山下良道法話:「ウォーキング・メディテーション入門」(2 of 2)
※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2010年4月11日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=581
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。
(1 of 2からの続き)
ウォーキング・メディテーション(“walking meditation”/歩く瞑想)のテクニックからお話しして、あとでその意味をお話しします。さっきもお話ししたように、歩く瞑想のやり方は2つあると考えてください。1つは、テラヴァーダ的な、あるいは禅宗的な非常にゆっくりと行ったり来たりする、そういう歩く瞑想。これはまあ、〈吸って、吐いて、1歩。吸って、吐いて、1歩〉……禅宗になると半歩になるんですけどね。一足半歩……吸って、吐いて、たったの半歩しか進まないんですけども。それだとまあ〈吸って、吐いて、1歩〉だから非常に非常にゆっくりなわけですよ。それが、ゆっくりの歩く瞑想ですね。だけど今からやるのは、普通のスピードの歩く瞑想で、だからこれは外でやってみてください。家の中でこのスピードでやると狭すぎますのでね。家の中では、ゆっくりの歩く瞑想を……まあだいたい3メートル、4メートル、5メートルぐらいのところを行ったり来たりする。
それで、今日やる「歩く瞑想」をするときは、外で――公園とか海岸とか――まあ車の心配がなくて、木が植わっているようなそういう場所を選んでみて下さい。これはもう、一直線を行ったり来たりじゃなくて、もう普通に歩いてください。そのときはもちろん手はね、べつに組まなくていいです。ゆっくりの歩く瞑想のときは手を後ろに組んだりとか前に組んだりとか禅宗的にこんなことやったりとか色々しますけども、この今からやる歩く瞑想は、もう手は普通にこうやって振ってもらって結構ですから。
歩く瞑想のときは、いつもマインドフルネスの対象はいつも2つです。これはもう当然、呼吸と、歩くステップですね。これも、ちょっと禅宗的かな。歩くステップと呼吸との2つをシンクロさせるんですけどもね。テラヴァーダの場合だとね、これはシンクロさせないで、どちらか1つを選びます。まあご存じのように、マハシ・セヤドーのやり方だと、呼吸はもういっさい無視して、ステップだけですね。ご存じのように〈右足、上げる、はこぶ、下ろす。左足、上げる、はこぶ、下ろす〉。そういう「右足、左足」を観ていくときは、――長老方からたぶん言われたと思うけども――呼吸は一切無視します。呼吸のことは一切考えないで、〈右足が上がった、運んだ、下ろした〉で、畳とか床に着くその感覚を観ていったじゃないですか。
逆にパオ・メソッドなんかだと……(中略)パオはあんまり歩く瞑想を公(おおやけ)にはやらないんですよ。公にはというのはどういうことかというと、皆さんが例えばヤンゴンのマハシ系の瞑想道場へ行くじゃないですか。そうすると、もうそこはタイムスケジュールがちゃんと決まっていて、1時間座る瞑想をしたら、1時間歩く瞑想をして、また1時間座る瞑想をして、また1時間歩く瞑想をする。もう時間表が決まっているわけですよ。そういうふうにして歩く瞑想がきちんと時間表のなかに入っていて。だけど、皆さんがパオの系列の瞑想道場へ行ったらそうじゃなくて、実際にタイムスケジュールにあるのは座る瞑想だけなんですよ。座る瞑想を1時間半、2時間、とか1時間とかあって、この間はベルが最初に鳴って、終わりに鳴って、この間はずっと座る瞑想をします。座る瞑想でも、まあそれは人によってやっている瞑想が違うんだけどもね。ある人はアナパナをやっているし、ある人はカッシーナ瞑想をやっているし、ある人はヴィパッサナー瞑想をやっているとか色々あるんだけども、まあ皆、座っているわけですよ。それで、歩く瞑想の時間というのは実は無いんですよ。そうなんだけども、それぞれプライベートにはやっていて、それでそのときにパオ・セヤドーなんかから教わるのは、それこそマハシの逆で、ステップは無視しちゃって「呼吸だけに注意をしなさい」って教わります。「吸っていることに気がついている。吐いていることに気がついている」。
