山下良道法話:「『喪に服す』ことで開かれる地平」(2 of 2)

この記事は山下良道氏によって加筆され、一法庵のウェブサイトに掲載されました。下記のリンクからご覧ください。

(2019/11/28現在リンク切れ) 「『喪に服す』ことで開かれる地平」(PDF形式)

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※とき・ところ:2011年4月10日 一法庵 日曜瞑想会
※出典:https://www.onedhamma.com/?p=674
※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

1 of 2からの続き)

 「喪に服す」ということの意味を瞑想に結びつけていきますけども……。

(中略)

 「喪に服す」ということは歴史的に人間が皆おこなってきたことだし、世界中の人が未だにやっていることで。なぜやってきたのか。あるいは、なぜ今でもやっているのかといったら、必要だからなわけですよ。それは何も、世間的に「誰かが亡くなったら、派手なことはみっともないからやめましょう」なんていうレベルの話ではなくて、人間というのはもうちょっと遥かに深いところで「喪に服」してきたわけだし、世界中の人たちが未だにそうしているわけね。ということは、「そういうことを発想として持たない・文脈として持たない現代の日本というのは、いったい何なんだ」という[疑問がうまれる]。その一番弱い部分を3.11が襲ったということだと私は思います。(中略)それが、我々の瞑想とそのまま重なってきます。それは当たり前で……だって現代の日本人として瞑想をするわけだから、喪に服すということがよく分かっていない我々が瞑想をやった場合に、その「喪に服す」が分かっていない部分がつまずきになってしまうということですね。

 最近の坐禅会では、呼吸瞑想と慈悲の瞑想を繋いでいます。ここ1ヶ月くらいは、まず慈悲の瞑想をやって、それから呼吸瞑想に移る。そして、その慈悲の瞑想と呼吸瞑想の間に、チベット経由のちょっと特殊な慈悲の瞑想を入れて、そうすることによって、呼吸とシンクロさせながら呼吸につなげていくということをやっています*1
 [一法庵の坐禅会に参加した或る人が書いたメールによると、]その人は慈悲の瞑想はあまりやってこなくて――まあ、うまくいかなかったのかな?――、呼吸瞑想だけを主にやっていて、「それで、自分が瞑想をできない理由がよく分かった」と述べています。なぜかというと、「エゴがあるから、瞑想に深く入っていけなかった」。そして、「最初から最後まで、この問題だったと痛感して帰路に着きました」というね。
 だから……この一法庵なんか典型的な場所だけれども、まあ皆、呼吸瞑想ができないわけよ。呼吸が観えないわけね。呼吸が観えない理由として、ほんとうに多くの人が「自分は呼吸の観かたのメソッド・テクニックをよく知らないから」と思ったわけじゃないですか。だから、「[メソッド・テクニックをはっきり知れば]呼吸が観えるようになるだろう」と思っていたんだけども、皆さんはもうテクニックもメソッドも知っていますよ。(中略)それはもうテクニックやメソッドの問題ではなくて、「結局、このエゴの問題だ」と、この人は気づいた。
 呼吸瞑想だけをやっていると、エゴの姿はけっこう観えないんですよ。これは分かると思うけども。まさにエゴのために呼吸瞑想が邪魔されているんだけれども、呼吸瞑想だけだとエゴの姿が観えにくいというのはそのとおりですね。それで、ここ1ヶ月ぐらいはその、チベットの人のやってきた特殊な慈悲の瞑想を入れていますけども、それが「人の苦しみを黒い煙のように見立てて、それを吸い込む」という瞑想。それによって、慈悲と呼吸をシンクロさせていくのがポイントなんだけども。

 そういう作業をしたときに、――別の人も書いていましたけど――そこで「嫌だ」・「そんなの吸い込みたくないよ」・「他人の苦しみなんか吸い込みたくないよ」という非常に激しい抵抗が出る。この瞑想のポイントは……まさにこの抵抗を発見するのがこの瞑想の目的なのね。だから、[形だけで実行すればすむことではなくて、]吸い込もうとしたとたんに皆さんのなかで非常に強いものが沸き起こってきて「嫌だ」と抵抗する。これを観るのが、この瞑想のポイントです。つまり、呼吸を吸ったり吐いたりするだけだったらば、[そういう抵抗が]ちょっと観えにくいんですよ。だけども、「他人の苦しみを、黒い煙のようにして吸い込むぞ」としたとたんに「嫌だ」という抵抗が出てきて。

 慈悲と哀れみについての質問がこないだあって、その時にも答えたんだけども、英語で言うと「慈悲」はふつう“compassion”でしょう? 「哀れみ」は“pity”というんですよ。英語で仏教を教えている先生たちが必ず言うのは……「“compassion”と“pity”とは、根本的に違うんだよ」ということを彼らはよく言うわけですよ。“pity”というのは要するに「自分が上にいて、下々の可哀想な人たちに哀れみをかける」という意味なんですよ。ということは要するに、自分のエゴは全然チャレンジを受けていないのね。だけども、慈悲というのはそうではなくて。自分が安全な場所にいて、安全でない人に対して「はい、これあげるよ」というようなレベルの話ではないんですよ、慈悲というのは。それどころか、[上記の例でいえば、相手]が持っている苦しみを取っちゃって自分のほうに吸い込むことなんだから、ぜんぜん「トクじゃない」わけですよ。
 [前述のメールの書き手の人が]今までやってきた呼吸瞑想というのは、「ちょっと“thinking”を受け流す訓練」――これ分かるでしょう? 「あんまり“thinking”するのやめよう。“thinking”をちょっと、流しちゃおう」というぐらいのこと――で、それだったらまあ何か「考えすぎないようにしよう」というぐらいのレベルであって、自分のエゴというものが本当には挑戦を受けていない。要するに、エゴがそのまま温存されちゃっているというのかな。[温存されたエゴが]呼吸を観えなくさせているんだけども、呼吸瞑想だけをやっていると、そこいらへんが観えなくて。それで、慈悲の瞑想……特にこの「吸い込むぞ」なんてやったら、「嫌だ」というエゴの強烈な抵抗が出てきたということですね。

