山下良道法話:「『生きる意味』を求めて」(2 of 2)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2008年10月12日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=457
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

1 of 2からの続き)

 それで、今からこの“awakening”ということをみていきます。だから、話のだいたいの戦略としては、まずはこの「awakenする」――目覚める――ということが一体どういうことなのかを徹底的に理解する。これはもう完全に自分の内側でやるべきことですよ。これはもう職業と関係無いじゃないですか。内側でやるべきこのことをきちんとやった後で――それがはっきりした後で――、「自分は一人の社会人として職業を選ばなきゃいけないし収入も必要だから、じゃあ具体的にどうしたらいいのか」という次のステップが踏めるわけね。

 それで、今からこの“awakening”ということをみていきますけども。“A New Earth”((エックハルト・トール著“A New Earth”の日本語版は『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』。))の259ページね。今年に私らが問題にしてきたことのほとんどが、ここに凝縮されてあります。皆さんが瞑想をするときにぶつかってきた問題が、まさにこの問題です。それは要するに、瞑想がうまくいかないということ。なぜ瞑想がうまくいかないのか? それの原理的な理由が今日の話ではっきりしますから。

 チョギャム・トゥルンパ・リンポチェCutting Through the Spiritual Materialism*1――「スピリチュアル・マテリアリズムを断ち切って」――という有名な本を採り上げたことが一回あったと思いますけども、ある意味では今日のところも、エックハルト・トールさん流の「スピリチュアル・マテリアリズムを断ち切って」ですね。これもすごいです、今日の箇所は。
 エックハルト・トールさんの場合は“awareness”と“thinking”の2つを非常にくっきりと分かれたものとして扱っています。“thinking”というのは皆さんが今していることですね(笑)。いま色々と考えていると思いますけどね……ずっとペチャクチャペチャクチャと頭のなかで喋っていることですね。あるいは瞑想の最中に、呼吸を観なきゃいけないはずなのに何かずっと[頭のなかで]喋っちゃってる、そのことですよ。それに対してもう1つ、“awareness”という言葉をエックハルト・トールさんは使うんですけど、これはそういう〈思い〉を手放して、例えば「今、呼吸を観ている。吸っていることに気がついている。吐いていることに気がついている」ということ。
 本人が「吸っていることに気がついている。吐いていることに気がついている」ときに、本人はすでに“thinking”はしていないんですよ。こないだも言ったけども、“thinking”――考える――ということと「呼吸を観る」ということは両立不可能なわけね。だから、考えてしまったら、呼吸を観ることはできない。でも逆に、呼吸を観ることができたら、〈考え〉を自動的に手放していることになるわけね。この2つ[=“awareness”と“thinking”]は両立不可能だから。だから本人が呼吸を観ることができたときは、自動的に〈思い〉を手放している。だからそこには“thinking”は無いんですよ。“thinking”が無いからボーッとしているかというと、ボーッとしてはいないわけですよ。非常に明瞭に「自分が今、息を吸っている、吐いている、吸っている、吐いている」ということを気づいているわけね。その〈気づいている意識〉を今は“awareness”と呼んでいるわけですね。それは“thinking”ではないです。
 これは、皆さんはもうアナパナをやっているから分かると思うけどね、自分のアナパナの経験をみて……[瞑想中に例えば]ウワーッと上司のことを考えていたら、それは「考えている」んですよ。“thinking”ね。だけど上司のことを手放して、呼吸を「吸っている、吐いている、吸っている、吐いている」と完全に気づいているその時は上司のことを考えていないでしょう? そのことが〈気づいている意識〉――それを、エックハルト・トールさんはここでは“awareness”と呼んでいる――です。この、“thinking”と“awareness”との違い――〈考え〉と〈気づいている意識〉との違い――を押さえて下さい。
 皆さんは瞑想をやっている人だから、そのことは分かると思うし、今回の接心の参加者の1人も「“thinking”と“awareness”が全く違うものだということが、ようやく納得できた」と言ってくれたんですよ。凄かったでしょう? そういうものなんですよ。“thinking”ではない〈気づいている意識〉の時に、どれだけ深い安らぎがあるか。これはもう、各自が経験するしかないことでね……これは自分が実際に経験しなきゃ分からないのね。経験すれば分かるし。それで、これを経験できるかできないかだけなんですよ、瞑想というのは。それを経験するためにまあメソッドというものがあるんだけども、メソッドというものの物凄い問題点を今からみていきますからね……それは、私らが今年ずっと話し合ってきたことと全く重なりますから。

(中略)