そうなんだけども、この本(“The Long Road Turns to Joy: A Guide to Walking Meditation”)でティク・ナット・ハンさんが教えていること、あるいは日本の禅宗がずっとやってきたことは、この2つ――吸ったり吐いたりすることと、歩くステップ――を両方観る。私は、ご存じのように一法庵ではこの両方を観ています。私も全部経験してます……禅宗の経行(きんひん)も、マハシのやり方も、パオのやり方も。だけど、まあ私の経験からいって、まあこういうふうに呼吸とステップをシンクロさせていくのが一番良いんじゃないかなと思って、一法庵でも教えています。一法庵で教えている歩く瞑想は、実は禅宗のでもないしテラヴァーダのマハシやパオのでもないんですよ。というのは、お分かりのように、テラヴァーダだと「どちらか一方」でしょう? 禅宗だと呼吸とステップの両方なんだけど、禅宗の場合は半歩なんですよ。だけど、一法庵では1歩にしていますから。手も、後ろに組んでいて。後ろに組むのはなぜかといったら、我々は座っているときはどうしても手が前に行っちゃうじゃないですか。当たり前だけどね(笑)。だから、歩くときはやっぱり胸を開いたほうがいいので、胸を開いて、手を後ろで組んで――後ろ手に組んで――、やります。そのほうが良いかと思います。だから、一法庵で教えているやり方は実は他のどこでも教えていないんですよ。全部、どこかから取っているんだけど、この組み合わせはどこもやっていないですから。(中略)。
それで、呼吸とステップの両方にマインドフルを向けていく。それでね、普通のゆっくりした歩く瞑想だと、さっきも言ったように〈吸って、吐いて、1歩。吸って、吐いて、1歩。吸って、吐いて、1歩〉。だから非常にゆっくりなんだけども、今はもう普通に歩いているじゃないですか。だから、この歩くスピードで「一息で1歩」なんていったら全然おかしくなっちゃう。それで普通は、まあ[一息で]3歩ぐらいですね。だから〈吸って、吸って、吸って、吐いて、吐いて、吐いて。吸って、吸って、吸って、吐いて、吐いて、吐いて〉となります。
それで、そのときにティク・ナット・ハンさんなんかだと、まあちょっと言葉を使うということをやっているんです。これはラベリングに近いんだけども、だからまあ例えば「吸う、吐く」でもいいしね、「吸う、吸う、吐く、吐く、吐く」といってもいいし、あるいは“bleath in, bleath out”の“in, in, in, out, out, out. in, in, in, out, out, out”とやってもいいです。まあ、ただ、こういうのは全部その……“skillfull means”(方便)ですからね。なぜかといったら、ティク・ナット・ハンさんが今この本で教えているのは……瞑想とかをまったくやったことのない人たちを主に対象にして教えていて、瞑想とか何とかをやっていない人たちは自分の心をコントロールするとか自分の心を観るなんていうことすらもやったことのない人たちなわけですよ。だから、そういう人たちが歩く瞑想を普通に始めちゃったら、皆がどうせ考え事をするに決まっているから(笑)。だから言葉をわざわざ使わせて……“in, in, in, out, out, out”って使わせるわけです。というのは、そういう言葉を使ったら、嫌でも“in, in, in, out, out, out”って[意識するから]、どうしても自分のワーッという思いを手放さざるを得ないじゃないですか。だから、もう皆さんみたいに既に充分すぎるほどアナパナとかやってきて、もうマインドフルとか分かっていたら、あえてこういう言葉を使う必要はべつに無いです。だけどまあ、試しにちょっと使ってみたらいいかと思うし……“in, in, in, out, out, out”あるいは「吸う、吸う、吸う、吐く、吐く、吐く」ってね。
