハリケーンのように、私たちを襲撃します。
暴風雨の中に立つ樹木をイメージしてください。
吹きすさぶ風雨のため、木の枝は折れそうになりますが、
大地に深く根を張った樹木は、びくりともしません。
暴風雨のように激しい感情が私たちを強打しても、
風に揺られる木の葉のように、
感情に揺れる頭に気を取られてはいけないのです。
静かに横たわり、手をおなかに載せてごらんなさい。


……息を吸った時。おなかがふくらむのを感じてください。
息を吐いた時、おなかがへこむのを感じてください。
ある思いにとらわれ、激しい感情が渦巻くとき、
意識を肉体に集中するのです。
大地に深く根を張る樹木になりましょう。
すぐにあなたの心は穏やかになります。
あなたはまた、賢明な判断を下すことができるでしょう。
(ティク・ナット・ハン『ティク・ナット・ハンの抱擁』)

 ということで、まあこれをやってもらったら、今日の話はほぼ全部終わっちゃって……まあ、実践としてはもうこれですべてです。あとでもちろん、それのバックグラウンド(背景)的なことをエックハルト・トールさんの本でちゃんとお話しますけど。ただ、これも、単なる実践じゃないですから。
 最初の2行、

感情は私たちの一部に過ぎません。
人間は感情以上の存在です。

 これを例えば[勤務先等の]同僚にいきなり言ったら、どんな感じがするのかな?……こういうのがどれほど世間に通用するかのということが、私ちょっと分からないんですよ。というのはね、「感情は私たちの一部に過ぎません。人間は感情以上の存在です。」というのは、「感情以上の存在」のところに立って初めて観えることなんですよ。いいですか? だから、「感情は人間の一部に過ぎない」なんて、普通は観えないのね。ほとんどの人にとっては、「感情がすべて」なんですよ。「すべて」だからこそ、自分のなかに湧き起こってくる怒り……それがもうすべてなんだから、「その怒りにまかせて何かをせざるを得ない」わけね。何かに対する執着というものが、もうその人の「すべて」なんだから、その執着の対象を「なんとかして手に入れなきゃならない」わけですよ。心配というものが「すべて」なんだから、その心配の対象であるお金であったり病気であったり人間関係であったりを、とにかく心配し抜いて「なんとかして……ああどうしよう、どうしよう、どうしよう」ってやらざるを得ないわけね。鬱だったらば、もう気が沈んじゃってもうどうしようもなくて、「それがすべて」なんだから、もうそれで「ただ気が沈んでいるしかない」という。
 そういう人に向かって「あなたは完全に感情に支配されていますね」って言ったって、[言われた方としては]意味がないわけね。本人としては、そんなことを言われたって困るんですよ。本人としては、その心配なら心配に支配されちゃって、その心配をなんとかしようとしている。その「なんとかしよう」という方向で皆に手助けしてもらいたいわけですよ。「ああ、大変だね……大変だ、大変だ、大変だ」とやって。だけども、「あなたは心配をすべてだと思っていますね」なんて言われたって……ここが本当に通じないですね。これがどれほど通じないかは、私も知ってます……どれほど通じないか。こういうことを言っても、ほぼ、ポカンとされます。

 例えば私らが今、一法庵に居ますが、この一法庵の中で生まれ育ってここにしか居なかったら、「ここは一法庵という場所だ」と見ることはもうできないのね。だって、そういう人にとっては「本当にこれがすべて」なんだから。「これは一法庵というものの中に過ぎないんだ。一法庵の外には、いくらでも大きな世界が広がっているんだ」ということは、一法庵から出て初めて観えることなんですよ……これも何回も何回も言うけども。それと同じように、人間にとっての感情――心配であったり、怒りであったり、恨みであったり、嫉妬であったり、憂鬱な気分であったり、そういうもの――によって、人間誰もが苦しんでいるんだけども、そういうものに苦しんでいる人にとっては、「今、この自分が苦しんでいるまさにそのものが、だんだんと減っていく。そして最後には無くなる」という解決の仕方しか頭には浮かばないわけね。分かります? それで、前も言ったけどね、抗不安薬[を飲むようなことにもなる]……(中略)英語だとまさに“anti-anxiety pill”。この名前はすごいでしょう? ほんとに。“anxiety”(心配)というものがあって、それに対して“anti”して“anti-anxiety pill”。「anxietyというものを、なんとか取り除く・減らしていく。それには、これを飲みなさい」というね。

(中略)

 世間の人が、心配なら心配、鬱状態なら鬱状態、怒りなら怒り、執着なら執着、恨みなら恨み、嫉妬なら嫉妬……というものによって、みんな苦しんでいるわけですよ。そういうことを苦しんでいる人にとっては、「この自分がいま苦しんでいる、心配なら心配というものが、だんだんと減っていく。減っていかせるためには“anti-anxiety pill”(抗不安薬)を飲むとか……あるいは、心配の原因がお金だったら、なんとかしてお金を増やすということを一生懸命にやる」という、心配に対するそういう対策しか打てないのね。なぜかといったら、心配というのがあまりにもリアルだから。それがあまりにも……「それがもう、すべて」だから……心配が、もうその人の「すべて」になっちゃうんですよ。「すべてになっちゃうんですよ」なんて言われたって、その「すべてになっちゃっている」人にはもう分からないんですよ。私も、それがどれほど通じないか分かっている。分かった上で今、言っているんですけどね。