 これは非常に重要なところなので、ちょっと丁寧に読んでいきましょう。上述のとおり、「人生を生きる目的というのは、目覚めること――“awaken”すること――だ」という話になって……じゃあ“awakening”とは一体どういうことなのか? これもまたすごいんですよ……この人ね、サラッと凄いことを書くのね、本当に。最初の1行を読みましょう。

Awakening is shift in consciousness in which thinking and awareness separate.
エックハルト・トールA New Earth”)

 この引用文だけでは分からないと思うけども、要するに、我々[=人々]はずっと今まで「考え」続けてきたわけですよ。上司のことを考えたり、明日のことを考えたり、昨日のことを思い出しては嫌な思いをしたりとかね。ずうっと「考え」てきたわけ。それ以外は知らなかったんですよ、本人はね。その中でずっと七転八倒してきたわけね。それで今、初めて「呼吸を観た」。呼吸を「吸っていることに気がついている、吐いていることに気がついている」とき――本人が本当に呼吸に気がつくことができたら――、本人はもう“thinking”を手放しているんですよ。手放していないと観えないからね。その時に本人は、“thinking”というものから生まれて初めて解放されて、「ただ気づいている意識」というものが自分のなかに存在するということに気づく。これはもう質的に違うから。私が今まで「“dimension”(次元)が違う」という言い方をしてきましたけども、もう次元が違うんですよ。だから、こっち[=“thinking”]からこっち[=“awareness”]へ入ったら、本人は「あれ?」と思うくらいに全く違った次元に入ったと感じるわけですよ。
 だから“awakening”というのは、ひとことで言えば“thinking”から“awareness”へ変わること。つまり、〈考えごと〉から〈気づいている意識〉のほうへシフトすることね……非常に単純に言えばですよ。今は非常に大雑把な方向性を言っているだけですからね。だけどもこういうふうに言えば、皆さんとしてはだいたいの見当がつくと思うんですけども。
 今、〈気づいている意識〉とか“awareness”とか言いましたけども、これは非常に明確に感じている人も居るだろうし、何となく薄ぼんやりと感じている人も居るだろうし、あるいは言葉は覚えたけどいまひとつピンとこない人も居るでしょうし……今このポッドキャストを聴いていらっしゃる人の中にも。だけどね、皆さんが今わざわざこの一法庵まで来ているということ自体が――せっかくの日曜日なのに、行くところは他にいくらでもあるでしょうに(笑)、わざわざ一法庵までいらしたということ自体が――、それはやっぱり皆が何かを感じているからだと思うんですよ。私はそう思うし、今ポッドキャストをわざわざ聴いて下さっている方も多分もう既に自分のなかで何かを感じているから聴いておられるんだと思うんですね。エックハルト・トールさん自身も「“A New Earth”をわざわざ読んで、そこに何か意味を認めているということ自体がもうすでに、あなたのなかに何かが生まれてきている証拠だ」と仰っているんだけど、そうじゃなかったらこんな本は読まないし、わざわざ一法庵なんかに来るはずもないし、わざわざこんなポッドキャストを聴くはずもないんですよ。

(中略)

 だからそれは、ある人にとっては一気に何かがガラッと変わっちゃって「はい、もう全てそれで終わり」ということもあるでしょうけど、ほとんどの人にとってはプロセス――だんだんと変わっていく――[でしょう]。だから、本人がアナパナで〈気づいている意識〉というものを初めて知って、そこにどれほど安らぎがあるかということを知ったとしても、すぐに“thinking”に戻って、例えば上司とまた諍いをしてしまう。だから、しばらくは「行ったり来たり」になっちゃうわけね。

 今まではこっちの世界[=“thinking”]しか知らなかったけど、こういう安らぎの世界[=“awareness”]があることを知っただけで全然違うじゃないですか。だけども、しばらくはそれを行ったり来たりせざるを得なくて。しかもこっち[=“thinking”]で長いこと生きてきたから、癖が付いちゃっているからね。いま新しいものを感じたとしても、この新しいものを自分の人生のなかに入れるということが非常に難しいんですよ。要するに「日曜日に一法庵に行って、一法庵に居る間は何かを感じていたんだけど、月曜日に会社に戻ったらまた同じだった」とかね(笑)。結局そうじゃないですか。「どこか山奥のリトリート・センターで、セヤドーたちと一緒にアナパナをしていたら非常に気持ちよくなった。だけども、それが終わって東京に戻って会社で働き始めたら元に戻っちゃった」とかね(笑)。だいたいそうじゃないですか。だから、瞑想会や或いはリトリートで感じたことを自分の実際の生活のなかにどう入れていくか、自分の今までの生活と統合していくかが非常に大事になってきます。