 だから、なんて言うのかな……瞑想もね、「安全地帯」でいくらやっても、しょうがないのね。なぜかといったらば、安全地帯だと、やっぱりこの自分のエゴが温存されてしまうから。呼吸瞑想だけだと、[その点が]どうしても足りなくて。それでこういう慈悲の瞑想をすることで、「他人の苦しみを吸い込むなんていうことは、嫌だ」という非常に激しいエゴの抵抗を経験するし。あるいは、実生活のなかにおいては我々はもっとコンスタントにチャレンジを受けるわけじゃないですか。そしてその実生活のなかで実際に我々は攻撃を受けるわけね。そのときに、我々にエゴがあったらば……エゴというのは攻撃を受けたときにはもちろん、攻撃をし返すというのが基本的なリアクションですから。それはなぜかといえば、攻撃されたら自分が攻撃をし返すことによって、不安をなんとか乗り越えていくということですね。

 だからそこで、攻撃を受けても攻撃をし返すということをしない……それが非暴力ということでね、ティク・ナット・ハン師やダライ・ラマ法王様が今やっていらっしゃることですけども。それはもう彼らは実際に攻撃を受けるわけですよ。ダライ・ラマ法王様は中国から攻撃を受けるし、ティク・ナット・ハンさんはベトナムの戦争のときはさんざん色んなところから攻撃を受けて。だけども、それに対して反撃をしないということですね。
 だから、エゴが攻撃――チャレンジ――を受けないような安全地帯にばかり居ていくらやっても、どうしようもない……というところ[が要点]ですね。

(中略)

 [いまとりあげたメールの書き手の人は、]皆さんとまったく同じように呼吸瞑想をしながら、自分のエゴの問題がいよいよ観えてきた人ですね。

 もう1回、おさらいしておきますけども……「誰か[他人]の苦しみを、黒い煙のようなものとして吸い込む。そして自分のなかで完全にそれを浄化して、慈悲を送り返す」という、非常に強い・強烈な慈悲の瞑想――それが、チベット経由のトンレンというもの――で、ここ1ヶ月ぐらいは一法庵でも取り入れて、やっています。トンレンについてのソギャル・リンポチェの説明を読みましょう。
 こないだは、ソギャル・リンポチェによる普通のトンレンの説明をしましたが*2、そのあとでソギャル・リンポチェは,、付け加える説明をなさっているんですよ。こないだやったのは……「ある一人の人を思い浮かべて、その人の苦しみを黒い煙のようなものとして思い浮かべて、息を吸い込むとともにその黒い煙を自分のなかに吸い込む。そして吐き出す」ということをやりました。それはそれでいいんだけども、今日これから説明する部分では、「死にゆく人に対してそれをやってみなさい」とソギャル・リンポチェは仰るわけね。(中略)ちょっとその説明を読んでみましょう。これも非常に参考になると思います。[生きている人を対象にしてトンレンを行う場合と]やり方はまったく同じですよ。ただ、この場合はトンレンの対象が「死にゆく人たち」だから。

これまでの説明ですでに、トンレンが、死にゆく人へのどれほど直接的な助けとなりうるか、死にゆく人の一助となろうとするあなたにどれほど力と自信を与えるものであるか、死にゆく人にどれほど実際的な変容をもたらすものであるか、およそ想像できるようになっていることと思う。
(ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』)

(中略)

トンレンの正行は一通り説明した通りである。ここではそれを、苦しんでいる友人ではなく、死に直面している人を想像して行なう。トンレンの正行の各段階をまったく同じように行じなさい。そして三の視覚化のところで、死にゆくその人のあらゆる恐れと苦しみが、ひとつの熱い、黒い、すすけた煙のかたまりと化すのを想像し、それを吸い込み、そうすることによって、まえに述べたと同様に、みずからの我執と利己心を打ち砕き、一切の悪しきカルマを浄化しているのだと考える。
(ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』)

……「そして三の視覚化のところで、死にゆくその人のあらゆる恐れと苦しみが、ひとつの熱い、黒い、すすけた煙のかたまりと化すのを想像し、それを吸い込み、」……吸い込んだときに、皆さんは「嫌だ」と言います……必ず。言うほうが当たり前です。「吸い込みたくない」ですよそんなの……「嫌です」よそんなもの……「普通の人ならともかく、死んでいく人の苦しみなんか、とてつもない」じゃないですか。「そんな苦しみ――それも、『真っ黒なすすけた嫌な煙』――なんか、そんなもの吸い込みたくない」ですよ。

 「嫌だ」といいながらも、とにかく吸い込むことによって、執着とかエゴの気持ちとかを打ち砕いて、「一切の悪しきカルマを浄化しているのだと考える」……ここもね、「ああ、カルマが消えました」という、そういう[気軽な]話ではなくて、そういうおめでたい話ではなくて、これはもうちょっと深い話でね。結局その……この黒い煙を「嫌だ」と拒否する何かがあって、その正体が[そこに]現れてくるという、そういう話ね。呼吸瞑想だけではそれがなかなか観えなかったという話になります。
 「嫌だ」といいながらも吸い込むことによって、これ[=吸い込むのを拒否する何ものか]は打ち砕かれていく。そして、

そして、やはり同じように、息を吐きながら、あなたのなかの悟りをもとめる心の光が、菩提心の光が、その安らぎと健やかさで死にゆく人を満たし、その人の悪しきカルマをことごとく浄化しているところを想像しなさい。
わたしたちはこの生のあらゆる瞬間に慈悲を必要としている。だが、死にゆくとき以上にそれを切実に必要とするときはない。そのときに、自分のために祈りが捧げられているということ、行を通して自分の苦しみを引き受け、悪しきカルマを浄めようとしてくれている人がいるということ、死にゆく人にとってそれ以上に素晴らしい贈り物、なぐさめとなる贈り物があるだろうか。
あなたがその人のために行を行っていることをたとえその人が知らなくても、あなたはその人を助けているし、その人もまたあなたを助けている。その人はあなたが慈悲を育てはぐくみ、それによってあなた自身を浄め癒やすための積極的な助けとなっているのである。わたしにとっては死にゆくすべての人が師だ。死にゆく人たちは、彼らの力になろうとする者たちに、慈悲を通してみずからを変容させる機会を与える師たちなのだ。
(ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』)