(中略)

 「一法庵というのは、世界なかのほんの一部なんだ」ということは、一法庵の外に出てみて初めて観えることなのね。ということは――これはあまりにも分かりにくいかもしれないけども――、そういう不安だとか怒りだとか心配だとか憂鬱だとか妬みだとか恨みだとか嫉妬だとか恐怖だとか――まあ、あらゆることを言うけどもね――そういうものの外に出るということを……それが今、現代の日本人が緊急にやらなきゃいけないことなんですよ。(中略)今の日本にとって一番大事なことは、自分の感情の外に出るということなんです。これは、「何なのそれ?」って[思われてしまう]ようなことなんですよ。そう思われるのはなぜなのか? 自分の感情の外になんか、出たことないんだからね。一法庵から出たことのない人にとっては「一法庵の外がある」ということはウンともスンとも分からないのとまったく同じように、自分の感情の外に出るということが、ウンともスンとも分からない。これは、「自分の感情には外があるんだよ」なんて言ったって[=言うだけでは]意味がないから、さっさと「ほらほら、あそこにドアがあるでしょう? あそこに行ってごらん。こうやってドアが開くからね。開いたら、ほら、一歩出てごらん」と言ったら、外へ出れるんですよ。それと同じように、具体的にどういうふうに何をしたならば我々は自分の感情の外に出れるのか。これを学んでほしいんですけども。

 だから、今日やることは、自分の感情の外に出ることです。外に出たときに、我々はもっと大きなものに出会って、そのもっと大きなものから見れば、感情というものは人間の一部にすぎなかった[と分かる]。まあ、感情が存在するというのは、それは確かです。「だけどもそれは、あくまでも[人間の]一部であって、すべてではない」と観える、そういう地点に立つことができるわけですね。それがね……上記の引用文の最初の2行でいきなり、ティク・ナット・ハンさんは本質的なことを仰っているんですよ……

感情は私たちの一部に過ぎません。
人間は感情以上の存在です。
(ティク・ナット・ハン『ティク・ナット・ハンの抱擁』)

それでその後、感情がどんなものかを「感情は突然わき上がり、とどまり、消えていく」と述べている。

あらゆる感情は、変化するようになっています。
どんなに激しい感情だとしても変わるのです。
(ティク・ナット・ハン『ティク・ナット・ハンの抱擁』)

 これは先週から言っている、無常(アニッチャー)ということだけども、一時の感情に突き動かされると、これすらも観えなくなるわけですよ。怒るといったって、24時間コンスタントに怒ることなんてできないんですよ……そんなことはね。どんな強い怒りだって、変化していく。だけども、[多くの人は]それも観えなくて、非常に激しい怒りに襲われたら、もう本当に「それがすべて」のように見えてしまう。永遠に続くように見えてしまうわけね。

 だから、もう「それがすべて」で「それが永遠に続く」のだからこそ、その怒りに駆られて何かをせざるを得ないというふうになっていくわけですね。しかし、どんなに強い怒りだとしても変化するものである。だから、絶対的なものではないはずなのに、その非常に激しい感情に突き動かされて自殺をしてしまう人たちも当然居る。

(中略)

 「感情はどんどんハリケーン――大嵐、台風――のように我々を襲撃する」……これは私がさっき説明した、そういう暴風雨のなかの樹木という例えとまったく同じイメージですね。稲村ガ崎のあそこに生えている松なんだけども、ものすごい雨風のときでも全然大丈夫。なぜかといったら、根っこを非常に深く張っているからね。だから今、そういう「暴風雨」というのは非常に激しい感情のことを言っていて、「木」というのは我々――人間――のことを言っている。もし我々がしっかりと根っこを張っていたならば、大丈夫。そこでね、

風に揺られる木の葉のように、
感情に揺れる頭に気を取られてはいけないのです。
(ティク・ナット・ハン『ティク・ナット・ハンの抱擁』)

 だから、ものすごい風が吹いたら、もちろん葉はものすごく揺れるわけですよ……葉っぱの方、枝の方は。だから、そこだけ見ると揺れ具合はものすごいわけね。だけども、暴風雨というのは地上でしかないわけですよ。風は、いくらなんでも地下までは来ないんですよ。分かります?

 木というのは、我々には地上の部分しか見えないじゃないですか。だけども、木というのは――これはまあ皆が言うことですけども――(中略)10メートルの高さの木だったら、10メートルぐらいの根っこがあるわけですよ。だから、その根っこの部分には、台風が当たるわけがないじゃないですか。どんな強い台風だって、風が吹いてその風が地下10メートルまで行くなんていうことはないんですよ。いいですか? あくまでも、根っこのところには暴風雨は届かない。暴風雨が届くのは、あくまでも地上の木の部分だけです。いいですか?