 だから、今までは〈思い〉――“thinking”。考えごと――のなかにズブズブと入っていたわけですよ。でも今、この〈気づいている意識〉というほうに本人がシフトした後でどうなるかというと……。もちろん本人としてはまだ色んなことを考えなきゃいけないわけですよ。だけど今までは「考える」ことの奴隷になっていたのが、これからは「考える」ことを自分の使用人として使える。だから、主従関係が逆転するんです。自分が主人なんですよ。主人というのは使用人をただ使うだけじゃないですか。だから、使用人によって何か自由を奪われるということはないわけ。そういう関係になってくるのね。だから、そういうものを含めて“awareness”、あるいは“presence”――今度の“A New Earth”の訳書*2では「今に在る」と訳してらっしゃるみたいだけど――と言うわけですよ。ここは、まあ今までずっと話してきたことだから、いいですね?
 今から話すところが、259ページの第3番目のパラグラフね。これがめちゃくちゃ面白いし、これが「スピリチュアル・マテリアリズムを断ち切って」なんですよ。
 じゃあ、そういう「目覚める」こと(1 of 2を参照)は、どうやったら起きるの? という話じゃないですか。
 まあここは瞑想会だから、この法話が終わったらアナパナでやり方をもちろん説明しますけども……だから私らの文脈では「私がアナパナを教えて、参加者がアナパナをやって、そうしたら“awakening”が起こった」という流れになるんだけども、多くの場合はそうならないじゃないですか。皆、今年は何を話し合ってきました? ほとんどの人が、瞑想のメソッドをもう知り尽くしているんですよ。だけども、「何も起こらない」、「瞑想が苦しみしか生まない」、「瞑想すると顔が筋肉痛になっちゃう」、「体が痛んで痛んでどうしようもない」。それは「どうもAというメソッドが良くないから、Bというメソッドに変える」とか、あるいは「Aという先生はだめだから、Bという先生につく」とかいうことをして、色々とやるんだけども、どうもそうではない[=そういう対処のしかたでは解決しない]ということを今年喋ってきたじゃないですか。
 それで、どういうことかというと……これもまたすごいんですよ。

The initiation of awakening process is an act of grace.

エックハルト・トール“A New Earth”)

 “grace”というのがちょっと分かりにくいと思うんだけども、英語の辞典で調べると“god's kindness”――神様の親切――という意味なのね。これもすごい訳でしょう(笑)。
 これはどういうことかというと……本人は「目覚めたい」と思うでしょう? 本人が「目覚めたい」と思うからすぐに目覚められるのだったら単純じゃないですか(笑)。だけど、たとえアナパナをやってみたところで、そうはいかないんでしょう? それは“act of grace”――「神様の親切」の行為。「神の恩寵」みたいなことですね。これはまあキリスト教の文脈になっていますけども、仏教の文脈で言えば「他力」――だから。
 要するに――これは浄土真宗の御仏談だけど――親鸞上人的に言えば「弥陀の誓願に助けられまひらせて」……つまり、「実は阿弥陀様が『○○さんを救おう』と仰ってくれていたから、その人は救われる」。「その人の『救われたい』とか『目覚めたい』という『自力』によってではないんだ」ということは浄土真宗――浄土の流れ――では言いますけども。それに対して禅宗はすぐ「自力だ」って言うんだけども、そんな単純なわけがなくて。だから、いま問題にしているのは……そういう「目覚める」というのは、本当にただ単に自分の意志だけでできる問題なのかというと、どうもそうじゃないという、そういう話なんですよ。
 ここから先も“A New Earth”の文中では、「これは親鸞上人か?」というような話が続いて、

You cannot make it happen nor can you keep yourself or it, or accumulate credit towered it.
エックハルト・トール“A New Earth”)

 これはどういうことかというと……今は“awaken”――目覚めること――のことを言っているんですよ。目覚めるということを、本人が本人の意志の力で起こすことができるのか? 「起こせない」とエックハルト・トールさんは言うんですよ。あるいは、それを準備することができるのか? それもできない。“accumulate credit”というのは「功徳を積む」ということ。要するにそういう「自力の努力」ではどうにもならないところがある。
 それで、次もまたすごくて、

There isn't tidy sequence of logical steps that this towered it.
エックハルト・トール“A New Earth”)

