山下良道法話:「私の中のモンスター」(1 of 3)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2009年8月30日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=524
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

(途中まで略)

 今日の題は「私のなかのモンスター」です。ブータンから帰ってきたときに「自分のなかの無為(アサンカター)」という題でお話しをしましたけども、今日はその反対ですね。「モンスター(怪物)」ですね。まあだいたい先週からの続きをやります……「ペインボディ」についてですね。

 「ペインボディ」のパーリ語を知ってます? あとでやりますから……サティ・パッタナをやりながらね。というのはね、ペインボディと言うと「また勝手なこと喋ってるぜ」って思われてるでしょうけど、それはちゃんとサティパッタナ・スッタにもありますし……まあそれはティク・ナット・ハンさんの解釈ですけどね。
 だから今日はね、先週からの続きの「ペインボディ」をもうちょっとお話しをしてから、サティパッタナをティク・ナット・ハンさんが解釈した本……これは非常に有名な本で、“Transformation And Healing: Sutra on the Four Establishments of Mindfulness”ね。これがいわゆるのサティパッタナ――“Sutra on the Four Establishments of Mindfulness”――の解説です……まあかなりユニークなね。テーラヴァーダの先生たちとはちょっと違ってますけども。それを丁寧に読みながら、もうちょっと瞑想の文脈に沿ったお話しをしていきたいと思います。
 はい、そして、また今日も最初に池田晶子さんの本から1つだけ読んでから始めたいと思います。これは池田晶子さんの『リマーク 1997-2007』の1998年の11月の12ですね。これもすごいです。

「地球上の」
ということを越える瞬間にこそ
悦び
在る
でもなく
無い
でもなく
完璧
の感覚
池田晶子リマーク 1997-2007』)

 次に16のほうは、

「地球上の」ではないのだ
これがいい


今さら何が問題であり得るのだろうか


生きながら死んでいることの深いくつろぎ


存在を考えることが快楽であるのは恩寵である
存在は恩寵である


なんであろうがなかろうが
どうであろうがなかろうが


たまたま池田某として一惑星上に居る期間があった
ということで、なぜかくも笑えるのか


なぜ笑うのか
なぜそれを考えると笑いたくなるのか
馬鹿馬鹿しい
のではない
やはり何かが変だ
と感じるのである


何が変なのか
このようであることの何が変なのか
なぜそれを変だと感じるのか


変ではないものを考えてみよ


不可能である
なぜ不可能なのか
存在それ自体が狂気でしかないのはなぜなのか
どんな正気に照らしてそれを狂気と言っているのか、言えるような気がどうしてもするのか
池田晶子リマーク 1997-2007』)

 まあ、これは最後のほうはまあいいんだけども、最初のね、「『地球上の』ではない」とか「『地球上の』ということを越える瞬間」ですね。あるいは彼女は「生きながら死んでいることの深いくつろぎ」「存在を考えることが快楽であるのは恩寵である/存在は恩寵である」と書いている。

 今日は、さっきも予告したようにサティパッタナを見ますけども、サティパッタナは何をみているかというと、要するに「観る」ということじゃないですか……何かを観るということ・何かに気づくということ。何かに「気づきなさい」ということを、我々は嫌というほど先生たちから言われてきた……けれども、そのことの意味がうんともすんとも分からない。じゃあどうしてそこのところの意味が分からないのか。そこが本当にね、なかなか説明がつかなかったんですよ……私自身もね。

