山下良道法話:「仏女と仏男の方々への招待状」(3 of 4)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2009年10月18日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=538
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

2 of 4からの続きです。先頭はこちら。)

 それで今日のテーマは言語じゃなくて、「形」と「形なきもの」との関係なんですよ。それでこのお不動さん[の仏像]が話題に出てくるんだけども……お不動さんでも何でもいいですよ。あるいは「ありがたや、ありがたや」の阿弥陀さまでもいいですよ。「古い意識」*1にとって、これ[=仏像]は何ですか? これを見たら、「ああ、何かどこかに阿弥陀さまというひとが居るんだな」となるじゃないですか。そして当然、「阿弥陀さまって本当に居るんですか?」という話になるわけ。何か「居るんだか居ないんだかよくわからない」じゃないですか。「でもまあ、居ると信じたほうが気持ちが楽になるから、私は信じます」とかね。そしたら「自分が死んでいくときにこの阿弥陀さまが救ってくれるから」とかそういう、非常に頼りない話になるわけですよ。要するに「阿弥陀さまは居るかもしれない。でも、居ないかもしれない」という話になるじゃないですか……「古い意識」にとっては。「古い意識」が大原の三千院なり勝林院へ行って――これ[=大原の阿弥陀如来像]は本当に代表的な阿弥陀さまですよ。日本最高のものですよ――、この阿弥陀さま(仏像)に出会ったときに、もし「古い意識」のままだったら、「私が居て、阿弥陀さまが居て」と本人は考える。その阿弥陀さまといったって、本当の阿弥陀さまじゃなくて単なる金属でできたものじゃないですか。それでますます「本当に阿弥陀さまって居るの? こんなの、何か勝手に作っただけじゃないの? 描いただけじゃないの?」という疑いが当然出てくるに決まってるじゃないですか。実際のところ本当にそうなっちゃって、「私は居ると信じます」という人と「そんなの居るわけないじゃん」という人が出てきて。「居ると信じます」という人だって、疑いをどうしても捨てきれないじゃないですか……「居るかもしれない。居ないかもしれない」という話になっちゃってね。
 じゃあ、そんなに頼りない話なの? そんな頼りない話だったら、ちょっと、困っちゃうわけですよ。それで私、三千院のお坊さんともちょっと話をしたんだけども。というか三千院に行ったらお坊さんが話しかけてきてね、私がテーラヴァーダの人間だと分かったから訊いてくるわけ……「テーラヴァーダでは阿弥陀さまって居るんですか?」って。居るわけないじゃないですかそんなものは(笑)。居ないですよそんなものは。ダンマパダのどこにも書いてないですよそんなものは。「いやぁ、ちょっと居ないですねえ」って答えたら、「居ないんですか!?」って言われてね(笑)。テーラヴァーダには当然、阿弥陀さまも観音さまも居ないですよ。大日如来も居ないし。でも、アミターバ――アミターユス――はどういう意味かといったら、無量光――無量の光――という意味ですよね。量ることができない光。となったら、どうなりますか? それはまさに、居るとか居ないとかの話じゃなくなるわけですよ。じゃあ光って何ですか? これはまあここでずっとやってきた[=これまでの法話で扱ってきた]ように、我々はずっとthinking, thinking, thinking, thinkingして、“thinking”が作り上げた牢屋の中に閉じ込められてずっと生きてきた。そしてその「牢屋に閉じ込められている」ということにすら気づかずにずっと生きてきて、それでようやく「ああ、自分は奴隷なんだ。自分の“thinking mind”の奴隷なんだ」ということに気づいて、そのthinking mindからどうやって解放されるかということを目指してね、それでようやく、呼吸に注意すること――吸っていることに気づいて、吐いていることに気づいて――によって[解放されようとしてきた]。[呼吸に]注意したときに……注意というものは奇跡のパワーを持っていてね、我々が吸っていることに注意を向けたとき・吐いていることに注意を向けたときに、我々はthinking mindが止まる。なぜかといえば、thinkingすることと呼吸に注意を向けることとは同時には成り立たないから。注意を向けることによってthinking mindがストップして、我々はようやくこのthinking mindの奴隷状態から解放される。そしてこのthinking mindが「古い意識」のコアの部分にあったわけだから、thinking mindから解放されることによって我々は「新しい意識」のなかに入っていく。入っていくというよりは、「新しい意識」のなかに居ることに気づくということだけれども。そのときに、その「新しい意識」によってつくられた「新しい世界」の本質は光でしたね。これはもう瞑想の体験として皆さんは分かるはずです。