 で、そのときにこのイメージはどういうことかというと……ここではっきりと分かるでしょう? 木を地上の部分と地下の部分とに分けましょう。そして、本当に暴風雨に襲われるのは地上の部分だけなんですよ。もし、木というのが地上の部分だけのものであったなら、もちろん風でポーンと吹っ飛んでいますよ。だけども、こういう松とかそういう樹木というのは、地上の部分と同じほどの根っこの部分があって、根っこの部分が深く張っているから、地上の部分の風雨がどんなに凄くても大丈夫なわけですね。ということは、それを人間に当てはめるとどういうことかというと、我々のいったいどこが、この「根っこ」なのかということ[が話の焦点]なんですよ。だからその、「地下」の部分が観えなくて、「地上」の部分が自分のすべてだと思っちゃうから……「地上」の部分はたしかに「暴風雨」が吹いているから凄いわけですよ。あまりにも辛いことがあって、あまりにも多くの心配があって。だから、その結論としてはもう「自殺するしかない」というところまで追い込まれていってしまう[人も居る]んだけども、目をちょっとでも「地下」に向ければ、「地下」にはものすごく深い根っこが張っていて、そこは暴風雨は届かない。「地下」にそれほど深く根が張っているんだということが本当に観えたならば、「地上」の部分のそういう暴風雨というものは、自分の存在の全体のなかでは一部にすぎないということが観えるわけね。だから、たしかに一部は揺れているかもしれないけども、だけどもそれはあくまでも一部だから、それによって自分の存在そのものがアレされる[=翻弄される]ということはないという確信が生まれてくるわけですね。

 じゃあその、「深く地下に張った根っこ」というのは、いったいどこにあるのか。そしてそれをどういうふうに感じることができるのかというところから、「体」が話題に出てきます。そして、そのプラクティス(実践)[は上記の引用文の最後の7行に書いてある部分であって、それはどういうものかというと、]これは姿勢は寝ていますね。「寝る坐禅」ですね。とにかく寝っ転がって、自分のお腹に手を当てて、そしてもちろん「吸って、吐いて、吸って、吐いて」[と呼吸する]。するとこのお腹が、息を吸った膨らむし、吐いたら凹むし、吸ったら膨らむし、吐いたら凹む。これはもう、どんなに心配している人でも、自殺したいぐらい心配している人でも、どんなに怒りに震えている人でも、どんなに執着に流されている人でも、そういう心配とか執着とか怒りだとか不安だとか恐怖だとか嫉妬だとかそういうものとは一切関係ないところで、息を吸っているんですよ、我々は。呼吸しているわけね。それで、我々の体は、吸ってはお腹がプクッと膨れ、吐いてはお腹が凹む、吸ってはお腹がプクッと膨れ、吐いてはお腹が凹むということをやってくれているわけですよ……あなたがどんなに心配していようが。いいですか?

 そしてそれは[先ほどの例えで言えば]ちょうど、嵐のなかで木がものすごい風に吹かれているんだけども、自分――木――の存在の全体をよく観たらば、地下の部分でどれほど深く根を張っているかが観えてくる。その「地下の部分に張っている根」を感じ取るための作業として今、呼吸と同時に自分のお腹が膨らみ・縮んでいることを感じ取るということですね。だからそういうふうにして、非常に激しい嵐――感情の嵐――に襲われたときに、「意識を肉体に集中するのです」。意識を体に集中する。呼吸とともに[お腹が]膨らんで・縮んでいる……膨らみ・縮みを感じる。それはちょうど、「大地に深く根を張る樹木になりましょう」……「樹木のようになりましょう」ということね。「すぐにあなたの心は穏やかになります」。そのとき、「あなたはまた、賢明な判断を下すことができるでしょう」。この引用文はサラッと言っていますけども、これができるかできないかで……人類がこの先へ生き延びられるか滅ぶかは、はっきり言ってここで決まると私は思っているんですよ。だから、そういうふうに自分の体を通して「深く根を張っている」ことを感じ取ることができたら、「感情がすべて」と思って感情に流されるということはもうあり得ない。そのとき、我々の心は穏やかになる。穏やかになったときに初めて我々は状況の全体を観ることができる。そして、状況の全体を観ることができるから、最も現実的で・最もリアリスティックで・最も効果的なことを判断してできるんですね。いいですか?