……ということなんだけども。これで一応、トンレンのおさらいをしました。

 今までのところを整理すると……3.11(東日本大震災)で途轍もない大きな悲劇が起こったわけでしょう? その大きな悲劇を、我々はちっとも見てこなかった。それで、「がんばれ日本」と「放射能怖い」の2つで大騒ぎをしてきてしまった。その大騒ぎをすることによって見事に隠蔽されたものがあって、それが、3.11で実際にいちばん大事なものをなくしてしまった人たちの苦しみですね。
 我々は、そういう大きな苦しみを取り扱うという方法は持っていなかったんですよ……3.11以前に非常に表面的に生きてきた我々にとって[、そういう方法は無かった]。だから当然、今までそんなことを扱ったこともないし、どう扱っていいのかも分からない人間がそれを扱えるわけがない。だから、当然扱えなかったし、誰もそれを問題にもしなかった。
 だけども、そういうことばかりを世界中で扱ってきたアルジャジーラ岩手県宮古に来たら、結局、世界中とまったく同じ苦しみを、岩手県宮古の人たちが抱え込んでいるというのが当然見えるし……そして、苦しみに寄り添うという、そういう番組を作れるわけですよ(参照)。
 そういう番組を見ることで、日本のテレビ番組って、なんでこういうのを取り上げないのかというのがはっきりして。なぜ取り上げられないのかといったら、現代の日本では、そういう圧倒的な悲しみや苦しみをどう取り扱っていいのかが……そのノウハウがない。なぜかといったら、そこ[=現代]を生きている人間自身が、[それを取り扱う]ノウハウがないから。

 [一方で、上記のような瞑想]をやることによって「黒い煙を吸い込む」ことで我々のエゴが「嫌だ」と抵抗するけれども、「嫌だ」といいながらも吸い込むことで我々のエゴが破壊されていく。それが、瞑想というものの本質なんだということを[この法話では]言っているわけですよ。それはソギャル・リンポチェみたいな人も仰っているし、あるいは我々の仲間である或る瞑想者も、どうもそこいらへんがポイントだということが分かった。

 この圧倒的な苦しみを受け止める……それを、人間の歴史のなかでは「喪に服す」と言ってきたわけですね。喪に服すというのは、なにも「年賀状を出さない」なんていう話ではなくて、自分の親しい人たちの間に起こったことを受け止めるという話じゃないですか。では、それはいったいどういうことなの?。

 このエゴというものの本質というのが“resistance”(抵抗)にあるということは、ずっと言ってきました。だから、チベットに伝わる慈悲の瞑想なんかだと、エゴの“resistance”をわざとさせるわけですね。(中略)エゴはどうせどこかで隠れているわけよ……隠れていて、ふつうは観えないわけですよ。だけども、「さあ黒い煙を吸い込むぞ」となったときに「嫌だ」というエゴが出てきて、それで我々はエゴの存在を知るわけじゃないですか。

 エックハルト・トールさんの指摘もまったく同じで……エゴの本質というのは“resistance”(抵抗)です。だから、エゴを乗り越えるということで一番大事なことも、このエゴの本質が“resistance”(抵抗)であるということを知ることです。
 ということは、何もかもうまくいっているような状況のなかでは、このエゴの抵抗というものは観えてこないわけですよ。このエゴの抵抗がいつ観えてくるかといったら、それは当然、うまくいっていないときじゃないですか。

Whenever tragic loss occurs, you either resist or you yield. Some people become bitter or deeply resentful; others become compassionate, wise, and loving. Resistance is an inner contraction, a hardening of the shell of the ego. You are closed. Yielding means inner acceptance of what is. You are open to life.


(山下氏による訳):悲劇がおこり何かを失ったときに、「抵抗」するか「身を任す」のどちらかを選ぶことになる。ある人は(抵抗することで)苦い思いをかかえ、深く何かを恨むことになる。またある人は(身を任すことで)慈悲深く、賢く、愛情に満ちた人になる。抵抗とは内面が縮こまることで、エゴの殻が固くなることだ。つまり閉じてしまうことなのだ。身を任すとは、自分のなかでものごとをそのまま受け容れることだ。そのときこの生に、自分を開くことになる。
エックハルト・トールOneness With All Life: Inspirational Selections from A New Earth”)

“Whenever tragic loss occurs, you either resist or you yield.”……「悲劇がおこり何かを失ったときに、「抵抗」するか「身を任す」のどちらかを選ぶことになる」。何か悲劇が起こって、我々は何かを失ってしまう。そのときに、我々のエゴというのは2つの反応しかしない。それは、非常に激しく抵抗するか、あるいは“yield”(ギブアップ/諦める)ですね。だから、我々のエゴは非常に激しく抵抗するか、諦める。この諦めるというのは、――エックハルト・トールさんを読んでいた人なら分かると思うけども――抵抗の反対ですね。
 だから、何か悲劇が起こったということは……これは誰の身にも同じように起こるわけですよ。だけど、起こったことに対して我々はどう反応するか。これはもう2つの反応しかなくて、非常に激しく抵抗(resist)するか、それとも、諦めてそれを受け容れる。この2つの反応しかないわけですね。
 そしてもし我々が非常に激しく抵抗したときに、どうなるかというと、“Some people become bitter or deeply resentful;”……「ある人は(抵抗することで)苦い思いをかかえ、深く何かを恨むことになる」。[一方で、抵抗をしなかった人は]――これは今、[被災地で]たくさん起こっていると思うけども――“others become compassionate, wise, and loving.”……「(身を任すことで)慈悲深く、賢く、愛情に満ちた人になる」。

 「そんな馬鹿なことがあるかよ」と言われるかもしれない。しかし、これは本当にそうです。これは、こういう現場をちょっとでも知っている人間だったら分かると思うけども、とにかく何か悲劇が・自然災害が起こったときに、[人の反応は]2つに分かれてくる。そして大事なことは、すべての人が何か非常にイライラして・苦くなって・恨みがましくなるかというと、そうじゃないんですよ。ある人たちは逆に、非常に慈悲深くなって・賢くなって・人を愛するようになる。これはもう、どこでも起こります……あらゆる場所でね。