それで、[言葉を使うことを]じゃあいつまで続ければいいのか。これに関してはティク・ナット・ハンさんは教えていない。なぜかといったら、これはもうまったくの初心者向けのティーチング(教え)だからね。私の経験から言ったら、いつまで続けるのかは簡単な話で、うるさくなったらやめてください。どういうことかというと、[うるさくなったということは、]もう完全に皆さんは、自分が吸っていること・吐いていること・自分が歩いていることに、もう完全に気づいている。だから、もう皆さんの心がどこにも行かなくて。そうなった状態でもなおかつ“in, in, in, out, out, out”ってやると、自分でもちょっとうるさく感じます。だから、そのときはもう落としちゃってください[=言葉を使うのをやめてください]。そして、もう何も“in”とか“out”とか言わないで、だけども皆さんは息を吸っていることに完全に気がついている。同時に、右足、左足、右足が地面に着いていることにも気がついている。
だから、皆さんも色んな瞑想テクニック・瞑想メソッドを教わるじゃないですか。だけど、馬鹿正直にやってほしくはないのね。あのね、馬鹿正直に[やるのも]最初はいいんだけども、だけど何かね、もうちょっとそこいらへんは“flexible”(柔軟に、必要に応じて)にやったらいいかと思うんですよ。
これは私もよく例えを使うんだけども、例えば今、非常にぐずっている赤ん坊がいるわけですよ。赤ん坊としても、やっぱり非常に惨めなわけですよ、まあ色々あるし。お母さんのおっぱいを飲みたくてもなかなか飲めなくてお腹が空いちゃっているとか、おむつが濡れているとか。それでぐずっちゃって。赤ん坊だって神経があるから、ちょっとイライラしちゃって、それでよく寝れない。そういうときにお母さんがもちろん、子守歌でなだめるじゃないですか。その子守歌というのは、赤ん坊のちょっと苛立った神経をなだめるためでしょう? そして、苛立った神経をなだめて赤ん坊を眠りに連れていく。それが子守歌の目的なわけですよ。それで、もし赤ん坊が眠りに入ったら――お母さんがずっと見ていて、その子がぐずるのをやめて、安らかな顔で眠っているのを気づいたら――どうしますか? 当然、歌うのをやめるじゃないですか。歌うのをやめるわけですよ。なぜかといったら、一晩中歌っているわけにいかないし。だけどそれ以上にこんどは、歌うことが赤ん坊の邪魔をするでしょう? せっかくグースカ寝ているのに、お母さんが相変わらず歌っていたらうるさいわけですよ(笑)。じゃあ子守歌がまったく無意味かといったら、そんなことはないでしょう? 子守歌というのは、ぐずっている赤ん坊の神経をなだめる段階においては非常に有効だった。だけども、赤ん坊が寝入ってしまったらば、赤ん坊がもっと深く睡眠していくためには子守歌がかえって邪魔になってしまう。当たり前じゃないですか。だから、子守歌というのは役立つか役立たないかという話ではなくて、ある一定の範囲のなかでは非常に役立つし、だけどもそれを超えてしまったらこんどは邪魔になるだけの話なんです。瞑想メソッドというのも、そういうものですから、あくまでもそういうものとして瞑想メソッドを使ったならば、皆さんは非常に良いんだけども、そうじゃなくて、赤ん坊がもう寝ちゃっているのに未だに子守歌を歌い続けるというようなかたちで瞑想メソッドを使うと、ちょっと本当に……「せっかく寝ている赤ん坊が起きちゃいます」からね。そこを気をつけてください。
それで、私が今なにを言っているのかというと、ここでね、ティク・ナット・ハンさんは“in, in, in. out, out, out”ってね、そういう言葉を使うように薦めているんだけども、それはあくまでも子守歌みたいなもので……たしかに頭がワーッと混乱して色んなことを考えすぎてきた人間が、そのままだったらどうせ色んなことを考えちゃって、体は歩いているけれども心は色んなことを考えているという状況を避けるために、こういう「子守歌」を与えているわけですよ。子守歌というか“in, in, in, out, out, out”ってね。だから、子守歌と同じで、子守歌の目的を果たしたら、もう子守歌は歌わない。それと同じように、こういう言葉というのは、その目的を果たしたら[、その言葉はもう使わない]。じゃあ、いつ目的を果たすか? それは、すでに心が落ち着いて、息を吸っていること・吐いていることに完全に気がついていて、同時に、自分の右足、左足、右足、左足、右足、左足が地面にくっついているのも非常にきれいに分かっていたら、もう言葉は必要ないです。