 それで、こないだ「メソッド」の話をしたじゃないですかメソッドというのは何でしたっけ? メソッドというのは「こうすればこうなる」……例えば「午前4時に起きればすべてがうまくいく」(笑)っていうふうになっている。「じゃあ、それのどこが悪いの?」っていうことをずっと考えてきたんだけども、まず皆さんが瞑想をやればお分かりのように、「瞑想メソッド」というのは、まずうまくいかないんですよ……まず一つの問題としてね。こうも言えますね……瞑想メソッドというのは、いちおう表面的には「こうすればこうなる、こうすればこうなる」っていうふうな書き方はされているわけですよ。でも、それをやった人なら誰でもが分かるように、「そのとおり」にはいかないというのがあって。それでこれが一体どういうことなのか? というところで我々は今まで七転八倒してきたわけですよ。
 それで、せいぜい2つぐらいの慰めの方法があって、1つは「まだ時間が足りないから」っていうね……「Aさんは始めてまだ1ヶ月だから、1ヶ月じゃあ何も結果が出ないのは当たり前だ」と慰める。それでまあ「あと1年、2年、3年待つ……もうちょっとやればどうにかなるだろう」。そういう慰め方があるじゃないですか。それともう1つの慰め方は、「これはやっぱりメソッドが違うから」と言ってメソッドを変えるというあり方ですよ。だから、メソッドをやってなかなかうまくいかないときには、我々はやっぱり2つの慰め方をするわけね。
 一法庵で私がこの3年間ずうっと言ってきたことは、「そうじゃないんだよ」っていう話だったじゃないですか。要するにこの2つの慰め方は2つともダメなんだよっていうね。それは、時間が経てばどうにかなるような問題でもないし、あるいはメソッドを変えれば――AからBに変えれば、BからCに変えれば、CからDに変えれば――どうにかなるという話でもない。
 それで、どういう話なのかっていったらば、今日の「地球上の」っていうのがヒントで……要するに、メソッドというのは「地球上のもの」なわけですよ。「地球上のもの」というのは「水平面」のことね……今までの我々の言葉で言えば。だけど、我々が瞑想で何をやろうとしているのかって言ったらば、この「水平」を超えていこうっていうことじゃないですか。「地球上ではないこと」ね……そういう地点に立とうとしているわけですよ。だから当然、それにはメソッドは通用しないんですよ。これはね、ここ2〜3週間の間ずっと問題になってきて――まあいつだって問題なんだけども――、要するに、「瞑想がうまくいかない」っていうどうしようもない苦しい状況があるわけですよ……誰にでも。それで必死になって「なんとかして下さい」ってもがくわけじゃないですか。もがいて何かをつかもうとする。それが新しいメソッドであったり新しい先生であったり、あるいは新しい道場であったり、あるいはちょっとした工夫であったり……ありとあらゆることをそこでやるわけですよ。だけどそれは――この状態でお分かりのように――、「今までAというメソッドをやっていたから、それをBに変えればどうにかなる」問題でもないし、「今までAという瞑想センターに行っていたから、今度はBというヴィパッサナーセンターに行けばどうにかなる」というような問題でもないし、あるいは「何かちょっとしたコツをつかめばどうにかなる、ちょっとしたテクニックを学べばどうにかなる」という問題でもないということがね、皆だんだん煮詰まって分かってくるはずなんですよ。
 それはどういうことなのかっていったらば、「なんとかしてやろう」ということそのものがすべて「地球上での七転八倒」なわけですよ。それで、結局、「地球上」でいくら七転八倒していても、それは「地球上での七転八倒」だから、その七転八倒を重ねて「地球上の上」へ行くことは不可能ということなんですよ……問題はね。

(中略)