 だからこれも「こうすればこうなって、こうすればこうなって、はい、“awakening”が起きました」――我々はそういうことがいかにも好きじゃないですか。これだったら非常に楽じゃないですか。本人は何をすべきかが非常にすっきり分かっちゃって(中略)ロジカルに行けそうだけども――という、そんな感じではどうも“awaken”には行けない。
 「あれ? ちょっとこれは話が違うんじゃないの」[と多くの人は思いがちである]。だって普通は、瞑想メソッドの本を読むといかにもそう書いてある[=『こうすればこうなる』と書いてある]じゃないですか。だけども皆さんはもうお分かりのようにね、「こうやったらこうなる」という瞑想メソッドをやっても必ずしもそうはならなかった[=メソッドが説明するとおりにはならなかった]経験を皆さんは持っていらっしゃるじゃないですか。
 そこでね、ここもまた本当に親鸞さん[みたい]なんだけどね、

You don't have to become wordy first. It may come to the sinner before it comes to the saint. But not necessary be.
エックハルト・トール“A New Earth”)

“sinner”というのは罪人(つみびと)ですよ。“saint”というのは聖者ですね。だから、「“awakening”というのは聖者より先に罪人のほうに起こるかもしれない。まあ必ずしもそうではないけれど」。一生懸命に道徳を守って善い人になったら“awakening”が起こるのかというと、そうじゃない。これはまさに「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」ですね。悪人正機説と、かなり似通ってますよね。
 それで、とどめの一発がね、

There is nothing you can do about awakening.
エックハルト・トール“A New Earth”)

って、こんなこと言われたらどうするのよ、本当に(笑)。「“awakening”に関しては、あなたは何もできない」って。
 それで、ここからがエックハルト・トールさん流の“cutting through the spiritual materialism”――「スピリチュアル・マテリアリズムを断ち切って」――ですね。

Whatever you to will be the ego trying to at awakening or enlightenment to itself as it most prised positions and thereby making itself more important and [注:文末の1語が聞き取れない].
エックハルト・トール“A New Earth”)

 「『さあ、目覚めるぞ』って頑張っちゃうと、それは結局、エゴが“awakening”(目覚め)とか“enlightenment”(悟り)というものを最も最高の所有物として持とうとする、そういう試みなんだ。それによって、そのエゴが自分を『“awakening”とか“enlightenment”を持っている、すごいものなんだ』というふうにする試みなんだ」ということなんですよ。これはゾンサール・ケンツェ・リンポチェの言葉では“ego's version of dharma”ですね……たいていの人は「エゴバージョンのダルマ」になっちゃっているというね。
 それで、

Instead of awakening, you as to concept of awakening to your mind or the mental image of what an awaken and enlightenment person is like. And then try to live up to that's image.
エックハルト・トール“A New Earth”)

 「実質的に本当に目覚めるんじゃなくて、目覚めるということのコンセプト(概念)をただ心に与えただけにすぎない。あるいは、『目覚めた人』または『悟った人』というイメージを持っちゃって、そのイメージに沿って生きる」。「自分は悟った人間だぞ」、「自分は悟った人間だ」とか……。ちょっと目眩がしてきますね(笑)。本当に、まさにそうじゃないですか。
 だから、本当に実質的に目覚めるんじゃなくて、“awakening”(目覚める)とか“enlightenment”(悟り)というコンセプト(概念)を巡って、ありとあらゆるエゴが忍び込んできちゃうわけですよ。これは堪ったもんじゃないですよ。それよりか「自分は世界一の金持ちだ」ぐらいのほうが、まだいいんですよ。“Forbes”に載ったとかで喜んでいるぐらいのほうが、まだイノセント(無邪気/単純/無害)なんですよ。「自分は悟った人間だぞ」と思い込まれちゃうとね(笑)、あまりにもやばすぎる。ちょっと危険すぎる。それがどれほど危険かを、我々はまあ知っているじゃないですか。つまりそういう、「目覚めた人」、「悟った人」というメンタルイメージを玩んでいるだけにすぎない。
 そしてそれは、「私は悟った人間だぞ」と勝手に思っているだけじゃなくて、他人にもそう思ってほしいわけね。Qさんに「P氏は悟った人間だ」ということを思ってほしい。それを思ってもらって、P氏とQさんがそういう「ごっこ遊び」をしてしまう。宗教教団で起こっていることというのは、結局そうでしょう?……ほとんどみんながそうなんですよ。要するに、宗教教団にリーダーが居て、その人が「自分は悟った人間だ」と思い込んで、その宗教教団の構成員は「自分たちの先生は悟っている」と思い込んで、その2つのグループの間でそういう「ごっこ遊び」が進んでしまうという、ただそれだけのことなんですよ。
 そしてそれは、

Another unconscious role the ego plays.
エックハルト・トール“A New Earth”)

