山下良道師による「慈悲の瞑想」の解説と実践

追記(2020年7月):慈悲の瞑想を含む「ワンダルマ・メソッド」のインストラクションの最新版が公開されています。当記事よりも新しい内容です。

追記(2015年12月):山下良道師による瞑想入門の本が2015年12月に出版されました。「慈悲の瞑想」と「呼吸瞑想」についての解説も含まれていますので、ご関心のあるかたはどうぞ。
山下良道『本当の自分とつながる瞑想入門』(河出書房新社
本の目次や関連リンクはこちら
読者のための瞑想インストラクションの音声ファイルも公開されています。

Meditation Instructions by Ven. Ryodo Yamashita(Sudhammacara bhikkhu) in English are here:
http://onedharmainternational.com/meditation/
and
http://www.onedhamma.com/?p=4759
Podcast of Ven. Ryodo Yamashita's dharma talks in English: http://onedharmainternational.com/

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※収録日:2011年3月6日

※出典:インストラクション(音声) | 一法庵 「慈悲の瞑想」

※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

(この記事の内容は、同日に収録された山下師の法話の内容を承けています。)

 今日お話ししましたけれども、慈悲の意識というのは、我々の“thinking mind”とはまったく反対のところ――あるいは、逆のところ――にあります。だから、もし我々が何の反省もなしに慈悲の瞑想だけをやろうとしたら当然、うまくいかないのは当たり前ですね。なぜかといったらば、その左脳的な意識――thinking mind――の延長上で全ての人の幸せを・全ての人の苦しみからの解放をどんなに願ったところで、どうもウンともスンともピンとこない。なぜかといったら、そこには[慈悲の意識が]無いからですね。だから、慈悲の瞑想のポイントは、そのthinking mindを超えたところ・[thinking mindが]落ちたところにしか存在しない。それがもう、急所です。

 そして、そのためには我々は、今までの人間関係ではどうにもうまくいかないんだという、その自覚がまず必要ですね。その自覚がないんだったらば、わざわざ慈悲をやる[=育てる]必要もないわけで。今までどおりの人間関係をやればいいわけで。だけども、「今までどおりの人間関係だと、どうにも辛い。じゃあ、どこがどう辛いの? どうすればいいの?」という、そういう問題意識から我々は入っていきます。

 今までの人間関係というのはどういうものかといったらば、そこにはもう3つのチョイス(選択)しかなかったですね……いつも言いますように。それは、「好き」か「嫌い」か「無関心」。すべての人と、「好き」か「嫌い」か「無関心」というこの3つのカテゴリーでしか関係をもつことができなくて。
 そのなかでも、「好き」という思いは、この3つのなかでは当然良さそうでポジティブなように見えるけれども、――もう我々が全員知っているように――「好き」という一見ポジティブに見える感情でも、ネガティブな思いからは解放されない。色々な人を好きになったとき――いわゆるの「人を好きになったとき」――に、疑いだとか嫉妬だとか不安だとか恐怖だとか、時によっては怒りだとか、そういうネガティブな感情が、不思議なことにつきまとう……本当にこれは不思議なもので。だから当然、たちまち苦しみを生んでしまうし。
 「嫌い」という感情は当然、たちどころに自分も辛いし、自分が誰かを嫌ったならば、その嫌われた誰かも、嫌われているということを感じ取って、それも辛くなる。

 「無関心」というのも、これも非常に辛いですね。誰かに構ってもらえない。どんなに辛くても、誰かにひと声、声をかけてもらうだけでもう救われた思いになるのに、誰からも声をかけられなくて、無関心状態に置かれる。これもほんとうに地獄ですね。

 だから、[ふだんの]我々は「好き」、「嫌い」、「無関心」というこの3つのチョイスしかなくて、この3つのチョイスをもつかぎりはどうにもならないという自覚があったところで、いよいよ、そうではない人間関係を、これから作っていこう[ということになる]。そのコア――核心――のところにくるのが、慈悲です。そう理解してください。その慈悲というのは、絶対にthinking mindの世界にはなくて、それ[=thinking mind]が落ちた世界にしかない。ということは、そういう世界に入っていく。そこが本当にポイントです。だから決して、そういう「thinking mindでなんとか、人の幸せを願うぞ」と一生懸命にお唱えしても、全然、効果もなにもあったもんじゃないですね。そこを理解してください。

 ですから、慈悲の瞑想というのは、いま言った3つのカテゴリーに[加えて]、もう1つの途轍もなく大事なカテゴリーがあって、それが「自分」――「私」――です。だから、自分プラス、3つのカテゴリーで、4つのカテゴリーになります。そして、この「自分」というのが、とんでもなく曲者で・とんでもなく重要なもので。我々はいつも、この「私」――「自分」――に対して非常に冷たい態度をとってきた。非常に残酷な態度をとってきた……何かうまく物事が進まないときに。物事がうまくいかないときに、誰にも八つ当たりできなくて、もう自分にしか八つ当たりしない。そういう状況になっています。だからまずは、この状況を最も根本的なところから変えるためには、まず「私」――この「自分」――に対して慈悲を送る。自分に対して、幸せであることを願う。