そして、あともう1つ、これも非常に多くの人が失敗する点なんだけども、普段――普通の日――は皆さんは呼吸なんて気にもしてないじゃないですか。まあ、たぶん皆さんは色んなエクササイズをやっていて、意識的に呼吸をすることはあるかもしれない。だけども、ふだん普通に働いているときは呼吸のことなんか気にしてなくて、ほったらかしにしているわけですよ。だけどもまあもちろん、ほったらかしにしていても皆さんの体が覚えているから、皆さんの体は正確に今どのくらいの酸素が必要か分かっているから、それに応じてちゃんと適切な呼吸をしているわけですよ。適切な呼吸を、まあ無意識的にやってきた我々が、いま「呼吸瞑想をしなさい」なんて言われちゃったら、――ここで誰もが必ずつまずくんだけども――呼吸すること自体が或る意味で非常に不自然になることがあるのね。不自然というのはどういうことかというと、コントロールしちゃうんですよ。
たしかにね、ヨーガのプラーナヤーマとか、気功でも色んな呼吸法があるから、それらは、吸うのと吐くのとを非常に特殊なテクニックを使ってコントロールします。それはそれでいいんだけど、ここで我々が今やっている座ってやる瞑想も、歩く瞑想も、呼吸のコントロールはしないんですね。だから、「コントロールしろ」なんて教わったわけでもないんだけども、生まれて初めて呼吸を意識しちゃった人のなかには、何かナチュラルさというか自然さを失ってしまって、呼吸をコントロールし始める人が非常に多いんですよ。これが、座る呼吸瞑想――アナパナ瞑想――をやっていて本当に多くの人が息が詰まるというか、息苦しくなるのね。なぜかといったら、呼吸をコントロールすることによって、何か十分に息――空気――を吸えないというかね、そういう状況になっちゃって、何か息苦しくなってくる。まあ要するに、余計なことを考えちゃうからですね。
だから、今ね、まあさっき「一息で3歩」って言っちゃったけど、実は3歩とは決まっていなくて。というのは、皆さんはそれぞれの肺の能力というのがあるわけですよ。肺にどれぐらい空気を吸い込めるか。肺からどれほど空気を吐き出せるか。そしてそれと、皆さんがいま必要な空気の量があって。だからまず、いちばん大事なのは、「3歩」というのはちょっと忘れて、とにかく歩いてみてください。普通のスピードで。自分が普通のスピードで・自分がナチュラルに――自然に――呼吸した場合に、その呼吸とステップがどういう組み合わせになるかをまず見てください。果たして自分が、〈吸う、吸う、吸う。吐く、吐く、吐く〉というペースで本当にいいのかどうかをね。これは当然、歩くスピードとも関係してくるし、色々なものと関係してきますけど。まあだから、歩くスピードを一定にするじゃないですか……まあ普通に歩いていると。そしてそのときに、それ[=普通のスピードで歩くこと]と、吸うのと吐くのとを組み合わせたときに、〈「吸う、吸う、吸う」で3歩、「吐く、吐く、吐く」で3歩〉で呼吸が苦しくならないか。そこを丁寧にみてください。そして、人によってはね、〈「吸う、吸う」で2歩、「吐く、吐く、吐く」で3歩〉だと非常にスムーズに――「スムーズに」というのは「苦しくならないで」ということですよ――できるという人も居るかもしれない。だからそこをまずみてください。自分の自然な呼吸と、それが〈吸うのが何歩、吐くのが何歩〉とコンビネーションが良いか。それで、吸うのと吐くのとが同じ[歩数]である必要もないんですよ。吸うのを2歩で、吐くのを3歩でもいいし。それは皆さんの肺の能力しだいだから。(中略)それで、まあやっていくうちに……最初は〈吸うのが2歩、吐くのが3歩〉だったのが〈吸うのが3歩、吐くのが3歩〉になるかもしれない。それはそれでいいですし。