 結局、「エゴのお遊びにすぎない」ということなんですよ。これは、めちゃくちゃキツいことを言っています。ですが、なぜそうなるのかというと非常に簡単なことで……“awakening”というのはエゴから目覚めることなんですよ。ということは要するにエゴからの解放でしょう? ということは、それはエゴの消滅なんですよ。だから、エゴにとっては最悪のことなんですよ。それだからこそエゴは「最後の抵抗」をするわけね。その最後の抵抗というのは実に巧妙な抵抗なんですよ。どういう抵抗かというと、「AさんがAさん自身のエゴから“awaken”するんじゃなくて、『自分はもう目覚めた人間だ』とAさんのエゴは思ってしまう」。最悪じゃないですか。結局それでどうなるかというと、Aさんは本当の意味で「目覚めた人間」にはなれなくて、「自分はもう目覚めた人間だ」というイメージだけを持ってAさんのエゴが途轍もなく大きくなっていくということです。それが、“awakening”というものの何ともいえない点ですね。
 でも、「それじゃあ話が矛盾するじゃないの」……(中略)人生の目的は「目覚めること」だったじゃないですか。「目覚める」ということに対して自分が何もできないんだったら、「目覚める」ということが人生の目的になりようがないじゃないですか。そういう話になるんですよ。
 そうなんだけれども――ここからは話が非常に微妙なところになってきます――、“awakening”というものは、これはもうやっぱり、どうしても100パーセント他力――われわれ日本人だから、浄土教の「他力」の流れに少しは親しんでいるから[他力という言葉を]使いますけども――のはたらきだといえるわけね。エックハルト・トールさんは“grace”(神の恩寵)と言っていますけれども
 これはどういうことかというと、私らが今年話し合ってきた「非連続」ということがここで出てきます。要するに、そこで「連続」は見事に切れているんですよ。つまりね、もし“awakening”ということが本人の意志でできることであったら、それは結局、本人が今までエゴとして生きてきた範囲でのことになってしまうじゃないですか。本人は本人のエゴとして生きてきたわけですよ。そこで色んな七転八倒をして色々やってきたわけですよ。ここで本当に非常に微妙なんだけど、“awakening”というのは、そこ[=エゴの範囲]から出ることでしょう? だけれども、「そこから出る」ということを本人が今までどおりにやってしまったら本人は、今までやってきた範囲で今までやってきたことと同じことをやってることになっちゃうんですよ……“awakening”とか“enlightenment”という言葉を使ったとしてもですよ。だからそこでプッツリと「非連続」で切れていなきゃいけないわけね。切れているからこそ「別の次元」なんですよ。ここからここへ[=非連続の前から後へ]は、(中略)今までの延長上で「はい、目覚めました」ということじゃないわけ。そこには、エックハルト・トールさん流に言えば「神様のgrace」が必要だし、浄土教典的に言えば「弥陀の誓願」が必要だし。なぜかといえば、ここは本人のエゴが取り扱えない次元の話だからです……「非連続」になっちゃっているから。これは、本人の意志とは関係ないところでただそれが起こるしかないわけ。
 だけれども、それが起こったならばそれは分かる。アナパナをしていて、呼吸をきちんと観ることができて、そのときに思いの手放しをしていて、そのときに非常に深い安らぎを感じることができたとしたら、それはもう「こっちの世界」[=“awakening”の後]に入っているということになるわけね。
 [うまくいったときも、]アナパナは自分の努力だったかもしれない。だけれども、あまりに多くの人がアナパナがうまくいっていないじゃないですか……怠けているわけでもないのに。だからそこで、非常に微妙な「非連続」のジャンプがあるんだよね……「非連続」のジャンプが起こるしかないというね。だからここは、どうしようもないところになるわけね。
 そのとき[=うまくいったとき]に初めて、「今までずっと色んなことを思い・考えてきたけれども、この色んな思いというものが、もっと広い空間のなかで起こっている」ということがまざまざと観える。この「広い空間」に気づくことがまあ、“awakening”になるわけ。今まではそれは全然観えなくて、thinkingのなかに完全に閉じ込められていた。そのthinkingから解放されて――まだthinkingは起こっているけれども――、そのthinkingはもっと広い空間のなかで起こっているということがまざまざと観える。

(中略)

