山下良道法話:「仏女と仏男の方々への招待状」(4 of 4)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2009年10月18日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:http://www.onedhamma.com/?p=538
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

3 of 4からの続きです。先頭はこちら。)

 そしてそれで、例えば仏女の人たちが普段の生活のなかで、どうせ色々あるに決まっているんですよ。それだからこそ今、仏像のほうに惹かれるわけね。それで逆に言うと、仏像のほうに惹かれるか、あるいはもっと世俗的な良くないものに惹かれるか、色々と道が分かれるわけですよ。そして、仏教というのはもちろん「人間の自由な意志というものが存在する」と見ますから――仏教というのは宿命論じゃないですからね――、我々は要するに選べるんですよ。堕落する方向も選べるし、向上していく方向も選べる。選べないんだったらもうどうしようもないけどね。それだからこそ我々は、それこそテレビのチャンネルを選ぶように、選ばなきゃいけない。選ばなきゃいけないんだけども、「良いチャンネルがある」ということをまず知らなきゃいけないじゃないですか。そして、「良いチャンネルを選べるんだ」ということも分からなきゃいけない。そこらへんを、ティク・ナット・ハンさんはこう言われているわけね。

あなたを平和へと導く
チャンネルを選択してみましょう。
(ティク・ナット・ハン『ティク・ナット・ハンの抱擁』)

 これは簡単なようでいて非常に複雑なことを言っているんですよ。要するに、この引用文の前提は、我々の目の前に幾つかのチャンネル――選択肢――があるわけですよ。そのうえで、我々はその選択肢を選ぶ可能性を持っているわけ。どれを選んでもよいわけですよ。「どうしてもこれを選ばなきゃいけない」ということはなくて。それはもう我々の自由意志しだいなんですよ。それで同時に、これは地獄へと導くチャンネルもあるし、平和へと導くチャンネルもあるわけですよ。だから、どれが平和へと導くチャンネルなのかということをきちんと理解しなきゃいけない。そして、平和へと導くチャンネルが存在するんだということを理解しなきゃいけない。だけれども、これを教えてないんですよ……テレビは。当たり前か(笑)。テレビは教えてないよね(笑)。あるいは、学校の先生も。あるいは鳩山首相も(笑)。鳩山首相は「友愛」とは言うけれど、「友愛」をどうやって実現するかをあの人は言ってないですからね。そういうふうに、今どなたもね――政治家から、学校の先生から、あるいは家庭でも――[語られていない]。子供は本当にお父さんとお母さんしだいなんだけども、そのお父さん・お母さんが教えてくれないんですよ。なぜか? だってお父さん・お母さんが知らないんだからね。学校の先生も知らないんだし。政治家の人たちも知らないんだし。お坊さんも知らないんだよね(笑)……ということなんですよ。だからまあ、今はお寺のお坊さん自身も非常に苦しんでいる。なぜかといえば、どう教えていいのか分からないから。
 それで、我々が知らなきゃいけないのは、平和へと導くチャンネルが存在するということ。そしてそのチャンネルを選べるということ。そして、選んだあとはどうすればいいのかということも、具体的に分からなきゃいけない。ティク・ナット・ハンさんは次のように言っているわけね。

私たちは簡単に惑わされてしまう愚かな存在です。
反面、私たちは、時には仏陀のような存在です。
私たちの中には、暗闇と明るさ、
意気地のなさと知恵が、同時に存在します。
私たちは数千個のチャンネルをもつテレビと似ています。
仏性のチャンネルに合わせると、私たちは仏陀になれます。
しかし、地獄のチャンネルに合わせると、私たちは飢えた魂となりかねないのです。


――地獄を選択するか、
極楽を選択するかは、
私たちの決定にかかっています。
(ティク・ナット・ハン『ティク・ナット・ハンの抱擁』)