(中略)

 “Resistance is an inner contraction, a hardening of the shell of the ego. You are closed.”……それで、この「抵抗」というのは何かといったらば、自分の内で“contraction”(ぎゅっと縮こまること)ですね。これは要するに、エゴという貝殻みたいなもの――エゴの殻――がさらに固くなるということですね。そうすることによって我々は閉じてしまう。
 “Yielding means inner acceptance of what is. You are open to life.”……“resistance”(抵抗)の反対を“yielding”というんだけども、それはただありのままに受け容れるということ。そのときに我々はオープンになれるということですね。

When you yield internally, when you surrender, a new dimension of consciousness opens up. If action is possible or necessary, your action will be in alignment with the whole and supported by creative intelligence, the unconditioned consciousness. Circumstances and people then become helpful, cooperative. Coincidences happen. If no action is possible, you rest in the peace and inner stillness that come with surrender.


(山下氏による訳):自分の中で身を任せたとき、つまり降伏したとき、意識の新しい次元が開かれる。行動が可能で必要ならば、あなたの行動は全体とうまく連動し、創造的な知性つまりかたちのない意識によって支えられたものとなる。そのとき周りの環境や人々が、あなたを助け、協力してくれる。不思議な偶然がおこってくる。もし行動が出来ないような状況なら、降伏とともに現れる平安と内なる静寂のなかに安らいで行く。
エックハルト・トールOneness With All Life: Inspirational Selections from A New Earth”)

“When you yield internally, when you surrender, a new dimension of consciousness opens up.”……「自分の中で身を任せたとき、つまり降伏したとき、意識の新しい次元が開かれる」。我々がもし自分の内側で抵抗しないで“yield”(ギブアップ/諦める/受け容れる)したとき……それは“surrender”(降伏)したとき。これは、何か余裕があって「はい、じゃあ、これを受け容れます」という[気軽な話ではない]。そうではなくて、[本人としては]「受け容れたくなんかない」わけですよ。(中略)そうなんだけれども、この受け容れられるわけがないような途轍もなくひどいことに対してどうしても抵抗できなくて――だって、抵抗してもどうにもならないんだから――[受け容れる]。だからそれは、完全にギブアップすること・完全に降伏すること――“surrender”――によってしか、受け容れられるはずがない……ですね。それを本当にできたときに、我々は……我々のまったく違う“dimension”(次元)が開かれてくる。それはなぜかといったらば、[受け容れるということをする前の]我々がずっと生きてきた“old dimension”(旧い次元)というのは我々のエゴによってつくられた次元でした。だけど今、このエゴが「どうしても受け容れられないものを、どうしても抵抗できなくて受け容れた」とき――これは何度も言うように、「はい、じゃあ受け容れまーす」なんていう[気軽な]話であるわけはないんですよ。(中略)だからふつう、軽いスピリチュアルの話をしていたら、もう全員つぶれます。なぜかといったら、そんな軽い話じゃないから。これはもう「絶対に、そんなの受け容れたくない」ような非常に辛くて辛くて堪らないものを「でも、これ以上は抵抗できなくて」受け容れたとき――に、我々はまったく違う地平が開かれる。なぜかといえば、そこでエゴが落ちるからね。

 “If action is possible or necessary, your action will be in alignment with the whole and supported by creative intelligence, the unconditioned consciousness.”……「行動が可能で必要ならば、あなたの行動は全体とうまく連動し、創造的な知性つまりかたちのない意識によって支えられたものとなる」。そしてその「まったく違う世界」に入っていったときに、そこでもし何か行動しなきゃいけなかったならば、その行動はできるし、必要ならばそれはしなきゃいけない。そのときは、その行動というのは、今までのようなエゴが考えた小賢しい行動ではなくて、もう全然ちがうところから来ている知性によって裏付けられた行動になりますね。

 “Circumstances and people then become helpful, cooperative. Coincidences happen. If no action is possible, you rest in the peace and inner stillness that come with surrender.”……「そのとき周りの環境や人々が、あなたを助け、協力してくれる。不思議な偶然がおこってくる。もし行動が出来ないような状況なら、降伏とともに現れる平安と内なる静寂のなかに安らいで行く」。そういうふうに行動したときに、自分の周りの環境と自分の周りの人たちとかが、非常に協力的になる。そして“coincidences”(色々な良い偶然の出来事)がどんどん起こってくる。もし状況が[シビアで、]どうにもならないんだったら、どうにもならないままにただその状況に居て……だけれどもそこには、深い安らぎと静寂がある。ということですね。

 じゃあ、まとめていきますとね……最後にティク・ナット・ハンさんをちょっと読んでいきます。次に引用する部分もね、軽く読めば軽く読めるようなことなんだけど……『ティク・ナット・ハンの抱擁』の「11月の第3週」ね。

緊張を解き、
心の平和を得てください。


肉体の緊張を解く方法を学んでください。
手放すことができなければなりません。
息を吸いながら、顔、肩、腹に緊張があることを感じてください。
そして息を吐きながら、緊張を解いてください。



――心の平和は、
自らのからだと心をよく気遣うところから始まります。
(ティク・ナット・ハン『ティク・ナット・ハンの抱擁』)

……「ああ、要するにこれは、体の緊張を解くことね」と言うかもしれないけども、そんなことを言っているわけじゃないんですよ。まあもちろん、表面的には、体の緊張を解くことを奨めているんだけども、本当[=真意]はそうではなくて。

 [真意]はどういうことかというと……我々のエゴというものがあって、そのエゴというものは、普段はなかなか観えないものですね。だから、それがどういうふうにはたらいているかもよく分からない。だから仏教のいろんな瞑想というのは、「今まで薄暗いところに居て、よく分からなかったものを、光が当たるところへもってくる」……そういう方法論をとります。その1つが、「誰か他人の苦しみを、黒い煙として想像したうえで、吸い込む」というやりかた。そうすると、今まで隅のほうに隠れていたエゴが出てきて、思いきり「嫌だ」と言うわけ。なぜわざわざそんな瞑想をするのかといったら、そうすることによってエゴを観やすい・捕まえやすいということと、そうすることによってエゴを手放していけるから。そうすることによってエゴを手放した果てに、とんでもなくすごい世界が広がっている。そこに入らせないのがエゴだから、「[そのエゴに対処する]には、こうしたらいい」ということでチベットの人たちはそういう慈悲の瞑想を、そういうふうにオーガナイズしたわけですよ。