 それを、内山興正老師は「思いは頭の分泌物」という言い方をされたんだけれども。思いというものが頭からブクブクブクブクと分泌されている。大事なこと――老師が仰りたかったこと――は、「分泌している」ということじゃなくて、「分泌しているということに、大きな空間のなかで気づいている」ことのほうなんですよ。それに気づくことが“awakening”ですね。
 今までの話をまとめると……我々は自分の頭が作ってきた牢獄のなかに閉じ込められていた。それが牢獄だとも気づかずに……だって、それが世界の全てだと[思ってきたから]。だけどそこで或る奇跡が起こって、思いを手放すことができて、ただ呼吸を観ている・呼吸に気がついている・非常に広々としたスペースを初めて知ることができた。そして、この非常に広いスペースのなかで、「思いというものは、ただただブクブクと湧いているにすぎない」ということが観えてきた。そのときに、そういう色んな思いはもちろんあるんだけども、もはやそれの奴隷ではない。そうなってくると、今までの人生観・世界観とはもう全く違うところに本人は出ちゃったんですよ。この「広いところ」に立っている本人と、思いというものの牢獄のなかに閉じ込められていた昔の本人とは、全く違うわけ。
 [“awakening”の無い]ほとんどの人がそれぞれの心のなかに閉じ込められている。そして、この社会というものは、閉じ込められている人によって形成されている。完璧に目覚めてはいなくても、そういう世界[=“awakening”の後]があるということを知ってしまった人間は、世の中を普通に動かしているものによって動かされることはもうないんですよ。「ほらほら、こんな良いものがあるよ。欲しいでしょう?」とかいうものには、もう乗らないのね。なぜかといったら、「別に欲しくないから」(笑)。

(中略)

 思いに閉じ込められていた生き方をしている人がほとんどで、その人たちを駆り立てていた力があって……だけど、そういう力は我々――そういう世界[=“awakening”の後]を知っている人――にはもう通用しなくなってしまう。
 いま、“A New Earth”の162ページで、

Seeing the madness of a civilization so clearly. Then we feel some what alienated from the culture arrond it. Some feel that they inhabit a no-man's land between two worlds. They are no longer run by the ego, yet the arizing awareness has not yet become fooly integrated into their lives. Inner and outer purpose have not matched.
エックハルト・トール“A New Earth”)

 今まで頭が思いによって牢獄のなかに閉じ込められて、その人間が必死になってやっさもっさやっている。それがどれほど狂気の沙汰(madness)なのか。この地球上に住んでいるほとんどの人が既にそうなんだから……総理大臣であろうが大統領であろうが。それによって我々の文明というのができちゃっているから、今の地球上の文明(civilization)そのものがどれほどmad(狂ったもの)であるかがまざまざと観えてしまう。

 だけど、皆が何かワーッとやっているのに自分だけが覚めちゃっているんですよ。そうすると、もう自分は皆と一緒にワーッとはできない。なぜかといえば、もう覚めちゃっているからね……エゴによって動かされて生きているわけじゃないから。今の世界を覆っているトリックにはもう引っ掛からないわけですよ。
 とはいえ、完全に目覚めているわけじゃないから・どう生きるべきかが完全には分かっていないから、実際にどう生きていいのかも分からない。だから非常に中途半端な状態である。今このポッドキャストを聴いていらっしゃる人が感じているジレンマが、多分そういうことだと私は思うんですよ。
 皆さんは仏教を勉強したり或いは瞑想をすることによって、或る安らぎの世界があるということを知ってしまった。そういう世界があるということを、ちょっとは知ってしまった。だからもう、今までどおりには生きることができない。なぜなら、今までどおりに生きるということが「どん詰まり」になるということが、どこをどう考えても分かっちゃっているから。だから、今までどおりと同じように、世間の人のように「ワー、ワー、ワー」ということはできない。だけれども、完全に“awakening”に沿って、まったく新しい生き方――単に瞑想会やリトリートに参加するだけじゃなくて、例えば自分の職業をちゃんとやっていくとか自分の家庭を営んでいくとかのレベルで、自分の内側と外側とを完全にintegrate(統合)すること――もできない。だから、「こっちの世界」と「あっちの世界」とのちょうど「中間」に居て、「じゃあ私は一体どうしたらいいの?」[という疑問が起こる]。
 瞑想会やリトリートに参加する[だけ]なら簡単なんですよ……呼吸を観ていればいいんだからね(笑)。だけど、瞑想会やリトリートが終わった後で皆さんはそれぞれに職業があるんだし、あるいは職業を選ばなきゃいけないんだし。その時に「どうしたらいいの?」ということが非常に難しくなってくる。
 皆さんはこの“awaken”の世界を多少は知っていると思うからいいんですけれども、それを知らなかったら、我々は「人生の目的」とか何とかと言っても、ありとあらゆるところへ行かなきゃいけない……何か「自己実現をする」とか、ものすごい高い目標を掲げて「そこに到達するぞ」とか。あるいは「自分だけは他の人とは違うんだ」とか、ものすごい努力をして何かを掴んで「ああ、実現した」とかね。今の世間で普通に皆がやっていることをヒイヒイ言ってやらざるを得ないんですよ。だけれども、そういうものによって本当に幸せに到達したということはないわけね……と言ったらまあ言い過ぎかもしれないけど。
 “awakening”が起こる世界を、皆さんは少しずつ知り始めた。そのときに、その“awakening”というものを自分の人生のなかにどう入れていったらよいのかという話になってくるわけですよ。そこからはティク・ナット・ハンさんらがさんざん教えて下さってきたことで……要するに、完全に「今」に戻って「今」に生きるということに尽きるんですよ。

