山下良道法話:「奇跡を待ち望まないために」(2 of 4)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2009年8月23日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=522
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分。

1 of 4からの続き)

 はい、じゃあテキストに入っていきましょう。まずは道元禅師ですね。『正法眼蔵随聞記』の、岩波文庫だと第五の二ですね。

 先週は接心中だったので、6人から7人くらいがここで寝泊まりして――まあ昼間だけの参加者もいますけども――、一応、団体生活が6日間続くんですけども、そのことの意味が昔から言われているんですけども、それがどういうことかを見ていきましょう。

示して云く、学道の人は吾我の為に仏法を学すことなかれ。只仏法の為に仏法を学すべきなり。其の故実は我が心身を一物ものこさず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり。其の後は一切の是非管ずることなく、我が心を存ずることなく、なしがたく忍び難きことなりとも、仏法の為につかはれてしひて此れをなすべし。我が心に強(しい)てなしたきことなりとも、仏法の道理なるべからざる事は放捨すべきなり。穴な賢こ。仏道修行の功を以てかはりに善果を得んと思ふことなかれ。只一度仏道に廻向しつる上は再び自己をかへりみず、仏道の掟に任せて行じゆひて、私曲を存ずることなかれ。先証皆かくの如し。心にねがひ求ることなければ即ち大安楽なり。世間の人も、他にまじはわらず己れが家ばかりにて生長したる人は、心のまゝにふるまひ己が心を先として、人目をしらず、人の心を兼(かね)ざる人は、必ずしもあしきなり。学道の用心も亦かくのごとし。衆にまじわり師に順じて我見を立せず、心をあらためゆけば、たやすく道者となるなり。
(『正法眼蔵随聞記』第五の二)