 曹洞宗というのは極端にノー・メソッドなんですよ。何にもないわけね……メソッドが無いわけ。テーラヴァーダの世界というのはほんとに「メソッドメソッドメソッド」の世界ですよ。「この2つのうち、どちらが本当なの?」って、普通はそう思うわけですよ。だけど、この2つ――両方――とも大事だというのが今の私の結論ですね。だから私は曹洞宗があまりにもノー・メソッドだったから、ヒントがなんとか欲しくてメソッドを求めてビルマまで行った人間なんだけど……それでビルマでありとあらゆるメソッドに出会ったんだけども、「メソッドがあれば解決するということでもないな」ということもそこで分かったわけね。じゃあメソッドなんて要らないかといったら、そういう話ではなくて。要するに「ノー・メソッド」(メソッドが無いこと)と、それに対して「たくさんのメソッド」というこの2つを両方とも押さえたところにしか真理はないというのが今の結論なんですよ。
 それはどういうことかっていったらば、結局われわれがいま到達しようとしていることは「地球上」のことではないから、だから「地球上」でいくら七転八倒してもどうにもならない。「地球上」というのは要するに「こうすればああなる」ということ――それが何かといったら、「世間のことじゃ」って澤木老師が仰るみたいなこと――なんですよ。
 それを全部踏まえたうえでの「メソッド」。じゃあ「メソッド」ってどういうことですか……例えば「観る」っていうことですね。呼吸を「吸ってるのを観る」、「吐いてるのを観る」。今日は「怒りを観る」とか「不安を観る」とかをやるんだけども……まあ具体的に「観る」っていうことをやる。だから、そういうことを全部踏まえたうえでの、例えば「自分の怒りを観る」なわけですよ。そこを押さえないと――「怒りを観なさい」って、皆さんはさんざん先生から言われてきたはずなんですよ。「自分のなかの怒りを観なさい」、「痛みを観なさい」ってね――、「観ましたよ。だから何だっていうんですか」ってことになっちゃうわけですよ。
 ヴィパッサナーというのは要するに「観ること」じゃないですか。じゃあそれが「呼吸を観る」、「吸うことを観る」、「吐くことを観る」だけじゃなくて、今日やるのは「怒りを観る」とか色んな対象を観る。自分のなかの色んなネガティブなものを観る。と言ったって、観るということが一体どういうことなのかが分からなかったから、いくら「怒りを観た」、「自分の心を観た」だけれども「だから何だっていうんですか」ということになってしまう。
 じゃあ、この「観る」ということは一体どういうことなのか。それは、「地球の外」から観るわけね(笑)。結局ね――これはあとで詳しくみるけども――、Aさんが「地球の上」に立っていながらAさんの怒りを観ても、怒りが観えたとしてもAさんは自分の怒りから決して自由にはなれない。じゃあ、なぜお釈迦様がAさんに対して「Aさん、怒りを観なさいよ」と言われたのか。お釈迦様が「怒りを観なさいよ」と言われたのは、今までAさんがやってきたような観かただったのか。でも、それだったらいくら怒りを観たって「怒ってるのは分かってるけど、どうしようもないんだよ」ということになってしまうわけですよ。結局、いまヴィパッサナーをやっている人たちの悩みはそこじゃないですか。「観えてる」んだけど、ぜんぜん怒りから解放されないというところで。
 じゃあ今日はね、「地球の外」から観る(笑)っていうように結局なって。どうもね、その観る視線の……「どこから観るのか」。ここが、どうも今まではっきりしなかった。だから、Bさんが今まで30年間、色んなことを観てきたのと同じ観かたで今、呼吸を観たり、あるいは怒りを観たりしても、それは結局、何十年間やってきたことの延長上にすぎなくて……だから、そんなことだったら延長上なんだから、何も変わりはしない。だけどもお釈迦様が「吸うのを観なさい」、「吐くのを観なさい」、あるいは今日やるところで「怒りを観なさい」って言われたのは、そんなこと[=延長上のこと]であるわけがないじゃないですか。[延長上のこと]はもうずっと続けてきたんだから、そんなことをわざわざお釈迦様に言われる必要もないわけですよ。だけどお釈迦様がそう言われる以上、それはやっぱり何か特別な意味があるわけね。じゃあ「その『特別な意味』というのは一体どういうことなのか」となったら、「我々は『地球の外』から観ている」(笑)……これはちょっと、今日初めての言い方だけども。そうすることによって、実は我々は「地球の外」に出られるという構造になっているんです……最初から言っちゃうけどね。
 だからそこで、池田晶子さん的に言えば「『地球上の』ではないのだ/これがいい」んだというね。なぜいいかというと、このとき池田さんは「地球の外」に行っちゃっているんですよ。分かります? 「地球の外」へ行っちゃっている……彼女はね。最初のところで「『地球上の』ということを越える瞬間にこそ/悦び」と言っているでしょう? 彼女は「地球上の」ということを越えちゃった。そこに悦びを見出した。それが完璧の感覚なんだ……これは当然そうですよね。「何か足りない、いつも足りない」……Cさんはいつも「何かが足りない」と思って、それが不満だったわけじゃないですか。満ち足りなかったわけですよ。「地球上」で生きているかぎりは、Cさんはいつも「何か足りない」んですよ。だけども、「地球を越えたら完璧だ」(笑)っていうね……みたいなことなんですよ。この池田晶子さんの不思議さは……どうしてこの人はこんなに簡単に越えちゃったのかといつも訊かれるんだけど、まあたぶん彼女は「宇宙人」だと思うけどね私は。
 今から、「観る」ということをもっとサティパッタナの文脈にそってみていきますけども、「観る」というのはやっぱり……「観る」ということ――そこ――が、とんでもない秘密があるということね。これはもう私が3年間繰り返し繰り返し言ってきて……まあ最初はあまりはっきり言えなかったんだけども、だんだん最近ははっきり言えるようになってきましたけども。「観る」ということがもうすでに、今までの普通の「地球上」での観かた――Dさんが何十年間やってきた「地球上」の観かた――ではない観かたなんだ。そしてその観かたをしたときにDさんは「地球上」の重力を越えて解放される。そういうことが実際に起こる。

2 of 3に続く)