 「光」と言うのは仏教だけじゃないですよ。キリスト教の人だって、イスラムだってヒンドゥーだって皆、光を見てきたわけね。[聖書によれば]「神様は一週間でこの世界を創った」けれども、最初はどう創ったかというと「光を創った」わけですよね。いきなり畳とか、いきなり○○さんを作ったわけじゃなくて、「最初はいきなり光を創った」わけですよ。だから「光というものが、無からこの現実の世界が現れるその真ん中のところにある」というのは、どんな宗教の伝統も認めているわけです。ですから、我々が「古い意識」から「新しい意識」に入っていった場合に、この「新しい意識」によって観えてくる「新しい世界」の中心にあるのは光なんだというね。
 これはもう、本人が信じるとか信じないとかの問題じゃなくて、本人が本当に呼吸瞑想をして、呼吸に注意を向けたときに本人のthinking mindがストップして、そのときに初めて本人はthinking mindから解放されて、まったく新しい世界に入っていく。あるいは、まったく新しい世界の存在に気づく。あるいはタッチする。そのときに、その世界というものは光によってできているということが観えるはずなんですよ。これはもう経験できるわけ。だからこれは「光って有るかもしれない。無いかもしれない」という話じゃなくて、本当に我々自身の瞑想によって実際にその光に触れることができる。触れたら、その実在はもう疑いようがない。仏教のすべてのことは結局、「直接触れるか触れないか」の違いなんですよ。触れたら、その実在は疑いようがない。こないだも言いましたけども、内田先生の言う「こびとさん」が働いてくれるのかくれないのかという疑いは、「こびとさん」の働きを実際に見ないかぎり分からない[=疑いが晴れない]。だけど実際に見たら、「こびとさん」が働いてくれるのは疑いようがない。
 だから、本当に我々が呼吸に注意を向けて、そうすることによって我々のthinking mindが止まって、そうすることによって我々が「新しい意識」に入ることができて、そうすることによって「新しい世界」が観えてきて、その「新しい世界」の本質は光だということが観えたときに――これはもう皆さんが直接に体験できることです――、そのときに「光は有るのかな? 無いのかな?」という疑いはあり得ない。それはもう実在のものだから。その光の無量のあり方――限りないあり方――を「阿弥陀さま」という形をもって表現したんだということが観えてきたら、「阿弥陀さまが居るかな? 居ないかな?」というような疑いはもう、あり得ないんですよ。だから、阿弥陀さまによって救われるとか救われないとかいうことの意味も分かるわけね。でしょう?
 だから、今までの阿弥陀さまなり何なりの説明のしかたがどうしようもなかったのは、やっぱりその言語というものが「古い意識」に所属するものだから、言語を使ってどんな説明をしても、すべて誤解しか生まないというね。「阿弥陀さまが居る」なんていうことを言っちゃったら、「居るかもしれないし、居ないかもしれない」ということにどうせなってしまう。我々は「古い意識」に留まったままでそういう阿弥陀さまのこととか観音さまのこととか或いはブッダ――お釈迦さま――のことを考えたら、すべて見当が外れてくる。だから我々がやらなきゃいけないのは、とにかく「新しい意識」に入っていくこと。「新しい意識」に入っていったならば、そこで開かれてくる「新しい世界」の色々なあり方をこういう阿弥陀さまとかそういうもので表現してきたんだということが非常にきれいに観えてくるわけですよ。
 それで例えば、お不動さまというのがいらっしゃるわけね。剣を持って、縄を持ってね。じゃあこの剣って何ですか? 斬るものでしょう? 何を斬るんですか? 当然、我々のthinking mindですよ。だからそういうふうに観ていかないと、お不動さんの本質というものも見失うし、阿弥陀さまというものも見失うし。そういう世界が観えてきたならば、一番大事なのはthinking mindをバサッと斬って、「新しい世界」へ入っていく[ことだと分かる]。そこには「切断」というかな、バサッと斬る部分があるでしょう? それが無かったら、いつまでもグジグジグジグジしているわけじゃないですか。そこ[=切断]が無かったら、いつまでもびびってしまうわけですよ。だから、そのびびってしまう我々のグズグズをバサッと斬る、そういうはたらきが途轍もなく必要だというのは分かるじゃないですか。