ニュースの深層evolution:「恐山の禅僧」に日本社会の現代を問う(1 of 5)

※放送日:2006年12月5日
※話者:南直哉(みなみじきさい/禅僧)、宮崎哲弥堤未果

※音声の全体を通して聴きたいときはこちらをご参照ください。

※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

(途中まで略)

宮崎ペドフィリアにしてもネクロフィリアにしても、こういう嗜好を持っている人たちというのは、インターネットのちょっと裏通りぐらいに入るとかなり見受けられる。そういう人がホームページを作ったり掲示板で書き込みを行ったりということはあるんですね。なにかそういう「黒い欲望」みたいなものを持っている人たちがなんとなく増えているような気もするんですが、南さんどうですか?
:増えているんではなくて、隠れて出られなかった人がインターネットみたいな社会のなかで表へ出られるようになったんだろうと思いますね。
 「そうでなかった」人が突然ネクロフィリアペドフィリアになって出てくるんではなくて、――それまでは、あったとしても孤立していてバラバラで、あるいは社会的な・性的な倫理や道徳の規制の下に隠れていた人が――インターネットの社会のなかで一種の社会化されて相互認知されて、「飛び越えて」しまったんじゃないかと思いますよ。
 ですから、無かったものが現れたのではなくて、潜在していたものが現れて、さらにそこに「あ、いいんだ」みたいになって新規参入者が入ってきたみたいなところがあるんじゃないかと思いますね。
宮崎:確かにね、彼のホームページには色んな写真が掲示されていたんですけれども、彼が入手したものだけではなくて、ファイル交換で入手したんじゃないかと思われるものがあるんですよ。
:ネット仲間で?
宮崎:ネット仲間で。そうすると、同行の士というか同じような志向を持った人がかなり居て、そういう情報交換をひょっとするとしていたかもしれないし、仰るように相互承認の仕組みや雰囲気みたいなものができていたかもしれない。そうすると、社会の中で認められるのと同じようなかたちで、こういう「特異な志向」の水準において「認める、認めない」というような、いわば極小の社会が作られていた可能性がありますよね?
:そうですね。人間は孤立していると不安を覚えるし、強く志向を出したりすることはできないでしょうけれども、関係性を編み出すなり或いは共同化されると話は違ってくると思いますね。
宮崎:そうすると、例えば一般社会の善悪の基準とは違う善悪の基準で行動し始めるという可能性はあり得ることですか?
:それはあり得ることですよ。
宮崎:これはネット社会のある種の陥穽というか不安材料の一つだと思うんですよ。
:大きいと思います。ですからそこに独自の行動基準と価値基準と志向や何かで作り上げられてしまった共同体があるとするならば、個人を攻撃して排除してもたぶん駄目でしょう。つまりネットとか、ネットをめぐる――あるいはネットの中でできあがる共同体をめぐる――状況全体を変えないと、一つの解決にはならないと思いますね。
宮崎:とはいえね、13歳以下の児童に対する性犯罪者の再犯率はおよそ35%で、かなり高率なんですね。そうすると、そういう人たちを、少なくとも児童に直接に接するような職業には就かせないという最低限の配慮はこれから考えていかなければならないと思えるんだけど、それは無意味ですか?
:いや、無意味だとは思わないですね。要は、ある一人の犯罪者なりそういった志向の人の逸脱を、その人だけを攻撃しては駄目だというだけのことで、そういう人たちがある程度居て、ある程度の共同体を作ってしまっているならば、我々というかその外側の社会で規制している倫理を分かってもらうようにしていかないとどうしようもないでしょう。それには一つの方法だと思いますね、強く規制するというのは。
宮崎:なるほど。
:ただしかし、規制しただけでは事は解決しない。
宮崎:欲望そのものは消えてしまうわけではないですよね。
:消えてしまうわけではない。ですから、欲望というのは消しようがなければ制御するしかないんですよ。制御するといったときに、個人の覚悟だけの問題ではやはりない。つまり人間というのは共同的な存在ですから、一つの共同体の中で規範を作ってその中に統合するなかでやっていくしかないと思います。だからその一つの手段として、接触を禁止するという措置をとるのはいいですよ。しかしそれが、その人間を社会全体から排除してしまう方向に動くと、事は却ってよくないと思いますね。
宮崎:こじれてしまう?
:こじれると思いますね。
宮崎:そのへんの話も含めて、いじめの話なんかも含めて、日本人の生き方ということを今夜は考えてみたいと思います。
宮崎:南さんは最近、話題の本ですけれども『老師と少年』という本をお出しになりまして、各所で話題になっておりますが。
:恥ずかしいことです(笑)。
宮崎:今まで何冊もご本をお出しになっていますが、いちばん最初は朝日新聞社から出ている……エッセイというか今までの人生を振り返ったということですよね。あとの二冊はどちらかというと仏教に関する直球本と言っても過言ではない本で。
 今回の本は物語仕立てというか、今までの本と傾向が違うような気がするんですが――少年が老師のもとに色々と相談をしに来て、その問答によって構成されるというお話ですよね――なぜこういう本をお書きになろうと思ったんですか?

2 of 5へ続く)