 これは非常に簡単に言っていますけど、とんでもないことを言ってるんですよ。要するに、「決定することはできる」ということは、とんでもない責任を自分自身に対して負っているということなんですよ。「なんとなく選んじゃった」という……まあ当然、我々は皆ほとんど「なんとなく」生きちゃってるわけじゃないですか。なんとなく生きちゃって、なんとなく何か物事を選択してね。(中略)レストランに行って何を食べるかは、そんな大した問題じゃないけれどね、地獄を選ぶか極楽を選ぶかは実は我々の決定しだい。とんでもないことじゃないですか。でも、ある面から言えば、これほどの自由はないわけですよ。なぜかといえば、「極楽を選ぶことができるから」ということ。だけれども、それはすべて「あなたが選んだんだよ」ということになっちゃうわけ。誰にも文句を言えないわけですよ。「私はちょっと、生まれついた時代が悪くて」とかいうことは言えないわけ。それが、仏教のカルマというものがもつ、もうどうしようもない点であってね、ごまかしがきかないわけですよ……「選んだのは私」だから。だけれども同時に、「選べるんだ」ということでしょう? そこさえ見れば……そこを見ていくと、じゃあどうやって選んでいくのかという話になってくる
 今日の話をまとめると……今は仏像ブームですよ。仏像に惹かれる本当に多くの人たちが居て。だけれどもそれは単に仏像という「形」に惹かれているわけではないはずなんですよ。それは、仏像という「形」は「形なきもの」の表現としての「形」だから。だから仏像という「形」に惹かれるということは、もう一歩進めれば「形なきものに惹かれている」ということなんですよ。そこを理解して頂きたい。そのうえで、仏像という「形」を通してその「形なきもの」に触れるから皆さんは仏像を観たときにあんなに安らぎを感じるんだし、あんなに救われた思いをするんだし、あんなに何かが解決した思いをするわけですよ。だけどそれは、本当の力は「形なき世界」が持っているわけね。まあもちろん、「形なき世界」をうまく表現した仏像はたしかにすごいと思いますよ。だけど本当の力は「形なき世界」にあって、じゃあ「形なき世界」というものには仏像という「形」を通してしか行けないのかというと、そんなことはなくて、もっとダイレクトに行く方法があって、それは我々の瞑想ですね。我々の呼吸瞑想があって……「吸っていることに気づいている、吐いていることに気づいている」。そういう、注意を向けることによって我々は我々のthinking mindを手放して・thinking mindをストップさせて……thinking mindが我々の「古い世界」を作ってきたんだから、thinking mindがストップしたときに我々は全く新しい世界――「新しい意識」――のなかに入っていける。
 そして「新しい意識」というのは、もうそこは「形のない世界」ですね。そしてそこは、もう主体と客体が分かれていない世界ですね。だからそこは、「呼吸がただ観えている」世界ですね。「『私』が呼吸を観る」――私という主体が呼吸という客体を観ている――という世界ではない。そうやって我々は「新しい意識」と「新しい世界」がだんだんと観えてくる。
 それを先ほどの「チャンネル」のところに向けていくと、「地獄へ堕ちるチャンネル」というのは、我々が相も変わらず“thinking, thinking, thinking”と続けることですね。そして「平和へと導くチャンネル」というのは、そのthinkingを手放すこと。thinkingをやめること。どうやってか? 呼吸に注意を向けることで。あるいは身体の感覚に注意を向けることで。あるいは「右足、左足」に注意を向けることで。そうすることによって我々は、「平和へと導くチャンネル」を選ぶことができる。
 そこいらへんの微妙なところをね……この「形のない世界」というのは静寂じゃないですか。“silence”と“stillness”ですね。この「静寂」というのは、ただ単に音がしないということじゃないわけですよ。まあもちろん、都会の非常にうるさい所だったら音がガンガンしてうるさくて、ちょっと山の中に入れば確かにまあせいぜい風の音ぐらいで、静かになる。だけど、じゃあ山の中に行けばすぐに本当に静かになるかといえば、ならないわけでしょ。なぜかといえばもちろん、心が騒いでしまうから。だから、本当の静けさというのは、単に音がするとかしないとか騒音が有るとか無いとかじゃなくて、我々のこのthinking mindが静まっていく世界ですね。

(中略)

 エックハルト・トールさんはこの「形なき世界」のことを「静寂」と呼んでいるんですよ。(中略)そしてその静寂は、単なる「音が無い」とか「暴走族の音がしない」とかそんなレベルの話ではなくて、もちろん「自分のなかの静けさ」ですね。この静けさに触れないでいるということは、自分自身――「本当の自分」――に触れないことになるわけじゃないですか。そうするとどうなるかというと、自分自身を見失ってしまう。なぜか? 当たり前じゃないですか。だって、「私って誰?」というところで根本的なミスジャッジをすることになるから。そういうところでこの静けさ――静寂――に触れなくて、本当の自分を知らなかったらば、どうなります? 非常に簡単な話で、怒りがワーッと湧いてきたらもう怒りのままに酷いことを言ったりやったりしてしまう。心配がワーッと湧いてきたら心配のままに「わーっ、心配だ! どうしよう、どうしよう、どうしよう」となってしまう。ありとあらゆることが起こってきてしまう。だからこの静寂に触れないととんでもないことになっていって、そこに触れさえすれば我々はこの「形ある世界」に生きていながらも非常に喜びと安らぎを持ちながら[生きられるように]なるわけですよ。

 そこいらへんを見失うと一体どういうことになってしまうか。(中略)フラワーレメディって知ってます? 花からエッセンスを採って、それぞれ問題を抱えている人に向いた花のエッセンスを与えるんですよ。「どういう症状があったら、この花が良いですよ」というフラワーレメディの資料があって、「マイナスの状況をプラスに変えていこう」という記述があるんだけれども、そこに書かれている「マイナスの状況」というのが非常に面白いんですよ。ちょっと読んでみますね。