 それはあくまでも人工的な瞑想メソッドなんだけども、そういう人工的なのでははなくて実際の生活のなかで悲劇的なことが起こって、すべてを失ってしまう[ということがある]。そのときに、それはもう起こったことなんだから、もうしょうがなくて。そのときに、[そういうことに直面した人の選択としては]もう2つしかなくて、その1つは、それに対して非常に激しく抵抗して「誰かを恨んで、誰かを非難して、誰かを批判して……」というふうにやるという反応であり、もう1つは、それをとにかく「嫌だけれども受け容れる」ということ。
 [抵抗するのではなく]受け容れたときに我々は、[従来とは]もうまったく違う世界に入っていける。ということを、我々の先祖はみんな知っていた。だから、喪に服すということを非常に重んじてきた。なぜかといったら、喪に服すということの前提条件として、[当人は]非常に大事な大事な人を亡くしてしまったわけね。これはもう耐え難いことなんですよ……耐え難いことね。いちばん辛いことなんですよ。自分が死ぬことよりか、誰か大事な人を亡くすほうが辛いじゃないですか。この世でいちばん大事な人を亡くすという一番つらいことが起こっちゃって……そのときに、もう2つの選択しかなくて、それは、抵抗するか、受け容れるか。
 [抵抗するのではなく]受け容れたときに、我々はまったく違う世界に行けるということを、我々の先祖は知っていたわけね。だから、喪に服すということを大事なものとしてきた。だから、いちばん大事なものをなくしてしまった人の救われる道は、もうそこにしかありえない。だって、あのおじいさんに何と言えるんですか? もうおばあさんは還ってこないんだし。だけども、あのおじいさんが、いちばん大事なおばあさんを亡くしてしまったことを受け容れたとき――受け容れたい[気持ちなど、最初は]あるわけがない。それだから、[遺体が発見できるまで、捜索現場に]ずっと居るわけで――に、あの人は、とんでもない世界に入っていけるのね。もう、それしかないです。
 だから、何て言うのかな……我々が、もちろん福島第一原発への対応もやらなきゃいけないし、被災地で食べるもの・着るものがない人をなんとかしなきゃいけないのもそのとおりだけども、何て言うのかな……いま本当にぽっかりと何かが空いていて……いちばん大事なものをなくしてしまった人たちが大量に居て、その人たちに「じゃあ、どうしたらいいのか」をいま伝えなかったら、その人たちはいつまでも「なぜあの時、[あの人を避難に]誘わなかったんだ」とかという自責の念に苦しめられるし、あるいはその喪失感にいつまでもいつまでもつきまとわれる。だけども、耐えられないことを受け容れたときに、その人たちはまったく違う世界に入っていけるということを伝えていかなきゃいけないし……それはまあ我々自身のことでもあるから。
 今日は、喪に服すということの本当の深い意味を考えてみましたけども、それはなにも、3.11で何かをなくした被災者の人たちだけの話ではなくて、みんな我々のすべての問題で[あるが、]実際問題としていちばん生々しい状況に居るのが3.11の[被災者]の人たちであるから、まずそこいらへんからやっていきましょう。それで、3.11以降、このことがぜんぜん問題になってきていなかったから、すくなくとも我々は、そういう問題意識を持ちたいと思います。

(終わり)

【関連リンク】

*1:「慈悲の瞑想」および「慈悲の瞑想と呼吸瞑想のつなぎ」については、山下良道氏による解説の音声ファイル https://www.onedhamma.com/?p=5007 をご参照ください。

*2:ソギャル・リンポチェによるトンレンの説明は、2011年3月20日法話苦しみを吸い込み、慈悲を吐き出す」を参照。

山下良道師による「慈悲の瞑想」の解説と実践

追記(2020年7月):慈悲の瞑想を含む「ワンダルマ・メソッド」のインストラクションの最新版が公開されています。当記事よりも新しい内容です。

追記(2015年12月):山下良道師による瞑想入門の本が2015年12月に出版されました。「慈悲の瞑想」と「呼吸瞑想」についての解説も含まれていますので、ご関心のあるかたはどうぞ。
山下良道『本当の自分とつながる瞑想入門』(河出書房新社
本の目次や関連リンクはこちら
読者のための瞑想インストラクションの音声ファイルも公開されています。

Meditation Instructions by Ven. Ryodo Yamashita(Sudhammacara bhikkhu) in English are here:
http://onedharmainternational.com/meditation/
and
http://www.onedhamma.com/?p=4759
Podcast of Ven. Ryodo Yamashita's dharma talks in English: http://onedharmainternational.com/

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※収録日:2011年3月6日

※出典:インストラクション(音声) | 一法庵 「慈悲の瞑想」

※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

(この記事の内容は、同日に収録された山下師の法話の内容を承けています。)

 今日お話ししましたけれども、慈悲の意識というのは、我々の“thinking mind”とはまったく反対のところ――あるいは、逆のところ――にあります。だから、もし我々が何の反省もなしに慈悲の瞑想だけをやろうとしたら当然、うまくいかないのは当たり前ですね。なぜかといったらば、その左脳的な意識――thinking mind――の延長上で全ての人の幸せを・全ての人の苦しみからの解放をどんなに願ったところで、どうもウンともスンともピンとこない。なぜかといったら、そこには[慈悲の意識が]無いからですね。だから、慈悲の瞑想のポイントは、そのthinking mindを超えたところ・[thinking mindが]落ちたところにしか存在しない。それがもう、急所です。

 そして、そのためには我々は、今までの人間関係ではどうにもうまくいかないんだという、その自覚がまず必要ですね。その自覚がないんだったらば、わざわざ慈悲をやる[=育てる]必要もないわけで。今までどおりの人間関係をやればいいわけで。だけども、「今までどおりの人間関係だと、どうにも辛い。じゃあ、どこがどう辛いの? どうすればいいの?」という、そういう問題意識から我々は入っていきます。

