山下良道法話:「私の中のモンスター」(2 of 3)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2009年8月30日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=524
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

1 of 3からの続き)

 それで今日はね、ちょっとサティパッタナをやりますけども……と言っても、ティク・ナット・ハンさんの解釈のサティパッタナですけどね。

 先週からの続きをもう一回復習していくと……[『ペインボディ』のパーリ語訳の]答えを言うと、「ペインボディ」はパーリ語でいうと「サムヨーガ」ですね。それをティク・ナット・ハンさんは“knot”――複数にして“knots”としているけども――と仰っている。“knot”って分かりますね? 縄の結び目のことですね。それを“Transformation And Healing: Sutra on the Four Establishments of Mindfulness”では“internal formation”とも言っているけども、そのパーリ語が「サムヨーガ」――サンスクリット語で「サムヨージャナ」か――になりますね。「ヨーガ」はYogaの「ヨーガ」ですよ。それが英語だと“knots”とか“fetters”とか“agglomeration”とかあるいは“binding together”。漢訳だと「結」になります。

 要するに、ネチョッと結ばれちゃうわけですよ。それが我々の心のなかに起こる。それがどういうふうに起こるのか。そしてそれをどうやってほどいていくのか……いま紐がこうやってガチガチに結ばれちゃった状態なんですよ。だからそれをどうやってほどいていくのか。それは、先週・先々週の文脈で言うと「ペインボディ」とか或いは「ハビット・エナジー(habit energy)」とか、唯識的には習気(じゅっけ)ですね。それらとぜんぶ重なってきます。
 それで、ペインボディってどういうものだったかをもういちど復習していくと……。例えば私もさんざん話してきたけども、我々は本当だったらネガティブなエモーション(感情)――怒りだとか不安だとか人を恨むとか恐怖とか心配だとか――は嫌いじゃないですか。怒りたくないじゃないですか。心配したくないじゃないですか。「自分が犠牲者だ」なんて思いたくないじゃないですか。いつも恐怖におののいていたり……そんなことはみんな、絶対したくないんですよ。皆だって「ハッピー、ハッピー」で生きていたいじゃないですか。だけど、私らの行動――あるいは世間の人々の行動――をよく見てみると、不思議なことに我々は怒りとか恨みとか恐怖とか心配だとかに、まるで執着をしているかのような行動をどうしてもしてしまう。
 例えば「1年前に誰かにとてつもなく侮辱的なことを言われて、非常に傷ついて恨んで……その時はね」。それはまあしょうがないですよ。お釈迦様じゃないんだから、非常に侮辱的なことを言われたら傷つくし恨むし。その日に徹底的に苦しんで・みじめになって……それはまあ分かるじゃないですか。だけども次の日になってもまた、きのう言われたことを思い出してまたムカムカする。その次の日になっても、おととい言われたことを思い出す。半年経ってもまだ思い出す。1年経ってもまだ思い出す。3年経ってもまだ思い出す。毎日毎日思い出す。「そんな馬鹿な」って[思うかもしれないが]、そんなことを皆ふつうにやっていますよ……よく見れば。それで、それはいったい何のためなの? もう十分すぎるほどそれで惨めになったんだし、十分すぎるほど不幸になったのに、なんでそれをまた繰り返すのか。明らかに非合理なわけですよ。明らかに意味がない行動をしているわけね。
 あるいは、心配をするということでも。普通ね、心配というのは「ここに問題があるから、ちょっと心配してこれを直さなきゃいけない」……だから、心配というのは或る程度は役に立つわけですよ。「試験に落ちたらどうしよう」と心配するから一生懸命に勉強をするわけだし、「選挙に落ちたらどうしよう」と思うから一生懸命に選挙運動をするわけだし、「今晩のおかずをどうしよう」と心配するから色々とメニューを考えて買い物に行って作れるわけだし。だけどみんな、必要以上の心配をするわけですよ。「これはどうしたらいいの?」っていって、ただそのまま行動に移せば問題は解決するじゃないですか。そういう心配だったら別に何も問題はないわけですよ。だけども我々は、必要以上の心配を繰り返し繰り返しやってしまう。
 なぜそういうことになってしまうのかということで、先週はそれを「ペインボディのせいなんだ」、そして「それはエイリアンのようなものだ」ということを言いました(参照1参照2)。今週はそれを「モンスター」――怪物――って言います。なぜそう言うかというと、そのほうがイメージとしてつかみやすいから。