判断に自信が無い/客観的な判断ができない/優柔不断/何を求めているか分からない/気落ちしやすい/疑い深く、信念が無い/絶望、完全な諦め/自暴自棄/一時的な疲労感や倦怠感/休みの後、仕事をする気が起きない/人生の方向性、目的、願いが分からず、不満/パニック状態/突然の出来事/恐怖/原因や理由がはっきり分かっている恐怖/感情が抑制できない/漠然とした不安/説明できない恐れ/周囲の人々のことを過度に心配する/非現実的、空想に逃避/集中力の欠如/過去を美化してその思い出に生きている/無気力、無関心、人生に対して諦め気分/心身ともに疲労、消耗/長期にわたる過度のストレス/考えても仕方のないことばかり頭に浮かぶ/説明できない落ち込みや憂うつ感/同じ過ちを繰り返す/学びを見落とす/自身の無さ/劣等感/失敗を予期する/自分を非難する/失敗を過剰に悩む……


(中略)


人と打ち解けない/静かで引っ込み思案/短気で怒りっぽい/他人を急がせる/孤独が耐えられない/おしゃべり……

 というようにズラズラズラッと書かれていて、これが「古い意識」のあり方なんですよ。まあこのフラワーレメディというのは、それぞれの人の悩みを[一人ずつで特定して]、「あなたにはこの花が良いですよ」というふうにもっていくんだけど、それは確かにそうで、Aさんの悩みとBさんの悩みは微妙に違うかもしれない。だけど、個人差は大したことはないわけですよ。それはあくまで「古い意識」のあり方だから。(中略)我々が「古い意識」で生きている限り、この「漠然とした不安」や無気力とか[が起こる]。あるいは過去の思いに耽っちゃうとか……要するに現実を逃げてるわけね。考えても仕方のないことばかり浮かんできちゃうとかね。これはすべてそう[=「古い意識」が原因]なんですよ。それに対してこのフラワーエッセンスも良いかもしれないけども、もっと一気に解決する方法があって、それは「新しい意識」に入っていくこと。その「新しい意識」へどのようにして行くかといえば、thinking mindを手放すという方法以外にはあり得なくて、thinking mindを手放すための方便としてあらゆる瞑想のテクニックがあるということを見ていけば、[「新しい意識」に入る方法は]非常に分かるじゃないですか。

(中略)

 皆さんはもう瞑想をしているから、これは分かると思うけども、我々は常にthinkingをしているわけでもないんですよ。まあだいたいは[thinkingを]してるんだけども、それでも時々はギャップ――隙間――があるわけね……「なにかよく分からないけどスーッと落ち着く瞬間」もあるし、「なにかよく分からないけど今ただ現在に居ることが幸せでしょうがない」というね。「いつもはセカセカしているのに、なにかただ今現在、座っているだけで幸せ」とか。(中略)さっき読んだような、いろんな微妙な不安とかネガティブな思い――自信が無いとか恐怖とかそういうもの――に悩んでいるんだったら、本当に救われるにはこの「形なき世界」に触れるしかなくて、それは静寂であって、静寂は静寂を邪魔しているものの向こう側にしかない。だから我々は自分のいろんな考えのギャップ[=隙間]に入っていく[必要がある]。

 それでも、どうしてもうるさい場所はやっぱりあるじゃないですか。我々が完全に騒音から逃れられることもなくて。じゃあそういう場合はどうしたらいいかというと――これはエックハルト・トールさんがよく仰るんだけどね――、例えば非常にうるさい騒音があったとする。だけどそれもまた、単にシーンと静かなのと同じくらい役に立つ。どうやってかといったら……騒音を聞くと我々は「ああ嫌だ!」となるでしょう? この「嫌だ!」という「抵抗」を落とすことによって[騒音が役に立つ]。そしてそれ[=騒音]をそのまま受け入れる。そのときに、この“acceptance”――受け入れる――というのが我々をその静寂――安らぎ――の世界へ連れていく。これはね、ぜひ皆さんやってみて下さい。このぐらい実際的なアドバイスはないです、本当に。

 たいてい、我々の悩み苦しみというのは単に「嫌なものが外部にあって、それに悩む」というんじゃないんですよ。騒音だとか嫌な出来事――それは確かに客観的に存在するものだけれども――に対して我々は必ず「ああ、もう嫌だ!」って抵抗するのね。抵抗したとたんに、2倍、3倍、4倍に苦しむようになるじゃないですか。その抵抗が苦しみを生んでいるということを観て下さい。これだけで、皆さんの人生はかなり楽になるはずです、本当に。[そう思えない人は]「だってこんな嫌なものがあるんだもん……」と思うわけですよ……「この『嫌だ!』という思いは自然じゃないか」とね。だけども、「嫌だ!」と思う心――それがもちろん「抵抗」ですよ――が物事を非常に酷いことにしている。それをよく観て下さい。そしてそのときに――「今、ここ」という瞬間を完全に受け入れたときに――我々は静寂の世界へ入っていって、そこは安らぎと喜びに満ちた世界になりますから。

(以下略、終わり)