 だからこれはいつも言いますけども……「スピリチュアリティ」なんていうとまた、地に足が着かないようなことになるじゃないですか。だけど、このティク・ナット・ハンさんなりダライ・ラマ法王なり……あの人たちは最も現実的な人たちだし、最もリアリスティックな、最も効果的なことができる人たち。なぜかといったら、はっきりと全体の状況が観えるから。はっきりと全体の状況が観えるから、何をすればよいかがはっきりと観える。だけど、――何て言うのかな――例えばね、ほとんどの我々が、なぜ判断をミスしてしまうのか。ほとんどの我々が、その状況・状況に応じてやるべきことができないのはなぜかといったらもちろん、我々は感情によって突き動かされて揺さぶられてしまうからであって、それによって全体の状況が観えなくなってしまう。ただそれだけのことじゃないですか。だから、そういうことが無くなれば、最も正しい・最も賢明な判断ができるということですね。
 それで、“Inner Body”にどうやって入っていくかを、“A New Earth*1のほうからもうちょっとみていきましょう。248ページね。“Inner Body Awareness”というところですね。ここは、自分のなかにスペース(space)を感じること、自分のなかのそういうものを感じることについて述べられていて、その1つの方法として先週に紹介したのは、我々のおなじみのアナパナ瞑想ね。入る息と出る息に集中するという、そういう瞑想ですね。そのやり方は我々はアナパナとして毎週やっているし、まあこのポッドキャストを聴いたりしている人たちはおなじみのことですから、もういい[=あらためてここで紹介する必要はない]と思いますけども。それで、もう1つの方法としてエックハルト・トールさんが挙げているのが、“Inner Body Awareness”といって、これは和訳すると「内なる体を意識すること」ですね。ということは、もうちょっと言うと「自分の体を内側から感じる」こと。その体が、我々にとっての大地ですね。いいですか? 我々が、もうすっかり忘れていた大地。だから、さっき言ったように、暴風雨のなかで吹かれている木としての我々が、どこに本当に立つべきなのかといったらば、実はもうすでに自分は(中略)深く深く『大地』に根を張っていて、その深い『大地』のところでは暴風雨なんかもう一切関係無いんだということを発見することしかないわけなんですよ。
 だからまあここで、仏教的に言えば“refuge”(帰依)という問題が当然出てきますけどね。だから、帰依をするということの本当の意味というのが、[普通に考えるよりも]当然もっともっと深い意味になるわけですよ。普通、仏教だと〈ブッダ、ダルマ、サンガ〉というのが、いちおう出発点としてありますけどもね。だけど、「ブッダに帰依をする。ダルマに帰依をする。サンガに帰依をする」ということは、もっと1歩も2歩も3歩も深めていけば……「いったい何に、本当の意味で帰依をするのか?」となると――そこまで深くいけば――、やっぱりこの「『大地』に深く根を下ろしている」という、そこに帰依をするということになる。「それを発見したブッダである」。あるいは、「それを教えてくれるダルマである」。あるいは、「それに従って生きているサンガである」というふうにも見ていくことができるわけですよ。

(中略)

 “Inner Body Awareness”がどういうことかというと……もちろん話の流れとしてはティク・ナット・ハンさんの流れで、ここまでの話は、ティク・ナット・ハンさん[の提唱する、]「呼吸とともにお腹が膨らんだり縮んだりしているのを感じる」というところまで来たでしょう? それでね、じゃあどういうことをやればいいかというと……ここでエックハルト・トールさんがわざわざ“Inner Body”という言葉――これはティク・ナット・ハンさんは使っていない用語ですけども。ティク・ナット・ハンさんはただ「体」って使っているだけですけども――をパッと持ってきているんですよ。248ページのところで、呼吸が出たり入ったりしてお腹が膨らんだり縮んだりしているのを観たときに“You are becoming aware of the Inner Body.”って言っているんですよ。ここで初めて“Inner Body”という言葉が出るんですけども。この“Inner Body”というのはどういうことかというと、自分の体を内側から感じたときに感じられる、ひとつの“energy field”のことですね。これはもちろん、ヨーガの人は「プラーナ」と呼んできたし、気功の人たちは“Chi Energy”(気)と呼んできているんですね。だから、その反対になっているのがこの「外の体」……つまりこの物質としての、触れば触れるようなこれを「外の体」と見なすのに対して、自分の内側から感じる体のことを“Inner Body”と呼んでいるわけですね。