 まあ、この引用文はこのあと続いて、「学道の人すべからく貧を学すべし」って、「貧乏でなきゃいけないよ」という話になっていくんですけども、まあ今の引用部分でだいたい本質的なところは仰っていますので。
 結局ね、我々は、仏教を勉強するということは「エゴの問題をどうしていくか」という問題だということは一法庵でずっと言ってきているわけですよ。それをまあ“thinking mind”って言うこともあるし色々な言い方をしますけども、だけどこれは、もっと実際の人との触れ合いというか、あるいはぶつかり合いというような中で自分の中のそういうものを発見して、「それがある限りは人とぶつかってぶつかってしょうがない」というような現実を通ることで、なんとかそれを乗り越えていくというはたらきなんですよ……そういう流れなんですよ。
 それでね、私もthinking mindってよく言うし、皆さんがそれぞれの瞑想のなかで「自分のthinking mindはこうかな、こうかな」って色々思っているだろうし、「ああ、thinking mindを手放した」とかなんとか思っているかもしれない。それはそれでいいんだけど、thinking mindっていうのはもっとネチョッといやらしいものなんですよ。そのネチョッといやらしいものが、一人ぽつんとしている瞑想のなかにも当然現れてくるんだけども、だけども同時に、もっと具体的な人間関係のなかにも現れてくる。それは当然ですよね。こういう修行道場での人間関係もそうだし、あるいはもう家族となったら余計にそうじゃないですか。幼児だって強烈なエゴがあるじゃないですか……あるでしょ? それで、お父さんとの間に色々とどうせあるに決まっているしね。だからそういうもっと生々しくて強烈なものじゃないですか、我々のエゴっていうのはね。小さな子供が「天使」かといえばね、そうじゃないじゃないですか……親からすればね。そういう現実があるわけですよ。だからそういう、我々のなかのネチョッとした何ともいやらしいエゴを、なんとか我々は乗り越えていかなければいけない。だからそれはね、一人ぽつんと瞑想するというのは基本だけども、それプラス、実際の人間関係のなかで揉まれて、まずはそのエゴの存在をはっきりと見て、それで手放していくっていう方向なんですよ。それを、修行道場とかそういうところでずうっとやっているわけですね。
 それで、今日のところ[=『正法眼蔵随聞記』の上記の引用文]も同じなんだけども、ざっと現代語訳していくと、要するに「修行者というのは自分の吾我(エゴ)のために修行してはいけない」……って言ったって「私はエゴのために修行している」なんて誰も思っていないわけですよ。だけどいつの間にか、エゴのための修行になっちゃっているという何ともいやらしい面があるわけね。仏教を勉強している人だったら「無我、無我、無我」って長老方から言われるじゃないですか。それで誰も「エゴがよい」なんて言う人はいないわけだし、誰もがエゴをなんとか乗り越えようと頑張っちゃっているわけですよ。そうなんだけども、そういう思いと、実際に自分がやっていることとは別なわけですよ。それだからこそ本当に、「エゴのための修行はしないんだ」っていうことの本当の意味合いはどういうことなのか。そこをきちんと見なきゃいけない。
 じゃあ、エゴのために仏教を勉強するのではないのなら、いったい何のためにかっていうと――ここは道元禅師の非常に有名なところですが――、「仏法のために仏法を学す」になるわけですよ。まあそう言われても困るから、それは具体的にどういうことかというと、「其の故実は我が心身を一物ものこさず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり」……これはイメージとしてね、「自分の心身(身と心。“body and soul”)を一つも残らず放下して(投げ捨てて)、仏法の大きな海に投げ入れる」ということですね。その投げ入れた後は、「一切の是非(良いか悪いか)を判断することなく、自分の心を一切残さずに、どんなにしんどいことでも忍耐強くやっていく」。そして「仏法の為につかはれてしひて此れをなすべし」……だから、「自分の心が好きだとか嫌いだとか言うことを全部手放して――先週は『主人公が変わる』って言ったですけども――、仏法が主人公になって、エゴな気持ちが『良い』とか『悪い』とか言う判断を全部捨てて、やっていく」。そして「我が心に強(しい)てなしたきことなりとも、仏法の道理なるべからざる事は放捨すべきなり」……要するに「私のこの心――thinking mind――が『どうしてもやりたいんだ』と思うことであっても、それが仏法の道理に反することならば捨て去るべきだ」。だからここでは、自分の心――thinking mind。エゴの心ですね――と仏法との対比をしているわけですよ。だからここでうまくスイッチを切り替えなきゃいけない。だけどもこれが本当に微妙なんですよ。
 だから、こういう座禅会に来て来て下さるのは嬉しいし、接心に参加して下さるのも嬉しいし、あるいは長老方の瞑想会に行く、あるいはリンポチェたちの何か講演に行く……それは非常に大事なことだし素晴らしいことなんだけども、ただそういうものに出席すればそれですぐOKかというと、まあそうではないわけですよ。出席したうえでもうひとつ、「本当にそこで自分は自分のエゴのためにやっているのか、それとも仏法――ダルマ――のためにやっているのか」……そこなんですよ。そこで自分のエゴがどうしても判断してしまう。そこで自分のエゴが、やりたいこととやりたくないことを勝手に決めちゃう。だからそこをきちんと見分けなきゃいけないということです。
 それで、「エゴのために修行する」ということは具体的にどういうことかというと、[上記の引用文]ではこう言われていますね……「仏道修行の功を以てかはりに善果を得んと思ふことなかれ」。「善果」というのは、善い結果ということですね。要するに「こういう修行をしたから、こういう結果を得てやろう」っていうことね。そういうことなんですよ。
 こないだも接心の最後の頃に言ったんですけども――これはもうここ2、3年ずっと話してきたことだけども――、我々というのはメソッドが大好きなんですよ。メソッドというのは一体何でしたっけ? 要するに「[メソッドとは]こうすれば、こうなる」……「こういう原因を作れば、こういう結果がある」ということ。
 Aさんが或るメソッドをしたとしてもね、「こういうことをしたらこういう結果が出るから、私はこの結果が欲しいからこのメソッドを使う」ということになるじゃないですか。何となくそれは尤もらしいじゃないですか。だって世の中のことは全部そうじゃないですか……世の中のことは、「どうやったらビジネスがうまくいくか」、「どうやったら結婚相手が見つかるか」。「こうすればいいんだよ、これが秘密の方法なんだよ」ってね、それだけじゃないですか……いま売れているビジネス書。

(中略)