 だから、みんな自分のなかに・私のなかに「モンスター」を飼っていて、そのモンスターがどういうモンスターかというと、ネガティブなエネルギーを食べ物――生きる糧・生きる燃料――とする。そういうモンスターを飼っている。だから、そういうモンスターがAさんのなかに居て、このモンスターはネガティブなエネルギーを燃料とするから、当然Aさんにネガティブなエネルギーを起こして欲しい。そのネガティブなエネルギーというのは要するに怒りのエネルギーであったり、心配のエネルギーであったり、誰かを恨むエネルギーであったり、何かを恐怖するエネルギーであったり。それは、皆さんが怒ったときに、どういうふうに怒っているかをチェックすれば……怒ったときには、非常に暗くて非常に攻撃的なエネルギーが自分の体のなかに湧いてくるじゃないですか。そして心配のときには、重たくて何ともいえない嫌なエネルギーが自分のなかに湧いてくるじゃないですか。あるいは誰かを恨むというときにも同じように湧いてくる。だから、そういう暗くて重たくて嫌なエネルギーをわざと湧かせて、それを燃料・食料として生きているのが「モンスター」。エックハルト・トールさんはそれを「ペインボディ」と言っている。ティク・ナット・ハンさんはそれを「ハビット・エナジー」と言っている。今日のところではそれを「サムヨーガ」と言います。必ずしも〈サムヨーガ=ペインボディ〉ではないけども、「ペインボディ」とか「モンスター」と見たほうが遙かに実際的だと私は思います。“knot”って私も前から使ってたけども、もうちょっと凄いものじゃないですか。ただ単に「Eさんの心がここでちょっと引っ掛かっちゃった」というようなものじゃないじゃないですか。もっと……「モンスター」がやっぱりEさんのなかに居るわけですよ。私らのなかに居るわけですよ。そのモンスターはネガティブなエネルギーを食べて生きているというふうに見たら、もう大体、相手[=モンスター]の正体は分かるじゃないですか。
 いちばん大事なことは、相手の正体が分かることなんですよ。なぜかといったらば、これはもう「詐欺」の問題だからね。「詐欺」の問題だから……詐欺師というのは、ありとあらゆる上手いことを言うわけですよ。詐欺の本質というのは何かといったら、[詐欺師に出会った]Aさんは当然、その詐欺師を詐欺師とは思わないわけですよ。そしてその詐欺師の言うことを信じるわけですよ。だから騙されるわけでしょう? 詐欺師だと見破ったとたんに、その詐欺は成立しないわけですよ。「俺だよ、俺だよ」っていきなり電話が架かってきても、それを自分の息子だと思ったら、お金を振り込まなきゃいけなくなっちゃう。だけども、それは自分の息子ではないと見破ったら、もうそこで[詐欺は未遂に]終わっているわけですよ。だから、我々は今、詐欺に引っ掛かっているようなものなわけですよ。誰の詐欺か? この自分のなかの「怪物」による詐欺ですね。だから「そこに怪物が居るんだ、それは『モンスター』なんだよ。Aさん、気をつけて」って言ったとたんに、Aさんはその相手――「詐欺師」――の正体を見破ることができて、詐欺師というのは見破ったとたんにもうアウトでしょう? もうそんなに闘う必要はないわけですよ。詐欺が成り立つのは、騙されている間だけなんですよ。どんなにものすごい相手だろうが、「この人は詐欺師だ」と分かったとたんに、もう我々は大丈夫なんですよ……ある程度までね。だから、「これは詐欺だ」と見破ることが一にも二にも大事で、それだから私は今、「モンスター」っていう言葉を使っていて、エックハルト・トールさんは「ペインボディ」ってね、皆のイメージしやすい言葉を使うわけですよ。これがなにか“knot”――あるいは「サムヨーガ」――って言うだけだと、ちょっと弱いのね。べつに批判しているわけじゃないんだけども、ちょっと弱いから、もうちょっとどぎつい言葉を……「ペインボディ」とか今日は「モンスター」ってね。「モンスター」っていうとちょっとユーモラスでもあるから、まあ良いかなと思うんですけど。
 だから、自分のなかにモンスターが居て、我々はそのモンスターによって見事に詐欺に引っ掛かってきた。どういう詐欺かといったら、「モンスターの言うことを『本当だ』と思う」。詐欺っていうのはそういうことでしょう? 詐欺っていうのは、詐欺師の言うことを「本当だ」と思い込むこと……これが詐欺の中心じゃないですか。「オレ、オレ」と言う相手を「自分の息子だ」と本当に思うこと。それが詐欺の本質であって。だけども、「それは自分の息子ではない」と見破ったとたんに、相手がどんなに罵声を浴びせようが何だろうがもう関係ないわけですよ。もう終わっているわけですよ、詐欺としてはね。我々のなかで行われている「詐欺」っていうのもそれとまったく同じで、いちばん大事なことは「それが詐欺なんだ。相手は詐欺師なんだ」と見破ることですね。