 (中略)

 要するに、完全に「今に在る」ことね。完全に「今に在る」というのはどういうことかというと、完全に「頭」(思い)を手放して――思いというのは過去か未来へ行っていたからね――、過去にも行かず未来にも行かず完全に「今」に居ること。そして、自分が今やっていることと完全にひとつになること。そのときに、我々の生活――我々の人生――というものは“spiritual power”に満ち満ちてくる。
 だからここで何をすべきなのか……(中略)要するに、ヴィパッサナーをやっている人だったら分かるように、「自分が今やっていることに完全に気がついている」ということ。そして完全に「今、ここ」という場所にとどまりつつ、いま完全に目覚めて「お茶を飲んでいる」、いま完全に目覚めて「歩く」、いま完全に目覚めて「歯を磨く」。そういうことですよ。完全に「今、ここ」に居ながら、自分が今していることと完全にひとつになる。要するに、心をどこかに行かさないということね。そういうことをやっていかなきゃいけない。

(中略)

 今までと同じことをする……例えば「お茶を飲む」、「歩く」、「歯を磨く」。だけれども、それのやり方がもう完全に違うわけですよ。今まで[=“awakening”の前]だったら、お茶を飲みながら何か考えごとをしていた。しかし今は全ての思いを手放して、「自分が今、お茶を飲んでいることに気がつく。気がつきながら飲む」。そういうことをやっていく。(中略)そして完全に「今、ここ」に居た場合にどうなるかというと、そういう“awakening”(目覚めた意識)というものが自分の人生のなかに入ってきます。
 具体的にどういうことかというと、例えば人に会うじゃないですか……職場でもどこでも。その時に、会う人に対して完全に注意を向ける……要するに、完全にマインドフルになるということですよ。“awakening”というのは一つのスペースだと言ったでしょう? 今までだったら心のなかに思いがワーッと詰まっていたんだけど、今は思いを手放しているから、自分自身が広いスペースとなって、その広いスペースのなかに色んな思いや考えが湧いてきている。その広いスペースのなかで他人にも会う。人に会って色んな商売をするかもしれないけれども、そういうこと[=湧いてくる思い・考え]が大事なんじゃなくて、「今、完全に目覚めている」ということが大事になってきます。そうなると、今までのようなエゴとエゴとのぶつかり合いの人間関係が根本的に変わっちゃって、(中略)そういうスペースのなかで出会う人に対しては我々は、今までのエゴイスティックな感情ではなくて慈悲として出会うことができる。逆に言えば、慈悲を持つということがその時に初めて可能だということですね。
 慈悲というのは今年も一つの大きなテーマだったですけれども、これはもう繰り返し言ってきましたが、エゴというのは慈悲を持てない。エゴを手放したときに初めて我々は慈悲を持つことができる。ということは、今日の文脈で言うならば、「我々が一つの大きなスペースになって、この大きなスペースのなかで人々を受け入れたときに起こるものが慈悲なんだ」という話になってくるんですよ。だからそこで人間関係が完全に違ってきます。そういうことをしていくと……そこら辺からだんだんと、新しい生き方が観えてくるわけですね。
 まとめていきますとね……「人生の目的」ということで皆がさんざん悩んできているわけですよ。「いったい何のために生きたらいいのか」とか、もっと具体的には「私はどういう職業に就いたらいいのか」とか、そういうことで。
 それで、我々がエゴとして生きているかぎりは、どうにもならない。我々がエゴのままで「人生の目的」とかを探し始めちゃったら、ありとあらゆること――世間の人が普通にやっていること。例えば「自己実現」――をやっても、どうにもならないことになってしまう。
 だから、我々がこの人生で本当にやらなければいけないことは何かというと、そういうエゴを手放して「まったく新しい次元」に入っていかなければいけない。そこに入っていくことを今日は“awaken”(目覚めること)と言っているわけです。
 その“awaken”というのはエゴの領域ではないから、エゴがどうにかできる話ではない。そこにプッツリとした「非連続」がある。それはエゴの領域を超えることでしょう? ということは、エゴにとっては死刑宣告なんですよ。だからエゴは最後の抵抗を試みるわけね(笑)。最後の抵抗というのが途轍もなく巧妙なんですよ。エゴが試みる最後の抵抗の途轍もない巧妙さに、あまりにも多くの人が引っ掛かってきてしまったというのが、宗教とスピリチュアリティの歴史のほとんどなんですよ。それで、本当に目覚めるんじゃなくて「目覚めた人」というメンタルイメージを作っちゃって「自分は目覚めた人」というふうに振る舞っちゃうか、あるいは「目覚める」というコンセプト(概念)を自分の中に与えて、それを玩んでしまう。それは結局はエゴの領域のなかで起こっていることであって……“awakening”というのはエゴの領域から出ることなんだから、[イメージを作ったり概念を玩ぶことは、]実際の“awakening”とは縁もゆかりも無いんですよ。