 今までの人間関係というのはどういうものかといったらば、そこにはもう3つのチョイス(選択)しかなかったですね……いつも言いますように。それは、「好き」か「嫌い」か「無関心」。すべての人と、「好き」か「嫌い」か「無関心」というこの3つのカテゴリーでしか関係をもつことができなくて。
 そのなかでも、「好き」という思いは、この3つのなかでは当然良さそうでポジティブなように見えるけれども、――もう我々が全員知っているように――「好き」という一見ポジティブに見える感情でも、ネガティブな思いからは解放されない。色々な人を好きになったとき――いわゆるの「人を好きになったとき」――に、疑いだとか嫉妬だとか不安だとか恐怖だとか、時によっては怒りだとか、そういうネガティブな感情が、不思議なことにつきまとう……本当にこれは不思議なもので。だから当然、たちまち苦しみを生んでしまうし。
 「嫌い」という感情は当然、たちどころに自分も辛いし、自分が誰かを嫌ったならば、その嫌われた誰かも、嫌われているということを感じ取って、それも辛くなる。

 「無関心」というのも、これも非常に辛いですね。誰かに構ってもらえない。どんなに辛くても、誰かにひと声、声をかけてもらうだけでもう救われた思いになるのに、誰からも声をかけられなくて、無関心状態に置かれる。これもほんとうに地獄ですね。

 だから、[ふだんの]我々は「好き」、「嫌い」、「無関心」というこの3つのチョイスしかなくて、この3つのチョイスをもつかぎりはどうにもならないという自覚があったところで、いよいよ、そうではない人間関係を、これから作っていこう[ということになる]。そのコア――核心――のところにくるのが、慈悲です。そう理解してください。その慈悲というのは、絶対にthinking mindの世界にはなくて、それ[=thinking mind]が落ちた世界にしかない。ということは、そういう世界に入っていく。そこが本当にポイントです。だから決して、そういう「thinking mindでなんとか、人の幸せを願うぞ」と一生懸命にお唱えしても、全然、効果もなにもあったもんじゃないですね。そこを理解してください。

 ですから、慈悲の瞑想というのは、いま言った3つのカテゴリーに[加えて]、もう1つの途轍もなく大事なカテゴリーがあって、それが「自分」――「私」――です。だから、自分プラス、3つのカテゴリーで、4つのカテゴリーになります。そして、この「自分」というのが、とんでもなく曲者で・とんでもなく重要なもので。我々はいつも、この「私」――「自分」――に対して非常に冷たい態度をとってきた。非常に残酷な態度をとってきた……何かうまく物事が進まないときに。物事がうまくいかないときに、誰にも八つ当たりできなくて、もう自分にしか八つ当たりしない。そういう状況になっています。だからまずは、この状況を最も根本的なところから変えるためには、まず「私」――この「自分」――に対して慈悲を送る。自分に対して、幸せであることを願う。

 それで、実はね……この慈悲の瞑想のなかでいろんなことを念じていきますけども、この最初の「私が幸せでありますように」というのが、実はいちばん大事だということを最近つくづく思います。この「私が幸せでありますように」というところで、一気に物事を根本的に変えていきましょう。

(※以下は実践を含みます)

 はい、じゃあ、ゆったりと座ってください。そしてね、自分は今まで自分に対してどれほど冷たかったか・残酷だったか……それをよく噛みしめたうえで、こんどは自分に対して温かい気持ちで……自分をそういう気持ちで包んでください。こう念じながら……「私が幸せでありますように。私が苦しみから解放されますように」。はい、しばらく念じてください。

 「私が幸せでありますように」というのは、なぜそんなに大事なのか。これは、今日お話ししたように、皆さんがそういう自我の意識――「俺は俺なんだ」・「俺は何十年か生きてきた、こういう人間なんだ」という意識――をもっているかぎりは、自分の幸せを願うことはできません。その場所からは願えないです。皆さんがその場所を出て、自分の外に立って、その場所から自分をふりかえって、自分を包みこむような……そういうふうなかたちでしか、「私が幸せでありますように」とは念じられないですね。だから、「私が幸せでありますように」という最初の慈悲の瞑想がいちばん大事なのは、もうその最初から自分の外に立つ・立たざるを得ない[ということ]。

 じゃあその[自分の外に]立ったときに、皆さんはこれから、自分ではなくて他人との関係を結んでいきます。その場所――慈悲の場所――から[結んでいく]。まったく新しい関係ですね。今までの〈好き/嫌い/無関心〉の関係ではない。

 その新しい関係なんだけれども、いちばん易しいグループから[始めましょう]。皆さんが今まで好きだった、好意を持っていた、尊敬していた……そういう人たちに慈悲を送るのは非常に簡単ですから、そこから始めます。はい、じゃあ、自分が尊敬している人、好意を持っている人を1人選んでください。自分の先生、両親、パートナー、子供、親しい友人……どなたでもいいです。ではその人を、自分の1.5メートルか2メートルぐらい前に置いて、ありありと思い浮かべてください。その人がまるでそこに存在するかのように。触れば触れるかのように。その人も今、笑っています。微笑んでいます。皆さんはその微笑みを見るのが大好きで、嬉しくて。その人がいつまでも幸せであってほしいと願って、こう念じてください……「この人が幸せでありますように」。

 そしてこんどは、その人が非常に辛そうな、苦しそうな顔をしていて、皆さんはその痛みや寂しさや辛さや不安を自分のものとして感じて、堪らない思いをして、その人がなんとか、そこから解放されてほしいと[願って]、こう念じてください……「この人が苦しみから解放されますように」。

 皆さんが少なくとも、自分が好意を持っている人に慈悲を送ることができて。だけどその、慈悲そのものにこんどはフォーカスを当ててください。皆さんが皆さんのなかで非常に強い慈悲に触れている。その非常に強い慈悲に触れたときに、振り返って他人を眺めたときに、もうそこには、「自分の友達」と「友達以外……赤の他人」を分ける壁はもう存在してないですね。普通の思いの「好き」だったらば、好きな人と嫌いな人とがはっきり分かれるんだけれども、本当の慈悲には、慈悲を送る人と送らない人との区別はもう無くて。皆さんはすべての人に、すでに慈悲を送っています。皆さんはすべての人を「幸せであってほしい」と願っています。慈悲というのは、そういう性格のものです。