そうするとね、多くの人がまあ、こういう質問を必ずするんですよ。というのはね、皆さんが座る瞑想をするときに、マインドフルネスの対象に対して非常に何か神経質になるじゃないですか、普通は。それは、「この対象に対して、絶対にいつも気づいていなきゃいけない」とかね。それも、気づきの対象というのはたいていは1つなんですよ。だけど、この歩く瞑想をやったときに、気づきの対象というのは2つになっているわけでしょう? 少なくとも、息を吸っていること・吐いていることとステップの2つね。これで、必ず皆さんが質問するのは「マインドフルネスの対象が2つあるんだけど、これはどうやって観たらいいんですか?」ってね。これは皆さん必ず言います。だけど、我々のマインドフルネスの能力というのは、たった1つのことにしかマインドフルできないようなものなのか。そんなことはありえないんですよ。そんなことはありえなくて。皆さんがやってみたら、最初はたぶんぎこちないでしょう。だけど、やっていくうちに――まあ30分もやっていくうちに――皆さんは「いま、自分が息を吸っていること・吐いていることにも気がついている。同時に、自分が右足を一、二、3歩、左足を一、二、3歩と歩いていることにも気がついている。だからといってマインドフルネスがバラバラになったわけじゃなくて、同時に気がつくことができている」[というふうになる]。まあ、厳密に言えば「同時」じゃないのかもしれないね……微妙にずれているのかもしれない。だけどまあ、主観的には同時に、吸っていることもステップも気がついている。まあそして皆さんが"in,out,in,out”というんだったら、それにも気がついている。そして、これはまあよく言うんだけども、いつも歩くときは、笑いながら――微笑みながら――してください。これはティク・ナット・ハンさんがお得意のところなんだけども。そういうことがすべてうまくブレンドされて、[歩く瞑想に]なっている。これは、実際にやってみたらそうなります……心配しなくても。「呼吸とステップという2つのマインドフルネスの対象を持ったら、私はマインドフルネスがばらばらになってしまう」なんてことはありえないです。まあ最初の五分間ぐらいはちょっと何か不安かもしれないけども、やっていくうちに慣れます。これは、ゆっくり歩く瞑想でも同じですから。
それで、当然ね、歩く瞑想をしているときは、すでに外を歩いているわけですよ。だから当然、色んなものが目に入ってくるじゃないですか。道ばたに咲いている花であったり木であったり、波打ち際を歩いたら波であったりとかね。それで、これに対して、どうしたらいいわけ? これは普通に考えると、「今、自分は呼吸だけに・ステップだけに集中しているから、空なんか見てはいけない」とか思うじゃないですか。だけど、そんなことはありえなくて、――これは、やってみれば分かるように、――普段は皆さんは道を歩いていても、歩いている道の両側にある色んな建物とか木とか花とかは全然目に入ってきてないはずなんですよ。なぜかというと、明日の予定を考えているから(笑)。昨日の仕事の段取りを考えているから。今月の売り上げを考えているから。あるいは誰かとのアポイントのことを考えているから。皆さんはだいたい、そういう明日の予定……明日どこで会うか[などを考えること]を始めちゃって、皆さんの心は「明日」に飛んじゃっているから――そこの道路を歩いていても皆さんの心は「明日」に行っちゃっているから――、その道路の脇に立っている木は皆さんの心に全然入ってこない。だけど今[=歩く瞑想をしているとき]は、違うんですよ。今、皆さんは「息を吸っていることに気がついている」。同時に、「右足、左足」にも気がついている。それで、歩く瞑想をしているときに皆さんは呼吸とステップというこの2つだけに気がついているかというと、そうじゃないのね。呼吸とステップに気がついている皆さんは、青い空にも気がついている。道ばたの花にも気がついている。ここらへんは犬の散歩が多いんだけども……前を歩く小さな犬にも気がついている。[そういうものに気がつきながらも]皆さんが呼吸を手放さないで呼吸に気づき続けていさえすれば、この状態は保てます。だけど、呼吸を忘れてしまったら、どうせまた皆さんの心は明日の予定の世界、「昨日のあの出来事」に行ってしまう。そういうものですね。