 それで、そのときにそうやって見破るとどういうことが起こってくるかというと……。まあ例えば世の中では非常に理不尽な目に遭うことは当然あるわけですよ。まあ例えば先週も言いましたけども、我々はまったく無力な状態として――赤ん坊として――生まれてくるわけだから、このまったく無力なこの赤ん坊の状態で悪いことをされたらほんとうに傷つくわけですよ。だけどまあ普通は、赤ん坊はそういう状態で生まれてくるから、どんな人でも赤ん坊を見るとやっぱり心が悪くはできないわけですよ。ほんとうに、生まれたばかりの赤ん坊なんか何もできないわけだから。その何にもできない赤ん坊に対して何かひどいことをするってことは、人間としてあるいは生き物としてできないんですよ。

(中略)

 だから要するに、赤ん坊――人間の赤ん坊であろうがサルの赤ん坊であろうが――という決定的に無力な存在を見たときに、生き物というのは「それを守ってあげたい」、「なんとか育ててあげたい」という気持ちが起こる。それが、いま母ザルをしとめたばかりの凶暴なトラとかヒョウであってもね。

(中略)

 自分の子供だけじゃなくて他の動物の子供であっても、その赤ん坊――圧倒的に無力な存在――を見ると、なんとか助けてあげようという、そういう気持ちになる。まあ普通はね。
 だけども、当然そうじゃない親も時々は居て、[子供が]徹底的に傷つくということがあるわけですよ。親とか……あるいは国が戦争状態になれば当然いろんなことが起きるに決まっているし、それで我々が世の中の非常に不合理な・不条理なことの犠牲者になるということはあり得るんですよ。それ自体は悪いことに決まっているし、けしからんことに決まっているわけですよ。だけどそれと一緒に、その人がいつまでもいつまでも犠牲者であり続けるということはまた別の話なんですよ。それは、その人が犠牲者ではないと言っているわけではないし、「そんなの妄想だ」と言っているわけでもない。ある人が犠牲者となる……それはもう本当に可哀想なことだし、本当にけしからんことなんですよ。だけどもそれと、「その人が毎日毎日『自分が犠牲者である』と思い続ける……それも1年や2年だけではなくて10年、20年、30年と思い続ける」こととはまた別の話であって。なぜそういうことが起こってしまうのかといったらば、いまの「モンスター」って言えばね、簡単な話じゃないですか。それは、その人のなかにモンスターがいて、そのモンスターというのはネガティブなエネルギーを食べて生きている。そして、何かを恨むということ・自分が犠牲者であるということ・何かに対して怒りを持つということはとてつもないネガティブなエネルギーを生みますから、「自分が犠牲者である」ということを毎日毎日思い続けることによって、そういうネガティブなエネルギーを湧かし続けて、そのモンスターがずっとそれを食べていた……10年、20年、30年食べていたというだけのことなんですよ。そのメカニズムさえ見破れば……「自分は30年前のあの酷い相手の犠牲者ではなくて、実は自分のなかのこのモンスターの犠牲者だったんだ」と見破れたら、この「詐欺」は終わるんですよ。いいですか?
 だけど、そういうふうにして苦しんでいる人が瞑想に来るじゃないですか……「何とかして。苦しいから」[とその人は思っている]。だって嫌じゃないですか、未だに30年前のその傷を引きずっているなんてね。だけども苦しいから、なんとか自由になりたいと思って瞑想に来る。だけども、その瞑想の先生が、その人の陥っているそういう「詐欺」と「モンスター」ということをきちんと指摘してあげないと[いけない]。「瞑想をすると、こういう経験が得られるよ」なんていうふうなものを読んじゃうと、だいたいその人がどうなるかといったらば、「ああ、自分は、何かの瞑想体験で『あそこ』に行きさえすれば自由になれる」と思うわけですよ。そして、「その瞑想体験をするためのメソッドが欲しい」となって、もう必死になってやるわけですよ。だけども、こういう瞑想体験というのはどうやって得られるんでしたっけ? それは、心が静かになってからじゃないですか。それは、心がモンスターから解放されてからなんですよ。だから、結局みんな、そこの順番を間違えているのね。