 エックハルト・トールさんは今、この本で、呼吸から“Inner Body”のほうへスィッチ(転換、切り替え)しているんですよ。最初は「呼吸を観る」だったでしょう? そして今は、呼吸をこのお腹で観る……だから、これはマハシ・メソッドと同じですね。だから、マハシ・メソッドがなぜ効果的なのかといったら、やっぱりマハシ・メソッドは呼吸を観ているんだけれども同時に体も観ているということをやっているからなんですよ。いいですか?
 それで、呼吸を観ると同時にお腹が膨らんでいる・凹んでいる・膨らんでいる・凹んでいるのを感じる。ここでちょっと、自分の注意をスイッチします。どこへスイッチするかというと、呼吸から、体そのものへスイッチします。体そのもの。その「体そのもの」というのは、もちろん“Inner Body”ですよ。“Inner Body”というのは、自分の体を内側から感じること。これがウンともスンとも分からなかったら、[とりあえず今は]それでいいです。今までそんなふうに自分の体をとらえてきたことがないからというだけのことであって、「自分の体を内側からとらえる」ということがどういうことなのかということをこれから具体的にやっていけばいいですから。ポッドキャストを聴いている人も、私が今“Inner Body”と言っていること――エックハルト・トールさんが言っていること――は、お腹の膨らみ・縮みを観ることをやっていた人だったら皆さんすでに知っています。ただ、それを概念として“Inner Body”としてとらえたことがなかったかもしれないけども。あるいは、ヨーガをやっている人、気功をやっている人は皆さんもうすでに知っています。皆さんがすでに知っていることに、ただ“Inner Body”という言葉を当てているだけのことですから。
 そうすると……今、注意を呼吸から体そのものに向けます。そしてそのときに――注意を体そのものに向けたときに――、ひとつの非常に活き活きとしたエネルギーのフィールド(field/場、領域)を感じることができる。そしてそれは、もう体全体に広がっている。そこで、今日の初めに言ったように、我々は今までまったく知らない[=知らなかった]世界にそこで入ってゆけます。
 だから、――何て言うかな――この「まったく知らない世界」と言ったけどもね、ヨーガをやっている人・気功をやっている人たちはもうすでに、この「まったく知らない世界」の入口には来ているんですよ。入口からちょっと入ったこともあるはずなんですよ。だけども、「じゃあその入口からどういう世界に自分は今、入っていこうとしているのか」ということがはっきり分からないから、だから何か分からないままで何かアーサナだけ覚えて終わっちゃうとかね……。何か気功の……太極拳のなんとかの流れの動きだけを覚えて終わってしまうわけね。だから、せっかくヨーガをやる・気功をやるんだったらば、それはいったいどういうことなのか……「それは結局、自分の“Inner Body”に入っていくための1つの入口だったんだ[と認識して、]じゃあその入口を通って、自分は“Inner Body”に入っていこう。じゃあその“Inner Body”というのは、人間の存在のなかでどういう位置づけなのか? それは仏教の考え方とどう繋がっているのか?」ということをきちんと整理して理解していかないと、[充分には]分からないですね。

 いま、「まったく新しい世界」と言いましたけども、なぜほとんどの人がこの世界を知らなかったのか?……自分の体のなかにこんな世界があるなんて知らなかったじゃないですか。ほとんどの人は知らなかったんですよ。例えば今、外を歩いている人にこんな話をしたって「ポカーン」ですよ……ほとんどの人はね。なぜかといったらば、まあその理由の1つは、それはせっかく自分のなかにあるのに、その存在を教わってこなかったこともそうなんだけども(中略)……それで、今までそんなものを観たこともない。じゃあ、なぜそうなのかといったらば、――これはまあ繰り返しになるけども――我々はあまりにも、自分の「思い」というものにとらわれていたから。この「思い」というのは……「思考」なんていうとまた抽象的[な意味になってしまう]。ほら、皆さん今だって、このポッドキャストを聴きながら頭のなかでお喋りしているでしょう? 頭のなかでペチャクチャペチャクチャ喋っている、そのことを今、言っているんですよ。いいですか? そして、頭のなかでペチャクチャペチャクチャ喋りすぎちゃったために、もう完全に頭のなかに閉じこめられちゃっている。ほとんどの人がそうです。ほとんどの人が、本当に、頭という牢獄――“prison”――のなかに完全に閉じこめられて、その頭という“prison”と体とは、ものの見事に切り離されちゃっている。頭という“prison”に閉じこめられちゃっているから、この体の活き活きとしたものをもう感じ取ることができない。本当に、ここでプッツンと切れているのが現代人のリアリティですね。

 だから、そこでね、この「牢獄」のドアを打ち破って、「牢獄」――自分の頭という「牢獄」――の外に出て、そこで非常に広々とした自由な世界が[あるということを知る必要がある]。じゃあまず、そんな自由な世界がどこにあるかというと、どこか遠くじゃなくて、この自分の体というもののなかにね。いいですか? ほとんどの人はそれが感じられないから……それでもこの「牢獄」の中は苦しいわけですよ。惨めなんですよ、あまりにも。だから、この「牢獄」に住んでいる人たちはね、この惨めさからなんとか逃れようと思って……だからといって、その「内なる体」(“Inner Body”)に行くんじゃなくて――だって、そんなものがあるなんて知らないんだからね――、解決にはならないものを求めてしまう。それによって、話[=本人の状況]はさらにこんがらがってしまう。だから、この「牢獄」の中であまりにも不幸で、あまりにも惨めで、それを覆い隠すようなもの[を求めてしまう]。その方法として、もちろんドラッグを使う人もあるだろうし、あるいはものすごく大きな音量で音楽をガンガンガンガンやっていることもあるだろうし、あるいは非常に危険なこと……何か、高い山に登るとか。まあ、高い山に登るのが本当に危険だったら、ジェットコースターみたいなものもあるわけですよね。ジェットコースターそのものは、ときどき人は死ぬけども、滅多に死なないですからね。100%安全でいながら、非常に怖い思いをするじゃないですか。