だからね、これはどういうことかというと……マインドフルということに我々は要するに慣れていかなったわけ。それで、「何かにマインドフルでいなさい」ということを先生たちに言われた場合に、我々はあまりにも不器用だった。あるいは、ぎこちなかった。マインドフルの対象として、確かに何かを指定されたわけですよ。それは呼吸であったり、ステップであったり。だから、我々は一生懸命にその呼吸という対象を観ようとした・ステップという対象を観ようとしたんだけども……「だから、それに手一杯で他の対象なんか観れない」と勝手に思っていたんだけども、[マインドフルネスというのは]本当はそうじゃなくてね。なぜかというと、呼吸とかステップというのはあくまでも、きっかけにすぎないのね。きっかけにすぎなくて、本当を言うと、皆さんはただ「マインドフルな状態」――ただ、いま気がついている状態――に入っていくきっかけとして呼吸とかステップを使っただけなんですよ。呼吸とかステップというのは非常に具体的だから。だけども、呼吸とかステップというのは入口であって、呼吸とかステップという入口を通って「マインドフル」という部屋に入った本人は、今[=その状態]ではもう、すべてのものに気がついている。もう頭の思いから解放されて。そして当然、「吸っていることにも気がついているし、ステップにも気がついているし、同時に、青い空にも気がついているし、木にも気がついている」。ということです。だから、そこいらへんをよく観てください。
じゃあ、テクニック的なことの説明をもうちょっと続けますと……まあ我々は普段は、肺というものを完全には使っていないんですよ。使っていないというのはどういうことかというと……肺の中に空気が入っていくでしょう? だけど普段は、例えば肺の中にある空気の全てを吐き出して、まったく新しい空気を入れ換えているわけじゃなくて、ほんの一部しか入れ替えてないわけですよ。だから、肺の中にある空気をぜんぶ吐き出すという呼吸法というのを色んなプラクティスでよくやるじゃないですか……「ぜんぶ吐き出して、そして空にして、またフレッシュな空気をぜんぶ入れてゆく」というね、そういう呼吸法の訓練をやりますけども。まあここでは、そんな大げさなことじゃないんだけども、ここでもちょっと、肺をもうちょっと使うという訓練[が、歩く瞑想のなかに含まれるわけ]ですね。
それで、例えば皆さんが〈吸う、吸う。吐く、吐く。吸う、吸う。吐く、吐く〉と2歩ずつやっていたとします。それが皆さんにとってノーマルな――苦しくならない――呼吸の仕方だとします。だけど、そこにもう一まわり負担をかけましょう。そのときには、吐くのを3歩にします……〈吸う、吸う。吐く、吐く、吐く〉。だから、1歩余計になったわけですよ。吐くのが1歩余計になることで、もっと多くの空気を吐き出す。ただ、それをいきなりやると負担がかかるから、まあそれ[=〈吸う、吸う。吐く、吐く、吐く〉]を4,5回ていどやって、ちょっと苦しくなったらまた元[=〈吸う、吸う。吐く、吐く〉という2歩ずつ]に戻る。そういうことをしてみてください。そうやっていくうちに、皆さんの肺の能力がだんだんと上がってきますから。そうすると、これまでは〈吸う、吸う。吐く、吐く、吐く〉という〈2対3〉だったものを、こんどは吸うのも3にして〈吸う、吸う、吸う。吐く、吐く、吐く〉。これでやっても苦しくないとなったら、それを続ける。これはね、実際にやっていけば分かります。だから、実際にやれば、自分の吸うのと吐くのとが何歩対何歩がいちばん合っているかが分かる。そしてそれは、今その歩数が合っていても、ちょっと負担をかけることで肺の能力を上げていく。それで最後には〈4歩対4歩〉だったり〈5歩対5歩〉だったりするでしょうし。そうしてみてください。
それで、今まで説明した部分は一応テクニックで、時間的なことを言うとまあ30分でも1時間でも[よい]。まあこれは散歩だから。これは座っているわけじゃないから体に負担はかからないから、座るのが苦手な人でも当然できるし……座るのが15分しかできない人だって、歩くのだったら30分くらいできるだろうしね。ちょっと、そういう時間を見つけて、やってみてください。まあ午前中でもいいし、夕方でもいいし、時間のあるときにやってみてください。
以上のところがテクニックなんだけれども、テクニックだけですむわけはもちろんなくて。ティク・ナット・ハンさんは、そのこと[=歩く瞑想]の意味を色んな角度から言っていて……まあこれはおなじみのことなんだけど、これは本当にまったく初めての人に向かってのティーチング(教え)だから、非常に分かりやすいんじゃないかなあと思います。