 それで、実はね……この慈悲の瞑想のなかでいろんなことを念じていきますけども、この最初の「私が幸せでありますように」というのが、実はいちばん大事だということを最近つくづく思います。この「私が幸せでありますように」というところで、一気に物事を根本的に変えていきましょう。

(※以下は実践を含みます)

 はい、じゃあ、ゆったりと座ってください。そしてね、自分は今まで自分に対してどれほど冷たかったか・残酷だったか……それをよく噛みしめたうえで、こんどは自分に対して温かい気持ちで……自分をそういう気持ちで包んでください。こう念じながら……「私が幸せでありますように。私が苦しみから解放されますように」。はい、しばらく念じてください。

 「私が幸せでありますように」というのは、なぜそんなに大事なのか。これは、今日お話ししたように、皆さんがそういう自我の意識――「俺は俺なんだ」・「俺は何十年か生きてきた、こういう人間なんだ」という意識――をもっているかぎりは、自分の幸せを願うことはできません。その場所からは願えないです。皆さんがその場所を出て、自分の外に立って、その場所から自分をふりかえって、自分を包みこむような……そういうふうなかたちでしか、「私が幸せでありますように」とは念じられないですね。だから、「私が幸せでありますように」という最初の慈悲の瞑想がいちばん大事なのは、もうその最初から自分の外に立つ・立たざるを得ない[ということ]。

 じゃあその[自分の外に]立ったときに、皆さんはこれから、自分ではなくて他人との関係を結んでいきます。その場所――慈悲の場所――から[結んでいく]。まったく新しい関係ですね。今までの〈好き/嫌い/無関心〉の関係ではない。

 その新しい関係なんだけれども、いちばん易しいグループから[始めましょう]。皆さんが今まで好きだった、好意を持っていた、尊敬していた……そういう人たちに慈悲を送るのは非常に簡単ですから、そこから始めます。はい、じゃあ、自分が尊敬している人、好意を持っている人を1人選んでください。自分の先生、両親、パートナー、子供、親しい友人……どなたでもいいです。ではその人を、自分の1.5メートルか2メートルぐらい前に置いて、ありありと思い浮かべてください。その人がまるでそこに存在するかのように。触れば触れるかのように。その人も今、笑っています。微笑んでいます。皆さんはその微笑みを見るのが大好きで、嬉しくて。その人がいつまでも幸せであってほしいと願って、こう念じてください……「この人が幸せでありますように」。

 そしてこんどは、その人が非常に辛そうな、苦しそうな顔をしていて、皆さんはその痛みや寂しさや辛さや不安を自分のものとして感じて、堪らない思いをして、その人がなんとか、そこから解放されてほしいと[願って]、こう念じてください……「この人が苦しみから解放されますように」。

 皆さんが少なくとも、自分が好意を持っている人に慈悲を送ることができて。だけどその、慈悲そのものにこんどはフォーカスを当ててください。皆さんが皆さんのなかで非常に強い慈悲に触れている。その非常に強い慈悲に触れたときに、振り返って他人を眺めたときに、もうそこには、「自分の友達」と「友達以外……赤の他人」を分ける壁はもう存在してないですね。普通の思いの「好き」だったらば、好きな人と嫌いな人とがはっきり分かれるんだけれども、本当の慈悲には、慈悲を送る人と送らない人との区別はもう無くて。皆さんはすべての人に、すでに慈悲を送っています。皆さんはすべての人を「幸せであってほしい」と願っています。慈悲というのは、そういう性格のものです。

 はい、じゃあ、それをもっと訓練していきましょう。今日ね、池袋に来る途中……電車に乗ってきたと思いますけども、その電車の中に居た人を1人ぐらい覚えていると思います。あるいは歩いてきた人は、歩いてくる途中で出会った誰か……もちろん赤の他人で、もう二度と会うこともないような、そういう人たち。名前も当然知らない。そういう人を1人選んでください。それで先ほどと同じように、自分の1.5メートルぐらい先にその人を置いて、「この人が幸せでありますように。この人が苦しみから解放されますように」と念じてください。

 はい、皆さんの慈悲は非常に強くて……あるいは、皆さんは本当のリアルな、本当に強い慈悲にいま触れている。そのときに、何も人工的なことを思わなくても、すべての人を自分の友達として感じる。その友達が幸せであってほしい、苦しみから解放されてほしいと素直に思える。そういう場所ですね。その場所に立たないかぎり、そういうことを素直に・自然には思えません。その場所に立たないところで、いくら人工的なふうに色々と「こうだから、こう考えて、すべての人の幸せを思わなきゃいけないんだ」というふうに推論することでも考えることでもなくて。ただ、すべての人が友達と感じる――自然に感じられる――、そういう場所に立ってください。そういう場所を見つけてください。その場所に立っているかぎり、今の皆さんの心のなかには、一切のネガティブな感情が起こってきません。それは存在できないです。それはちょうど、真昼の太陽のもとで暗闇が存在できないかのように。それはもう、慈悲というものが火だとしたらね、火というものはすべてを燃やし尽くしていく。