 だから、ジェットコースターというのも非常に面白いと私は思うんですよね……なぜ皆、わざわざお金を出してまであんなものに乗るのかというね。(中略)なぜ、わざわざお金を払ってまであんな怖い思いをするのか。だけども、ジェットコースターは「怖いけれども、安全でなきゃいけない」わけですよ。(中略)だから、ジェットコースターの不思議さは、「100%安全。かつ、危険を味わいたい」という、おそろしく倒錯したものじゃないですか。でも、それをせざるを得ないわけね、人間というのは。それで、他にはもちろん男女関係に溺れちゃう人ももちろん居るだろうし、あるいは、パートナーとの間でドラマを求めてしまうということもあるだろうし。だからそれはすべてが、この「牢獄」のなかに閉じこめられた人間が何とかして逃れようとする七転八倒の姿なんですよ。だけども、解決にならないんですよそれは。もうはっきり言うけども。解決にならないんですよ。だから我々は、本当の解決をいま求めなきゃいけないという、そういう話になってきます。

(中略)

 [「本当の解決」のためには、意識して呼吸するという方法があり、]意識して呼吸ということは、「息を吸って、息を吸っていることに気がついている。息を吐いて、自分が今、息を吐いていることに気がついている」……そういう呼吸を2回か3回やっていってください。それはもちろん、いろいろ考え事をしないでですよ。そうすると、自分の体の中――内側――に、非常に活き活きとした感覚を感じられるかどうか……これはなかなか難しいと思いますけどね。というのは――さっきも言ったように――、ほとんど多くの人たちは今まで、頭と体とが見事に断ち切られている。だから、本当に強い痛みだとか痒みだとかじゃないかぎり、自分の体を感じるなんていうことはもう何十年間もやってきていなかった。そこで今は、息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、そのときに自分の体全体を内側から感じて、そこに非常に活き活きとしたひとつのエネルギーのフィールドを感じていこうと[している]。いいですか? これはもうあるていど……ある意味で訓練だから――だって、今まで感じたことのないものを感じようとしているんだからね――、[そういうつもりで]やっていってください。これは、いきなり体全体を感じるのが難しかったら――まあ普通は難しいんですけども。ヨーガの人がよくやるでしょう――、「右のつま先に意識を集中して、次に右足のかかと、ふくらはぎ、膝、太股。じゃあ、左のつま先、右手の指先、親指、人差し指、中指、薬指、小指、手の平、手首、肘、二の腕、肩……」と、だんだんと意識を移動させて、それで自分の体を内側から感じていく。これはもちろん、テラヴァーダのオーソドックスな瞑想のなかで四大分別観というのがあって――体全体を「地水火風」から観るということで――、もうちょっと組織立ったやり方がありますけども、そこまで大げさにしなくてもね、もっとシンプルに自分の体を内側から感じることはできるというか、それをやっていってください。

 そして、いま部分部分で感じたでしょう? 自分の体をだんだんと部分部分で感じることができたとしたら、じゃあその感覚を体全体として――体を1つのものとして――感じる。体全体を、1つの“energy field”として自分の内側から感じる。そういうことをやってみてください。そうすると――今、“A New Earth”の250ページね――我々は自分の内なる体――“Inner Body”――というものを感じ取ることができる。これはね、やればわかります。簡単に分かる。なぜかというと、今まで皆さんがやってこなかったという、ただそれだけのことなんですよ。やれば、すぐ分かります。

 何て言うのかな……これはね、皆さんに100メートルを9秒8で走れなんて言ったって、そんなのは無理なんだけど――もちろん、訓練もしてないし、訓練したって無理なんだけど――、自分の体を内側から感じるということは不可能に思えるかもしれないけども、不可能に思えるのは、皆さんが今までそんなことを考えたこともないしやったこともなかっただけのことなんですよ。今はもう考えているんだし、やろうとしているんだし、具体的にどうやればいいのかも、さっき言ったように説明しましたけども。それでやったらば、できます。これはできます。もちろんね、“Inner Body”をちょっとしか観じられない人も居るだろうし、非常に深く感じる人も居るだろうし。だけどもすべての人が、少なくともちょっとは感じることは絶対できます……人間として生きているぎり。
 それで、一番大事なことはね、今日のところ[=法話の要点の1つ]は、実践としてまずやってみて、その自分の体を内側から感じられたときに、「さあ、どうか?」という話なんですよ。「さあ、どうか?」。今ね、この「“Inner Body”とは何か」ということでエックハルト・トールさんが非常に深い論理の展開をしているんだけども、今日はそれを追っていってもあまり意味がないから追わないですけども……今日はもうちょっと実践的な話だけにとどめますけども。それ[=自分の体を内側から感じること]をしたときにね、我々は、さっきのティク・ナット・ハンさんの「感情は私たちの一部に過ぎません。人間は感情以上の存在です」ということを、理論ではなくて生きる支えとして本当に感じ取ることができるんですよ。
 だからね、この“Inner Body”ということによってね、先週から言っている「形なきもの」がこれに関係してくるから……そこで「形とは何か?」・「形なきものとは何か?」ということで、“A New Earth”のなかの“Inner and Outer Space”というところでエックハルト・トールさんは非常に深い論理展開をしているので、それを今日やろうかと思ったんだけど、今日はそれよりかもうちょっと実践的な面で話してますけども。