 そういう、「こうすれば、こういう結果が得られるよ」ということばっかりじゃないですか……ビジネス書のベストセラーをチェックしても、あるいはセミナーにしても。そういう「メソッド」って我々は大好きなんですよ。それで、「これをすればこういう結果が出る」ということを瞑想にまで当てはめるわけ。今までさんざん、ビジネスにしろ何にしろ色んなメソッドがあったわけですよ。「こういうメソッドを使ってこういう結果を得る」ということをさんざんやってきた人間が瞑想の世界に来て「瞑想メソッド」を見たら、同じ思考パターンに陥るのは当たり前じゃないですか。ただ、瞑想の場合のありがたいことは、「結果が出ない」んですよね(笑)。ビジネスだったら結果が出たかもしれないんだけど、瞑想の場合はすみません、出ません。出ないというところに救いがあるのね。下手に出ちゃうほうが恐いんですよ。それで、「私は今、ぜんぜん瞑想の結果が出てない」という人には、congratulations!――おめでとうございます――としか言いようがないんだけどね。
 なぜ結果が出ないか。それは、瞑想というのはエゴを乗り越えていくことだから。メソッドというのはあくまでもエゴの範囲でしょう。だから当然、結果なんか出ないし、出たら困るんですよ、本当に。だから、今「○○メソッド」をやっても結果が出ないという人は、それはとてつもなく良いことなんですよ。まあもちろん「自分は結果が出ないから苦しい」って言うかもしれないけども、だけど皆さんが今、結果が出ないで苦しんでいるそこにしかドアはないわけね。そのドアを開けてほしいということを私は今ずっと言っている。
 それで道元禅師はどう仰っているかというと、「只一度仏道に廻向しつる上は再び自己をかへりみず、仏道の掟に任せて行じゆひて、私曲(自分の勝手な思い)を存ずることなかれ」……だから「『ダルマに入っていこう、ダルマのなかで修行していこう』と思ったら、すべて自分のことを一切考えないで、とにかくダルマに任せていく。それで、自分勝手な思惑とかそういうものを全て捨てていく」。だから、「瞑想メソッド」というものの何ともいえない微妙な点は、まあ結局ここいらへんにあるわけですよ。
 普通はね、「瞑想メソッド」というのは「こういうメソッドを使ったらこういう結果が出るよ」・「私はこういう結果が欲しいからこういうメソッドをやります」……なにか非常に「当たり前」なわけですよ。だってそれでずっとビジネスの世界は動いているじゃないですか。冗談じゃなく、アマゾンでビジネス書のベストセラーになっている本の題名をチェックしてみて下さい。すべてがそうなってますよ。だから、そういう世間で生きてきた人間が「瞑想メソッド」に来ても、同じ発想をするに決まっているんですよ。それはその人たちを責めることはできなくて、そのときにそこで本当にしっかりとした先生が居たならば、「ちょっと待って。瞑想メソッドというのは、今までのビジネスのメソッドとは根本的に違う」ということを指摘しなければいけない。まあ指摘しなくたってどうせうまくいかないんだから、そこで皆が気づくようになる。どうせうまくいかなくて、そこで苦しんでいる人に、瞑想メソッドというものはビジネスのメソッドとは根本的に違うんだということを言わなきゃいけない。
 そして「先証皆かくの如し。心にねがひ求ることなければ即ち大安楽なり」……「今までの全ての先輩方のこともすべてそういうことだった。今までは自分のエゴの思いがあった――『これが欲しい、欲しい』とさんざんやってきたじゃないですか――けれども、それが手放されたらば、大安楽に入っていく」。

 そしてここが先週からの「寝食を共にする」ということの意味で、「世間の人も、他にまじはわらず己れが家ばかりにて生長したる人は、心のまゝにふるまひ己が心を先として、人目をしらず、人の心を兼(かね)ざる人は、必ずしもあしきなり」……「他人に揉まれないで自分の家だけに居て――自分の家ならワガママ放題じゃないですか――成長しちゃった人は心のままに好き勝手にやっちゃって、好き勝手にやるということは自分の心が全部判断してやっていく。だから、気兼ねしなきゃいけない他人の目を心配することもなく、気を遣うこともなく、他人の思い・他人の感情ということも気に掛けないでやるから、必ず結果は悪い」。なぜかっていったらば、ちょっとでも他人が居たならばやっぱりその人のことを気に掛けなきゃいけないじゃないですか。そうすることによって我々は、自分のエゴから少しは解放されるわけですよ。だから、社会できちんとやることの大事さは、やっぱり社会だと他人という人が当然居るわけだし……電車の中だって、会社のオフィスの中だって、学校の中だって。だから当然、ワガママなんていうのはうまくいかないわけで。それで、自分のワガママな思いから解放されるっていうことは当然ありますよね。まあもちろん、それプラスもっともっと[先へ]行かなきゃいけないんだけどね。

 だけどもそれも無しで――社会で揉まれることもなく――本当に家の中だけに居たらば、ちょっとあまりにもやばすぎますよね。まあ、今そういう人があまりにも多いっていうことは私も知っていますけども。そしてそういう人たちの心の状態がとてつもないひどいものになっているということも知っていますけども、結局そういうことなんですよ。だからそれは、「外に出れなくてそういう人たちが可哀想だ」とか社会的損失――働くべき人が働いていないから――という色んな問題もあるかもしれないけれども、やっぱりそういうことをすると社会や他人に揉まれないから、やっぱり自分のthinking mindだけがあまりにも強くなりすぎちゃっている。あまりにもthinking mindが強すぎると、ネガティブな思いがいくらでも湧いてくるから、当然その人たちの書くものがとんでもないものになっちゃうのはしょうがないじゃないですか。

(中略)

 それだからこそ、修行道場とかあるいは接心とかで寝食を共にすることによって自分のワガママな思いから解放されていく。[修行道場や接心は]そういう手段に当然なります。

3 of 4へ続く)