 ただ、今の皆さんにはネガティブな思いは無いかもしれないけど、まあずっと長いこと生きてきて、ネガティブな思いを抱えているわけですね……この自分という袋のなかに。この自分という袋のなかには、たっぷりと過去の思い出が残っていて。もちろんそれを一気に捨てるという方法もありますけども、残っているということは否定しようがなくて。では、そのたっぷりと残っているものを、これからきれいにしていきます。

 では、ある1人の人を思ってください。その人のことを思ったとたんに、無性に腹が立ってくる、無性に嫌な思い出が蘇ってくる、「あの屈辱的な言葉」が蘇ってくる……それによって、ネガティブな思いがフツフツと湧いてきてしまう。そういう人を、わざと選んでください。ずっと心に気になっていた人、ずっと心にトゲになっていた人ね。そういう人を選んで、自分の1.5メートルぐらい先に置いて……置きづらいと思っているかもしれないけど、心配しないでください。いま皆さんの心のなかに非常に強い慈悲がふつふつと燃えているから。この燃えている慈悲という火のなかに、そういうネガティブな感情は燃やしてしまいましょう。ちょうど、密教の人たちが護摩を焚くように、燃えさかる火のなかに自分のネガティブな記憶、ネガティブな感情を入れて燃やします。はい、じゃあそういう人を自分の目の前に置いて、さっきと同じようにこう念じてください……「この人が幸せでありますように。この人が苦しみから解放されますように」。

 はい、今まで、「自分」、「自分が好意を持っている人」、「赤の他人」、そして「自分が問題のある人」という4つのカテゴリーに慈悲を送ってきました。今ふりかえってみると、もう4つのカテゴリーの間に一切の壁はないですね。[壁は]存在できないです。つまりその壁というのは、我々がthinking mindとして生きてきたときにのみ存在していて。だから、[慈悲の瞑想の]入口としては、その壁に[仕切られたカテゴリー分けに]従って慈悲を送りますけども、慈悲を送ったあとで振り返ってみると、もうそこには壁はなくなっているはずです。なぜなら、皆さんはもうすべての人に慈悲をもっているから。〈好き/嫌い/無関心〉ということはもう存在できないから。そして、自分と他人との区別ももうないからですね。だから、皆さんが慈悲の世界に入ったときに、そこにあるのはただ「生きとし生けるもの」だけです。それ以外は存在できないです。

 はい、じゃあその慈悲の世界に入って、そこにただ存在している、生きとし生けるもの……それは、自分も他人も、好きな人も嫌いな人も無関心な人もすべて含んで、そしてそういう壁はすべてなくなった、そういう人たちですね。はい、では最後は、そういう人たちに慈悲を送りましょう……「生きとし生けるものが幸せでありますように。生きとし生けるものが苦しみから解放されますように」

 はい、では皆さんはいま、慈悲の世界のなかにいます。そこでは、私と他人との区別――他人のなかでも、〈好きな人/嫌いな人/無関心な人〉という区別――が一切ない、そういう世界ですね。そういう世界というのは、thinking mindが離れた世界。thinking mindが落ちた世界。

 thinking mindというのはいつも過去と未来に行ってばかりいて、絶対に現在には居てくれなかった。だから、現在に居ない以上は、何かに気づくというのはできなかった。何かに気づくというのは、thinking mindではない。それ[=thinking mind]が落ちたところで・「今ここ」でのみ、気づける。その「気づく」対象は色々ありますけども、それは「色々あるなかで何か1つだけを選んで、他のものは一切、無視する」ということではなくて、もう皆さんが慈悲のなかに居たときには、thinking mindが落ちているから、すべてに気づいている。ただ、「すべてに気づいている」と言っても、それだとちょっと漠然とするのでね、具体的な何かを1つ選んでみましょう。この場合[の対象]は、呼吸という一番シンプルなものですね。だからそれも、「呼吸と呼吸以外とを分けて、呼吸だけに頑張って集中する」ということではなくて、呼吸はあくまでもきっかけです。

 そして、呼吸という、マインドフルネスの対象……これが、今日の最初のところで言った「補助線」*1にあたります。この補助線さえ上手くひければ、皆さんはすべての仏教の伝統とつながることができます。もうここで、マインドフルネスの意味が遥かに深くなっています。禅の意味でもなく、テラヴァーダの意味でももうなくて。そこから遥かに深いところで、いまマインドフルネスというものをとらえています。そうとらえたときに、皆さんは仏教の伝統のすべてを理解することができます。
 はい、じゃあ、慈悲の瞑想をやった人も、そのまま時間があるかぎり、呼吸を観てください。はい、自分の上唇の上あたりに軽く意識の中心をおいて、そこでただ息がしていること……息を吐いていること、息を吸っていることにただ気づいてください。

(終わり)

山下良道師による「慈悲の瞑想から呼吸瞑想へのつなぎ」の解説と実践へ続く)

*1:「補助線」については、2011年3月6日の法話を参照。