 我々は今までどう生きてきたかというと、この頭のなかで色々な物事を、ただ考えて、考えて、考えて、考えてきたわけですよ。だからそれだったら、「あなたは一日中、考えているでしょう?」なんて言われたって、[本人としては]困るんだよね……だって、ずっとそれをやっているんだから、本人は、自分が「考えている」なんて思ってないんですよ。だって、それ以外のことをやっていないんだから。皆さんがやっているのは、一日中ここ[=頭のなか]でお喋りをし続けているということですね。そのお喋りというのはどういうことなのか? 「考える」ということはどういうことなのか?……(中略)「考える」ということはまあ要するに、「形」にしてしまうわけですね。だから、「考える」ということと「形」ということとが、まったくほとんど同じになるんですよ。これはね、“A New Earth”の252ページ……「あなたが考え、あるいは感じ、あるいは認識する、あるいは経験したときに、それは我々のもともと持っている意識というものが『形』のなかで生まれてしまう」。だからこれが、井筒俊彦先生あたりが仰る「物事を分ける」ということですね。言葉というのは分ける。分けることによって、まさに「形」をつくっているわけですよ。「そうしたときに我々は、『形ある世界』のなかに生まれてしまう」。「生まれてしまう」といったって、「私は1950何年に生まれました」という、そういう暢気な話ではないんですよ。「今、生まれちゃう」んですよ。だから、そして我々は「形ある世界」にズブズブに入っていってしまう。それを、エックハルト・トールさんは非常に深い意味でサムサーラ――“reincarnation”――という言葉を使っているんですけども。だから、そのサムサーラを超えるということは、「形」の世界を超える[ということであり、それは]、いつ超えるのか? 今、超えなきゃいけないんですよ。何か「修行していって、していって、していって、していって……これから一生懸命にヴィパッサナーをやっていって、今世で駄目だったら来世、来世で駄目だったら再来世……と行って、ついにサムサーラを超えるぞ」なんて言っていたら、とうとう超えられなくてね。なぜかといったらば、今、我々の思いというのは「形のある世界」のなかに生まれちゃっている。逆に言うと、その「形ある世界」から「形なき世界」に、どうやって戻ってくるのか……それが「サムサーラを超える」ということになるけども。だからそれはもちろん、自分の「思い」を超える・自分の感情を超える・自分の色んな、ものの見かたを超える[必要がある]。そのときに一番大事なことは……まあ今日はね、自分の体を感じる――“Inner Body”を感じる――と言ってきたでしょう? まず呼吸から入って、呼吸によって動く部分を感じて、それからその自分の体――体の一部、一つ一つを、右足、左足、右手、左手……と感じて――、それから体全体を感じて、感じたことによってそこに非常に微細な“energy field”を感じ[ることができるということを説明してきた]。今日は実践的なところだけに説明を限りますけども、それを感じたときに、我々は「形なき世界」にもう出ているのね。いいですか? 我々はもう「形なき世界」に出ていて、自分の感情が生まれている・自分の思いが生まれているということを、「形なき世界」の立場に立ったところで観えるんですよ。そのときに、ティク・ナット・ハンさん的に言えば「感情は私たちの一部に過ぎません。人間は感情以上の存在です」ということはね、この「形なき世界」が人間の本来のあり方なわけね。そしてその、「形なき、本来のあり方」のなかから「形あるもの」が生じては滅して、生じては滅している。その「形あるもの」が、感情であったり思いであったり、ものの見かたであったり、経験であったりしている。だけども我々の致命的な間違いは何だったかというと、この「形なき世界」をすっかり見失ってしまって、「形ある世界」にズブズブに入っていってしまったということ。それだからこそ、そこで起こっている感情とか思いという「形あるものがすべて」になってしまった。それで今、それだとあまりにも苦しいので・それだとあまりにも絶望なので、呼吸を感じることによって・体の感覚を感じることによって・そして“Inner Body”を感じることによって――“Inner Body”というのはもちろん「形なきもの」だから――、我々は初めて「形なきもの」の世界に出ることができるわけね。いいですか?

