ニュースの深層evolution:「なぜこんなに生きにくいのか」(2 of 5)

※話者:南直哉(みなみじきさい/禅僧)、宮崎哲弥、波多野健
※放送日:2008年12月10日※〈1 of 5〉からの続きです。音声の全体を通して聴きたいときはこちらをご参照ください。

※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

宮崎:あらためてご紹介します。禅僧の南直哉さんです。よろしくお願いします。
 南さんは実はサラリーマン経験があるんですよね?
:ちょっとだけ(笑)。
宮崎:どうでした? その時期。
:まああのう……父親が「いつまで続くか」って言ってましたからね。その通りになっちゃいましたけども。
 僕は真面目に働こうと思っていたし、真面目に働いたつもりなんですよ。ですがね、いま思えば、どうしても合わなかったなと思うのは、僕がその時ひきずっていた問題――というか今もひきずっている問題――というのが、要は効率とか生産性とは関係無いんですよね。要するに、「死ぬってどういうことか」とか幾ら考えても、すぐにお金にはならないじゃないですか。ですから、自分が最も問題にしていることと、自分が時間の大半を使っている仕事――それ[=仕事]が大切ではないということではないですよ――とが、ほとんど・全く重ならないわけですよ。
 その頃は、――大学の間じゅう考えていましたから、「死ぬまでに一回ぐらいはお坊さんになるんじゃないか」みたいな予感はあったですが、すぐになろうと思ったわけじゃないんですよ――当時は頭でっかちだったですから、「多少はちゃんとお金を稼いで全国を行脚してから、これといったお坊さんのもとで出家して……」みたいな馬鹿なことを考えていたんですが……。
宮崎:計画があった?
:そうなんです。ところが[会社に]入ってみたら、営利企業のシステムというのはやはり、「そういうところ」ではないんですよね。そんな生半可なことを許さないわけですよ。それは当然だと思うんですよ……企業としてね。
 ですが僕個人は、「自分の抱えている問題をどうするか?」っていうのが最大の問題で、「このまま[サラリーマンを]やっていくと、どう見たって保たない」というのがあったですね。ですがそれは会社が悪いわけではなくて、効率もあがらなければ生産性も無いようなところは、会社というシステム自体が許さない。当たり前じゃないですか。
宮崎:当たり前ですよね。
:出家ってそういうことでしょ?(笑) 「僕がどうしても考えたいこと、あるいはテーマとして取り組みたいこと[に取り組むこと]は、ここ[=会社]に居ても無理だな」というのは、一年ちょっと経った段階ではっきり分かったですね。
宮崎:この新しい本は『なぜこんなに生きにくいのか』というタイトルなんですが、「生きづらさ」っていうのを言葉に出す若い世代は増えてきている。
 実は私たちの世代でも、生きにくさ、生きづらさってあったんですけれども、私たちの世代って、まだ――何と言うのかな――恵まれているところがあって、生きづらさそのものを「生きづらさ」として捉えることができたんだけれど、今の若い世代というのは――先ほどの内定取消の問題があったけれども――個人としての・個としての生きづらさや生きにくさに更に社会的な生きづらさや生きにくさ[が折り重なってきている]。あるいは「何者でもないような存在」として社会の側から……。
 つまりかつては、嫌々で就職したとしても強制的に場所を設えられてしまうというところがあったと思う……良きにつけ悪しきにつけ。「就職しろ、結婚しろ、子供をつくれ」といったような型のなかに嵌め込まれていく社会的な圧力というものがあって、それに乗ることができればそれはそれで比較的安穏と暮らせるような状況というのがあったわけじゃないですか。
:また、反対するにしても立場がありますわな。敵は明確なんだから。
宮崎:そう。敵は明確で、昔の人たちは「社会のそういう歯車の一つになりたくない」とかって言って反抗する――プロテストする――ことができた。
 ところがね、どちらも――社会的な圧力も――無くなってしまって「自分でなんとかしろ」という。自分でなんとかしようとすると「内定取消」になったりする、と。

 「個」の問題というのはそのまま残ったままで、さらに社会的な生きづらさ――社会からなかなか場所を与えられない生き苦しさ――というものが折り重なってきている。今年の一つのキーワードである『蟹工船』とか……昭和期のプロレタリアート文学がなぜ今ごろ読まれるのかと訝しく思っている人たちも居るかもしれないけど、自分の状況を『蟹工船』の光景のなかにどこかしら重ね合わせることができるという若い人たちのまあ切なる気持ちというのが、ああいうかたちで出てきているんだと思うんですよね。どう思います?