 はい、じゃあ、それをもっと訓練していきましょう。今日ね、池袋に来る途中……電車に乗ってきたと思いますけども、その電車の中に居た人を1人ぐらい覚えていると思います。あるいは歩いてきた人は、歩いてくる途中で出会った誰か……もちろん赤の他人で、もう二度と会うこともないような、そういう人たち。名前も当然知らない。そういう人を1人選んでください。それで先ほどと同じように、自分の1.5メートルぐらい先にその人を置いて、「この人が幸せでありますように。この人が苦しみから解放されますように」と念じてください。

 はい、皆さんの慈悲は非常に強くて……あるいは、皆さんは本当のリアルな、本当に強い慈悲にいま触れている。そのときに、何も人工的なことを思わなくても、すべての人を自分の友達として感じる。その友達が幸せであってほしい、苦しみから解放されてほしいと素直に思える。そういう場所ですね。その場所に立たないかぎり、そういうことを素直に・自然には思えません。その場所に立たないところで、いくら人工的なふうに色々と「こうだから、こう考えて、すべての人の幸せを思わなきゃいけないんだ」というふうに推論することでも考えることでもなくて。ただ、すべての人が友達と感じる――自然に感じられる――、そういう場所に立ってください。そういう場所を見つけてください。その場所に立っているかぎり、今の皆さんの心のなかには、一切のネガティブな感情が起こってきません。それは存在できないです。それはちょうど、真昼の太陽のもとで暗闇が存在できないかのように。それはもう、慈悲というものが火だとしたらね、火というものはすべてを燃やし尽くしていく。

 ただ、今の皆さんにはネガティブな思いは無いかもしれないけど、まあずっと長いこと生きてきて、ネガティブな思いを抱えているわけですね……この自分という袋のなかに。この自分という袋のなかには、たっぷりと過去の思い出が残っていて。もちろんそれを一気に捨てるという方法もありますけども、残っているということは否定しようがなくて。では、そのたっぷりと残っているものを、これからきれいにしていきます。

 では、ある1人の人を思ってください。その人のことを思ったとたんに、無性に腹が立ってくる、無性に嫌な思い出が蘇ってくる、「あの屈辱的な言葉」が蘇ってくる……それによって、ネガティブな思いがフツフツと湧いてきてしまう。そういう人を、わざと選んでください。ずっと心に気になっていた人、ずっと心にトゲになっていた人ね。そういう人を選んで、自分の1.5メートルぐらい先に置いて……置きづらいと思っているかもしれないけど、心配しないでください。いま皆さんの心のなかに非常に強い慈悲がふつふつと燃えているから。この燃えている慈悲という火のなかに、そういうネガティブな感情は燃やしてしまいましょう。ちょうど、密教の人たちが護摩を焚くように、燃えさかる火のなかに自分のネガティブな記憶、ネガティブな感情を入れて燃やします。はい、じゃあそういう人を自分の目の前に置いて、さっきと同じようにこう念じてください……「この人が幸せでありますように。この人が苦しみから解放されますように」。

 はい、今まで、「自分」、「自分が好意を持っている人」、「赤の他人」、そして「自分が問題のある人」という4つのカテゴリーに慈悲を送ってきました。今ふりかえってみると、もう4つのカテゴリーの間に一切の壁はないですね。[壁は]存在できないです。つまりその壁というのは、我々がthinking mindとして生きてきたときにのみ存在していて。だから、[慈悲の瞑想の]入口としては、その壁に[仕切られたカテゴリー分けに]従って慈悲を送りますけども、慈悲を送ったあとで振り返ってみると、もうそこには壁はなくなっているはずです。なぜなら、皆さんはもうすべての人に慈悲をもっているから。〈好き/嫌い/無関心〉ということはもう存在できないから。そして、自分と他人との区別ももうないからですね。だから、皆さんが慈悲の世界に入ったときに、そこにあるのはただ「生きとし生けるもの」だけです。それ以外は存在できないです。

 はい、じゃあその慈悲の世界に入って、そこにただ存在している、生きとし生けるもの……それは、自分も他人も、好きな人も嫌いな人も無関心な人もすべて含んで、そしてそういう壁はすべてなくなった、そういう人たちですね。はい、では最後は、そういう人たちに慈悲を送りましょう……「生きとし生けるものが幸せでありますように。生きとし生けるものが苦しみから解放されますように」

 はい、では皆さんはいま、慈悲の世界のなかにいます。そこでは、私と他人との区別――他人のなかでも、〈好きな人/嫌いな人/無関心な人〉という区別――が一切ない、そういう世界ですね。そういう世界というのは、thinking mindが離れた世界。thinking mindが落ちた世界。

 thinking mindというのはいつも過去と未来に行ってばかりいて、絶対に現在には居てくれなかった。だから、現在に居ない以上は、何かに気づくというのはできなかった。何かに気づくというのは、thinking mindではない。それ[=thinking mind]が落ちたところで・「今ここ」でのみ、気づける。その「気づく」対象は色々ありますけども、それは「色々あるなかで何か1つだけを選んで、他のものは一切、無視する」ということではなくて、もう皆さんが慈悲のなかに居たときには、thinking mindが落ちているから、すべてに気づいている。ただ、「すべてに気づいている」と言っても、それだとちょっと漠然とするのでね、具体的な何かを1つ選んでみましょう。この場合[の対象]は、呼吸という一番シンプルなものですね。だからそれも、「呼吸と呼吸以外とを分けて、呼吸だけに頑張って集中する」ということではなくて、呼吸はあくまでもきっかけです。