 実際の“awakening”に行くためにはどうしても、エゴの力ではないものが必要で……ということは、「自分では何もできない」ということは「エゴは何もできない」ということなんですよ、“awakening”に対しては。エゴができることが一つだけあるの。それは、エゴが死ぬことね。だから今年のテーマとして「敗北」ということを言っていたんだけど……エックハルト・トールさんは「エゴは何もできない」と言うけども、私はエゴができることがあると思うんですよ。それは何かというと、「敗北」することね(笑)。だから、エゴは「敗北」をして「敗北」を一切認めることね。結局、それしかないと思うんですよ……エゴができることをあえて言うとするならば。そのときに我々は初めてエゴの領域を乗り越えて、まったく新しい領域にawakenする(目覚める)ことができる。この2つの領域がまったく「非連続」で切れているということを繰り返し繰り返し観ていく必要がある。そのときに、ようやく「こっちの領域」[=“awakening”の後]に入ってきたならば、それがもう人生の目的なんだから、ようやく本当の意味での充実感、本当の意味での幸せ、本当の意味での安らぎをそこでは感じます。
 ただし、エゴとしてあまりにも長いあいだ生きてきた「残り」があって、――さらに深刻なのは、今の社会はほとんどがそれ[=エゴ]で生きているから――「この社会のなかで私はどう生きたらいいの?」と皆どうせ悩むんですよ。そういうところ[=生き方をストレートに悩むということ]にいきなり行かないで、まずとにかく「今のこのお茶を、今ここで飲む。完全に目覚めて、お茶を飲むことと完全にひとつになる」。そういう一つ一つの具体的な行為を積み重ねていくことによって、「今ここでお茶を飲む」というところに、まったく新しい意識――“awareness”――が入り込んでくる。そこに“awakening”が起こってくる。
 そういうことを積み重ねていくことによって、“outer”――外なるもの。人との出会いや職業――がもっと起こってくる。そこで、「外で起こること」というのはもう我々の理解を超えたことなんですよ。それが、非常に不思議なことが色々起こってきて……何か出会うべき人にドンピシャのタイミングで出会うとか、色んなチャンスが起こるとか、色んな不思議な偶然の出会いが起こる。偶然の出会いというのは表面的に見たら「偶然」の出会いなんだけれども、深いところから観たら必然だという……それをユングみたいな人はシンクロニシティとか色んな言い方をしていますけれども、それはただ単に偶然ということではないんですよ。一見すると偶然に見えるけれども、もっと大きなインテリジェンスがはたらいて、それが起こってきている。
 まあそんなこと[=シンクロニシティなど]は我々でどうにかなるものじゃないから、我々がやるべきことはとにかく、「『今、ここ』という場所に完全に目覚める。『今、ここ』でやっていること――お茶を飲むなら、お茶を飲むこと――と完全に一つになる」ということ。これ[=お茶を飲むなどの行為そのもの]はもう今までさんざんやってきたことだから、それを丁寧に丁寧にやっていくことによって、外なるものも自然なかたちで現れてくる。(中略)“inner purpose”(内なる目的)を求めていく作業をすることによって、最終的にはこれが[“outer purpose”(外なる目的)と]うまく統合されていく。統合されていかなかったら、やっぱりどこかがおかしいわけですよ。
 一番大事なのは、「外で自分が何をしたらいいか」と悩むところにいきなり行くのではなくて、自分の「内なる目的」をきちんと観ていく。そういう作業をしていくことによって、「生きる意味」と「生きる目的」というものが初めてはっきりしてきますから。

(中略)

 これはまた、来週に続きます。

(終わり)

*1:チョギャム・トゥルンパ著“Cutting Through the Spiritual Materialism”の日本語版は『タントラへの道 精神の物質主義を断ち切って』。

*2:エックハルト・トール著“A New Earth”の日本語版は『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』。