:今その、「居場所」と言ったでしょ? 僕の関わる若い人やなんかがよく「居場所が無い」とか「居場所が欲しい」って言うわけですよ。そのときに[彼らが]何を言っているかというと、多分ですね、その人がその人として認められる場所が欲しいんだと思うんですよ。
宮崎:承認される場所が欲しい。
:だと思うんですよ。できれば存在の全体を[承認される場所が欲しい]。ところが、何も出来なくてもその存在の全体を認めてくれる人なんて、そうは居ない。
宮崎:まあ例えば親とか。あるいは、幸運に恵まれた人だったら配偶者っていうことになりますね。
:そうそう。あるいは、――僕の例としてよく出すのは――同じ苦労をした仲間ですよ。
宮崎:「戦友」とか、そういうことですよね。
:「戦友」みたいな。あるいは、非常に苦しい状況を分かち合った仲間ではそれは起きやすい。しかし、そうでないとすればなかなかそれは難しい。
 ただ、今までとちょっと違うと私が思うのはですね、その「認められる」といったときに、今はとにかく「売れる人材でないといけない」んですよ。そこに集約してくるわけですよ。つまり、ある全体性のなかのごく一部分ですわ……何だかんだ言ったって。「人材」という言葉が表すのは「材」ですからね。その部分でしかこの社会に居場所を作らないような感じがあるんですよ。
 ところが、私は思うんですけれどね、共同体といわれるものが或るていど明確な輪郭をもって在る――例えば高度経済成長期とか――、つまり或る共同体をちゃんと維持していこうとすれば、ただ単に能力が高いとか効率があがるだけではない「必要な人」が居るわけですわ。例えば「目立つ仕事でもない」または「ものすごく能力の高いことを要求されるわけでもない」けれども「共同体を共同体として維持していくためにはこの地道で目立たない役割が必要だ」とか。あるいは「まったくお金にはならないが、AさんとBさんの仲を取り持つような人」とか。共同体が共同体として存続するためには、生産性があがるとか効率よくやれる人だけではなくて、それとは多少違った人たちの個性とか有り様というものを大事なものとして認めるような余地があったと思うんですよ。
 ところが、バブル以後の強烈な市場化というのは、結局は[人間を]バーターできるもの――「人材」という言葉が象徴するような、お金に換算できるようなもの――[にしてしまった]。
宮崎:人が「入れ替え可能なもの」になってしまったわけですよ。
:入れ替え可能なもの。その通りです。
宮崎:実はこれは非常に皮肉なことに、企業が共同体化してしまうというのは日本の企業社会――企業体制――の後進性として、どちらかというと進歩的な経営学者や経済学者や社会学者のなかで言われてきたんです。つまり、本来ならば企業というのはクールな機能集団にすぎない。それがいつの間にか共同体化してしまうがゆえに、終身雇用制とか、あるいは会社が不祥事を起こした時に、その不祥事の責任者が自ら秘密を持ったまま自殺してしまうというようなことが起こるというのは、欧米では考えられない。なぜ日本だけでこういうことが起こるのかというと、まさに企業社会が共同体だった……村落共同体が壊れて都市共同体になったときに、その共同体の縁(よすが)というものを日本人の多くは企業社会に求めた。企業社会もそれに応えるんだけれども、[それには]メリットもあったしポテンシャルもあったということで、当時言われたのは「いびつな企業社会ができてしまった」と。
 ところがこれが、仰るようにバブル崩壊以降に民間でも国でも行われた極端な機能化・市場化によって、変わってしまったということが大きいと思うんですよね。

3 of 5へ続く)