歩く瞑想の意味の1つが、“aimlessness”(目的を持たないということ)ですね。仏教には色んな用語があるんだけども、その1つに「目的を持たない」とか「意志を持たない」ということがあります。これはどういうことかというと、我々は普段はもちろんその逆をやっているわけです。どういうことかというと、我々は常に自分の前に何かを置いて、それを追いかけていくという生き方を普段はしているわけね。それはまあ、「馬の前にニンジンをぶらさげて、馬がニンジンを欲しいからといって・なんとかニンジンを食べようと思って一生懸命走っている」という例えをよく言うけども。だからそれは「馬の前にニンジンだ」と言って、「あからさまにそういうもので釣ることをしないようにしよう」とかよく言いますけども……だけど、我々の生活のほとんどが、やっぱりそう生きているわけですよ。例えば、どんなものでもね……私らは必ず「これを早く終えたい」と思うじゃないですか。お皿を洗うにしても、「お皿を洗って、早くコーヒーを飲みたい」とか。もう我々のすべての行為というのは必ずそうであって、ここをまず皆さん、チェックしてみてください。自分というのは必ず……皆さんはいつも焦っている。「皆さん」というのは、ここに居る人だけじゃなくて、ポッドキャストを聴いている人だけじゃなくて、我々すべてがね。いつも焦って、常に「今やっていることを、なるべく早く終えて、次のことをやりたい」という生き方を、我々はやっぱりしているのね。
今日はウォーキング・メディテーションのテクニックを説明しました。これはあまり聞いたことのないテクニックだろうから、かなり詳しく説明しましたけども。本当に大事なのは今から話すことであって、ここが分からないと、ウォーキング・メディテーションですらもやっぱり「何かのために」という話になってしまうわけね……「こうやって毎日、一生懸命にやっていれば、将来に何か良いことがあるんだろうな」という話になってしまって。[そういう考え方では、]残念ながら、良いことは無いんですよ。良いことは無いわけね(笑)。そういう考え方でいるかぎりは。じゃあ、いま我々が何のためにウォーキング・メディテーションをするのかというと、そういう生き方を今、すべてやめるために。今、やめるために。つまり、何かを前に置いて、その置いたものに向かって歩いていくという生き方[をやめるためにウォーキング・メディテーションをするということ]ですね。要するに、歩く瞑想で我々は何をしようか[=するのか]というと……これはもう、考えたら分かるじゃないですか。皆さん、[瞑想でない普段のときは]なぜ歩くんですか? どこかの駅に行くためでしょう? どこかに買い物に行くためでしょう? あるいはトイレに行くためでしょう? ふだん皆さんが歩いているのをみたら、そこには必ず目的があるわけですよ。例えば稲村ガ先の駅に向かって歩く……なぜかというと、「江ノ電に乗るため」じゃないですか。それで、鎌倉で降りて、なぜ歩くんですか? 「JRに乗るため」じゃないですか。それで、新宿で降りて……なぜ新宿で降りて歩くんですか? 「小田急線に乗るため」じゃないですか。その後、駅で降りて、なぜ歩くんですか? 「自分の家に帰るため」じゃないですか……当たり前ですけどね(笑)。だけど、ウォーキング・メディテーションというのはその逆のことをするんですよ。まったく逆。つまり、何かに到着することが目的で歩く瞑想をするんじゃないわけね。だから、これはすごいことでしょう? どうすごいかというと、こんなことは皆さん、今までの人生でやったことはないんですよ。皆さんはずっと長いこと歩いてきたかもしれない。毎日ね。だけど、皆さんの歩きというのは必ず、どこかに到着するための歩きだったわけね。だけど今、我々が歩く[=歩く瞑想をする]のは、到着するためではないんですよ。「歩くために歩く」なんていうことは、皆さんは人生のなかでやったことがないはずなんです。ここが、いったいどれほどピンとくるかこないかなんですよ、問題は。