そのはたらきを、ひとつの形としたのが例えばお不動さんであったり……ご存知のように仏教では、憤怒相という怒りを表したものは非常に多いわけですよ。そういう仏像を普通に見ると、「え? 仏教って怒りを超えるんじゃなかったっけ?」と思うじゃないですか(笑)。でもそれはあくまでも浅はかで、憤怒相というのは怒ることによってバッサバッサと我々のこのthinking mindを斬る、我々のこのびびってしまう心を断ち切る、我々のそういう煩悩を断ち切っていく。そのためにお不動さんはこんなに炎に燃えながら立っていて……そしてバサッと斬ってもらう。それでお不動さんを自分でビジュアライズ(visualize)して色んなことをされるんでしょうし。まあ、これを徹底的にやっているのがヴァジラヤーナの人たちだから……でも意味は分かりますよね。そういうふうにして観て初めて……「形なきもの」と「形あるもの」とのつながりですね。
 今日のテーマは「仏女」の人たちなんだけど、仏女の人たちがいま求めているのは……仏像というのは「形あるもの」じゃないですか。形ある仏像というものに惹かれている。それは良いわけですよ。だけど、仏女の人たち・仏男の人たちに私が言いたいのは……皆さんが仏像に惹かれているのは良いんだけども、そこで自分はいったい何に惹かれているのかに気づいてほしい。それは仏像という「形」ではなくて、仏像という「形」を通して「形なき世界」に皆さんは惹かれているはずなんですよ。なぜかといえば、仏像というのは「形なきもの」の表現だからね。阿弥陀さまというのは、無量の光というもの……無量の光は形が無いじゃないですか。無量の光そのものは形が無いわけですよ。形が無いから、「無量の光」と言われても[普通の人は]困るわけね。だからその「形の無い無量の光」を、わざと「形あるもの」にしたわけじゃないですか。なぜかといえば、形を通してでないと掴みにくいからね。そこで途轍もない落とし穴があって、「形あるもの」を「形」としてしか受け取らない。それ[=形あるもの]はあくまでも「形なきもの」の表現だということを忘れてしまってね。だからそこで、「形」と「形なきもの」との関係を、もう一回きちんと観ないと分からない。そういう作業を、まあ仏女の人たちにして頂きたい。
 それをするためには、――まあ仏像鑑賞も良いけども――次の第一歩として、瞑想というものにどうか入っていってもらいたい。じゃないと、皆様が本当に求めているものは絶対に得られない。皆さんが本当に求めているのは単なる「仏像」という「形」ではないはずなんですよ。仏像という「形」はあくまでも「形なきもの」の表現だから、本当は「形なきもの」なのね。そこに入らせないのが我々のthinking mindだから、そのthinking mindを手放すことによって一気に入っていくという、そういうことをせざるを得なくて。そうして入っていった果てに、「無量の光」――限界の無い光――が非常に観えてきて、そしてその「無量の光」を形として表現したのが阿弥陀さまなんだなということが非常にきれいに観える。それを、我々の先祖はやってきました。私は今回、京都へ行って大原を観てね、本当に「ああ、もう皆、分かってたじゃん」と思ったんですよ。だから、大原とか何とかにあるものは色々と「形、形、形……」ですよ、すべてが。だけどそれは単なる「形」を示したんじゃなくて、「形なきもの」を表現するものとしての「形」ですよね。まあだから、禅寺の庭なんていうのも完全に、それ以外の何ものでもなくて。砂と石と岩と……[普通に見れば]「だから何だ?」っていう話じゃないですか。だけども、本当に瞑想をちょっとでもやった人間だったら、これ[=石庭]が何を意味するか分かりますよね。だから、こういう庭を観て我々は「ああ、やっぱりこの人たちは、あの瞑想を通して我々が経験するあの『形なき世界』を形によって表現した[と分かる]」。岩も石ころもみんな「形」じゃないですか。そういう「形ある」岩や石ころを通すことによって「形なき世界」を表現しようとした。だって、「形なきもの」を「形なきもの」としては表現できないからね(笑)。あくまでも形を使ってしか表現できないんですよ。表現というのは形を使うしかないし、言語を使うしかないわけね。だから、我々の先祖というのは本当にその「形なき世界」を知っていた。そうでなかったら、これだけ素晴らしい「形」はあり得ないですよ。だからそこをね、もう一回確認しましょう。

4 of 4へ続く)

*1:「古い意識」については、http://logues.hatenablog.com/entry/20091018/p1 および http://logues.hatenablog.com/entry/20091018/p2 を参照。