 例えば、体が非常に弱い人がいて、その人がプロレスの試合を見るじゃないですか。プロレスラーたちは、ぶん殴ったり何かしても死なないですよ。「ああ、そうか、じゃあ自分はプロレスに入れば大丈夫なのか」……入れるわけないじゃないですか。非常に虚弱体質の人が体を鍛えた後にプロレスに入るということはあるかもしれないけども、「プロレスに入れば自分は虚弱体質から解放されるか」……解放されるわけないじゃないですか。だからね、結局ね、ある瞑想体験を求めて、「その瞑想体験さえ得られれば自分は自由になれるんだ」というのはそのような、ちょっと順番を間違えた発想なんですよ。いいですか?
 だからね、今ほんとうに非常に苦しくて、それで瞑想に来た人はたくさんいると思います……このポッドキャストを聴いている人の間でもね。だけど皆さんね、そこの順番を間違えないで下さい。当然、もちろん瞑想体験というのはあります。心が静かになってきたら、今まで観えなかったものが観えてくる。それは当然、あります。だけども、それは皆さんのなかの、皆さんを苦しめていたモンスターの正体を見破った後での出来事なんですよ。そこを間違えないでほしいんです。だから、今、○○ジャーナがどうだとか色んなことは考える必要はなくて、それよりか、自分のなかのモンスター――そのモンスターにどれだけ自分が騙されてきたのか、詐欺に遭ってきたのか――を見破ること。それが一にも二にも大事です。
 だから、なにか「仏教を勉強しまーす」とか「瞑想しまーす」とか、皆よく言うけども、「あなた、なぜそうなの?」といったら、要するに苦しみから解放されたいからじゃないですか……今どうしようもなく苦しくて。だけどそれと、仏教の教義を一生懸命に勉強すること――丸暗記すること――と、必死になって何か瞑想体験を得るということとは、ちょっとそこはやっぱり順番を違えているんですよ。その人たちがまず何から解放されたいのかといったらば、その自分の心のなかに湧いてくるどうしようもない怒りだとか、どうしようもない心配だとか……要するに、そこから解放されたいんじゃないですか。そこから解放されるには、仏教の教義を……お経を何百冊も読まなきゃいけないとか、あるいは何かものすごい瞑想体験に達しなきゃいけないという話ではぜんぜんなくてね。まず第一に、自分のなかのモンスターの存在を見破ること。そして、それによって「詐欺」に遭ってきたんだということを認識すること。それだけです。そしたらば、皆さんは解放されます。そして解放された皆さんの心は当然落ち着いていくし、当然、心は静まっていく。静まっていった心――“thinking mind”から解放された心――が、どんどんどんどん、この「存在」の深いところを観ていくのは当たり前であって。だけどもそれは「結果」の話であってね、最初に皆さんがやらなきゃいけないのは、何かとてつもない瞑想体験を得ることでもないし、ものすごい複雑な仏教の教義を勉強することでもなくてね、自分のなかのモンスターの存在を見破ることです。いいですか? そこを絶対に間違えないで。というか、要するに順番を間違えないで下さいということです。いいですね?
 ちょっとごめんなさい……ぜんぜんサティパッタナの解説に入れないじゃないですか(笑)。はい、じゃあ解説に入ります。

3 of 3に続く)