それはどういうことかというとね……ここいらへんの説明がね、なんか私は、今までどうも説明しきれてなかったんじゃないかという気がするのね。例えば只管打坐――「ただ座るために座る」――とかね、そんなことを嫌というほど言われるんだけども、「いったい、それはどういう意味なの?」ということが分からなくて。分からないだけじゃなくて、結局、「『悟りのために座る』とか何とかなら分かりやすいのに、『座るために座る』なんて言われて、何がなんだか分からなくなっちゃって、結局、『只管打坐してます』なんていったって、ウンともスンともピンとこない」ほうが多いわけですよ。
それで今ね、我々は「歩くために歩く」。つまり、何かに到着するためではない。これは、我々が生まれて初めてやることなのね……何か――どこか――に到着するためではなくて、歩くために歩くということが。つまり、何かの目的のための手段として歩くんではなくて、ただ歩くために歩く。そういうことが、なぜこれほど大事なのか。ここを説明しなかったら、ウォーキング・メディテーションの意味がまったく無くなっちゃうんだけども。これはね、さっき――今日の法話の始めのところ――に言った、「安らぎを求めない」というのとまったく同じです。つまり、今まで[=かつて]の理解だったらば、「どうしようもない心配とか苦しみとか苛立ちとかを感じている本人は、メディテーション(瞑想)で或るテクニックを使って・或るメソッドをやって、或る安らぎに到達する・安らぎというものを得る」はずだったんですよ。だから、メディテーションのテクニックとかメソッドというのはあくまでも目的のための手段だったわけね。だけど、先週の法話も、「そうではない」という話だったでしょう? 今週も、歩くために歩くという話だった。つまり、どこかに到着するためではない歩き方。これはじゃあ、どういうことなの? それは、もう非常に簡単なんですよ。つまり、自分の今の精神状態……それが怒りだろうが、苛立ちだろうが、不安だろうが、心配だろうが、もうそこから逃げない。それを「嫌だ」とはしない。それを受け入れて、それを許すということをしたときに……というか、許したときにのみ、我々は本当の意味での安らぎの次元に入っていくことができる。ということはなぜかといったら、「嫌だ……自分の今の心の状態が嫌だ、逃げたい」ということがまさに、苦しみを生んでいたから。先週の法話もそういう話だったですね。ということはつまり、「自分の目の前に何かがあって、それをなんとかして手に入れたい」ということは、「手に入れよう」ということで欲望であり、「今の状態が嫌だ」ということで怒りであり、まさにそういうものによって……「何かを求めよう」ということによって我々はどうしようもない不幸を作ってきた。という話になるんですよ。だから、そういうことをもうやめて……どこかに到着するのを目的としないで、ただ歩いたときに我々は、もうサムサーラは終わっているんですよ、実は。なぜ本人がサムサーラを続けてきちゃったかというと、何かを求めたからなのね。何かを求めたことによって我々はずっと輪廻してきてしまった。それを今、やめる。どうやってか? 歩くために歩く[ことによって]。歩くために歩く。だからその「歩くために歩く」というのが、これぐらいとんでもなく深い意味があるんですよ。
(中略)
だから、ウォーキング・メディテーションをするときに2つの点に注意してください。1つは、テクニック的なことね。さっき言ったでしょう?……呼吸とか、ステップをシンクロしていくとか。これはもう、今日充分話したからいいです。だから、そういうテクニックを使って皆さんはただ、歩くために歩いてください。皆さんは今まで、何かを求めてきた。何かどこかに到着するために歩いてきた。しかし、歩くために歩いたときに、その今までの生活をすべて乗り越えることができる。そのときに、皆さんはまったく違う次元に入っていきます。それぐらい、ウォーキング・メディテーションというのは非常に深いものですから。まあこれは歩いているだけなんだけれども……まあ、やってみてください。どうぞ、朝とか晩とかに30分、1時間ぐらいね、やってみてください。
(終わり)
※ティク・ナット・ハン師によるウォーキング・メディテーションの解説は、当ブログの下記の記事にも収録されています。