 そして、呼吸という、マインドフルネスの対象……これが、今日の最初のところで言った「補助線」*1にあたります。この補助線さえ上手くひければ、皆さんはすべての仏教の伝統とつながることができます。もうここで、マインドフルネスの意味が遥かに深くなっています。禅の意味でもなく、テラヴァーダの意味でももうなくて。そこから遥かに深いところで、いまマインドフルネスというものをとらえています。そうとらえたときに、皆さんは仏教の伝統のすべてを理解することができます。
 はい、じゃあ、慈悲の瞑想をやった人も、そのまま時間があるかぎり、呼吸を観てください。はい、自分の上唇の上あたりに軽く意識の中心をおいて、そこでただ息がしていること……息を吐いていること、息を吸っていることにただ気づいてください。

(終わり)

山下良道師による「慈悲の瞑想から呼吸瞑想へのつなぎ」の解説と実践へ続く)

*1:「補助線」については、2011年3月6日の法話を参照。

山下良道師による「慈悲の瞑想から呼吸瞑想へのつなぎ」の解説と実践

追記(2020年7月):慈悲の瞑想と呼吸瞑想を含む「ワンダルマ・メソッド」のインストラクションの最新版が公開されています。当記事よりも新しい内容です。

追記(2015年12月):山下良道師による瞑想入門の本が2015年12月に出版されました。「慈悲の瞑想」と「呼吸瞑想」についての解説も含まれていますので、ご関心のあるかたはどうぞ。
山下良道『本当の自分とつながる瞑想入門』(河出書房新社
本の目次や関連リンクはこちら
読者のための瞑想インストラクションの音声ファイルも公開されています。

Meditation Instructions by Ven. Ryodo Yamashita(Sudhammacara bhikkhu) in English are here:
http://onedharmainternational.com/meditation/
and
http://www.onedhamma.com/?p=4759
Podcast of Ven. Ryodo Yamashita's dharma talks in English: http://onedharmainternational.com/

※話者:山下良道(スダンマチャーラ比丘)
※収録日:2011年3月6日

※出典:インストラクション(音声) | 一法庵 「慈悲の瞑想からアナパナ・サティへのつなぎ」

※[ ]内は、文意を明瞭にするために当ブログの管理人が補足した部分です。

山下良道師による「慈悲の瞑想」の解説と実践からの続き)

 はい、皆さんは今、生きとし生けるものに対する慈悲を強く感じている。慈悲のなかに、いま入っている。それを、今までは「慈悲の部屋」と呼んできました。その部屋に入らないかぎり、慈悲を起こすことはできない。我々の意志の力で・何かメソッドを使って慈悲を起こすということは、できないですね。
 だけどその「部屋」のなかには、慈悲というものが調度品のように存在しているから、そこでは慈悲がもう自分[の意志など]とは関係なしにただ存在している。それに今、触れた。

 そしてその慈悲の部屋というのは、それは同時に「気づきの部屋」でもある。そのなかでのみ、我々は何かに気づいていくことができる。その部屋の外では、我々はどんなに頑張っても、気づけなかった。これはもう、「どんなに頑張っても、気づけなかった」というのが1人の人の体験じゃなくて、[瞑想を実践する]多くの人――あるいは全員――の体験として我々はいま共有しているわけね。その慈悲の部屋の外では、どんな強固な意志も、どんなディティールのあるメソッドも、いっさい役に立たなかった。だけど不思議なことに、慈悲の部屋に入ったときに、自然なかたちで何かに気づくことができる。あるいは、自然なかたちで息が観えてくる。

 はい、じゃあ今から、慈悲の瞑想から呼吸瞑想へとつなぎますけども、そのつながりのところで、新しい試みをします。

 いま皆さんが、地震津波の被害者・被災者についての大量の映像を観ていると思います。あるいは、映像じゃなくて実際に会った人も居るかと思いますけども。そういう映像や経験のなかで、実際の知り合いでもいいし、あるいは「テレビのニュースのなかで観た、未だに記憶にある人」――そういう人が絶対に1人は居るはずですから――、そういう人を目の前に置いてください。先ほどのように1.5メートルぐらい前に置いてください。そしてその人の一番つらいところ・苦しいところを感じてください。だから要するに、メッター[=「慈悲喜捨」のうちの慈。英語で“loving kindness”]はいいから、カルナー[=「慈悲喜捨」のうちの悲。英語で“compassion”]だけですね。

 そして、その人のつらさ・苦しさ・寂しさ・痛みをぜんぶ自分のものとして感じ取ってください。そしてそのうえで、その痛みやつらさというものを、ちょうど黒い煙のようなものとして[心のなかに]描いてください。そして、今からそれを引き受けましょう……他人の苦しみを引き受けます。どうやって引き受けるのか? 息を吸うことによって。息を吸うことによって、その苦しみを吸い込んでください。これは非常につらいです。皆さんのエゴが激しく抵抗します。そのうえでこんどは、その人に対する最大限の慈悲を返してあげてください。「この人が、なんとかして苦しみから解放される」……そういう慈悲をその人に返して、その人を慈悲で包んであげてください……息を吐きながらですよ。

 はい、じゃあまた息を吸いながら、その人の苦しみを吸い取って、息を吐きながら、その人に返してください。はい、じゃあそうやって、慈悲と呼吸とをシンクロさせましょう。5分くらいやってみてください。

 呼吸を吸うこと・吐くことに、非常に簡単に気づいていられたと思います。はい、じゃあもう慈悲の瞑想はここでいったん措いて、呼吸だけに注意を向けましょう。背筋を真っ直ぐにして、手はそのまま両膝の上に置いたままでもいいし、さきほどの定印を組んでもいいし。

 今すでに、[息を]吸うこと・吐くことに気づいていると思いますから、自分の意識の中心を自分の上唇の上あたりに置いてください……軽くですよ。無理する必要はないです。そして、息を吸って、息を吸っていることに皆さんは当然気づいています。息を吐いて、息を吐いていることに気づいています。もう皆さんは「今、ここ」という場所に居て、過去にも飛んでいないし、未来にも飛んでいない。もし過去の記憶に戻ってしまったり、あるいは未来の予定とか期待とか心配だとかが出てきたら、また「今、ここ」に戻ってください。はい、じゃあそのまま[呼吸瞑想を続ける]。

(終わり)



※下記の法話では、この記事の内容が山下良道師によって詳しく解説されています。