 そこはもう完全に形がないかというと、(中略)そうじゃない。「形なきもの」のなかから「形」がブクブクブクブクと生まれている……生じては滅して、生じては滅している。それをね、色んな先生たちが色んな表現をしてきたわけですよ。私の元々の一番最初の先生である内山興正老師という方は「思いは頭の分泌物」ということを仰ったわけね。要するに、思いというものが頭からブクブクブクブクと分泌されている。だから、分泌物というのは単に1回分泌されるだけじゃなくて、ブクブクブクブクと延々と分泌されて……それはもう皆さん、自分の思いを観れば分かる……ブクブクブクブクと浮かんでは消えているでしょう? 色んな感情も、浮かんでは消えている……ブクブクブクブクと。だけど、内山老師が本当に言いたかったのは、ただ「ブクブクブクブク生まれているよ」ということじゃなくて、「ブクブクブクブク生まれている」ということを観とおす一つの地点なんですよ。

 先週の法話の内容で、“vantage”という非常に面白い言葉をエックハルト・トールさんが使っているんだけどね、“vantage”というのは「視点」ですね……「視点」なんですよ。私は先週はたぶん「視点」というふうに訳したと思うんだけどね。だから、「思いというものがブクブクブクブクと湧いている」と観える、全体を見渡す視点。そして、そういう思いとか感情というものが、全体のなかでの一部に過ぎないと観れる視点――“vantage”――ですね。我々は“Inner Body”に帰ることによって、そういう地点を確保するという話なんですよ、話の流れとしては。

 だから、まあ今日の話は色んなレベルで理解してもらっていいんだけども……こういう話を聞いたこともない人向けの一般的な話としてもね、とにかく皆さんが今まで苦しんできた色んな思いを、なんとか薬で(中略)抑えちゃうような人も居るだろうし、あるいはお酒でもって「もう何も考えたくない」とかね、あるいはジェットコースターに乗ることによってスリルを味わって忘れたいとかいう人も居るでしょうが、なぜ「忘れたい」か? 「嫌だから」ですよ。だけど、そういうことを一生懸命に・とてつもない額のお金を使って“anti-anxiety pill”(抗不安薬)を買ったけれども、どうにもならなかった。とてつもない量のアルコールを飲んだけれども、肝臓を痛めるだけだった。とてつもないジェットコースターに乗ったけれども、富士急ハイランドを儲けさせるだけだったとかね。[結局は、そういうこと]だけになっちゃうわけですよ。(中略)もう、無理なんだから……そんなことをやったって。それだから、皆さんが本当に苦しんでいるそういうものからダイレクトに・一気にそれを乗り越えていく場所がある。それは“anti-anxiety pill”でもないし、ジェットコースターでもないし、あるいはお酒でもないし、あるいはドラッグでもないし。そうではなくて、呼吸をすること――呼吸を意識的にすること――を通して、自分の体(“Inner Body”)を感じ取っていくこと。そこは「形なき世界」。その「形なき世界」に立ったときに初めて、我々は感情というもの・思いというもの――そういう「形あるもの」――が、その全体のなかでの一部に過ぎないと分かる。「一部に過ぎない」と観ることができる、そういう視点に立ったらば、そこから湧き起こってくるものに迷わされることはもうないんですよ。

 要するにね、――いつも言うけども――自分が映画館の椅子に座っているということが分かったらば、もうスクリーンに何があったって「関係ない」じゃないですか。「自分は映画館の椅子に座っているだけ」なんですよ。スクリーンの上には色んなものが現れますよ。ドラキュラも現れるだろうし、アンジェリーナ・ジョリーさんも現れるだろうし。だけど、スクリーン上のものは「ウソ」ですよみんな。だからなにも、そういうものに対して怒ることもないし、執着を持つこともないわけね。自分はもう安全なんですよ、映画館の椅子の上でね。だけども我々の致命的な失敗は、「自分が映画館の椅子に座っている」ということを忘れちゃって、映画のなかにズブズブ入って、「自分が映画にズブズブ入っている」ということも分からないで、映画のなかのことをすべてリアルだと受け取っていたという、たったそれだけのことなんですよ。笑っちゃうでしょう? 笑わない? ね? だけど、映画のなかにズブズブ入っている人にとってはそれは「リアル」なんだから、リアルなものとして心配せざるを得ないし、リアルなものとして執着せざるを得ないわけね。そんなところで、この心配に対していくら“anti-anxiety pill”を飲んだって、そんなものは無理[=解決できない]なんですよ。そうじゃなくて、「そんなものは全部ウソだよ」――「これは全部、映画にすぎないんだよ」――というふうに[認識できる視点に立つ]ことしかないんですよ、本当に。そうなれば、もう“anti-anxiety pill”も要らないし、お酒も要らないし、ジェットコースターも要らないし……まあ別に、楽しみに乗るのはそれはいいんだけども(中略)。そういう地点を得る唯一の方法――まあ、方法はたくさんあるんだけども、そのなかの非常に有効な方法――は、「体」です……そういう意味での“Inner Body”ですね。
 だから、今日は「からだという大地」という題名の法話であって、……だから皆さんは、皆さんがどんなに心配があったとしても、皆さんはみんな、体を持っているんだから――体を持ってない人がいたら、それはもう幽霊だからね(笑)。でも皆、いちおう人間として生きている以上は体を持っているわけだから。皆さん、体あるでしょう?――、体が、皆さんにとっての大地だから。そこにしっかり根を張れば、皆さんが今、思いのなかでどんなに強い不安に襲われていようが、恐怖に襲われていようが、大丈夫です。その「大地」に戻る方法として、きょう紹介した方法をやってみてください。

(終わり)